信仰シリーズ④ 主に信頼し従う

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書 5章1~11節 タイトル:信仰シリーズ④ 主に信頼し従う “群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。” ルカの福音書 5章1~11節 今回で信仰シリーズは第4回目になります。 タイトルは、「主に信頼し従う」です。 先週は信仰の要素についてお話ししました。 これまでキリスト教会は信仰を三つの要素からなると考えてきました。 一つ目は知識、二つ目は同意、三つ目は信頼です。 信仰は「信じます」という感情のことではありません。 信仰は福音に関する知識、すなわち聖書の御言葉と、それに対する心からの同意と、それに信頼して人生全てを主に委ねることです。 今日共に読んだ聖書には全てを捨てて主に従った人が登場しました。 私たちがよく知るペテロです。ここではシモンとなっています。 今日は彼がイエスキリストに召し出された時のお話なのですが、ここに信仰とは何かを考えさてくれることがあります。 1  ストーリーの確認 イエスさまはガリラヤ湖とも呼ばれるゲネサレ湖の岸辺に立っていました。 するとイエスさまのもとに群衆が押し寄せてきました。 イエスさまは神様の教えを語っていたのですが、どんどん人が集まって押し寄せてくるので岸辺で語ることが難かしくなったようです。 湖のほうに二そうの舟をみつけ、その内の一方の舟に乗り込み持ち主のシモンに声をかけました。そして陸から少し漕ぎ出すように頼みました。 イエスさまは舟にすわって陸に向かって話の続きを語りはじめます。 イエスさまと群衆との間には水があるので、群衆と少し距離をとって話すことができるようになりました。 こうしてイエス様は神の教えを語り終えます。 すると、今度は一緒に舟に乗っているシモンに語りはじめました。 「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚をとりなさい。」 するとシモンが言いました。 「先生。わたしたちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり網をおろしてみます。」 彼はそういうとイエスさまの言葉どおりに沖に漕ぎ出して網を下ろしました。 すると、たくさんの魚が入って、網がやぶれそうになるほどでした。 シモンはこの後、「主よ。わたしから離れてください。わたしは罪深い人間です。」と言います。 イエスが何者であるかについて変化が起こっていますが、それと同時に自分の罪深い姿をシモンは思い知らされています。 彼はここでイエスに出会っているのです。 人は自分の罪の深さを知ってそこでイエスと出会います。 イエスの御言葉とその御業を目の当たりにしたシモンに対して、イエスはさらに語りかけました。 「あなたは人間をとるものとなるのです。」 こうしてシモンもその仲間も、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従いました。 2  このストーリーからわかる信仰とは このシモンの召命の場面はイエスを主と信じること、救い主と信じることがどういうことなのかを見せてくれるところです。 シモンが捨てた「なにもかも」の中には、シモンがこれまで使っていた舟や網などの漁の道具や、その道具で稼いで養っていたであろう人たちなど、すべてのものが含まれると思います。 それらはこれまでのシモンの人生そのものでした。 またこれからのシモンの人生の計画のもとになるものでした。 しかしこれら全てを捨てて、イエスキリストに従ったのです。 私たちに置き換えるなら、私たち自身の人生、私たちの人生に対する計画のこととも言えるのではないでしょうか。…

信仰シリーズ③ 信仰の三要素

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙4章16~22節  タイトル:信仰シリーズ③ 信仰の三要素 今朝も信仰について共に聖書から聴いていきます。 今回は信仰シリーズ第3回目です。 これまで信仰について共に考えてきましたが、今日もまた繰り返しお話したいのが、信仰がキリストとわたしたちをつなぐ管の役割を果たしているということです。 聖書の中で「キリストにあって」とか「キリストの中で」という時には、キリストとの結合を思い出してください。そしてその結合の役割を担っているのが信仰です。 キリストとみなさんの間に信仰という管があるイメージを持っていただけたら良いと思います。 この管があることによりキリストのものが全て私たちのものになるのです。 この管を通ってキリストの義は私たちのものになりました。 これが信仰によって義と認められるということです。 1 アブラハム 今日の聖書は信仰によって義と認められること、つまり義認の具体例の箇所です。 旧約聖書に登場したアブラハムの話をしながら、義と認められるとは一体どういうことなのかをパウロは説明していきます。 “そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。” ローマ人への手紙 4章16節 この御言葉を読むと信仰というものが恵みと密接不可分であることがわかります。 信仰は私たちの熱心や努力で得られるものではありません。 ただ神の恵みによって与えられるものです。 無償の贈り物として与えられるものです。 アブラハムは決して他の人たちとは違う何か特別な人だったわけではありません。 私たちと全く同じように、罪人でした。 自分自身を救う力のないものでした。 律法の行いでは救われないものでした。 しかしながら憐み豊かな神が恵みを注ぎ彼に信仰を与えました。 律法の行いとは全く違う方法として与えられた信仰によって救われました。 それで彼は神を信じ神はご自身が与えた信仰によってアブラハムを義と認めたのです。 2 信仰とは ではここで信仰とは一体何なのか、もう一度考えてみましょう。 別の言葉で表現するなら、信仰を構成している要素は一体何かということです。 教会はこれまで信仰には次のような要素があると考えてきました。 知識と同意と信頼です。 ⑴まず知識についてお話しします。 “そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。” ローマ人への手紙 10章17節 このように、信仰は聖書の言葉を基礎にしています。 信仰と知識すなわち聖書の御言葉は斬っても切り離せません。 そしてこの聖書は福音について書かれた本です。 ですから信仰の構成要素には、福音に関する知識が含まれるということです。 福音とは何だったでしょうか。 神がわたしたち人間とこの世界全てをつくられ、永遠に治められる方だということ。 わたしたちが神との約束を破って罪に堕ちたこと。 罪人となったわたしたちの身代わりになるためにイエスキリストがこの世界に下ってきてくださったこと。 わたしたちの代わりに神に完全に従う歩みをされたこと。 その絶頂として十字架にかかられ死なれたこと。 これによってわたしたちの罪はゆるされたこと。 しかしイエスキリストは三日目によみがえられたこと。 彼のよみがえりの命によってわたしたちは新しい命に生かされるものになったこと。 その後天にのぼられたが、いつの日か神が決められた時に、もう一度イエスキリストが来られること。 その時こそ神の国が完成しわたしたちクリスチャンは栄光の体にかえられてその国へと導き入れられていくこと。 概略を申し上げるとこのようなことですが、この福音を聞いて、福音が記されている聖書を読んで、福音に関する知識を得ること、これが三要素のうちの一つ目です。 ⑵二つ目は、福音を聞いたならば、その内容に同意し確信することです。 どれだけ知識を得て頭で理解しても、その内容に同意し確信しなければ信仰とは言えません。…

主を知らぬ人々の心

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き17章16〜34節 タイトル:主を知らぬ人々の心 今朝は久しぶりに使徒の働きを共に見ていきます。 使徒の働き1章8節にはこう記されています。 “‥聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” これはイエスキリストの言葉です。 この言葉の通り、イエスキリストの弟子たちは聖霊を受けてイエスキリストの証人となりました。 すなわちイエスキリストの十字架と復活による義と新しい命によって生かされることこそ真の道であることを知らせてまわったのです。 はじめはエルサレム、その後ユダヤ、さらにサマリヤ全土、そして小アジア地域にまで広がり、マケドニヤへと渡った福音はさらにアテネにまで及びました。 この地への宣教師として立てられたのはパウロです。 16節にあります通り、ふたりの人すなわちテモテとシラスを待つ為にアテネに滞在していたパウロでした。 “さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。” 使徒の働き 17章16~17節 パウロは町が偶像で溢れているのを見て憤りを感じました。 それで会堂や広場に出向き人々と論じ合いました。 会堂にはユダヤ人たちや異邦人でありながらイスラエルの神を信じる「神を敬う人たち」がいました。 また広場にはアテネに住む異邦人たちがいましたが、その中にはエピクロス派とストア派の学者たちもいました。 エピクロス派とはアテネのエピクロスという人によって始まった多神教の哲学学派でした。彼らが信じる神々は世界には無関心の神々でした。 ストア派はアテネでゼノンが起こした哲学学派で、この世の全てが神の一部と考える汎神論的哲学でした。 世界と神とは同一であり、神に人格があるとは考えませんでした。 この学者たちの中のある者たちはパウロを指して「おしゃべり」と言ってけなしました。 おしゃべりと訳された言葉は、「種をついばむ鳥」を表す言葉で、そこから広場で物を拾う「拾い屋」、ついにはあちこちから知識を受け売りする「受け売り屋」を意味するようになった言葉です。 パウロはこれらの哲学者たちから相当軽く見られていたようです。 また「外国の神々を伝えているらしい」という風にも言われました。 多神教のアテネの学者たちらしい言い方です。 多くの神々がいる中の一つの神を伝えていると考えていたようです。 これらの言葉からもアテネの人々が全くパウロの言葉に心を開いていないのがわかります。 パウロは命をかけてその人生をかけて福音を述べ伝えているのですが、それを聴いているアテネの人々は全くそのようには受け取らないのです。 おそらくエピクロス派やストア派よりも下位に属する学派か何かだとでも思っていたのでしょう。 ただそれでも彼らはパウロをアレオパゴスへと連れて行きました。 21節にある通り、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」からです。 アレオパゴスとは、「アレス神の丘」という意味です。 戦神アレスがこの丘で審判を受けたという伝説からそう呼ばれるようになったようです。 この法廷は,アテネの長老たちによって構成され,宗教や道徳の監督にも当たっていました。アレオパゴスは,アテネの最も重要な制度であり、道徳と宗教に関して特別の裁判権を持っていました。 この評議会の中心に立たされたパウロは、福音について語り始めます。 異邦人相手ということで、ユダヤ人が相手の時のように旧約聖書から引用するのではなく、この町の中にある祭壇に記されていた言葉を引用して語り始めます。 こうして復活のところにさしかかった時にある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「またいつか聞くことにしよう」と言いました。 つまり相手にされなかったということです。 しかしそんな中、パウロが語る福音をきいて、信じた人たちもいました。 これが今日のストーリーの概略です。 1 神の国とこの世との衝突 使徒の働き1章8節にあった通り、パウロはキリストの証人としてアテネに立ち福音を語りました。 1章8節にはエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまでと言って、どんどん福音が伝えられる範囲が広がっていく様子がうかがえるのですが、この範囲が広げられるたびに起こることがありました。 それはこの福音を握って生きる神の国と、それを信じようとしないこの世との衝突です。 今日の箇所もこの衝突が起きています。 2 偶像を作る理由 ⑴ここで一つ考えてみたいことがあります。 それはなぜアテネの人々は偶像を作っていたのかということです。 それも町に溢れるほどに作って何がしたかったのでしょうか。 ここに世界中の人々に通じるものがあります。 この世で生きている人々全てが、アテネの人々のように石や木で何かを作るわけではないかもしれませんが、全ての人が偶像を持って生きています。 それはお金なのかもしれませんし、地位や名誉なのかもしれません。 人によってその種類は様々ですが、地上の何かでもって、この世界で生きる時に生じる不安や恐れを消そうとしているのです。…

信仰シリーズ② 信仰と律法の行い

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙 3章19~28節 タイトル:信仰シリーズ②  信仰と律法の行い “さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。” ローマ人への手紙 3章19~28節 今日も信仰について聖書から共に聴いていきたいと思います。 今日のお話もみなさん何度も聞いてこられたお話かと思います。 しかしこの不安定な状況の中では、変わることのないものをつかまなくてはいけません。福音そして信仰はどんな状況下でも変わることのない真理です。 今日もまた一度信仰について聴いていきたいと思います。 イエスキリストはわたしたちの身代わりとなって十字架で死なれ葬られ三日目によみがえられました。 わたしたちは彼につながることによって、彼の義と新しい命を得ることができます。 この時にイエスキリストとわたしたちの間をつなぐ管のような働きをするのが信仰なのです。 今日もこのイメージをまず持っていただいてはじめていきたいと思います。 1  神の律法について ローマ人への手紙3章10節と23節を見てください。 “それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。” ローマ人への手紙 3章10節 “すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、” ローマ人への手紙 3章23節 このように聖書は誰一人として神の前に正しい人はいない、全ての人が罪を犯したといいます。 何をもって罪と判断しているのかというと、それは神が与えた律法によってです。 この律法を全うできれば、人は罪なしとされ神の前で正しいもの、義人と認められるのですが、誰一人としてこの律法を守れる人はいないと聖書は言うのです。 律法というとみなさん何をイメージされるでしょうか。 おそらく出エジプト記に記されている十戒をイメージされるのではないでしょうか。 十戒ももちろん律法なのですが、もっとわかりやすくイエスキリストが教えてくださっている箇所が聖書にありますのでそちらを一緒に開いてみましょう。 “「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」” マタイの福音書 22章36~40節 イエスキリストはここで律法を要約して答えています。 神の教えを煎じ詰めると、結局この二つの愛に尽きるということです。 神への愛と隣人への愛です。 これは一時的な態度のことでも形式的なものでもありません。 「神の律法」は、個々の決まりをその都度守っているかどうかを問うのではなく、私たちの心そのものを問うものです。 もし神様にかなう心を持っているなら当然できることが記されていると言っても良いと思います。 この世のすべてを造られた神への愛と、隣人への愛。 自分自身を犠牲にしてでも神と隣人に尽くす心の人でなくてはいけないのです。 しかしそんな人がこの世にいるでしょうか。 自分自身はどうか一度考えて見てください。 イエスキリストが言われたこの神への愛と隣人を愛する愛に貫かれた心を持ち生きているでしょうか。 ハイデルベルク信仰問答という教理問答の第5問にこのような問答があります。 問5 あなたはこれらすべてのこと(律法)を完全に行うことができますか。…

第5問 ただひとりの神

第5問 ただひとりの神 問: ひとりより多くの神々がいますか。  答: ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。  Q. 5. Are there more Gods than one? A. There is but one only, the living and true God. 世の中にはたくさんの神々があります。第4問では神様の驚くべき属性と被造物との違いについてふれましたが、このような神様(God)が、他にもいるのかというのが第5問の問いです。 この質問の背景には、これまで人類が多くの神々(gods)を自らの手で作り出して来たことがあります。 そして第5問の答えですが、生きたまことの神様は一人しかおられないと書かれています。これは「死んだ神々、偽物の神々はたくさんいる。」とも言い換えることができます。 この世の多くの宗教は各々自分たちの神々を持っています。しかし小教理問答第5問は「生きたまことの神はただ一人しかおられません。」と言うのです。 人間は心から神様を消しさることはできません。なぜなら、神様がすべての人の心に「神についての意識」を植えつけられたからです。これは神様が人に神様を発見できる力を与えたということですが、わたしたちの先祖アダムが神に従わないことを決意し堕落したことで、間違ったものを本当の神のように信じ追求するようになっていきました。このため人間は何か神秘的な力を求め続けて来ました。これが人類の歴史において繰り返されてきたことです。 小教理問答は第5問で神が一人だと断言し、続く第6問で真の神の位格についてのお話へとうつっていきます。

信仰シリーズ① 信仰の定義とその成長

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き2章36節 タイトル:信仰シリーズ①  信仰の定義とその成長 人は神の前にアダムかキリストのうち、どちらに属しているかによってのみ判断されるというお話を以前しました。 私たちはアダムの子孫として生まれてくるので、生まれた時からアダムに属する者です。 アダムは神を裏切り神から離れた者なので、私たちも神を裏切り神から離れた存在として生きて行かなくてはいけません。 しかし御言葉と聖霊によって信仰が与えられるとそれによってアダムにつながる者からキリストにつながる者へと変えられます。 これまで福音について続けて見てきましたが、今日から「信仰」について見ていきます。 正確には福音のお話の中の信仰といった位置づけなのですが、信仰シリーズとしてお話しさせていただきます。 信仰にフォーカスを当てる理由は、それだけ信仰が大切だからです。 どうして大切かというと、イエスキリストと私たちをつなぐ管こそ信仰だからです。 先ほど私たちはアダムに属する者として生まれるという話をしました。 これは神の前に罪を犯したアダムが、彼がまさに善悪の知識の木の実を食べるという決断をしたときに、私たちも彼と共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見ているということを意味します。 だから私たちは罪人として生まれてくるのです。 しかしこれと同じ原理で、私たちはキリストにつながる者となります。 つまりキリストがこの世界で完全に神に従う人生を歩まれ、その絶頂としての十字架での死、そして葬り、三日目のよみがえり、これら全ての過程に私たちも共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見てくださるということです。 神がそのように言われるのですから、実際にいたということなのです。 そしてこれはイエスキリストと私たちがつながったということなのですが、このつなぎ役になっているのが信仰なのです。 御言葉と聖霊によってこの信仰があたえられたわけですが、今日はこの信仰とは一体何かを共に考えていきたいと思います。 1 信仰とは 信仰とは一体なんでしょうか。 二つに分けて考えることができます。 ⑴ 一つはイエスキリストが私たちのためにしてくださったことを知りそれを信じることです。 これは先ほど申し上げたように、この世界に人となって来てくださったこと、そして神に完全に従う人生を歩まれたこと、そして十字架で私たちの身代わりとなって死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと。 このことを知り信じることです。 ⑵そしてもう一つがイエスが一体誰なのか、どのような方なのかを知り信じることです。 “ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」” 使徒の働き 2章36節 この箇所からイエスが一体誰なのかがわかります。 イエスは主であり、キリストであるということです。 ①イエスが主であるということは,彼がすべての権威を持っているということであり(マタ28:18)、天地のすべてのものを彼が治めていることを意味します(ピリ2:10)。 新約聖書の時代には「主」ということばは,異邦世界において王とか偶像の神々を意味した言葉でした。 だから「イエスは主である」ということは,イエスこそ真の神であり支配者であるという信仰の告白だったわけです。 当時のローマ皇帝は自らを神格化しようとしていましたが、このようにしてイエスは主であるということで本当の神が一体誰なのかを表しているわけです。 ②またキリストであるとも書いていますが、キリストとはヘブライ語で油を注ぐことを意味するマーシャフから派生しているマーシーアハのギリシャ語訳です。 旧約では、王や預言者や祭司がその職務に任命されるときに油注がれ、またイスラエル自体も油注がれた人々として登場します(ハバクク3:13)。したがって油注がれた者、メシアとは民を救うために選ばれた神の道具を意味する言葉と言えます。 つまりイエスがメシア、キリストであるというのは、まことの王であり預言者であり祭司であり、神の救いをもたらす存在だという意味なのです。 以上のことを知ること、これがイエスキリストを信じるということです。 そしてこのことについて聖書は私たちに語ってくれるのです。 イエスキリストが私たちのために何をしてくださったのか、そしてイエスキリストが一体どんな方なのかを教えてくれるのです。 2 信仰の成長 聖書を読むことが大切なのは聖書にイエスキリストのことが書いてあるからです。 イエスキリストのことを知るには聖書を読まなくてはいけません。 聖書を読んでイエスキリストのことを知ればさらに信仰は成長していきます。 イエスキリストを知ると言っても、これは単純な知識のことではありません。 イエスに信頼し彼に頼って生きていくときに、体験的な生きた知識になっていくのです。 聖書を読んでイエスのことを知ってそれを持って生きていくときに、体験的にわかるということもあれば、逆に先に体験したあとで聖書から発見するということもあると思いますが、とにかくイエスキリストを知るというのは、私たちの生活と密接不可分なことなのです。 こうして生きていくと自分とイエスキリストとの関係がはっきりしていきます。 するとこの真の知識に自分の生活そして人生を委ねていくことができるようになっていきます。 客観的事実としてイエスは私たちの主であり、キリストなのですが、それが自分自身の体験を通して主観的なものにもなっていき心からイエスは主でありキリストですと言えるようになるのです。 そうすると生活が変わり始め、人生が変わり始めます。 “兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。” テサロニケ人への手紙…