福音シリーズ③ 罪の起源と現在

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:創世記 3章1~6節 タイトル: 福音シリーズ③ 罪の起源と現在 “さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。” 数週間前から2回ほど福音についてメッセージさせていただいています。 今回も福音についてですが、特に罪の起源と現代の私たちへの影響についてお話ししたいと思います。 1  罪の本質 今日の聖書はアダムとエバが罪を犯す場面です。 罪と言いましても、木の実を食べるという外形にだけ注目すると、さほど悪いことではないように思います。 なぜこれが罪の始まりと言えるのでしょうか。 この問題の本質は神が「とって食べてはいけない」と言われたにもかかわらず、それを食べたことです。 神が与えたルールを破ったことが問題でした。 神への不従順です。 不従順の裏には、神の御言葉への不信と自分が神になろうとする自己主張と傲慢があります。これこそ罪の始まりなのです。 創造主から独立して自分の力で生きようとしました。 自分の思い通りに願い通りに生きようとしたということです。 2  アダムとエバの決断の過程 ではどのようにして人は神の言葉に従わない決断をしたのでしょうか。 まず蛇がエバに言いました。 「あなたがたは園のどの木からも食べてはならないと神は本当に言われたのですか。」 実際の神の言葉と比較してみましょう。 “神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」” 創世記 2章16~17節 神は「どの木からでも思いのまま食べて良いと」言われました。 全く神が言ったこととは正反対のことを蛇は言っています。 一見的外れな言葉のように見えます。 しかし後半部分を見るとここが蛇の狙いだったのではないでしょうか。 「神は本当に言ったのか」と、神が言った言葉に疑問を持たせようとしているようです。 神の言葉に対する疑いの入り口へと誘う蛇の策略が見えるところです。 「本当にそのように言ったのですか。もう一度考えてみてください。」 これが蛇が言いたかったことです。 これに対しエバは言いました。 「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。」 これも実際の神の言葉と比較してみましょう。 ‥「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」(創世記2章16節) 同じでしょうか。違うでしょうか。 神は人に対して自由を与えてくれています。 園のどの木からでも「思いのまま」食べて良いと。 しかしエバの言葉からは「思いのまま」という言葉は抜け落ちてしまっています。 神は自由をめいいっぱい与えてくれています。その上で限定を加えています。 しかしエバはあたかも縛られているかのように言うのです。 比較するとそれがより際立ちます。 これは神の言葉の歪曲です。 罪は今でもこのようにして行われます。 神の言葉に疑問を抱きさらにそれをねじ曲げて神に敵対します。…

バラバラの人々を一つに

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き2章1〜4節 タイトル: バラバラの人々を一つに キリスト教の行事には三大祝祭日というものがあります。 一つはクリスマスで、イエス様がこの地にこられたことを記念する祝祭です。 二つ目はイースターで、イエス様が復活されたことを記念する祝祭です。 そして三つ目がペンテコステです。これは聖霊が降臨されたことを記念する祝祭です。 ペンテコステはギリシャ語で50という意味があります。 イエス様の復活から50日目に聖霊が臨まれたことから、聖霊が降臨された日を50日(ペンテコステ)と呼ぶようになりました。 今日はその聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝です。 今日共に見ていく聖書はその聖霊を神がこの地に送られた場面です。 1 聖霊を待っていた弟子たち 神は弟子たちに約束どおり聖霊を送られました。 この日弟子たちは一つのところに集まっていました。 彼らはイエス様の言葉を忠実に守っていました。 使徒の働き1章3、4節にはこう書いてあります。 「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じされた。エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」 イエス様は復活されて40日間、弟子達の前に現れました。そして天にのぼられました。 聖霊が臨んだのはイエス様の復活の50日後です。 この日に、かつてなかったような聖霊の注ぎがありました。 これ以前もこれ以後も同じ出来事はありませんでした。 弟子たちにとってエルサレムは居心地の良いところではありません。 イエス様が処刑された場所だからです。 復活のイエス様が共におられるときは心強かったでしょうが、天に昇られて10日間は弟子たちだけで生きていたことになります。 もちろんその間も神が守ってくださっていたのは間違いありませんが、それでも弟子たちの側からすると不安になっても仕方がない状況でした。 イエス様が殺されてからまだたった一月しか経っていません。 イエス様を十字架にかけた勢力はまだ健在です。 弟子たちは完全アウエーの中にいました。 しかしエルサレムで待てというイエス様の言葉通りに彼らはエルサレムで待っていました。 そんな彼らに聖霊がいよいよ降る日がやってきます。 2  聖霊降臨 “すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。” 使徒の働き 2章2節 ここには「 天から、突然激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。」とあります。 実際に風が吹いたのではなく、風が吹いたような音がしました。 ヨハネの福音書3章8節でイエス様がこんなことを言っています。 「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 御霊、つまり聖霊を描写するときにイエス様は風を使って説明されました。 ヘブライ語で霊を意味する「ルーアッハ」רוּחַは、「霊」の他に「風」(wind)や「息」(breath)と訳すことができます。 ヘブライ語を使う弟子たちの中では、霊、風、吹くという言葉はセットだったのではないでしょうか。 だから風が吹く音を弟子たちが聞いた時、約束の聖霊が降ったのだと分かったと思うのです。 そしてその音は彼らのいた家全体に響き渡りました。 “また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。” 使徒の働き 2章3節 ここには「炎のような舌が分かれて現れて、一人ひとりの上にとどまった。」とあります。 ここでまず注目していただきたいのは炎です。 聖書で炎や火というのは神の臨在を意味します。 モーセに主が現れたのは柴の中の炎の中でした。(出3:2)  創世記15章でアブラムと契約を結ばれたときも、割いた動物の間を通ったのが、燃えているたいまつでした。(創15章) 炎は神の臨在を象徴するものです。 だから弟子たちは神が来られたと分かったのでしょう。…

神さまとのアイコンタクト

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇13篇 タイトル: 神さまとのアイコンタクト 今回緊急事態宣言が解除されましたが、以前のように何も気にせず対面で話せるようになるまでには一体どれだけの時間がかかるのでしょうか。先が不透明すぎて全く見えません。 わたしたちは自粛期間中も、またそれがあけた今も、これまで味わったことのない種類のストレスに見舞われています。これが通常時にすでにかかっていたストレスの上にさらにのしかかってきているのが今の状況と言えるでしょう。 苦しい期間が長く続くと「いつまでなのか」という疑問が湧いてきます。 今日の聖書詩篇13篇もそんな言葉で始まります。 しかも最初の1節2節で4回も「いつまでですか」とダビデは言います。 著者のダビデの心のうちでは何度も何度も「いつまでですか」という質問が繰り返されていたようです。 私たちが置かれている現在の状況に関しても、「いつまでだろうか」という疑問が湧いてきます。 またおそらくこれまでも、いつまでこんな苦しい状況が続くのだろうかと思ったことは何度もあったと思います。 そしてこれからも同じようにこの質問は繰り返されていくことでしょう。 この世界で生きるということはそういうことなのかもしれません。 しかし私たちには常に希望があります。 私たちの「いつまでこの苦しみは続くのか」という疑問は、決して自問自答ではないのです。 常にこれを受け止めてくれる方が共におられるのです。 この世界をつくり、今も統べ治めておられる神が、この私たちの疑問を受け止めてくださいます。 あまりにも苦しくて神に祈ることもできないという時ですら聖霊が私たちと共におられるので、父なる神へとその思いを確実に伝えて下さいます。 今日共にみる詩篇の著者であるダビデも苦しみの只中にある時に、全て言葉に変えて祈っていたかはわかりません。 振り返ってみるとわたしはこのように祈っていたようだ。 あるいは心の中で呻いていたが、あれを言葉にするとこういう祈りだったのだろう。 そのように思い返してこの歌を書いたかもしれません。 これらのことを念頭に置きながら共に詩篇13篇を見ていきましょう。 1  絶望から希望へ “主よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。” 詩篇 13篇1節 この詩篇の作者であるダビデは何か大変な苦難の中を歩いていたようです。 これがサウル王に命を狙われていた時期をうたったものなのか、あるいは他の時期のものなのかは定かではありませんが、確かに彼はこの時苦難の中にいました。 「主よいつまでですか」と言っていますが、彼は先が全く見えない霧の中を彷徨い歩きながら、この時がいつ終わるのかと主に叫んでいるようです。 「いつまでですか」と言っていることからもわかるように、ダビデのこの苦しみは相当な期間に及んでいたようです。「早く終わってほしい、早く解放されたい。」そんなダビデの心の声も聞こえてきそうな言葉です。 またダビデは今自分が神に忘れられていると語ったり、神が自分を見てくれていないと言います。 これはどちらも神に見捨てられたという思いを表現している言葉です。 わたしたちも様々な苦難に押さえつけられて、神の助けの印を一つも見つけられないような時、神は私を見捨てられたのではないか。私にはあまり関心がないのではないか。そういう思いが忍び込んでくることがあるのではないでしょうか。 ダビデもこの時苦難の中にあって、神が助けてくださっていることを全く実感できない状態でした。 しかしそんな絶望的なスタートをきるこの詩篇13篇ですが、結論部分をみると、「わたしは主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」となっています。 あしらわれるとは、応対されるということです。 この絶望的な言葉から始まる歌が最終的に行き着く先は、神が豊かに応対してくれたという感激の賛美なのです。 これは私たちにとって大変大きな慰めになります。 いつ終わるともしれない霧の中を歩いているように今もし感じておられたとしても、その不安の中で苦しんでいたとしても、神に見捨てられたと思っているとしても、そんな私たちの行き着く先は神への感謝の賛美なのです。 2  誰もわかってくれない? “いつまで私は自分のたましいのうちで思いはからなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上に勝ちおごるのでしょう。” 詩篇 13篇2節 思いはかるとありますが、思い悩む(新改訳2017)ということです。 ダビデは思い悩んでいました。自分のたましいのうちで思い悩んでいました。 自分のたましいの内なので他者は誰も知りません。 思い悩み、主よいつまでですかと叫び続けていますが、それも知りません。 全くの孤独の中をダビデは一人歩んでいるのでしょう。 しかもその悩みは途絶えることがありません。 「一日中」続いています。 そしてそのこともまた誰も知らないのです。 みなさんはこれまで生きてきて最も孤独だった時はいつでしょうか。 その時の経験はこの時のダビデの詩を理解させてくれるはずです。…

福音シリーズ② 十字架とその影

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヘブル人への手紙10章1〜14節 タイトル:福音シリーズ② 十字架とその影 先日39の県で緊急事態宣言が解除されました。 東京や大阪など9都道府県は解除されずに残りましたが、もうすぐ解除されそうです。多くの店舗や施設の休業要請は解除されました。 これから気をつけながらできる限り通常の生活に戻っていくことになります。 こうして刻一刻と私たちの周りの状況は変化していきます。 しかし私たちはその状況を注視しながらも、絶対に変わらないものに心を置いて生きていきたいと思います。 ということで今日も絶対に変わることのない福音についてお話しします。 先々週はコリント人への手紙第一15章から福音を聞くことと、それを受け入れることについてお話ししました。 今日はその内容について旧約聖書をなぞりながらお話ししたいと思います。 1  実体と影 “律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。” ヘブル人への手紙 10章1~4節 ここに登場する律法とは、祭儀律法のことです。祭司がどのように主に捧げ物をするのかが規定されていました。 しかしこれはあくまで影であり実体ではありません。 実体がなければ影は存在しません。 影は実体にくっついてそれを暗示的に映し出すに過ぎません。 このように律法は後にくる素晴らしいものを予期させるだけでそれ自体では人を救うことはできないものです。 どれだけ捧げ物をしてもその人は完全にはなれません。ただ年ごとに罪が思い出されるに過ぎません。雄牛とやぎの血は罪を除くことができないからです。 祭儀が影であるなら、実体はなんでしょうか。 それがイエスキリストです。 “ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」” ヘブル人への手紙 10章5~7節 ここに登場する聖書は旧約聖書のことです。 ここでは律法と言っても良いでしょう。 これが何について記されていたかというと、私についてだとイエスキリストが言うのです。律法はイエスキリストについて教えるものだったということです。 つまり旧約聖書を見てイエスキリストについて書かれたところを見れば、よりイエスキリストのことがわかるということができます。 眼鏡やコンタクトレンズの調整に行くと、変わったメガネをかけて少しずつ度数をあわして自分の目にあったレンズにしてくれます。 その時に使う眼鏡が少し特殊で、色々な度数のレンズを入れたり外したり重ねたりしながら視力検査の印に焦点が合うように調節してくれます。 これと同じように旧約聖書に書かれている数々のキリストの影は全てキリストに焦点を合わせるためのものです。 それらを見ていくと、キリストの十字架のイメージが豊かになりはっきり見えてきます。 そこで旧約に現れる主だった捧げ物について今日は共に見ていきたいと思います。 2 アダム、アベル、アブラハム ⑴ アダム “このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。” 創世記 3章7節 この箇所は神の前に罪を犯してしまったアダムとエバの姿が記されています。 最初彼らはイチジクの葉を綴り合わせて腰の覆いを作りましたが、神が見た時それはとても不十分だったようです。 そこで神は彼らのために皮の衣を作って着せてあげました。 “神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。” 創世記 3章21節 皮の衣はどのようにして作られたのでしょうか。 これは動物を殺し作られたものです。 神はあのエデンの園で、この世始まって以来の被造物を殺すという行動をとられたのです。そしてその皮を使ってアダムとエバに着せてあげたのです。 彼らの罪を動物が死んで血を流すことによって覆ったということです。 この時から罪の解決には身代わりの死が必要であることが示され始めました。…

第4問 神とはどんな方か

問: 神とは、どんなかたですか。 答: 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、真実において、無限、永遠、不変のかたです。 Q. 4. What is God? A. God is a Spirit, infinite, eternal, and unchangeable,  in his being, wisdom, power, holiness, justice, goodness, and truth.  第4問は神様が一体どんな方なのかという問いです。とても基本的な問いといえるかもしれませんが、答えは簡単ではありません。 英語の原文を見ると、特徴的なところがあります。それは質問がWhoではなくWhatと記されていることです。 神様が誰(Who) なのかということは、私たち人間には知ることができませんが、その属性が何(What)であるかについては、知ることができるからです。 「What is God?」  この質問に対して正しい回答をするにはどうすれば良いでしょうか。 それは第2問の核心部分である「神様が私たちに教えて下さればわかる。」というのが答えです。 一般的な科学や哲学でもって、ある存在を探求する知識とは根本的に種類が違うものなのです。 神様は私たち人間が分析して把握することのできる方ではありません。 私たちは有限の存在ですが、神様は無限です。有限は無限を知ることはできません。 今まで学んできた小教理問答第2~3問の流れをおさえた上で、これから見ていく第4~6問を見ていってください。 この知識は私たちの側から知ることはできず、神様が教えて下さるとき、その分だけ知ることができるものです。 そのような知識だということをまずおさえた上で続きを見ていきましょう。 第3問では聖書は神様のことについて語っているということを学びました。 つまり聖書を見れば神様が一体どんな方なのかがわかるということです。 したがって第4問の質問「神とはどんなかたですか。」の答えは聖書に記されているのです。 人は聖書を通して神様を知るのです。 聖書はその冒頭部分から神様を紹介しています。「 はじめに神は天と地とを創造された。 」 このように聖書は始まります。 「神様は霊であられ‥無限、永遠、不変の方です。」 何が無限で、永遠で、不変なのでしょうか?  神様の存在、知恵、権能、聖、義、慈愛、真実が無限、永遠、不変なのです。 この属性は人が持っているような簡単に変化してしまう軟弱な属性とは違います。 神様の属性は変わりません。これは後に学ぶ「神の聖定」と深くつながっているところです。 <神様についての多様な観念> 神様についての多様な観念はここでは大きく二つに分けてお話しします。 1つ目は神様をとても遠い方だと考えることで、2つ目は度を超えてとても親密なものと考えることです。…

毎日聖書を調べる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き17章10〜15節 タイトル: 毎日聖書を調べる 本日は久しぶりに使徒の働きを共に見ます。 前回どこまで進んだかといいますと、パウロ一行はテサロニケという町で宣教をしていました。 彼らは旧約聖書からイエスキリストの福音を説明し論証して教えました。 これにより幾人かはわかって信仰にはいりましたが、多くの人はこれに反発しパウロたちは大変激しい迫害を受けることとなりました。 おそらくこの町でキリストの弟子となったと思われるヤソンとほかの兄弟たちが捕まり保証金を払ってやっと解放されるような状況でした。 そこでテサロニケの兄弟たちはパウロとシラスを送り出します。 1 ベレヤでの宣教 “兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。” 使徒の働き 17章10節 祈りの中で行き先を示されて行ったというよりも、迫害が起こりその町の兄弟たちにも被害が及ぶという状況に押し出されるような形でベレヤへとやってきました。 テサロニケから西へ80キロのところにある町でした。 ここでもテサロニケの時と同様に旧約聖書の御言葉でもって宣教します。 するとこの町の人たちは非常に熱心に御言葉を聞き、毎日聖書を調べました。 “ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。” 使徒の働き 17章11節 「良い人たち」と記されていますが、素直な人たちとした方がよいところかもしれません。 新改訳聖書2017や口語訳聖書では素直な人たちとなっています。 しかし素直といっても、なんでも聞いて受け入れるという意味ではありません。 彼らはパウロから熱心に話を聞いて、その通りかどうか毎日聖書を調べていました。 最初から批判的な思いで聞くことも良くありませんが、全部鵜呑みにしてアーメンを連呼していてもいけません。 ここでいう素直さというのは、熱心に心を開いて聞くことと、その話が聖書とあっているかどうかを確認することの両方が備わっていることです。 こうしてベレヤの人々はイエスキリストのことを信じ受け入れました。(使徒の働き 17章12節) 2 苦難のマケドニア宣教 しかしこれで終わらないのが、パウロのマケドニア宣教です。 トロアスで一人のマケドニア人が「渡ってきて私たちを助けてください」と言っている幻を主の導きと信じてやってきたパウロでした。 しかしピリピでは鞭打たれて投獄され、テサロニケでも迫害にあい、今度はこのテサロニケの人たちが、わざわざベレヤまでやってきて騒ぎを起こすのです。 “ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。” 使徒の働き 17章13節 3 ベレヤからアテネへ “そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。” 使徒の働き 17章14~15節 ベレヤにシラスとテモテを残しパウロはアテネへと向かいました。 この時ベレヤから案内のために一緒にやってきた兄弟たちがいました。 ベレヤからアテネは約320キロあります。 だいたい大阪から広島までの距離です。 そんな距離をわざわざ一緒にやってきたのです。 そして到着するとシラスとテモテへの言付けをうけとって帰って行きました。 4  御言葉による宣教 テサロニケにおいても、ベレヤにおいても、パウロは一貫して聖書から語りました。 この聖書というのは旧約聖書のことですが、この旧約聖書に記されているメシアに関する言葉を引用し一つ一つ説明していったのだろうと思います。 結果テサロニケではあまり多くのクリスチャンは生まれませんでしたが、ベレヤでは多くのクリスチャンが生まれました。遠くアテネまでわざわざ案内してくれるほどのキリストの弟子となっていました。 今日特に注目したいのが、この御言葉によって宣教したというところです。 御言葉には命があります。力があります。 一見テサロニケの宣教は失敗してベレヤはまずまずだったように見えますが、そうではありません。 それが使徒の働きの続きを見ていくとわかります。 “プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、”…

福音シリーズ① 福音を聞き受け入れる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:コリント人への手紙15章1〜8節 タイトル:福音シリーズ① 福音を聞き受け入れる 緊急事態宣言が延長され礼拝もしばらくはこの形で捧げることになりそうです。 これから日本は、そして世界はどうなっていくのでしょうか。 こういう先の見えない状況の中、わたしたちは何を頼りにすれば良いのでしょうか。 数多くの情報がネットを飛び交っています。 自粛期間中スマフォを見る時間が増えたという方も多いのではないでしょうか。 こういう中でわたしたちは何を掴んで生きていけばよいのでしょうか。 エレミヤ書 2章13節にはこのような御言葉があります。 “わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。” 当時ユダの民は自分たちの先祖をエジプトから導き出しカナンに住まわせてくださった真実なる神を捨て、代わりに自分たちの願う偶像をたくさん作り拝んでいました。 真実なる神は命の水が湧き出る泉ですが、偶像は水を貯めることもできない、水が湧くことなんてありえないこわれた水ためです。 今の状況下でわたしたちは命の水が湧き出る泉を選んでいるでしょうか。 それとも自分たちの思うままこわれた水ためを作っているでしょうか。 これは神を頼りにしているか、それともそれ以外のものを頼りにしているかという問いです。 わたしたちは神を頼り生きるものでありたいです。 特にいつも心に留めていただきたいことは福音です。 これが今日の主題ですが、みなさんは福音と言われてどんなことをイメージされるでしょうか。 福音とは、全て信じる人々に救いを得させる神の力であり(ローマ1:16)、イエスキリストの十字架によって得られた結果が信じる人にすべて臨むことです(ローマ3:22)。 聖書には福音について書かれてある箇所がたくさんあります。 聖書の中心主題は福音だということができます。 福音はとてつもなく広い範囲を覆う主題だということができます。 今日はその中の一部を共に見ていきます。 1  福音をもう一度きく必要(1、2節) 今日の聖書のコリント人への手紙15章の背景として、復活はないという人々の存在があったことを知る必要があります。 彼らの主張の根拠は定かではありませんが、とにかく福音にとって欠かすことのできないはずの復活はないと言っていたのです。 それでパウロはもう一度ここで福音を語っています。 “兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。” コリント人への手紙 第一 15章1節 コリントの人々はすでに福音を受け取っていました。 しかしそんな彼らの信仰が揺れたのです。 それでパウロは「福音を知らせましょう」とここで言っています。 すでに福音を受け取った人もまた福音を聞く必要があるということです。 わたしたちはこの世界で生きている限り色々な言葉に惑わされる可能性のある存在です。時には信仰が揺らぐこともあります。 この世界は多くの選択肢をわたしたちに提供します。それがさも正しいことであるかのように振る舞いながら近づいてきます。 あれも良いしこれも良い。あなたの生活を豊かにするものはこんなに溢れていると私たちに迫ってきます。 しかしこれらはすべて下からの言葉だということを思いだしてください。 この世からの言葉(下からの言葉)によってわたしたちは平安を得ることはできません。 命の水はそこから湧くことはないのです。 少しの間の安心は手に入れられるかもしれませんが、そこには本当の平安はありません。 本当の平安は上からの言葉を受け取ってこそ得られるものです。 上からの言葉、神の御言葉、福音はクリスチャンになってからも何度も受け取るべきものです。 パウロはここで言っています。 「兄弟たち、私は今、あなた方に福音を告げ知らせましょう」 コリントの人々がそうであったように、私たちも何度も福音を聞く必要があります。 どのようにしてでしょうか。 それは聖書を通してです。 聖書は福音について書かれている本です。 この聖書によって福音を何度も聞くのです。 そうして再度福音を受け取り直していく。 これがわたしたちの信仰を成長させてくれます。…

墓は開かれた

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マタイの福音書28章1〜10節 タイトル: 墓は開かれた 私たちは平和な時代を過ごしてきました。 特に戦後、日本が復興し、大きく成長した後に生まれた私や私と同世代の方々にとって平和そのものだったと言えると思います。 大きな地震などはありましたが、それでも世界中がこれほどボロボロになるような出来事はありませんでした。 世界は大きく変わり始めているのかも知れません。 みなさんは現在の状況をどのように見ておられますか。 「もうすぐ終わる。言うてる間や。」と楽観的に考えておられるでしょうか。 それともこの状態がこれから何年も続くように感じていますか。 この災禍の中、さらに地震や食糧不足、そして戦争も起きるかも知れないと考え始めた方もおられるかもしれません。 この世界は今とても混乱しています。 こういう時にネットやテレビなどから安易に安心を得ようと思っても得ることはできません。 この世界の情報(下からの情報)はわたしたちに平安を与えることはできません。 上から来る情報、つまり御言葉からわたしたちは平安を得るものでありたいと思います。 今日も共にイエスキリストが復活された出来事を見ていきます。 ① ストーリー マグダラのマリヤと他のマリヤの二人はイエスさまが納められているはずの墓へとやって来ました。 27章の後半部分を見ると、この人たちはイエスさまが十字架から取りおろされ墓に運ばれた時ついていったようです。 しかしもうすぐ安息日が始まるということで、しっかりとした葬りができなかったのでしょう。 安息日が明けて週の初めの明け方、すなわち日曜日になって、手厚く葬るためにやってきました。 彼女たちは死んだイエスを世話するためにやってきた人たちでした。 しかしそこで大地震が起こります。 それは天使が墓の石をわきへやりその上に座ったからでした。 番兵たちはこれを見て恐れ死んだようになりました。 マリヤたちも恐れていたようですが、天使は彼女たちにイエスがよみがえられたことと、このことを弟子たちに伝えるように言います。 彼女たちは恐れつつも喜んで弟子たちに伝えに走りますが、その途中で復活されたイエスさまと出会います。 そしてさらに弟子たちに伝えるべき言葉を与えられます。 それはガリラヤで会おうという言葉でした。 ② 死んだイエスのもとに(1節) 今日のお話の最初の場面で、二人のマリヤがイエスさまのお墓にやってきます。 この時彼女たちは一体どんな思いだったのでしょうか。 死んだ人のために足を運ぶことがどういうことなのか私たちはそれぞれの経験で知っていると思います。 ある人は亡くなってすぐの姿を想像されるかも知れません。 ある人はお葬式を想像されるかも知れません。 ある人は火葬場を想像されるかも知れません。 あるいは骨壺でしょうか。 日本で暮らしている私たちは火葬をして埋葬するのでそのようなイメージかも知れません。 どんな場面を想像したにせよ、それは命とは遠く離れたものです。 死というものを強く感じさせられるところです。 そこに二人のマリヤはやってきたのです。 ユダヤの埋葬の仕方にしたがって香油を塗るためだったと思います。 ③ 主の使いの言葉(2〜7節) マリヤたちはここで主の使いからイエスさまが復活したという知らせを受けました。 死に打ち勝たれたことを宣言するかのように目の前で墓が開いています。 以前彼女たちはイエスさまの遺体が入れられた墓が石で閉じられるのを座って見ていました(27章61節)。 しかし今はその石が取り除けられていました。 彼女たちは確かにイエスキリストの復活の知らせをこの時受け取りました。 ④ 復活のイエスと出会うマリヤたち(8〜10節) 知らせを受け取ったマリアたちは、その知らせを主の使いに言われた通りに弟子たちに伝えに走りました。 するとその途中で復活されたイエスさまと出会うのです。 この後ガリラヤで待っていると言われたイエスさまの言葉を弟子たちは伝え聞き、弟子たちもガリラヤで復活のイエスさまと出会います。…

エマオへ向かう弟子たちと共に

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書24章13〜35節 タイトル: エマオへ向かう弟子たちと共に 今日もイエスさまの復活に関する聖書箇所を共に見ます。 イエスさまは十字架で捨てられ死なれましたが、3日目によみがえられました。 そしてその復活の命に生きるものとして、わたしたちを呼び出されその命を与えてくださいました。 今日はそんな復活の命に生きるものとされた弟子たちが、どのようにその命を受け取るように導かれたのかを見ていきたいと思います。 ⑴イスラエルは当時ローマ帝国という超巨大な国に植民地支配を受けていました。 イスラエルの民の希望はそのローマの支配からの脱脚でした。 しかし彼ら自身にはそんな力はありません。 だから彼らは救い主を待っていました。 いつの日かローマ帝国を倒しイスラエルを独立国として復興させることのできる救い主を待っていたのです。 そしてとうとうその救い主がやってきたと彼らは思いました。 それがイエスさまでした。 彼の言葉には力があり、人々は彼の言葉や彼に触れられることにより病気が癒されました。 ほんの少しの食べ物を彼が祝福すると何千人もの人が満腹になりました。 彼らはこのイエスキリストを先頭にしてローマから独立しようとしていたのです。 それは今日登場したイエスキリストの弟子たちも同じです。 彼らはルカの福音書24章21節において、”しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。‥”と記されています。 贖いと聞くと、罪の贖いという言葉をクリスチャンは思い出すと思うのですが、もともと贖いという言葉には、奴隷からの解放という意味があります。 つまり、ここは罪の贖いという意味というよりもローマの支配からの解放を望んでいたという意味なのです。 同じくルカが書いた使徒の働きにも、弟子たちが復活したイエスさまに言った言葉の中にこんなものがあります。 “‥「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」” 使徒の働き 1章6節 使徒たちを始め、イエスキリストの弟子たちは、自分たちの罪の贖いではなく、イスラエルの復興を願って、イスラエルが植民地支配から開放されることを願ってイエスキリストに付き従っていたという事が言えるのではないでしょうか。 マルコの福音書においては、ヤコブとヨハネはイエスさまにこう言いました。 あなたが御国の座につかれる時には、一人を右に一人を左においてください。 この御国とは、天国のことではありません。 ローマを追い出した後の、イスラエルの国のことです。 その時にイエスさまの右と左につきたいというのは、ナンバー2とナンバー3にしてくださいということなのです。 つまり弟子たちは、イスラエルの復興を望むと同時に、復興した後の自分の位の保証を目論んでいたという事が言えるのです。 イエスさまに付き従っていた理由の1つがそれだったということでしょう。 ではなぜ彼らはそれを望んだのでしょうか。 それこそ自分の幸せだと思っていたからではないでしょうか。 それこそ成功だと思っていたからでしょう。 彼らにとってイエスさまは自分たちが生きる上で必要な存在だったのです。 彼らは自分の目的に合致すると思ったから、自分が行こうとしている人生の目的地にイエスさまが連れて行ってくれると思ったから弟子となったと言えるのです。 しかし見事にそれは打ち砕かれました。 救い主イエスが倒すはずだったローマ帝国、そのローマの死刑道具である十字架にかかりイエスさまは殺されてしまったのです。こうして彼らの夢もやぶれました。 ⑵以上のことを押さえた上で19〜24節を見てください。 “イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」” ルカの福音書 24章19~24節 彼らはこの話を暗い顔つきで話していました。 落胆しながらエマオへの道を歩いていた途中だったのです。 イエスさまにつき従えば、自分の目的が達成できると思っていたのに、そうはならなかったからです。 彼らは暗く重い心で歩いていたのでしょう。 みなさんには同じ経験はないですか。 健康、友人、家族、学歴、仕事、収入、愛情などを欲しいと思い、手に入れたいと思い、それを手にいれたら幸せになれると考え、イエスさまについていけば得られるのではないかと思って従おうとしたことはないですか。 こういう時、わたしたちにとってイエスさまは、人生をまっとうするために必要なものの一つとなっているのかもしれません。…

復活の命に生きる者

イースター礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書21章1〜17節 タイトル:復活の命に生きる者 今日はイースター礼拝です。 本当は共に集い礼拝を捧げたかったです。 しかしこのような状況の中でもイエスさまはわたしたちと共におられます。 イエスさまの復活の命が今日もわたしたちを生かしてくれています。 1 十字架にかかる前の日 イエスキリストは十字架にかかる前の日、弟子たちに向かっていわれました。 「あなたたちはわたしにつまずく」 これに対してペテロは言いました。 「たとえほかの者がつまずいてもわたしはつまずきません。」 イエスさまは言われました。 「今夜鶏がなく前にあなたは3度わたしを知らないというだろう。」 ペテロはこのとき本気で「自分はイエスを裏切らない」と思っていたと思います。 彼の行動はたしかにほかの弟子たちとは違っていたからです。 イエスをとらえようとして来た人々を前にしても、ペテロだけは剣をもって立ち向かい相手の耳を切り落としました。 また、大祭司のところに連れていかれたイエスさまを追いかけて大祭司の家の中庭にまで行きました。 しかしそこで彼は挫折を経験し心に大きな傷を負うことになります。 その日は寒くて炭火が焚かれていました。 ペテロはその火にあたっていました。 そこで門番をしていた召使いの女性が「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言うと、ペテロは「そんな者ではない」と否定しました。 次に、彼の近くにいた人々に、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言われたペテロはまた打ち消してそんな者ではないといってしまいました。 さらに次に大祭司のしもべの一人(ペテロに耳を切り落とされた者の親戚)がやってきて、「私が見なかったとでもいうのですが、あなたは園であの人と一緒にいました。」というと、ぺテロは「そんな人はわたしは知らない」と言って打ち消しました。 するとその時鶏がなきました。 彼はイエスさまのいう通り、鶏がなく前に3度イエスさまを知らないと言いました。 「ほかの弟子たちが裏切ったとしても、わたしは裏切らない」とあれほど強く言っていたぺテロでしたが、彼もほかの弟子と同様イエスさまを裏切ったのです。 この時ペテロは大きな大きな挫折を経験したと言えるでしょう。 そして心に大きな傷を負いました。 わたしがもしこの時のペテロならこう思ったはずです。 「わたしはもうイエスさまの弟子ではない。」 この後イエスさまは神のご計画どおりに十字架にかけられ死なれ完全に葬られました。 しかし3日目によみがえり、弟子たちにその復活した姿を現されはじめます。 2 漁に出たペテロのもとに 今日の聖書はその3度目のことでした。 しかしペテロはまだ罪悪感と挫折の中にいました。 イエスさまが復活したと聞いても、墓が空っぽであることを確認しても、直接イエスさまと会っても彼は立ち直ることができなかったようです。 だから今日の聖書では、昔の仕事に戻ろうとしている彼の姿が記されています。 彼はイエスキリストの弟子となる前、漁師をしていました。 イエスキリストに召し出される時、彼はこのように言われました。 「人間をとる漁師にしてあげよう」 この言葉を信じ受け入れた彼は網を置いてイエスに付き従いました。 ペテロはイエスさまを裏切って以降挫折感をもって暮らしていました。 弟子失格というレッテルを自分で自分につけたまま、下をむいてため息ばかりの日々だったことでしょう。 空の墓を見ても、目の前にイエス様が現れても、彼の心は変わることはありませんでした。 自分はできない。自分はダメだ。と思っている時の人間の姿というのはこのようなものではないでしょうか。 自分を責めることでしか自分を保てないのです。 不思議とそれでバランスを保てていると思っています。 そういう中で人間をとる漁師を諦めたペテロは、魚をとる漁師に戻ろうとしているように見えます。 彼はわたしは漁に出ると言って、小舟に乗り込みました。 しかしその夜は得意なはずの漁で何も成果をあげられませんでした。 “シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。” ヨハネの福音書 21章3~4節 この時の彼の気持ちはどんなものだったでしょう。…