神をほめたたえよ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇150篇 タイトル:神をほめたたえよ みなさん。今日は今年最後の主日礼拝です。 みなさんにとって2020年はどんな年だったでしょうか。 それぞれに色々な出来事があったと思います。良いこともあれば、辛いこともあったはずです。 また世界的に大きな問題となった出来事も今年はありました。そして今も続いています。 そんな大変な時を通らされている私たちですが、今日この最後の主日の礼拝において覚えていただきたいことは、すべてが主の主権の中にあるということです。良いことも悪いこともすべて主の手の中で起こることです。 それを踏まえた上で私たちが共にすべきことは、どんな時でもただ主を崇め賛美するということではないでしょうか。 なぜならそれこそ私たちがこの世に存在する意味であり、主が私たちを造られた理由であり、その中で生きることこそ私たちの幸せだからです。 今日見る詩篇という書は、一篇一篇バラバラになっているわけではありません。 聖書はすべて神の霊感によって書かれたものですので、この順番と構成すらも主の手によるものだと見ることができます。 詩篇は1篇からみていきますと、いろいろな人間の感情がうずまいています。そこには、喜びもある一方で涙と落胆と慟哭があります。 しかしすべての詩がこの詩篇150篇に向かっていたものと見ることができます。150篇こそ詩篇全体の結論なのです。 涙も落胆も慟哭もすべて主への賛美に向かうためのもの、私たちの心を主への賛美に向かわせてくれるものだということです。 ですから私たちに今年起きた出来事、そしてそこで感じた思いも全て、この最後の詩篇である150篇へと導くものだったと見ることができるのです。 この詩篇という書簡全体に記されている人間の思いと、よく似た感情を私たちもこの一年持ったはずです。 決して良いことばかりだったという人はいないと思います。 日々悔しい思いの中で、涙を持って生きてきた方もおられるかもしれません。 しかし詩篇の最後も神への賛美で終わるように、私たちは、今日、主への賛美でこの最後の主日礼拝を終えていきたいと思います。 私たちの目的は神を賛美することです。 今日の聖書、詩篇150篇はそれを教えてくれています。 そしてその賛美をどこでするのか。なぜするのか。どのようにしてか。誰がするのか。ということを教えてくれている箇所です。 1 どこでするのか。 “ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。” 詩篇 150篇1節 ここで詩篇はどこで賛美するのかを語っています。 「神の聖所」と「御力の大空」で、神をほめたたえよとあります。 まず「神の聖所」とは何かを考えてみます。 ここでこの詩篇の著者が神殿とは言わず聖所と語るところに意味が込められています。 神殿と言ってしまうとエルサレム神殿だけを指すことになりますが、聖所であれば神様を崇める場所全てという意味になります。 私たちはどこで神を崇めているでしょうか。 当然その中にはこの教会が含まれていることと思いますが、それだけではありません。 私たちが神を崇める場所はどこでも聖所です。 それが職場であろうと、通勤通学の電車の中であろうと、台所であろうとどこであろうとそこが聖所です。 皆さんにとっての聖所はどこでしょうか。 特にご自身がお祈りをする場所や聖書を開く場所も聖所に含まれるでしょう。 また過去を振り返ってみてここで私は神様と出会ったというところがあるのではないでしょうか。 そこもまたお一人お一人にとって聖所です。 創世記に登場するヤコブという人が兄と父を騙したことで、兄に命を狙われて逃げました。 そしてその途中で神様と出会いました。 ヤコブはその場所を油を注いで聖別し名前をベテルと名付けました。 ベテルとは神の家という意味です。 ヤコブにとってはこの場所こそ聖所でした。 またこれは物理的な場所に限定されるものではありません。 要は神様との出会いの記憶そのものが大事なのです。 この記憶の一つ一つが神と出会う人生の聖所なのです。 ですから神様と出会った思い出深い場所がなくなったとしても永遠に残り続けるものです。 今年は特に試みが多い年だったと思いますが、その中で神に祈られたこと、また聖書を開き今ご自身が置かれている問題の答えを探されたこともあったのではないでしょうか。 そういう神様との交わりの記憶がまた聖所なのです。 そういうところを思い出して神を崇めることをこの詩篇は歌うのです。 では「御力の大空」とはどういう意味でしょうか。 これは主の力で造られた空のことです。 空はこの世のもっとも高い場所ですが、そこで賛美されるべきだとこの歌は歌います。 もっとも高いところですら主を賛美するわけですから、それよりも低いこの地上ではもちろんのことです。…

キリストとの新たな出会い

クリスマス礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書2章1〜20節 タイトル:キリストとの新たな出会い みなさんにとって、今年はどんな一年だったでしょうか。 先週より一気に冷え込んで、いよいよ冬本番といった感じですが、もう今年も残すところあと10日となりました。 喜びの出来事もあったかもしれませんが、起きてほしくなかったと思うようなこともあったのではないでしょうか。 そして人は、どちらかというと、この起きてほしくなかった、本当はそうあって欲しくなかったということに気を取られ心痛めるものなのかもしれません。 今日はクリスマス礼拝です。 実はクリスマスにもまたこの本当はそうあってほしくないという出来事がたくさん記されています。 1 “そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。” ルカの福音書 2章1~2節 ここに登場するのはローマ皇帝の名前や、ローマ帝国の中のシリア地方を管轄していた総督の名前です。 当時イスラエルは、ローマ帝国に支配され多額の税金を課せられ苦しんでいました。 住民登録が行われたのも税金の徴収を徹底するためです。 町のいたるところにローマの軍人が駐屯している状態でした。 イスラエルの人々は当時非常に暗い時代を生きていました。 この国に聖霊によって身ごもったマリアとその夫のヨセフがいました。 二人はこの時ナザレという田舎町に住んでいました。この町はイスラエルの中でもさらに人々から無視されていた地域でした。 マリアとヨセフは、ローマの命令のために、このナザレからヨセフの家系のルーツであるベツレヘムという町に行かなければいけませんでした。 ナザレからベツレヘムまではだいたい115キロから120キロ、高低差が400メートルあります。 身重のマリアはおそらくロバか何かに乗せての移動だったと思います。 夫のヨセフは細心の注意を払いながらゆっくり歩いたでしょう。そうすると少なくとも一週間はかかる距離です。 直線距離で大阪から岐阜に入ったあたりまでの距離です。 ヨセフとマリアはこの距離を移動しなくてはいけませんでした。 自分たちの国を支配しているローマ帝国の皇帝の命令のためでした。 一週間二人は大変な思いをしたことでしょう。そしてやっとのことでベツレヘムに到着します。 しかし住民登録のために多くの人たちが集まっていたのか、宿屋がどこも満室でした。 それで仕方なく家畜小屋に向かいます。 家畜小屋といっても私たちが想像する木で出来た小さな小屋ではなく、洞窟のようなところだったと言われています。 そこでマリアは出産することになりました。 そして出産した後は子どもを寝かせるベッドも布団もないので、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。 飼い葉桶も木でできたものではなく、石でできたとても冷たいものでした。家畜が餌を食べるお皿のようなものなので、ヨダレも染み込んだ大変汚いものでした。 マリアは出産というただでさえ大変な出来事を洞窟の中で行わなければいけませんでした。彼らには居場所がなかったからのです。 このストーリーには本当はそうで無ければよかったという出来事があります。 彼らの国が支配されていなければ良かった。 出産のタイミングと住民登録が重ならなければよかった。 そもそも住民登録などなければ良かった。 宿屋が満室でなければよかった。彼らに居場所がないなんてことはなければよかった。 生まれたばかりの子が家畜小屋の飼い葉桶に寝かされるなんてことはない方が良いのです。 クリスマスストーリーには、この本当はそうで無ければよかったが満ちています。 しかしそういうところに神は人となって生まれて下さったのです。 イエスキリストがうまれられたのは、なんの不自由もなく、不安もなく、毎日の暮らしに満足している、そんな順風満帆なところではありません。 本当はそうでないほうが良いのにと私たちが思ってしまうような状況の中に主は生まれられました。 これは言い換えれば、こういうところにこそイエスキリストとの出会いがあるということです。 2 御使いの知らせを受けてイエスのもとにやって来た羊飼いにもそうでなければ良かったという出来事がありました。 寒空の下、何の光もない夜の闇を羊を連れて彼らは野宿をしていました。 現在は羊飼いという仕事に偏見を持つことはないと思いますが、当時羊飼いという仕事は大変卑しい仕事として知られていました。 彼らは羊を守るためにいつやってくるかもわからない狼や野犬を警戒しながら番をしなくてはいけませんでした。それは昼夜を問わず続けられます。 日が沈むと冷え込むので、温まるために羊に体を寄せて寝ていたようですが、そうすると羊の毛についた汚れや匂いや虫が体についてしまいます。ですから彼らの服は動物の匂いが染み込み虫もついた大変汚い服だったようです。 さらに彼らは野宿のため神殿儀式などに参加できず、ユダヤ教から破門されており、裁判の証人にもなれませんでした。 彼らは、経済的にも宗教的にも差別され、証人としての資格もない人たちだったのです。 多くの人たちが人口調査のために集うなか、彼らはベツレヘムの町の外で野宿していました。…

祝福された人

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書 1章39~45節 タイトル:祝福された人 今日の聖書は、マリアが聖霊によって身篭り男の子を産むと天使に告げられた後の出来事を記しています。 親類のエリサベツが老年であるにもかかわらず妊娠したということも告げられたので、マリアは立って急いでエリサベツのもとに向かいました。 するとすでに胎内で聖霊に満たされていたバプテスマのヨハネはエリサベツのお腹の中でおどり、さらにエリサベツ自身も聖霊に満たされて大声をあげて言いました。 「あなたは女の中の祝福された方。」と 今日はこの祝福という言葉の意味について考えていきたいと思います。 マリアが「私は聖霊によって身篭りました」と言った時、周囲の人々はどんな反応をしたでしょうか。 いいなずけであったヨセフにこのことが伝わると、彼は密かに離縁しようとしたと聖書には記されています。 ヨセフも信じられなかったのです。 マリアはヨセフの反応に苦しんだはずです。 村人たちはお腹が大きくなっていくマリアを見てどのように思ったのでしょうか。田舎町です。マリアのことは生まれた時から知っていたはずです。 周囲の視線にマリアは何を感じたのでしょう。過去に石打ちにされた人を思いだして恐怖したかもしれません。 最終的にヨセフは夢の中で天使から真実を告げられて、マリアのお腹にいる子どもが聖霊によるということを信じて迎え入れるのですが、それまでのマリアの苦しみは想像を絶するものです。 その後マリアは出産しますが、イエスの命が狙われていることを天使に告げられてエジプトにまで下ってしばらく暮らさなくてはいけませんでいた。 そして時は流れて30年後、イエスがいよいよこの地上に公に現れてその働きを始められるわけですが、その時はもう夫のヨセフの姿がありません。おそらくそれまでに死んでしまったのだろうと言われています。 さらにその数年後には大切に育てた子どもであるイエスが十字架にかけられて死にます。 そして三日目によみがえったと思ったら、今度は天に昇って行ってしまうのです。 イエスを生み育てた母として彼女はこの時何を思ったのでしょうか。 これが祝福された方と言われた人の人生なのでしょうか。 彼女の人生を客観的に見た時に苦しみ多き人生に見えます。 聖書が語る祝福とは一体なんなのでしょうか。   1 祝福の源泉 「祝福がありますように」という言葉を聞いたことはおありでしょう。皆さんはその時どのような意味で受け取っていらっしゃいますか。祝福という言葉を聖書で見る度にこれはどういう意味なのだろうかと思います。 今日は少し聖書から祝福はどういう意味で使われている言葉なのかを探りたいと思います。 ただそうは言っても、祝福と書かれている部分に全て触れることはできませんので、いくつかをピックアップしてみていきたいと思います。 まず最初にこの聖書の中で最も昔のことについてかかれているところ、その一つを見ます。 “私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。” エペソ人への手紙 1章3~5節 この手紙はパウロがエペソの教会の人々に書き送った物ですので、書かれた時代は今から約2000年前です。しかしこの箇所の内容ははるか昔この世界ができる前のことが書かれています。 4節を見ますと、「神は私たちを世界の基の置かれる前から‥選び」と書かれていますように、この世界が造られる前のことを言っているのです。 続いて3節を見てください。 ここに祝福という言葉があります。 神様が私たちを祝福してくれたというわけです。 その内容が先ほどの4節の内容です。 世界の基の置かれる前から彼にあって、つまりはイエスキリストにあって選ばれました。 「あって」とは結び合わされてということですの、イエスキリストに結び合わされて選ばれていたということです。 そして選ばれただけではなくて、神様の前できよく、傷のないものにしようとされました。 神様はこの世界を造る前から私たちをイエスキリストに結び合わせてくれていたとここでは語られているのです。結びあわされるというのは一つとなるということです。 そして神の前できよく、傷のない者にして、ご自分の子にしようと定めておられました。 これが祝福の源泉です。 祝福を辿っていくとここに行き着くのです。 この世界が造られる前からすでに私たちは神に覚えられていました。イエスキリストの犠牲によって救われることがこの時すでに計画されていたのです。 2 契約 そしてこの後、世界が造られます。 それが創世記の1章です。 第一日、第二日、第三日と夕があり朝がありました。 私たちの先祖アダムはこの第六日に造られました。 この後、人類にとって素晴らしい日々を過ごすことができたのですが、罪に落ちた私たち人類はその時から神に背を向けて生きるようになってしまいます。 しかし神はアブラハムを通して、神の民を救う計画を本格的に進め始めます。 アブラハムと神との契約の中にも、祝福という言葉が登場します。…

単純な心

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇27篇1〜5節 タイトル:単純な心 今日の詩篇で、ダビデは問題を見つめ続けるのではなく、そこから視線を主に向け、主を見上げています。 彼はこの詩篇で戦争をイメージさせる言葉を使って、自分が今どれほど厳しい立場にあるのかを表現しています。 彼は命を狙われていたのだと思います。 しかしその中でダビデは、自分に迫る命の危機だけを見つめ続けるのではなく、主を見あげました。 そういう中で彼が言った言葉が、この1節から3節の言葉です。 1 現状を把握し主に向かう “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。” 詩篇 27篇1~3節 1節に「砦」とありますが、これは外敵の侵入を防ぐための建物です。 主は自分の命を守ってくれる砦だと彼は信仰告白しています。 そしてその砦があるから、どんな敵も恐れることはないと続けます。 ここでまず注目すべき点は、ダビデがしっかりと現状を理解しているということです。 周りは敵だらけで、しかもその敵は自分の命を狙っている。 自分は命の危険にされされているということを彼はよく知っていました。 戦うためにはまず現状を把握しないといけませんが、ダビデはそれができていました。 そしてその上で、彼は先へと進んだのです。 辛い状況が目の前にあり、それが長期化すると、その状況に目を閉じて、それがないかのように思ってやり過ごそうとするということが人にはあります。 ある種の防衛本能なのかもしれませんが、現実逃避とも言えると思います。 ダビデはそうではありませんでした。 自分が今大変なのだということ、砦が必要なのだということをちゃんと認めていました。 ただこの現状把握でとまってしまうと、今度はそのことばかりグルグル頭の中を回り始めます。 神の言葉を黙想しなくてはいけないのですが、状況や周囲の人たちの言葉ばかり黙想してしまうようになります。これは思い煩いです。 思い煩いは、わたしやみなさんにはどうにもできないことを囁きます。 「あなたがあんなことをしたから、今こんな事態になっているのでしょう。」 「あなたがもう少し頑張ればなんとかなったんではないの?」 色々な言葉を連想させて私たちの心を引きずっていきます。 この詩篇を書いたダビデはどうでしょうか。 現状把握をした上で、神様に視線を向けました。 私たちもこのように、現状をしっかり把握した上でどういうところが問題なのかを分かった上で、究極的にこの問題の解決は神様にしかないのだと委ねていくことが大切です。 それは自分自身の力で必死に握ろうとしている何かを離すこととも言えます。 わたしたちは握るのは得意ですが、離すのが苦手です。 離したと思っても気づくとまた一生懸命握っています。 だから毎日手放さなくてはいけません。 そうして神様の前に委ねていくのです。 ダビデはそのように生きた人でした。 彼は主を心から信頼していました。 彼にとって主は「光」でした。 光が闇を追い退けてしまうように、主が敵をおい退けてくださるというダビデの信仰告白です。 だからこそ誰を恐れようと言えるのです。 続いて2節を見ますと、ここには「私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた」と記されています。 おそらく過去のダビデの戦いの勝利をうたっているのだろうと思います。 彼はこれまでの主の助けを振り返り、だからこそ今回もということで3節を歌うわけです。 3節で、ダビデは言います。 たとい私に向かって陣営がはられても、私の心は恐れない。 陣営がはられるということは、敵が戦闘態勢を整えて今にも飛びかかってくる状況です。 そうあっても私は恐れない、動じないとダビデは言うのです。 彼の心には平安がありました。 私たちが何かの出来事に心を奪われ、イライラしたり、心を落ち込ませている時、それは心の平安を奪われている時です。 敵を恐れ、もうすでに敗北しているのです。 ダビデはその戦いに勝利していました。…

主の眼差しを受けて待ち望む

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの黙示録 14章14~20節 タイトル:主の眼差しを受けて待ち望む 今日からアドベントが始まります。 アドベントとは到来、来臨を意味し、クリスマスの4週前の日曜日からクリスマスの日まで続きます。アドベントの期間は主の到来を待ち望む期間です。 主の到来を待ち望むという言葉には二つの意味があります。 一つは、2000年前にイエスキリストがお生まれになったことを覚えて、そのお生まれを待ち望むこと。 そしてもう一つは、天におられるイエスキリストが再びこの地に来られる再臨を待ち望むことです。 今日はこの二つ目について触れたいと思います。 今日の聖書はヨハネの黙示録14章です。 この箇所の前のところには、悪魔を表す竜と、それに力を与えられた獣がこの世界で暴れ回る様子が記されています。 しかしその後この幻を神に見せていただいたヨハネはさらに希望の幻を見ました。 それはイエスキリストがシオンの山の上に立っておられる姿でした。 そしてその側には過去現在未来すべての救われたクリスチャンを意味する14万4千人の人たちがいました。 イエスキリストの十字架による贖いによって罪赦され神の民とされた人々がそこにはいたのです。 当時キリスト教会は、大変な迫害の最中にありました。 この幻を見たヨハネ自身もバトモス島という島に流されていました。仲間達もたくさん捕まり殺された人たちも多くいたことと思います。 そういう状況下にある彼にとってこの幻は大きな希望になったはずです。 おそらく彼はあの14万4千人の中にすでに死んだ仲間たちの姿も見ただろうと思います。 さらにこの後彼は天からの声を聞きました。 “また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」” ヨハネの黙示録 14章13節 今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。 つまり主に結び合わされて死んだ人たちは幸いな人だということです。 ローマ帝国に捕まり死刑にあった人であろうとも、それでも主を信じて死んだならそれは幸せなことなのだというのです。 どうしてそれが言えるのかというと、それが先程の幻にあらわれています。 イエスキリストと共にいるものとされたからです。 彼らは決して孤独に死んだのはありません。 主にあって死んだ、主に結び合わされて、主の中で死んだのです。 生の終わりは死ではなく、 その先に新たな生があります。 主イエスキリストにあるあらたな命に生きる生です。 その中にいる人は幸いなのだという声をヨハネは聞いたのです。 1 収穫の時 今日の聖書はさらにその続きとしてみた幻です。 ヨハネの黙示録 14章14~16節 “また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。“ ヨハネはここで雲に乗っている人の子のような方、つまりイエスキリストを見ました。 この方は金の冠を被っています。つまり真の王であることを示しています。 世の中は当時ローマ皇帝こそ王でした。 しかし真の王はこの金の冠をかぶり雲の王座に座っておられるイエスキリストであることをあらわす幻です。 この真なる王が手に鋭いかまを持っていました。 この真の王こそ、この世を裁く審判者であることを描写しています。 彼は一人の御使いの合図を受けて、地に鎌を入れて、穀物を刈り取りました。 穀物は完全に熟してすでに刈り取るべき時が来ていたからです。 これはすなわち終わりの時がやってきて、神の民が御国に導き入れられることを示しています。 その日その時が来ると、このようにイエスキリストが神の民である私たちを刈り取って神の国へと連れて行ってくださるということを教えてくれる箇所です。 この刈り取りについて、収穫について語っている言葉がマタイの福音書13章にありますが、39節には「収穫とはこの世の終わりのことです。」と書かれています。 この世の終わりというと、この世界の破滅をイメージされる方が多いと思うのですが、クリスチャンにとっては新しい世界の始まりであり、神の国の完成を意味します。それは本当に苦しみも痛みも涙もない世界の始まりの時なのです。その時にイエスキリストにつながっている人は、農夫が収穫の時に穀物を刈り取るように、神の国に導き入れられるのです。 その続きの43節には「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」とあります。 だからイエスキリストにあって死んだ者は幸せだと言えるのです。 ではこれがこの世界の終わりの時だとするなら、今はどのような状況と言えるでしょうか。 それは王冠を被ったイエスキリストが鎌を持ってこの世界を見ておられる時と言えると思います。…

主に感謝せよ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇136篇 タイトル:主に感謝せよ 今日の聖書は詩篇136篇です。 この詩篇はとても特徴的な詩篇です。 それぞれの節が前半後半に分かれていて、後半部分は「その恵みはとこしえまで」という言葉を繰り返しています。 これはおそらく先ほど私たちが共に読んだ交読文のように、礼拝の司式をする人が前半を歌い、後半は会衆が歌うという形でなされていたのだろうと思います。 ですからこれは個人で歌う歌というよりも、共同体で共に歌う賛美だったということができます。 共に歌うことはそれ自体が共同体をおぼえる行いです。 現代の私たちと同じように、当時のイスラエルの人々の中にもいろいろな人たちがいました。 しかしこの共同体の賛美はさまざまな人たちを主にあって一つにしたのです。 神の恵みを思い巡らし感謝することは、一人でももちろんできますが、共同体として共に行うこともまた必要なことなのでしょう。 今日もこの詩篇によって私たちが一つの思いとなり共に神に感謝を捧げる時となりますように祈ります。 この詩篇の冒頭を見ますと「感謝せよ」という言葉が繰り返されていることに気づかれることと思います。 この世は絶えず私たちを苦しめ、感謝などできないと思えるような時も多々あります。疲れ果ててしまうこともあると思います。 しかし今日の詩篇は、そんなわたしたちにも感謝を教えてくれます 詩篇136篇が教える感謝は条件ではありません。 今置かれている環境、その状況によって左右されてしまうものではありません。 環境や状況によって左右される人は、それが好転しても結局感謝はできません。 瞬間的に喜んで感謝しますと言ったとしても、次の瞬間には感謝はどこかへ飛んでいってしまいます。 感謝は条件ではありません。 感謝を知っている人だけが感謝をします。 では感謝を知っているとはどういうことなのでしょうか。 それは自分が既に神から多くのものを受け取っていることを知っているということです。 そして神によって生かされているということを知っているということです。 今日の御言葉である詩篇136篇はまさにそのことを教えてくれる詩篇になっています。 はるか昔、イスラエルの人々が神を見上げつつ共に歌った歌を、今日私たちも共に読み今現在の事として受け取り直す。 そのような時間となることを祈ります。 1  神がおられることへの感謝 “主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。 主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。” 詩篇 136篇1~3節 この世には神と信じられている存在がたくさんあります。 この詩篇の作者の周囲にも、この詩篇を歌った人々の周りにも多くの神々がありました。 私たちの周囲にも神の名のつくものがたくさんありますが、どれも人が勝手に作り出したものです。 しかしこの多神教の世界にあっても、私たちは神がお一人であることを知っています。 「光あれ」と言ってこの世界を造られ、また人を造り愛し導いてくださる神はお一人だけです。 神の神、主の主という表現は、最上を意味する言葉です。 申命記10章17節にもこのような言葉があります。 “あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり‥” 神の神、主の主というのは、神の素晴らしさ、その偉大さを表現するための言葉です。 この世界のあらゆるものに優先する大いなる方、それが真の神です。 そんな神に感謝せよと詩篇記者はここで歌うのです。 その方はかつてモーセに「私はある」と言われた方です。 どんなものにも依存することなく神として存在し続ける方。 この方が存在することに感謝せよとこの詩篇は歌うのです。 そしてそれは恵みであり、その恵みはとこしえまで、つまり永遠に続きます。 この世界は神なき世界です。 実際には神はおられるのですが、それを受け入れ信じようとしない世界です。 そしてかつてのイスラエルの周囲の人々がそうだったように、勝手に自分に都合の良い神々を作りあげてそれを拝む世界です。 そんな希望のない光のない世界ですが、それでも永遠から永遠まで神は神として存在し続けてくださることを私たちは知っています。 だから感謝することができるのです。 1〜3節は、神の存在への感謝を歌っている箇所です。…

神から与えられた使命に生きる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き20章13〜38節  タイトル:神から与えられた使命に生きる 1 ミレトでエペソの長老たちと会う パウロ一行がトロアスから出発する時となりました。 そこでパウロ以外の人たちは先に船に乗ってアソスという町に向かいました。 パウロはおそらくこのトロアスの町に可能な限り残って福音を伝えようと思ったのでしょう。 一人陸路をとってアソスへと向かいました。 その後パウロと他のメンバーたちは無事アソスで落ち合って、一緒に船に乗りミテレネ、サモスへと寄港し、ミレトという町に着きました。 船はミレトの町で大体3日ほど停泊していたようです。 それでその間にエペソの教会の長老たちを呼び寄せることにしました。 ここで長老と記されていますが、今よりも意味の広い言葉です。 現在は長老といえば信徒を代表する立場であり、牧師とはまた違うものですが、もともとは長老というのは、現在の牧師と長老を合わせたような存在でした。 ですからこの時呼び寄せた人たちというのはエペソ教会を任されたリーダーたちです。 このリーダーたちと会うために、遣いをエペソへと遣わし呼び寄せました。 ミレトからエペソまでは大体50キロ程度の距離です。 遣いはこの距離を往復したわけですので、約100キロになります。 この距離をできるだけ早く歩かなくてはいけません。 船が出発するまでに連れてこなくてはいけないからです。 現代のように舗装されていない道を100キロ歩くのは大変なことです。 おそらくパウロの遣いは、エペソで一晩休んで、さらにどこかでもう一晩という具合に、早くても丸2日から3日ほどの時間がかかったと思われます。 船が出てしまうまでのギリギリの時間でした。 こうしてエペソの教会のリーダーたちが無事に到着しパウロのもとにやってきました。 パウロは彼らに伝えなければいけないことをここで語り始めました。 “彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。” 使徒の働き 20章18~21節 この箇所は以前パウロがエペソにいた時についてのお話です。 パウロは「どんなふうにあなたがたと過ごして来たか。あなた方はご存知です」と言って話し始めました。 そしてどんなふうに過ごしたか、その内容についても話します。 それは謙遜の限りを尽くして、主に仕える過ごし方でした。 原文のギリシャ語では、主の僕として仕えたと記されています。 パウロはまさに主の僕としてエペソで生きました。 ではこの主の僕として仕える生き方とはどのようなものだったのでしょうか。 整理しますと、 働きの場所は、「人々の前」つまりユダヤ公会堂やツラノの講堂のような公の場や、家々という私的な場でも仕えました。 また、働きの時間はというと、18節「アジヤに足を踏み入れた最初の日から」、31節「三年の間、夜も昼も」ぶっ通しの働きでした。 では働きの相手は誰でしょうか。 21節「ユダヤ人にもギリシヤ人にも」すべての人です。 そして31節「あなたがたひとりひとり」という個人個人へきめ細かく配慮して行われたものでした。 2 苦難が待ち受けていても聖霊に従うパウロ 3年もの間、パウロは夜も昼もエペソの人々のために仕え続けました。これも聖霊によってでした。 しかし今はまたその聖霊の導きでエルサレムへと行かなくてはいけません。 “いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。” 使徒の働き 20章22~23節 いま私は、心を縛られて、エルサレムへ上るとありますが、別訳では聖霊によって縛られてとなっています。 聖霊によって彼はエルサレムへ導かれて行かなくてはいけません。 そして行った先ではなわ目と苦しみが待っています。 またエペソの教会もこれから大変なことが起こります。 “私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。” 使徒の働き 20章29~30節…

神の慰め

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き20章1〜12節 タイトル:神の慰め 「慰め」と聞いてみなさんは何を思い浮かべますか。 新約聖書において「慰め」と訳されている言葉は、本来ギリシャ語でパラカレオウといいます。 これは「そばに呼び出す」という意味がある言葉です。 弱っている人の横で呼びかけはげますイメージを与えてくれる言葉です。 みなさんは誰に呼び出されたのでしょうか。 誰に引き寄せられているのでしょうか。 人は苦難や悲しみに陥る時、慰められることを必要とするものです。 しかしそれを必要としている人に対して、人間は適切で十分な慰めを与えることはできません。 人が本当の意味で慰められるのは神の慰めにのみです。 1節2節には「はげます」と訳されている言葉が登場します。 “騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。 そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。” 使徒の働き 20章1~2節 この「はげます」という言葉も、実はギリシャ語ではパラカレオウという言葉が使われています。 つまり慰めとも訳すことができた言葉でした。 今日は1節から12節まで見ますが、この中に慰めと訳せる言葉は1節に一回、2節に一回、そして12節に一回の計三回登場します。 慰めは今日の聖書のストーリーを貫いている大きなテーマです。 イエスキリストが弱っている人を横に置いて呼びかけはげます、そんな姿をイメージしながら聴いていただければと思います。 1 銀細工人デメテリオが起こした暴動の後のお話です。 パウロはこの騒ぎがおさまると弟子たちを呼び集め励まし別れを告げました。 そしてマケドニヤへと出発しました。 マケドニヤは、ピリピ、ベレヤ、テサラロニケがある地方の名称です。 これらの町々でもパウロは人々を励まして回りました。 そしてギリシャ地方へとやって来ます。 この地方にはコリントがあります。 パウロはここで三ヶ月ほど過ごしてからシリヤに向けて船出しようとしました。 しかし問題が起きます。 “パウロはここで三か月を過ごしたが、そこからシリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったため、彼はマケドニヤを経て帰ることにした。” 使徒の働き 20章3節 どのような陰謀だったかはわかりませんが、パウロに反感を抱くユダヤ人たちが彼を殺そうとしていたのだと思います。 それでパウロはやって来た道を引き返す形でマケドニヤを回ってエルサレムへ戻ることにしました。 4節には共に行動していた人たちの名前が記されています。 “プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、” 使徒の働き 20章4節 この人たちは、パウロがこれまで福音を伝えて回った町の教会の代表たちです。 おそらくマケドニヤ地方をぐるっと回る間、またいくつかの町を巡り歩きながら励ましたのだと思います。 それでかなりの時間がかかったのでしょう。 そこでこれらの人々は先にトロアスという町に行きパウロを待っていました。 ところで5節を見ると突然「私たち」という一人称が登場します。 これまでは「パウロが」と書かれていたのですが、ここから突然出てくるのです。 これはこの書簡、使徒の働きの著者が合流したことを示すものです。 著者として最も有力なのはルカです。 ルカの福音書を書き、使徒の働きを書いた彼がこのマケドニヤのある町で合流したのでしょう。 そしてそれはおそらくピリピの町です。 なぜなら以前も「私たち」という言葉が登場したことがありましたけど、それはトロアスからピリピの町の間までだったからです。(参考:16章) ルカはトロアス、あるいはそれより少し前に合流したのだと思います。 そしてそこからパウロたちと一緒に行動してピリピまでやって来て、そこで新しい教会ができたからその教会を支えるために残ったのではないかと考えられるのです。 そして再びパウロが戻って来た時に、またピリピから合流したと見ることができるのです。 こうしてパウロはルカと共にトロアスに渡りそこで4節に登場した7人の異邦人教会の代表たちと落ち合いました。 ここに来るまでに立ち寄ったギリシャ地方のコリントで書かれたとされるローマ人への手紙には、こうして代表者たちを引き連れて行く理由が記されています。 “ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。…

キリストの栄光と神々の威光

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き19章23〜41節 タイトル:キリストの栄光と神々の威光 パウロがエペソに戻ってきて福音宣教を再開し、それが2年もの間続きました。 アジアに住む人たちは皆福音を聞いたと聖書に記されているほどに多くの人々がパウロからイエスキリストのことを聞きました。 この地域での宣教は大いに成功したと言って良いと思います。 しかしこのように救われる人たちがたくさん起こされると、その反対勢力も起こってくることがあります。 1  お話の流れ 今日最初に登場したのはデメテリオという人でした。 この人は銀細工人です。 “それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、” 使徒の働き 19章24節 こちらに記されているように、この人は銀でアルテミス神殿の模型を作っていました。そして職人たちにかなりの収入を得させていたというわけです。 アルテミス神殿で崇められていたアルテミスという女神は、エペソの町の守護神、および肥沃な土地の象徴でした。 毎年3月から4月には、参拝者や観光客がエペソの町を訪れて富をもたらしていました。 アルテミス神殿の模型もこれらの人々に売られていたものです。 しかしキリスト教が伝えられたことによって、このアルテミス神殿の模型の売り上げが下がったようです。 それが26節を見ると分かります。 “ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。” 使徒の働き 19章26節 パウロが手で作ったものは神ではないとはっきり伝えていたのでアルテミス神殿への参拝客が減り、またその模型の売れ行きも下がったということなのでしょう。 彼らの思いの中心にあるのは、キリスト教のせいで、パウロのせいで、私たちの収入が減り生活がおびやかされている。早く追い出さないといけないということでした。 しかし実際にデメテリオが言った言葉はそれだけではありません。 どのような言葉を言っているでしょうか。 “これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」” 使徒の働き 19章27節 ここでデメテリオは三つのことを言っています。 一つ目は、自分たちの仕事の信用が失われるということ。 二つ目は、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなるということ。 三つ目は、全アジア、全世界の拝むこの大女神の威光も地に落ちてしまうということ。 この三つでした。 ただ彼の思いの中心は一つ目にあります。 自分の商売が成り立たなくなることです。 しかし2つ目と3つ目も付け加えて語る必要が彼にはありました。 なぜなら自分たちの仕事のことだけを言えば、その仕事に関係している人たちの賛同しか得ることができないからです。 そこでエペソの町のアルテミスという女神がないがしろにされていると言うことによって、より多くの人々の指示を取り付けようとしたのです。 そしてこの方策はまんまと成功しました。 “そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。 そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場へなだれ込んだ。” 使徒の働き 19章28~29節 デメテリオの言葉を聞いて、まず職人や同業者たちがこのように叫び始めました。 するとこの騒ぎはさらに大きく広がり始め町中が大騒ぎになってしまいます。 デメテリオ、職人たち、同業者たち、と増えていき、さらにその周囲の人々を巻き込む渦があっという間に町中に広がってしまったのです。 この間にパウロの同行者であったガイオとアリスタルコがその渦に巻き込まれて捕らえられてしまいました。 そしてそのまま劇場へとなだれ込んでいったのです。 パウロはこれに巻き込まれずに済んだのですが、それでも自分の同行者が危険だと言うことを知ると、その劇場へなんとか入って行こうとしました。 “パウロは、その集団の中に入って行こうとしたが、弟子たちがそうさせなかった。 アジヤ州の高官で、パウロの友人である人たちも、彼に使いを送って、劇場に入らないように頼んだ。” 使徒の働き 19章30~31節 なんとか入って行こうとしたパウロでしたが、弟子たちがそれを留めました。 そしてパウロの友人でもあったアジア州の高官が使いを送って劇場に入らないように頼んだのです。 この場面でパウロは何もできない状況に追いやられていました。 せっかくエペソでの伝道が成功したと思ったら、思いがけず大変な暴動が起きてしまい、その中に同行者が二人も巻き込まれ命の危機に瀕してしまったのです。 どれだけの人たちが集まっていたのかは分かりませんが、大変な混乱だったようです。…

ただ聖書のみ

宗教改革記念礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き8章26〜31節 タイトル:ただ聖書のみ “ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。) そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。” 使徒の働き 8章26~31節 一年に一度、プロテスタントの多くの教会では宗教改革記念礼拝がもたれています。 これは宗教改革が始まったとされる10月31日の前の主日に持たれる特別な礼拝です。 宗教改革とは、マルチンルターをはじめ、多くの改革者たちが、当時のカトリック教会の間違いを指摘して始まった運動のことです。 そしてこの出来事を知ることは私たちプロテスタント教会とは一体何なのか、またプロテスタント教会の信仰とは何なのかを知ることにつながります。 今日はこの宗教改革について共に学んでいきたいと思います。 宗教改革の信仰を表す標語は5つあります。 ただ信仰のみ、ただ聖書のみ、ただ恩恵のみ、ただキリストのみ、ただ神の栄光のみです。 今日はこの中の「ただ聖書のみ」に絞ってお話しして、宗教改革とはどういうものだったのか、そしてそれが私たちにどういう関係があるのかをお話ししたいと思います。 1 聖書は解釈する必要がある 今日お話しする「ただ聖書のみ」という標語を説明するにあたって、まず誤解が生まれる恐れがあるところからお話しします。 それはこの「ただ聖書のみ」という標語が、これまでのキリスト教会の伝統全てを否定して、ただ聖書だけ読んでいれば良いという意味ではないということです。 聖書は書物です。 神が書かれたと同時に人が書いた書物です。 ですから必ずここには解釈が伴います。 そしてその解釈にも正しい解釈と間違った解釈が存在します。 キリスト教会はこれまで2000年間正しい解釈をすることもあれば間違うこともありました。 そういう中でこれが聖書が語る真理だと言って積み重ねてきた解釈の蓄積が現在伝統となっているものです。 これは具体的には信仰問答、教理などに表されています。 これらは全て聖書をしっかりと土台として聖書には何が書いているのかをまとめたものということができます。 今日ともにお読みした使徒の働きに出てくる言葉の中に、導く人がいなければどうしてわかるでしょうというものがありましたが、まさにこの導くものとなってくれるのが、これらのキリスト教の伝統ということができます。 先人たちが悪戦苦闘しながら蓄積した聖書解釈の成果なのです。 ただこの伝統が有効なのは、聖書を土台とする限りにおいてです。 聖書に書かれていないことを勝手に創作して付け足してしまうと、それは正しい導き手にはなり得ません。 逆に人を混乱させるものになってしまいます。 2 聖書を土台としない解釈 ルターは人々を混乱させ本当の神の言葉から遠ざける伝統に気づきそれに異論を唱えた人でした。 今から500年前に生きた人ですが、当時の教会はカトリック教会しかありませんでした。ルター自身もカトリックの修道士としてアウグスティヌス修道院に入ってそこで修行した人でした。 しかし聖書を深く読み進めていったときに、カトリック教会が持つ間違った教理に気づいたのです。 中でも今日紹介したいのは、煉獄の教理と贖宥(いわゆる免罪符)です。 ①煉獄について 煉獄とは、死んだ人のほとんどがいく所とされています。 死んだらそのまま天国に行ける人は殉教した人や聖人と呼ばれる完全に聖められた人たちだけです。 ほとんどの人は煉獄に行き、自分の内に残る罪が完全になくなるまで天国にはいけないという教えなのです。 しかしこれは聖書には記されていません。 ②贖宥状(免罪符)について この起源は7世紀ごろのアイルランドにあると言われています。 ゲルマン世界に広く見られた損害と賠償と代理という考え方が出発点になっています。 彼らの考え方では、人間が罪を犯すということは神に対して損害を与えるということです。したがって人間は神に対してその損害を賠償する必要があり、罪を犯した当人は断食や施しや徹夜の祈りをする必要があると考えました。 この考え方が広まった当初は、修道士たちが民衆の代理となって果たしていた真剣な行動だったようです。 ところが、この償いの行いが民衆の間にも広まって一般化されていき、そこからどんどん変容していきました。 この後、人間は日頃の良い行いを業績として積み立てておけるとみなされるようになり、その積み立てを償いに当てることもできると考えられるようになっていきます。 そしてこの業績を自分のために積み立てられるなら、他の人のためにも積み立てられるだろうということになりました。 生前に良い行いが多く、業績を積み残したまま死んだ人のものは、教会の宝として教会が管理して積み立てておくことができることにし、時に応じてこれを引き出して用いようということになったのです。 しかもそれはローマ教皇の裁量で民衆に分け与えられることにしました。 この証明書として発行されたのが贖宥状(免罪符)だったのです。…