聖霊のバプテスマ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き18章24〜28節 タイトル:聖霊のバプテスマ イエスキリストは十字架につけられ殺され三日目によみがえられた後、天に昇られました。 その後弟子たちはエルサレムで待つようにというイエスキリストの言葉の通りに待っていますと、聖霊が臨みました。 聖霊は三位一体の神の第三位格です。 イエスキリストの霊とか、助け手とも呼ばれるこの聖霊によって弟子たちは大きく変えられて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで福音を宣べ伝えるものになりました。 “しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” 使徒の働き 1章8節 彼らが福音を宣べ伝える中で大変な迫害にあいました。 中でもサウロという人は、彼らに大変反対し、多くのキリスト教徒を捕まえて、牢屋に入れてしまうほどでした。 しかしこのサウロにイエスキリストは直接出会われ、彼は回心し、キリスト教徒となったばかりか、福音を広く宣べ伝えるものとなりました。 使徒の働きの中でも、彼の名前はユダヤ人の発音であるサウロではなく、途中でギリシャ語の発音であるパウロに変わりました。 これはおそらくユダヤ人たちだけではなく、異邦人たちへと福音を伝える者となっていくことを示したものだろうと思います。 使徒の働きの後半部分は主にこのパウロが中心となって話が展開していきます。 1 伝道者アポロ しかし今日の箇所はそんなパウロがエペソで伝道して去った後、他の伝道者がやってきたところを描いています。 その人の名前はアポロと言います。 彼はエジプトの北にあるアレキサンドリヤ出身のユダヤ人でした。 アレキサンドリヤとは紀元前332年にアレキサンドロス大王によって建てられた都市です。 イエスキリストの弟子たちの時代にもエジプトの中心的な都市で、ローマ帝国においても第二の都市でした。 40万から90万巻の蔵書を有する図書館を持つ博物館もありました。 さらに大学もあり、当初はアテネの学校をまねて作られましたが、すぐにアテネを追い越してしまう程の急成長を遂げました。 数学,天文学,医学,作詩法の学問で名高く、文学と芸術も盛んでした。 人口は60―70万ほどで,ユダヤ人,ギリシヤ人,エジプト人によって構成され、 ユダヤ人はギリシヤ人と同等の特権を与えられたため多くの者が定住しました。 イエスキリストの一番弟子とされるペテロはガリラヤの田舎出身で、あまり学問には縁がありませんでした。 それに対してパウロは、ユダヤ教の教育をきっちり受けた人でした。 しかしこのアポロはそれにも増して、学問的な蓄積が相当あったものと思われます。 アレキサンドリヤにおいては学ぶことに事欠きません。 良い環境で生まれ育ち教育水準も高い人だったのでしょう。 そういう人がイエスキリストのことを伝え聞いて、聖書に記されている出来事と照らし合わせたところ、まさにイエスこそメシアであること、救い主であることを知ったのです。 それで、いても立ってもいられず、伝道者の道を歩み、とうとうエペソにまでやってきました。 アレキサンドリヤからエペソまでは直線距離にして2700キロあります。 北海道から沖縄よりも離れています。 “さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。” 使徒の働き 18章24節 ここには聖書に通じていたと記されていますが、この聖書は今私たちが持っている新旧約聖書が記された完全なものではありません。 当時はまだ、新約聖書はあれませんので、アポロが通じていたのは旧約聖書です。 旧約聖書、おそらくその中でも預言書に書かれていた内容と、イエスキリストのことを照らし合わせたときに、この方が救い主だと悟ったのでしょう。 アポロは学問的素養があり、話の上手な人でした。 ただ彼にはまだ知らなければいけないことがあったようです。 2 ヨハネのバプテスマ “この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。” 使徒の働き 18章25節 主の道の教え、つまりイエスキリストを知っていたということです。 そして霊に燃えて、イエスのことを正確に語ることもできました。 しかし彼はヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。 ヨハネのバプテスマとは何でしょうか。 まずバプテスマについて説明します。 バプテスマの本来の意味は、「一体化」です。 布を染料液に浸けると、その色に染まります。 それがバプテスマのイメージです。 ではヨハネとは誰でしょうか。 この人はイエスキリストよりも少し前にユダヤで神の働きをしていた人でした。…

イエスキリストは道です

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書14章6節 タイトル:イエスキリストは道です 大切な人のために、一生懸命何か準備をしたのに、その人の思いとはかけ離れていたなんてことはないですか。 誰かのために、一生懸命になることはとても大切なことだと思います。 でもそれが相手の好みと合わなかったり、タイミングがずれていたりして、失敗することがあります。 大切な誰かに対して何かをする前に、その人について正しく知ること、正確に理解することが重要です。 さて、では私たちにとって最も大切な存在は一体誰でしょうか。 私たちクリスチャンにとって一番大切な方は、イエスキリストです。 彼を信じ、彼に祈り求め、彼の言葉であるこの聖書を読んで学び日々生かされています。 ですから私たちにとって、この方のことを正確に知ることは何より大切なことだと言えると思います。 彼がどういう方であり、私たちのために何をしてくださったのかについて正しく知ることなくして、神に喜ばれる者として生きて行くことはできないからです。 1  イエスキリストは神 今日は彼が一体どういう方なのかを共に考えてみたいと思います。 “イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。” ヨハネの福音書 14章6節 この言葉はイエス様ご自身が言われた言葉です。 この聖書の中でまず注目していただきたいのは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と記されている一文の最初と最後の部分です。 「私は〜です。」という言葉です。 これは新約聖書の本来の言語であるギリシャ語ではエゴーエイミーとなっています。 エゴーエイミーとは、自分の存在を支えているのが自分自身だという意味がある言葉です。 自分の存在を支えているのが自分自身だと言える人間はいません。 この世界に自分自身で生まれようとして生まれてきた人はいません。 自分の計画通りに、自分の思い通りに、この世界を生きた人はいません。 つまりこのエゴーエイミーという言葉を使える人はいないということです。 この言葉が使えるのは神様だけです。 日本語の聖書だけでは見えないのですが、実はここでイエス様がはっきりご自身のことを神様だといっているのです。 その上で自分が道であり、真理であり、いのちなのだと伝えてくれている言葉だとご理解ください。 神であるイエスキリストがご自身を指して道であり、真理であり、いのちだというのです。 2 イエスキリストは道 イエス様を通してでなければ、誰ひとりとして父なる神様のもとにはいけません。 つまりイエスキリストなしでは誰ひとりとして天国へは入れないということです。 今日はこの中のイエス様が道だということについて考えてみたいと思います。 想像してみてください。 私たちの前には道が二つあります。 その道は真逆に伸びています。 一方はあちら側、一方はこちら側に伸びています。 一方は滅びの道、一方は永遠の命の道です。 一方は人間の道、一方はイエスキリストです。 人はこの二つの道のどちらかを歩いていきます。 そして例外なく、人は最初人間の道を進んでいきます。 つまり滅びの道を進むということです。 その道には命がありません。 その道には心からの平安がありません。 その道には本当の喜びがありません。 その道には寛容がありません。 その道には死があります。 その道には不安があります。 その道には怒りがあります。 その道には人を裁く思いがあります。 その道を人は歩いていきます。 そしてその先は永遠の滅びという崖です。 その方向へと人は歩いて行くのです。 聖書に登場する2000年前の人々も同じでした。…

第6問 三位一体の神

第6問 三位一体の神 問: その神には、いくつの位格がありますか。 答: 神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。  1 三位一体の教理 人であるという事と父親であるという事は別物です。しかし同時に人であることも父親であることも事実です。本質的に見れば人、息子や娘との関係で見ると父親と言うことができます。 同じように神様であると同時に、三位の互いの関係として、父、子、聖霊なのです。 第5問を通して私たちは神様がただお一人だということを学びました。第6問では父、子、聖霊が各々区別される位格であることを学びます。父、子、聖霊は一人の神様でありながら、三つの位格をもっています。これは区別されていながら同一です。 聖書全体を通して見た時、私たちはこのことを知ることができます。 <注意> 次のように誤解することが多いので示しておきます。 父→私たちをつくり、律法をあたえ、この世を治めておられる方。 子→私たちを救ってくださり、憐んでくださり、命を賭して愛してくださる方。 聖霊→私たちを新しくして下さり、御国まで導いてくださる方。 このように役割でもって三人が別々に働くのではなく、私たち人間からそのように見えるに過ぎません。父、子、聖霊はいつも共に働いておられます。 2 聖書に聴く すでに学んだように人が神様について理解しようとするなら聖書から聴かなくてはいけません。聖書をみれば神様を三位一体としてしか理解できないことがわかります。一人の神様でありながら三人のように表現されていますが、一人なのです。 これを完全に理解することは不可能です。私たちよりも大きな存在である神様を完全に理解することはできないのです。しかし完全には理解できなくても、聖書で語られているところまでは知ることができます。そしてこれが重要です。人間には理解できない神秘の領域があるのは確かですが、聖書に記されている範囲までは理解できるのです。これが三位一体の教理です。三位一体は歴代の数多くの教会が聖書の記録を総合的に理解し、教理として整理したものです。 子どもが親のこころを全て理解できないように、人間は神様のことを全て理解する事はできません。しかしそのような私たちが聖書を通して思い描ける神の姿が、三位一体なのです。 <三位一体の間違った理解> ①三神論 元々三人の神がいると主張します。この三人の神が一つの意思で一致して、まるで一人のように私たちに現れると説明します。 ②単一神論 神は一人ですが、三人のようにただ見えているだけに過ぎないという主張です。旧約でヤハウェの神として、新約ではイエスキリストとして、五旬節以降は聖霊として一人三役のように姿をかえて現れたという主張です。 この考え方は、家では父親、会社では部長、教会では執事のように例えることができます。あるいは私たちが一つの事物を多様な観点で見るように、神様は実際は1人だが、私たちが見る観点によって変わるというのです。 ほかにもこんな例えがあります。 りんごは芯と種と果肉三種類からなっています。一つのりんごであることは確かですが、私たちの観点によって芯であり種であり果肉として見ることができます。 太陽もそれ自体とそこから出る光と熱があります。このように3つの観点から見ることができるというわけです。 3 三位一体の意義 ここまで三位一体について見てきましたが、実のところ三位一体という言葉は聖書にはありません。しかしこの教理は私たちが神様を理解する上で大きな助けとなります。実際この教理は教会の歴史の初期にあらわれた間違いを正してきました。そしてその後も三位一体は大原則であり現代まで数々の異端から本当の知識を守り、真実と嘘とを区別するパラメーターとなってきたのです。三位一体の教理から外れてしまうと、キリスト教とは言えません。それほどに三位一体の教理は核心的なものだと言えます。 神様が私たちの水準まで下ってきて、教えてくださった御自身の姿、それが三位一体です。 この神様の愛と配慮に感謝し、もっと神様をたたえる者とされたいと思います。

イエス様との出会いは人を変える

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書4章16~29節 タイトル:イエス様との出会いは人を変える 前回からサマリヤの女がイエス様と出会う場面を見ています。 この人は、過去に5回結婚し、5回離婚した人でした。 また、この人は現在夫がいませんが、一緒に住んでいる男の人がいました。 こういう背景が彼女にはあって、周りの人たちとはあまりうまくいっていなかったようです。 だからわざわざ井戸に人がいない時間帯を選んで来ていたのではないでしょうか。 この日も太陽が一番高く昇る昼の12時頃にやってきました。 この人の最初の目的は水を汲むことでした。 目に見える水、実際に自分の肉体に水分を供給することができる水を求めてやってきました。 しかしそこで思いがけない方と出会います。 それがイエス様でした。 彼女は最初イエス様と対話しても何を言っているのか、わからなかったようです。 イエス様が生ける水、永遠の命の水のお話をしても、ただ水と言われたから目に見える水のことだと思ったようです。 だから彼女はイエス様の話を聞いて言いました。 「もうこの井戸に汲みにこなくて良いように、その生ける水を下さい。」 言葉そのままに受け取っていました。 ① 命の水とは何か? ではこの命の水とは一体何のことなのでしょうか。 “さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。” ヨハネの福音書 7章37~39節 イエス様はこの箇所で、サマリヤの女性に言われた言葉と同じような言葉を語られた後に、ご自身が与えられる水のことを説明しています。 この水の正体は何なのでしょうか。 39節に記されています。 「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」 御霊のこと、すなわち聖霊のことです。 聖霊は物質ではありません。 聖霊は目に見えません。 聖霊はイエスキリストの霊とも言われます。 聖霊は神様ご自身です。 この世界をつくり今も治めておられる神様は三位一体の神様です。 父なる神、御子イエスキリスト、そして聖霊です。 父と御子と聖霊がそれぞれ別々の位格を持っておられますが、それと同時に一体の方、同一の方です。 この真理は人には全て理解することはできません。 それは私たちが神に造られた存在であり、神が私たちの造り主だからです。 造られた者は、造った方を全て理解することができません。 より小さいものがより大きなものを理解する事はできません。 しかし神様の側から教えてくださった分だけ私たちは知ることができます。 この神様の側から教えてくださった分とは何か。 それが聖書です。 そして聖書に記されている神様のことを総合的に整理して言い表すと三位一体となるのです。 この三位一体の神がこの世界に降って来てくださいました。 それが御子イエスキリストです。 そしてこのイエスキリストが命の水すなわち聖霊を与えてくれるのです。 コリント人への手紙 第一 12章3節には”‥聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”とあります。 私たちのうちに聖霊がのぞみ、私たちの内に内住してくださる時に初めてイエスは主ですということができるのです。 聖霊は私たちに信仰をくれます。 聖書の言葉を神の言葉と信じる信仰。 2000年前に生まれ30歳前半で当時最も恐れられた十字架刑に処せられたユダヤ人を救世主と信じる信仰。 殺されたにも関わらず三日目によみがえられ、今も生きておられる方だと信じる信仰。…

渇きを潤す命の水

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書4章3〜19節 タイトル:渇きを潤す命の水 3,主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 4,しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。 5,それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。 6,そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。 7,ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 8,弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 9,そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」--ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである-- 10,イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 11,彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 12,あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 13,イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 14,しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 15,女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 16,イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17,女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 18,あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」 19,女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。 今日はヨハネの福音書を共に見ていきます。 3、4節を見るとわかりますように、イエスキリストがガリラヤへと行く途中のお話です。 イエス様がおられたユダヤ地方は南の方にありガリラヤは北にあります。 サマリヤはこの二つの地方の間に位置していました。 だからユダヤからガリラヤに行くにしても、ガリラヤからユダに行くにしても、サマリヤを通っていくのが近道でした。 しかしユダヤ人はサマリヤを通って行きませんでした。 なぜならユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったからです。 ユダヤ人はガリラヤへ行く時、サマリヤを迂回して行っていました。 仲が悪かったのは、ユダの人々は外国人と血が混ざっていない純粋なユダヤ人で、サマリヤ人は混血の人たちが暮らす地域だったからです。サマリヤの地域は昔アッシリヤ帝国に攻め落とされた時から多くの外国人が暮らしイスラエルの民との混血が多く生まれました。 ユダヤ人は他の民族の血が混ざることを非常に嫌います。 それでこの時からユダとサマリヤの関係は悪くなっていきました。 そしてさらにこの悪化した関係に拍車をかけたのが、神殿の問題でした。 ユダヤ人たちにとって神殿はエルサレムにあるものが唯一でした。 しかしサマリヤの人びとは、ゲリジム山も先祖にゆかりがある山だからという理由でそこに神殿を作ってしまいました。 これ以降さらにユダとサマリヤの関係は悪くなってしまいました。 だからユダヤ人としてこの世に来られたイエス様がサマリヤを通ることは他のユダヤ人から見ると非常に奇妙なことでした。 きっとイエス様の弟子たちも大変驚いたことでしょう。 そのことを前提にして今日は共に見ていただければと思います。 1   6節に「第6時」とありますが、これは私たちの時間に直すと昼の12時ごろを指します。 昼12時ごろといえば一番太陽が高く昇る時間帯です。 そんな時間帯にサマリヤの女性が一人やってきました。 この地方の人々は井戸で水を汲むのに普通こんな暑い時間帯にはやってきません。 もっと涼しい時間帯を選んで来ます。 しかしこの女性は暑い時間帯にやって来ました。 どうしてこの女性はこの時間帯にやって来たのでしょうか。 それには理由がありました。 “女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」” ヨハネの福音書 4章17~18節 この女性が言っている言葉とイエスさまの言葉を合わせて考えると、この女性は過去に5回結婚したことがあるということです。しかし5回とも別れてしまい、今一緒に暮らしている男の人とは結婚もしていない状況だということがわかります。 現代では再婚はめずらしくありませんが、この当時は珍しいことでしたし、あまり良いようには見られませんでした。それが5回ともなればなおさらです。しかも今一緒に住んでいる人とは結婚すらしていないのです。周りの人たちからは後ろ指をさされながら生きていたのではないでしょうか。だからこの女性は人と顔を合わせるのが嫌だったのだろうと思います。 彼女には一番暑い時間帯に井戸にこなくてはいけない理由があったのです。 彼女は一人でこの井戸までやってきました。…

隣人とは誰のことですか

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書10章25~37節 タイトル:隣人とは誰のことですか 今日の聖書箇所は律法の専門家がイエスを試そうとして立ち上がり質問をぶつける場面からです。 “すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」” ルカの福音書 10章25節 ここで律法の専門家は永遠のいのちを受けるには何をしたら良いですかとたずねています。これは「神の国に入る」にはどうしたら良いですかという意味ですが、彼らの「律法を行うことによる救い」という思想から出た問いです。 イエス様はこれに対して律法には何と書いてありますかと尋ねます。 すると律法学者は『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と書いてありますと答えました。 イエス様はそれを聞いて「それを実行しなさい」と言われました。 律法学者はイエス様が「それを実行しなさい」と言われると、自分の正しさを証明しようとして、隣人とは誰のことですかと質問します。 「自分の正しさを証明しようとして」と記されていますので、彼は自分で自分のことを正しいものだと思っていたということです。 神を愛し、隣人を愛する人間だと思っていたということです。 しかしそんな彼に対して、それを実行しなさいとイエス様が言われたことで、自分はそれが出来ていないと判断されたと思ったわけです。 だから彼はまた質問を重ねます。では私の隣人とは誰のことですかと。 私が思う隣人には愛を注いでいます。 神を愛し、隣人を自分自身のように愛することを私はしていますと言いたいのです。 そこでイエス様が例えで話されたのが、良いサマリヤ人のお話です。 “イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」” ルカの福音書 10章30~37節 この例え話を解釈する一つの方法として、律法の専門家と祭司やレビ人の関係に着目する方法があります。 律法の専門家の代表的な群はパリサイ派です。 彼らは律法を日々研究してそれを実行することに重きをおいて暮らしていました。 一方祭司というのはサドカイ派から選ばれます。 サドカイ派とは神殿管理をしていた人たちで、イスラエルを植民地支配していたローマにすり寄って信仰よりも政治的なことに心を向けていた人たちのことです。 律法の専門家にしてみると、サドカイ派は同じ神を信じてはいますが、自分たちとは違う群れという認識です。 そんなサドカイ派の祭司が、倒れていた人のもとに最初にやってくるという設定なのです。 だからこの時、祭司が何もせずに通り過ぎたとしても何の不思議も感じなかったはずです。むしろ当然だとおもったことでしょう。律法を守ることよりも政治的なことに心を向けている人たちには到底出来ないことだと判断したかもしれません。 その次にやってきたレビ人も神殿に仕える人なので、サドカイ派の側につく人たちです。だから倒れている人の横を通り過ぎても何ら不思議に思うことはありません。 そして彼は最後に登場する人こそ倒れた人を助けてやるだろうと思いつつ、そしてそれは律法の専門家であろうと思いながら、3番目の人の登場を待ちました。 律法の専門家はきっとこう思ったでしょう。 「サドカイ派はダメだったけど、パリサイ派は大丈夫だ。最後に出てくるのはパリサイ派で、その人が倒れた人を助けてあげるはずだ。」 しかし出てきたのはパリサイ派ではありませんでした。 ユダヤ人ですらありませんでした。 なんとユダヤ人が忌み嫌っていたサマリヤ人でした。 彼らは外国人との混血で、エルサレムで礼拝も守らずゲリジム山というところで勝手に礼拝し、聖書もモーセ5書しか信じていない人たちでした。 ユダヤ人から見ると、サマリヤ人は異端の人たちです。 パリサイ派が来て助けると思ったのに、異端のサマリヤ人が来るのかと驚いたことでしょう。しかもそのサマリヤ人はとても手厚い介抱をしました。旅の途中なのにお互いに忌み嫌っているはずのユダヤ人を助けたのです。 そうしてイエス様と律法の専門家は最後に次のようなやりとりをします。 “この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」” ルカの福音書 10章36~37節 イエスさまはこの律法の専門家が、自分は神を愛し人を愛することができていると思って話していることがわかったのでしょう。 だから本当に神を愛し隣人を愛するということがどういうことなのかを教えました。 この律法の専門家はある種の柵を作ってその柵の中にいる人だけを愛せば良いと考えていました。そして間違いなくその柵の中にサマリヤ人はいませんでした。彼にとって愛すべき人ではない存在、それがサマリヤ人だったのです。そして同時にサマリヤ人にとっても自分たちは愛すべき存在ではないと思っていたのではないでしょうか。 それなのに、そう思っているはずのサマリヤ人がやってきて、ユダヤ人を手厚く看病して最後まで責任を取ろうとするのです。そうしてイエス様に「あなたも同じようにしなさい」と言われてしまうのです。 彼は思ったことでしょう。「そんなこと到底無理だ」と。 そしてそれこそイエス様が知って欲しいことだったのではないでしょうか。…

この町にはわたしの民がたくさんいる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き18章1〜17節 タイトル:この町にはわたしの民がたくさんいる 本日は久しぶりに使徒の働きに戻ってメッセージをしたいと思います。 前回使徒の働きを共に開いたときは、17章の後半を見ました。 そこにはアテネでの宣教について記されていました。 パウロはアテネを離れると、今度はコリントへとやってきました。 コリント人への手紙というのが新約聖書に二つ納められています。 今日の聖書は、将来これらの手紙を受け取る人たちとの出会いの場面を扱っているところです。 まず今日の聖書の使徒の働き18章1節を見ますと、そこにはこう書いてありました。 「パウロはアテネを去って、コリントへ行った。」 さらっとここには書いてありますが、コリントという町は非常に特徴のある町でした。 文化、建築、芸術などの中心地と言っても良いところで、アカヤ州の首都でした。 東西の海路、そして南北の陸路をつなぐ重要都市です。 非常に商業に有利な町でした。 またこの町の近くではイストミアという競技が3年ごとに行われていたようで、若者が美しさと力を競い合っていました。 裏山にはアフロディーテ神殿があり、そこには神殿娼婦が千人もいたと言われています。 ですからコリントといえば性的腐敗の町だという常識がありました。 古典ギリシャ語において「コリントの娘」という言葉は売春婦を意味したほどです。 このようにアテネとは違う難しさがこのコリントにはあったようです。 コリントは性的堕落と偶像崇拝、物質主義に満たされた町でした。 そんな町にパウロはなんと一年半もの間留まり続けることになるのです。 さて彼はどうしてそんなに長期の間コリントにとどまることになったのでしょうか。 1 アクラとプリスキラとの出会い 2節を読みます。 “ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、” 使徒の働き 18章2節 ⑴アクラとプリスキラという人は、もともとローマで暮らしていたようです。 しかし皇帝クラウデオが全てのユダヤ人はローマから出ろと命じ、彼らはそこからローマにいられなくなりました。 それでコリントまでやってきたわけです。 そんな彼らとパウロはここで出会います。 アクラとプリスキラはローマから追い出されてコリントまでやってきたました。 そしてパウロもマケドニア州では多くの町で弾かれて迫害から逃れてここまでやってきました。 いわば自分の意志に反して、居場所を追われた者たち同士がここで出会ったのです。 この出会いは神さまのご計画によるものでした。 人には偶然に見えるかもしれません。 何でもない、ありふれた出会いのように見えるのかもしれません。 しかしそこには明確に神の御手が働いています。 この出会いを出発点にして後のコリントの教会が建てられていくのです。 ⑵初めて出会った日から少し時間を置いてでしょうけども、パウロの方から彼らに近づき、そして一緒に仕事をしたいと申し出たようです。 “自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。” 使徒の働き 18章3節 パウロはユダヤ教のラビ学を修めるかたわらで、天幕づくりの技術も身につけていたようです。 それでちょうどアクラたちも天幕づくりをしているということで、彼らと同居して同じ仕事に従事しました。 平日は天幕づくりをし、当時の安息日の土曜日には会堂に行ってユダヤ人とギリシャ人に福音を説き聞かせたようです。 これは4節に記されている通りです。 “パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。” 使徒の働き 18章4節 2 シラスとテモテとの合流 ただこのダブルワークとも言える生活をずっとしていたわけではなくて、5節にありますように、マケドニアからシラスとテモテがやってくると、御言葉を教えることに専念するようになります。 シラスとテモテが来るとなぜパウロはみことばだけに専念できるのか、他の仕事をしなくて良いのかに対する答えとして、シラスとテモテが代わりに労働に従事して生活を支えたからだと考えることもできますが、第二コリント11章8〜9節を根拠として他教会(おそらくピリピ教会)からの献金が届けられたからではないかと考えることもできます。 “私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。” コリント人への手紙 第二 11章8~9節…

信仰シリーズ⑤ 主に従うとは

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マルコの福音書 8章27~38節 タイトル:信仰シリーズ⑤  主に従うとは 先週のメッセージの中で、信仰とは信じるという一時的な感情のことではなく、福音に関する知識とそれに対する同意と、信頼であり、それは主に従う生き方として現れるものだというお話をしました。 今日はこの従うとはどういうことなのかを御言葉を通して考えてみたいと思います。 1  あなたは、キリストです 今日のお話は、イエスさまが弟子たちとともにピリポ・カイザリヤへ行く道の途中の出来事です。 イエスさまは弟子たちにたずねました。 「人々は私を誰だと言っていますか。」 すると彼らは「バプテスマのヨハネという人や、エリヤだという人、それから預言者の一人だという人がいます」と答えました。 人々は、イエスさまの働きと御言葉を通して普通の人ではないと思っていたようです。 しかしそうは言っても、救いをもたらす存在とまでは思っていなかったようです。 次にイエスさまは言われました。 「あなた方は私を誰だと言うか。」 この箇所をギリシャ語聖書で見ると、「あなた方は」という言葉が強調されていますので、人々はそう言っているのはわかったけど、あなた方は違うだろうというニュアンスでたずねておられることが分かります。 この質問は弟子たちに向けられたものでしたが、ペテロが代表して答えました。 「あなたは、キリストです。」 キリストとは、ヘブライ語でメシアのことです。 メシアとは、油注がれた者という意味で、神からの特別な任務と、その任務のための力を与えられたことを意味します。 旧約聖書では、王や祭司や預言者に油が注がれました。 ペテロがイエスさまをキリストと告白したということは、神が特別に送られた方だと信じたということを意味します。 また、原文のギリシャ語聖書を見ると、キリストという単語の前に「その」を意味する冠詞がついていますので、神がわたしたちを救うためにメシアを送るという旧約で預言された、「その」メシアがイエスさまだという意味になります。 わたしたちの先祖の代からずっと待っていた救世主、それこそあなたですというペテロの信仰告白なのです。 しかしこのキリストだという告白はまだ不完全なものでした。 なぜならキリストがどのように救ってくれるかというところまではペテロたちが知らなかったからです。 だからイエス様はここで誰にも言わないようにしなさいと言われました。 そしてペテロたちに不足していたキリストに関する理解を与えようとされています。 それが31節の内容です。 2 苦しみ、殺され、三日後によみがえる “それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。” マルコの福音書 8章31節 ここではイエスさまが苦難を受け、殺され、三日目によみがえることが語られています。 しかしペテロをはじめ弟子たちには、苦難を受けて殺されるというところしか聞こえていないように見えます。あまりにも衝撃的な発言だったのでしょう。 それでペテロはイエスさまをわざわざわきまでお連れして、いさめました。 彼がここまでした理由は、当時の弟子と師匠の関係にあります。 当時弟子は師匠がいくところどこにでもついて回りました。教えられる内容もそのまま暗記し、生活の仕方、行動、それら全てに習って同じようにしたのです 師匠が苦難を受けて死ぬということは、その師匠に従っていく弟子も死ななければいけないということを意味します。 ペテロたちは、キリストが苦難を受けて死ななければいけない存在だということまでは知りません。 当時のメシア観というのは、世の力を持った王であり、ローマからイスラエルを救う存在でした。 ペテロたちはそのメシアとしてイエスさまを見ており、だからこそ弟子となったのです。 しかし彼らの思惑とは大きく異なり、イエスさまは苦しめられて死ななくてはいけないというのです。 それでペテロはイエスさまをいさめたのです。 しかしイエスさまはそんなペテロを逆に叱って言われました。 「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 イエスさまをいさめるなんて、よくこんなことをするなとクリスチャンは思うのかもしれません。自分だったらきっとしないと。 ただ考えてみると、この叱責の言葉は、現代を生きるわたしたちにも向けられているのかもしれません。 イエスさまを信じていると言いながらも、神のことではなく人のこと、自分のことを考えて生きているなら、私たちにも向けられた言葉と言えるのではないでしょうか。 わたしたちは何を思って生きているでしょうか。どれだけ神のことを思って生きているでしょうか。どれだけ人のことに縛られて生きているでしょうか。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」という声が聞こえてこないでしょうか。 3 自分をすて、十字架を負う さらにイエスさまはこれらの言葉に加えて語られます。 “それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。”…

信仰シリーズ④ 主に信頼し従う

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書 5章1~11節 タイトル:信仰シリーズ④ 主に信頼し従う “群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。” ルカの福音書 5章1~11節 今回で信仰シリーズは第4回目になります。 タイトルは、「主に信頼し従う」です。 先週は信仰の要素についてお話ししました。 これまでキリスト教会は信仰を三つの要素からなると考えてきました。 一つ目は知識、二つ目は同意、三つ目は信頼です。 信仰は「信じます」という感情のことではありません。 信仰は福音に関する知識、すなわち聖書の御言葉と、それに対する心からの同意と、それに信頼して人生全てを主に委ねることです。 今日共に読んだ聖書には全てを捨てて主に従った人が登場しました。 私たちがよく知るペテロです。ここではシモンとなっています。 今日は彼がイエスキリストに召し出された時のお話なのですが、ここに信仰とは何かを考えさてくれることがあります。 1  ストーリーの確認 イエスさまはガリラヤ湖とも呼ばれるゲネサレ湖の岸辺に立っていました。 するとイエスさまのもとに群衆が押し寄せてきました。 イエスさまは神様の教えを語っていたのですが、どんどん人が集まって押し寄せてくるので岸辺で語ることが難かしくなったようです。 湖のほうに二そうの舟をみつけ、その内の一方の舟に乗り込み持ち主のシモンに声をかけました。そして陸から少し漕ぎ出すように頼みました。 イエスさまは舟にすわって陸に向かって話の続きを語りはじめます。 イエスさまと群衆との間には水があるので、群衆と少し距離をとって話すことができるようになりました。 こうしてイエス様は神の教えを語り終えます。 すると、今度は一緒に舟に乗っているシモンに語りはじめました。 「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚をとりなさい。」 するとシモンが言いました。 「先生。わたしたちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり網をおろしてみます。」 彼はそういうとイエスさまの言葉どおりに沖に漕ぎ出して網を下ろしました。 すると、たくさんの魚が入って、網がやぶれそうになるほどでした。 シモンはこの後、「主よ。わたしから離れてください。わたしは罪深い人間です。」と言います。 イエスが何者であるかについて変化が起こっていますが、それと同時に自分の罪深い姿をシモンは思い知らされています。 彼はここでイエスに出会っているのです。 人は自分の罪の深さを知ってそこでイエスと出会います。 イエスの御言葉とその御業を目の当たりにしたシモンに対して、イエスはさらに語りかけました。 「あなたは人間をとるものとなるのです。」 こうしてシモンもその仲間も、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従いました。 2  このストーリーからわかる信仰とは このシモンの召命の場面はイエスを主と信じること、救い主と信じることがどういうことなのかを見せてくれるところです。 シモンが捨てた「なにもかも」の中には、シモンがこれまで使っていた舟や網などの漁の道具や、その道具で稼いで養っていたであろう人たちなど、すべてのものが含まれると思います。 それらはこれまでのシモンの人生そのものでした。 またこれからのシモンの人生の計画のもとになるものでした。 しかしこれら全てを捨てて、イエスキリストに従ったのです。 私たちに置き換えるなら、私たち自身の人生、私たちの人生に対する計画のこととも言えるのではないでしょうか。…

信仰シリーズ③ 信仰の三要素

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙4章16~22節  タイトル:信仰シリーズ③ 信仰の三要素 今朝も信仰について共に聖書から聴いていきます。 今回は信仰シリーズ第3回目です。 これまで信仰について共に考えてきましたが、今日もまた繰り返しお話したいのが、信仰がキリストとわたしたちをつなぐ管の役割を果たしているということです。 聖書の中で「キリストにあって」とか「キリストの中で」という時には、キリストとの結合を思い出してください。そしてその結合の役割を担っているのが信仰です。 キリストとみなさんの間に信仰という管があるイメージを持っていただけたら良いと思います。 この管があることによりキリストのものが全て私たちのものになるのです。 この管を通ってキリストの義は私たちのものになりました。 これが信仰によって義と認められるということです。 1 アブラハム 今日の聖書は信仰によって義と認められること、つまり義認の具体例の箇所です。 旧約聖書に登場したアブラハムの話をしながら、義と認められるとは一体どういうことなのかをパウロは説明していきます。 “そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。” ローマ人への手紙 4章16節 この御言葉を読むと信仰というものが恵みと密接不可分であることがわかります。 信仰は私たちの熱心や努力で得られるものではありません。 ただ神の恵みによって与えられるものです。 無償の贈り物として与えられるものです。 アブラハムは決して他の人たちとは違う何か特別な人だったわけではありません。 私たちと全く同じように、罪人でした。 自分自身を救う力のないものでした。 律法の行いでは救われないものでした。 しかしながら憐み豊かな神が恵みを注ぎ彼に信仰を与えました。 律法の行いとは全く違う方法として与えられた信仰によって救われました。 それで彼は神を信じ神はご自身が与えた信仰によってアブラハムを義と認めたのです。 2 信仰とは ではここで信仰とは一体何なのか、もう一度考えてみましょう。 別の言葉で表現するなら、信仰を構成している要素は一体何かということです。 教会はこれまで信仰には次のような要素があると考えてきました。 知識と同意と信頼です。 ⑴まず知識についてお話しします。 “そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。” ローマ人への手紙 10章17節 このように、信仰は聖書の言葉を基礎にしています。 信仰と知識すなわち聖書の御言葉は斬っても切り離せません。 そしてこの聖書は福音について書かれた本です。 ですから信仰の構成要素には、福音に関する知識が含まれるということです。 福音とは何だったでしょうか。 神がわたしたち人間とこの世界全てをつくられ、永遠に治められる方だということ。 わたしたちが神との約束を破って罪に堕ちたこと。 罪人となったわたしたちの身代わりになるためにイエスキリストがこの世界に下ってきてくださったこと。 わたしたちの代わりに神に完全に従う歩みをされたこと。 その絶頂として十字架にかかられ死なれたこと。 これによってわたしたちの罪はゆるされたこと。 しかしイエスキリストは三日目によみがえられたこと。 彼のよみがえりの命によってわたしたちは新しい命に生かされるものになったこと。 その後天にのぼられたが、いつの日か神が決められた時に、もう一度イエスキリストが来られること。 その時こそ神の国が完成しわたしたちクリスチャンは栄光の体にかえられてその国へと導き入れられていくこと。 概略を申し上げるとこのようなことですが、この福音を聞いて、福音が記されている聖書を読んで、福音に関する知識を得ること、これが三要素のうちの一つ目です。 ⑵二つ目は、福音を聞いたならば、その内容に同意し確信することです。 どれだけ知識を得て頭で理解しても、その内容に同意し確信しなければ信仰とは言えません。…