主日礼拝メッセージ
聖書箇所:使徒の働き10章23~33節
タイトル:神の言葉を聴く事と、伝える事
みなさんは神様の言葉を聴くとはどういうことだと思われますか。
また神様の言葉を伝えるとはどういうことなのでしょうか。
今日はこのことについて考えてみたいと思います。
今日の聖書箇所は以前お話したペテロとコルネリオの出会い場面の続きです。
彼らはそれぞれ常識を持っていました。
ペテロの常識はユダヤ人としてのそれです。
彼は異邦人と親しく交わることを忌み嫌っていました。
だからコルネリオという異邦人からの使いが来て一緒に来て欲しいと言われてもわかったと言うはずがない人でした。
またコルネリオもローマのイタリア隊というエリート集団で100人を束ねる100人隊長でしたので、自国の植民地であるユダヤに人にをやって来て欲しいと頼むことなどあり得ないことでした。
しかしペテロもコルネリオもその常識を超える決断をします。
なぜなら神がそれぞれにその常識から脱することを求められたからです。
コルネリオはペテロに使いを送り、ペテロは異邦人から送られた使いを受け入れ共に寝泊まりして明くる日コルネリオが待つカイザリアへと出発しました。
[神の言葉を聴くことについて]
ここから神の言葉を聴くことについてお話ししていきます。
まず少し時間の流れを整理してみましょう。
“するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、”
使徒の働き 10章30節
この言葉はペテロと出会ったコルネリオが言った言葉です。
この言葉からわかることがあります。
それはコルネリオが御使いを見て言葉を受け取ってから今日まで4日が経っているということです。
1日目
コルネリオが御使いから言葉を受け取る。
この時点ですでに午後3時なので、この日は出発できない。
2日目
コルネリオが部下と僕を遣わす。
3日目
ヨッパまで丸1日歩いた後ペテロと出会う。
この日はペテロと共にかわなめしシモンの家に泊まる。
4日目
カイザリアに向けて出発
5日目
到着
部下と僕を遣わしてから丸三日経っています。
この間にコルネリオは親族や親しい友人達を呼び集めてペテロの到着を共に待っていました。
“その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。”
使徒の働き 10章24節
ヨッパにいたペテロから「行きます」という返事があったわけではありません。
現代であれば電話やLINEで来るか来ないかがはっきりわかりますが、当時はそんなものは当然ありません。
ということはこの三日間来るか来ないか分からない人をコルネリオは待っていたということになります。
しかも親族や親しい友人まで呼んで待っていたのです。
どんな思いで彼は待っていたのでしょうか。
待っていたと翻訳されている言葉はギリシャ語でプロスドカオウといって、「待つ」という意味の他に「期待する」という意味もあります。
使徒の働き27章でも同じ単語が使われていますがそこでは「待ちに待った」と翻訳されています。
つまりコルネリオが待っていたという時、それは期待して待っていたことを意味します。ほかの言葉で言い換えるなら待ち望んでいたというべきでしょう。
今か今かと期待しながら自分が送った部下と僕に連れられてペテロという人がやってくるのを待っていたのです。
その間コルネリオはどのように過ごしていたのでしょうか。
彼は午後の3時の祈りを守っていた人なので、部下を遣わした日もこのことに関して祈り、部下たちがペテロと会った日も祈り、彼らがヨッパを出発した日も祈ったことでしょう。そしてこの日ペテロがカイザリアに着いた日も祈りをしようとおもっていたころに、ペテロがやってきたという報告をうけてコルネリオは家を飛び出しペテロの前に跪いたのです。
“ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。”
使徒の働き 10章25節
コルネリオのペテロに対する態度を見ますと、神から送られてきた使いとして受け入れていることがわかります。
コルネリオはペテロを通して神の言葉がはっきり与えられると信じてそれを待ち望んでいました。
祈り求めつつ、親戚や友人達にも知らせて、できうる限りのことをして待っていたのです。
コルネリオはたしかに神の言葉を聴くために期待して待っていました。
まだ本当に来るかもわからない人を。
それも三日間もです。
わたしはここから神の言葉を聴く準備を教えられました。
私も神のことばを聴くためにコルネリオのように期待し待ち望みながら準備したいと思います。
かつての私はコルネリオとは真逆でした。
まだわたしたちの教会が今の祈祷院で礼拝していた頃、わたしは日曜日しか休みのない職場にいたので、リラックスして過ごせるのが土曜日の夜しかありませんでした。次の日は職場に行かなくてもよいので、ついつい夜更かししてしまって、次の日の礼拝が辛いということが度々ありました。
9時半ごろまで寝てバタバタ準備しながら牧師先生に電話をしてパンをかじりつつ週報を作り、着替えて実家の前に設置していた自販機で缶コーヒーをかって駐車場に向かいそこから20~30分かけて教会まで行き、ギリギリ11時前に到着して司会をしていました。司会をするためにスーツを着ていたのですが、心はまだパジャマ姿のままのような状態で講壇に上がっていました。
当時のわたしのような前日の過ごし方はお勧めできません。
まずこういう過ごし方をしていると説教が頭に入ってこないし心にはもっと入りません。
しかしコルネリオのように3日前からとは言わずとも、1日前の夜を主日を意識して過ごすなら礼拝でうける恵みは今とは比べものにならないものとなるはずです。
ある教会の役員さんのお話です。
この教会は前もって聖書箇所が知らされる教会なのですが、この役員さんはその箇所にしおりを挟んで土曜日に祈るそうです。
「明日与えられる御言葉に期待して礼拝にのぞみます。礼拝を通して自分の罪をさとり悔い改めへと導いてください。そればかりでなく、慰めと励ましの神様と明日も出会えますように。」
心からこのような祈りをして次の日の主日を迎えることができる人は幸いです。
この人は神様の言葉を聴く準備ができている人です。
この人は格好だけではなく心も整えて教会に来ている人です。
こういう人を神様は喜ばれます。
そしてわたしたちも本当に神様を喜んでいるのなら、前日から準備することを始めてみたいと思います。
皆さんは次の日に大切な人とデートの約束をしていたらどうしますか。
何を着て行こうか前日に迷うはずです。
あれにしようかこれにしようか。
神様と出会うのもこの心が大切なのです。
神様の言葉を聴く準備には、このように神様を思う気持ち、期待し待ち望む心が必要です。
期待して待ち望む心を持って礼拝を捧げるみなさんでありますように。
[神の言葉を伝えること]
では続いて神の言葉を伝えることについてお話しします。
ここでわたしが注目したいのが、ペテロの言葉です。
“彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」”
使徒の働き 10章28~29節
「いったいどういうわけでわたしをお招きになったのですか。」とペテロは言っています。
彼はまだ、なぜ丸一日の道のりを来たのかわかっていないのです。
「ためらわずに行け」という言葉を聖霊から受け取ったのでユダヤ人たちが嫌う異邦人については来ましたが、自分が何をするために来たのかをまだはっきりとはわかっていませんでした。
28節から彼がどうしてよいかわからない状態なのがうかがえます。
神様は昔イスラエルの民をカナンの地に導き入れる時、その地の先住民と戦い勝利することと、その地の人々の文化である偶像崇拝を徹底的に排除するために、先住民との婚姻や契約関係などを結ばないようにと命ぜられました。申命記7章には、そのことが記されていますがペテロが言っている律法によって禁じられているとはそのことです。
しかしそれ以降、ユダヤ人たちはこの律法を拡大解釈して、偏った民族主義に陥り異邦人を見下して一切の接触を控えるようになります。
異邦人との食卓の交わりはもちろん彼らの家を訪問することもしていませんでした。
このような背景の中、神様から直接「異邦人を汚れているとしてはならない」とペテロは言われたのです。
それで彼は異邦人であるコルネリオの招きに応じカイザリヤまで来ているというわけです。
現代に生きる私たちからすればペテロが福音を語るために導かれたことは明白です。
しかし当時はそんなことはありえないことでした。
約束の民であるユダヤ人あるいは割礼をうけてユダヤ教徒になった改宗者以外の者が福音を受け取ることなどないと考えられていたからです。
そんな状況下で異邦人のもとへいくことは理解できないことでした。
10章22節には、コルネリオの部下と僕たちがこう言っています。
「100人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤ人の全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話しをきくように、聖なる御使いによって示されました。」
この話を聞いているのだから、コルネリオのもとに行ったら福音を語ればよいのだと思ってもおかしくありません。
逆にこれだけ聞いていて一体なぜわたしを呼んだのかと再度たずねる方が不自然ではないでしょうか。
しかしこれはペテロの心の中に異邦人伝道というものが全くなかったことの表れでもあります。
それで彼はここへ来てもまだわたしをなぜ招いたのかとたずねるのです。
これに対してコルネリオは御使いがペテロという人を招きなさいと言ったと伝えます。
“するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、
こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。
それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』
それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」”
使徒の働き 10章30~33節
ここでようやくペテロは事の次第を理解していよいよ異邦人たちの前でイエスキリストの福音を伝えます。
ペテロが鈍感だからこのようになったわけではありません。
当時のユダヤ人クリスチャンなら誰でもこうだったはずです。
この箇所はむしろ自分では理解できないにもかかわらず聖霊の言葉に従ったペテロの信仰に注目すべきところです。
ペテロはこれから自分が何をするのか全くわかっていませんでした。
それなのに、丸一日かかる場所まで異邦人と共にやってきたのです。
きっとその道のりを「主よ、私は一体何のために異邦人が待つ町にいくのでしょうか。」と祈りつつ歩いていたのではないでしょうか。
しかし彼は自分よりも神様の方がご存知だということを知っていました。
自分はまだ何も見えないけれどもすべてを見渡し最善を成される神様が行けと言われるのだから行こうという信仰が彼にはあったのです。
福音を伝えるにはこの信仰が必要です。
自分の計算では意味がないかのようなことや、よく理解できないことでも、神様が行けと言われたら行くという信仰が大切です。
私たちも全てを理解して納得して、この人は信じそうだから伝えようとか、この人は信じなさそうだから伝えないでおこうとか、そういう考えを捨てて、主が伝道の機会を下さったのなら、理解できなくても伝えるものでありたいと思います。
今日は神の言葉を聴くことと伝えることについてお話ししました。
神の言葉を準備し真摯に受け取り、伝えるみなさんでありますようにお祈りいたします。