向きを変える

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マタイの福音書18章1〜4節  タイトル:向きを変える “そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。” マタイの福音書 18章1~4節 1 序 誰もがある方向に向かって歩き、また走っています。 何かを目指し、何かを目標に掲げて生きています。 今日登場したイエスキリストの弟子たちもある方向へと向かっていました。 その方向は誰が一番偉いかという方向でした。 この方向には、他の人よりも偉くなりたいとか、他の人よりも良い環境で生きていきたいとか、他の人よりも一目置かれたいとか、「他の人よりも」から始まる何かがありました。 他の言い方で言うならば、自分を高くするための生き方。 その方向に向かっていたということができると思います。 さて私たちはどうでしょうか。 私たちが向かっている方向はどのような方向なのでしょうか。 当時のイエス様の弟子たちが求めていた方向でしょうか。 それともイエス様が走っておられた方向なのでしょうか。 2 ストーリー 今日の聖書箇所は、天の御国では誰が一番偉いかという弟子たちの質問から始まります。 これに対して、イエス様は小さい子どもを呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせて言いました。 あなた方も悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。 子どものように自分を低くする人が天の御国で一番偉い人です。 3 ⑴自分を高くする方向へと向かっていた弟子たちに対してイエス様は悔い改めなさいと言われました。 今私たちが見ているのは新改訳聖書第三版ですが、新改訳2017ではここが「向きを変えなさい」と翻訳されています。悔い改めるというのは向きを変えるという意味があります。 イエス様は自分を高くする方向へ向かって生きる弟子たちに対して、向きを変えなさいと言われました。歩いて行く方向を転換しなさいということです。 そうすると子どものようになれるというのです。 では子どものようになるとはどういう意味なのでしょうか。それは良いことなのでしょうか。 当時のユダヤ社会では子どもは重要な存在ではありませんでした。 大人に服従するしかない取るに足らない存在でした。 数にも入れられませんでした。 イエス様は方向転換をしてそのような存在になるようにと言われるのです。 これは自分を高くする生き方から自分を低くする生き方に方向転換するようにということです。そしてそういう人は天の御国では偉大だというのです。 ⑵では自分を低くするとはどういうことなのでしょうか。 それは人に仕えられる生き方ではなく、人に仕える生き方のことです。 “あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」” マタイの福音書 20章26~28節 ここでイエス様は仕えるものになるようにと言われます。 また、しもべになるようにと言われます。 そしてその理由として、イエス様自身が人に仕えられるためにではなく、人に仕えるためにこの世に来たからだと言うのです。 私たちがもしイエスキリストの真の弟子ならば、イエスキリストに似ていくはずです。 イエスキリストと同じ方向に向かっていくはずです。 日々方向を修正しながらの歩みにはなるでしょうが、それでもイエスキリストが歩まれた方向へと向かっていくはずです。 4 このお話の背景には、天の御国、神の国の根本原理と、この世の国の原理があります。 この世は弟子たちが目指していたような、自分を高くする方向に向かって流れています。 偉くなりたいと思い、人の先に立ちたいと思います。そしてそれが正しいとされます。 それがこの世の国の原理だからです。…

共に背負う

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マタイの福音書5章38〜44節 タイトル:共に背負う “『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。” マタイの福音書 5章38~44節 1  38節に「目には目で、歯には歯で」という言葉が記されています。 この言葉は出エジプト記21章24節とレビ記24章20節に記されていて、イエス様はこの言葉を引用したようです。 この御言葉は一見すると、目を傷つけられたら目に仕返しをして、歯を傷つけられたら歯に攻撃を仕掛けるようにと、まるで報復を促すかのようにも見える言葉です。 しかしこの言葉の意味は、昔復讐が行きすぎて目を傷付けられた人が相手の命までとってしまうことがあったので、それを抑えるために、目を傷付けられたら目までにして置きなさいという意味のものでした。 これでも十分怖く感じますが、法の主旨としては、報復を抑えるためだったということができます。 しかしこの律法を成就されたイエス様の命令は、これら被害を被った分の報復の権利すらも放棄するようにというものです。 ここからイエス様を信じて生きる弟子のあり方が見えてきます。 ⑴”しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。” マタイの福音書 5章39節 ここでは右の頬を打たれた場合を例に挙げてイエス様が語っておられます。 このような場合、旧約の律法では、やられた分で止めなさい、つまり右の頬を打ち返すところでとどめなさいということになります。 しかしイエスさまは弟子たちに向かってそれもやってはいけないと言われ、むしろ左の頬も向けるようにと言うのです。 ただ、実際この状況になった時に反対の頬も向けるようにという意味ではありません。 本当にこのようにすれば相手は余計に腹を立てるでしょう。 またこれは完全にやられっぱなしになれという意味でもありません。 イエス様自身が、役人たちが不当に頬を叩いたときに抗議しておられますし、パウロとシラスは謂れの無い疑いをかけられて牢屋に入れられた時に抗議しました。 では一体これはどういう意味なのでしょうか。 これは相手の要求よりもさらにこちらが譲ることを意味しています。 イエスキリストを信じる弟子のあり方、いわば行動原理を示しているところなのです。 これは次に続く言葉と一緒に考えるとよくわかります。 ⑵”あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。” マタイの福音書 5章40節 告訴という言葉から借金の返済や損害の賠償をしなくてはいけない人に向けられたものだと想定されます。 下着というのは、現代の肌着のことではなく普段来ている服のことです。 これは借金の返済の担保として取ることができました。 しかし上着は、昼間はコートとして用い、夜は毛布として用いるもので、ほとんどの場合一人一着しか持っていなかったと言われています。 それでこれは担保として取ることが律法で禁じられていました。 ですから本来は上着まで渡すことはありませんし、取り立てる方も上着まで要求できません。しかしイエス様はこのような場合にも上着まで与えるようにいうのです。 こちらも相手の要求を超えて、すすんで行動することを意味する言葉です。 ⑶ さらに41節にはこうありました。 “あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。” マタイの福音書 5章41節 相手が求めている1ミリオンではなく、その倍の二ミリオンいくようにと言います。 これは軍隊によって荷物運びのために徴用されることを想定しているお話です。 軍隊による徴用は、毎日をやっと生きている人にとっては大変な負担であったと思われます。 しかしその要求よりもさらにその倍を進んで行うことをイエス様は命じておられるのです。 こちらもまた相手の求めを超えて行動することを意味する言葉です。 2 イエス様はここでイエス様に従って生きることが一体どういうことなのかをインパクトの強い例えを用いて語っています。 そしてこの例えが示すものはいずれも、相手の要求を超えて行動することです。 私たちは自分で責任領域を決めて、これ以上は相手の責任で、ここから内側は私の責任だと考え壁を作ります。「ここまで!」と決めてしまうのです。 しかしその壁を壊して、人のことも自分のことのようにとらえられる生き方に招かれているのです。…

信仰シリーズ⑧ イエスを信じた弟子

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書14章25〜33節 タイトル:信仰シリーズ⑧ イエスを信じた弟子 “さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。” ルカの福音書 14章25~33節 1 序 今日の聖書箇所には、イエス様とイエス様について歩く大勢の群衆が登場します。 イエス様はそんな群衆に向かって語られるのですが、それが実に厳しい言葉です。 今日のお話は群衆から弟子となることについてのお話です。 イエス様はこう言われました。 自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹その上自分の命までも憎まない者は、私の弟子になることはできません。 「憎む」という言葉を使って強い言い方をしておられますが、この言葉の通りに家族を憎み嫌うようにという意味ではありません。 これは何よりもイエスキリストを一番にするということです。家族よりも、さらには自分の命よりも大事にするということです。 さらにイエス様の言葉は続きます。 「自分の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子になることはできません。」 自分の十字架とは私たちそれぞれに与えられた使命のことです。自分の思いや計画を優先させるのではなく、主が私に準備されている使命を生きることです。 そうでなければ弟子にはなれないとイエス様は言われたのです。 そしてこのことを今度は例えで語られます。 それが28節以降に記されている内容です。 塔を立てる時に、まず費用を計算しないで立てたりしないだろうと質問を投げかけます。 さらに31節で、どんな王でも戦争をする時に、相手の戦力とこちらが割かなければいけない戦力を比べて計算して戦争をするかどうか決めるだろうと問いかけます。 実はこれは全て主イエスを信じる信仰を持って生きるということ、つまりはイエスの真の弟子になることがどういうことなのかを説明している箇所です。 今日の聖書箇所はイエス様の非常に厳しい問いかけが記されています。 それだけにメッセージも厳しいと思われるかもしれません。 しかしその厳しさ以上に私たちに約束されている祝福は大きいものです。 私たちの手の中にある全てのものよりも勝る大きな祝福が約束されています。 この世の全てよりも、さらに大きな真の命であるイエスキリストを受け取るか。 それとも自分の手で掴んでいる何かを掴み続けるのかという問いかけと言えるかもしれません。 どうぞそのことを心に留めつつ耳を傾けていただけたらと思います。 2 信仰の二つの側面 “あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。” エペソ人への手紙 2章8~9節 “私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。” ヤコブの手紙 2章14節 聖書は信仰を二つの側面から説明します。 それは信仰が神の恵みによるものだということと、人が決断して神に従い行うことだということです。 一見するとこれは矛盾するようにも思えるので、なんとかしてこの二つを調和させようという思いにもなりますが、その必要はありません。 私たちは聖書に書いてある通りに信じれば良いからです。 聖書自体が二つの側面から書いているのでそのまま受け入れて信じれば良いのです。 イエス様と出会うまでは、私たちはこの世の権勢に従って生きていました。 それはこの世で成果を上げて評価されることと言えるでしょう。そしてそのために多くの人は努力するわけです。 しかしクリスチャンになると恵みを知ります。ただで受けとることができる贈り物です。信仰もこの恵みとして与えられるものです。 しかしまたしばらくすると信仰が恵みという言葉だけで語れるものではないことがわかってきます。 自分の意思と知性を働かせて主に従うという決断と行動をも含み込んだ言葉だということがわかってくるのです。 信仰には二つの側面があります。 そしてこの二つの側面は両方大切であり両方を知ることによる効果があります。…

イエスをあかしする者の歩み

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き22章30節〜23章11節 タイトル:イエスをあかしする者の歩み 1 序 先週は使徒の働き22章から、この世で神の民として生きるというタイトルでお話ししました。 宮にいたパウロを引きずり出して殺そうとしていたユダヤ人たちと、そんなパウロを救い出したローマ兵たちが登場しました。 彼らはそれぞれ自分たちにとって大切なもののために行動していました。 ユダヤ人たちはユダヤの国そしてその慣習を第一にしていました。ローマ兵たちはローマ帝国とそのルールを一番に行動していました。そして彼らはいずれも慌てふためいたり、怒り狂ったりして、自分たちが大切にしているものをなんとしても守ろうとしていました。彼らの心の中には自分たちの大切なものが奪われてしまうのではないかという不安があったのだと思います。 一方パウロはどうでしょうか。どんな状況になっても慌てふためくことなく、ただ自分がすべきことを実行していました。それはイエスキリストの福音を伝えるということです。彼はまさにこの世で神の国の民として生きた人でした。 このことは彼自身も認めるところでした。 2 ストーリー 今日の聖書箇所の冒頭部分でパウロはこう言っています。 “‥「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」” 使徒の働き 23章1節 生活すると訳された言葉は、「私たちの国籍は天にあります」という時の「国籍」と同じ語根で、市民権を持つものとして生きるという意味です。つまりパウロはここで神の国の民として自分は真っ当に生きてきたと語っているということです。 これに対して怒りを露わにしたのが当時の祭司長アナニヤでした。 彼はパウロのそばにいる人に対してパウロの口を打てと命じました。 しかしこの集会はユダヤの法に則って行われた正式なものではなく、あくまでも異邦人であるローマの千人隊長の要請によって集められたものです。しかも有罪が確定するまでは、被告人は罰を受けることがないというルールもありました。 それでパウロは3節のように反論しました。 “そのとき、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」” 使徒の働き 23章3節 「白く塗った壁」とは、倒れそうになっている壁に外側からしっくいを塗って、危険な状態を隠していることです。これは一見すると堂々としていても、実のところはぼろぼろで倒れそうだという意味で、アナニヤに対する痛烈な批判でした。 この言葉に驚いた周囲の人々は、パウロに向かって「大祭司をののしるのか」と言います。 これに対してパウロは5節のように言いました。 “「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書いてあります。」” 使徒の働き 23章5節 この箇所を見てある人はパウロは視力が悪くて本当に大祭司だとは分からなくて言ったと考えたようですが、そもそも相手が大祭司でなくても、サンへドリンと呼ばれる最高議会のメンバーであることにはかわりありません。パウロの目の前にいるのは民の指導者たちなのです。 つまりアナニヤが大祭司であろうとなかろうと関係がないのです。 ここでパウロは暗に言っていると考えることができます。 ユダヤの法による裁きが行われてもいないのに頬を叩かせる者など指導者なはずがないと。 ですからこの箇所はパウロなりの皮肉であろうと思います。 ここまで見てくると、パウロとユダヤの人々との対立がよくわかります。 前の日までは何とかして福音を伝えようとしていたパウロでしたが、いよいよここでは衝突は避けられないことを知って彼も戦闘態勢を整えているようです。 しかしこの次の節からまたパウロがユダヤの人々の考えに風穴を開けようと試みる姿が見えます。 “しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。 騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかもしれない」と言った。 論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。” 使徒の働き 23章6~10節 ここまでと方針転換をしたパウロの姿がここから描かれます。 パウロはこの時、復活信仰を持ち出してパリサイ人とサドカイ人との議論に持ち込みました。 この箇所はパウロが一計を案じて議会を混乱させて裁判をローマで受けられるようにしたと言われることもありますが、果たして本当にそうなのだろうかと思います。 前回一緒に見た聖書箇所でもそうでしたが、パウロの心は福音を伝えることで一杯でした。そこにはいつもブレがない人でした。 ですから少しの隙間さえあればそこに入っていき福音を伝えるための一石を投じようとするのではないかと思うのです。 実際この論争によってもともと復活は信じていたパリサイ人たちから、ひょっとしたら霊か御使いがパウロに語りかけたのかもしれないと言う人まで現れました。 こうして論争がどんどん激しくなっていったので、パウロが引き裂かれるかもしれないということで、ローマ兵たちがまたパウロを保護し兵営へと連れていきました。 今日のストーリの流れは大体このようなものです。 3 さて、エルサレムに来てからのパウロの行動に関しては、とてもムラがあるように見えるので、読む人によって色んな解釈ができるところです。 いくつかの註解書を見ましたが、どれも興味深いものでした。 ただ私は、パウロがエルサレムに入る前に人々の前で言った言葉を軸にしてエルサレムの行動を見ていきたいと思っています。 その言葉とは“‥私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」”(21章13節)という言葉です。 パウロは元々ローマに行きたいと思っていましたし、この時もそれは変わりはないのですが、それでももし神がエルサレムで死ななければいけないと言われるのであれば、私は死ぬという信仰告白の言葉です。 パウロは決死の覚悟を持ってエルサレムに入ってきました。…