教会が信仰を強められるには

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き16章1~5節 タイトル:教会が信仰を強められるには 「あなたは信仰が強いですか?」ともしたずねられたら、どのように答えますか。ほとんどの方は「いえ、自分はまだまだです。」と答えるのではないでしょうか。 わたしは個人的に信仰が強いとか弱いという言い方は好きではありません。信仰が強いとか弱いというのは、相手をある時点で判断しないと出てくる言葉ではないからです。信仰というのはある時点をもって判断すべきものではないと思います。 信仰は必ず揺るがされることがあり、そのことを通して強められていくものです。信仰が強められるとは、さらに神を知っていくこと、御言葉を体験として知っていくことを意味しています。 揺さぶられ揺るがされながら強くなっていくものです。 今日の聖書の5節には「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」とありました。 信仰は強められるものです。 ただしこの聖書箇所は「諸教会」の信仰が強められたと記されています。 教会が信仰を強められるとはどういうことなのでしょうか。 どのようにしてこれらの教会は信仰を強められていったのでしょうか。 まず15章40節から16章2節を見ます。 ”パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。 そして、シリヤおよびキリキヤを通り、諸教会を力づけた。 それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。” 前回パウロとバルナバが仲違いをして宣教チームが二つに分かれてしまいました。 以前はパウロはバルナバと共に、キプロス島から宣教活動をはじめましたが、今回はキプロス島にバルナバとマルコが向かいました。 パウロはというとシリアを通ってキリキヤ地方を通過しデルベに、そしてルステラへとやってきました。ここには大変険しい山脈を越えてこなくてはいけません。 しかしパウロはまたやってきました。 しかもルステラです。 ルステラと聞いて何か思い出されますか。 この町でパウロは大変な目にあいました。 “ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。 この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、 大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。 パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言った。 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。 すると、町の門の前にあるゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、群衆といっしょに、いけにえをささげようとした。” 使徒の働き 14章8~13節 パウロとバルナバは急いでこれをやめさせました。そして彼らの信仰を否定しました。 そこに他の町からユダヤ人たちがやってきて町の人々をたきつけてパウロを石打ちにして殺そうとしたのです。 “ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。” 使徒の働き 14章19節 死んだものと思ったということは、それだけパウロがひどい状態だったということです。 パウロにとってルステラは大変な場所でした。 しかしそれでもまた彼はこの町にやってきたのです。 どうしてそんなひどい仕打ちを受けた場所に戻ってきたのでしょうか。 それはこの町にもキリストの弟子がいるからです。 勧め励ましたいと思う人々がいるからです。 パウロの献身がよく見えるところです。 諸教会の信仰が強められた大きな要因の一つがこの献身です。 つづいて二つ目です。 これはこのルステラで出会った人々と関係しています。 前回の伝道旅行の時に、イエスキリストを受け入れた人の中にテモテの母親がいたようです。そこからパウロはテモテともつながり彼も信仰を得るに至ったのでしょう。父親がギリシャ人であったことが記されていますが、ギリシャ語聖書では過去完了形で書かれているのでこの時はもうすでに死んでいたと考えられます。テモテの母親はやもめとなってたいへん苦労しながら生きていたのではないでしょうか。そんな歩みの中でイエスキリストのことを知ります。そして信仰を与えられました。他の聖書の箇所を見るとテモテの母親のことやテモテの信仰のことがよくわかります “私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。” テモテへの手紙 第二 1章5節 この手紙で母親の名前やおばあさんの名前がわかります。 そして神への純粋な信仰が、まずおばあさんと母親に与えられ、それがテモテのうちにも宿っているのだとパウロは言うのです。 信仰が強められるためには、このように家庭での信仰継承が大切なのだということを思わされます。 テモテの信仰はおばあさんと母親の信仰だったのです。 それがテモテのうちに宿っているとパウロは確信しているのです。 パウロの信仰が宿っているとはいわないのです。…

目的地は同じです

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き15章36~41節 タイトル:目的地は同じです みなさんには、苦手な人はいますか。 特に同じ信仰を持つ人の中でどうしてもこの人とは意見が合わない。出来ることなら顔を合わさずに生活したいという人はいますか。 同じ信仰を持っているからといって全ての点で意見が一致するわけではありません。衝突することもあるでしょう。 しかしその時に是非忘れていただきたくないことがあります。 それは意見の違いでもって相手を裁いたり、自分こそ神の側に立っている者などと思わないでことです。 私たちは今はバラバラの意見でバラバラのやり方で生きているように見えるかもしれません。 しかし同じ信仰を持っている者であれば、結局向かう先は同じなのです。だから自分こそまっすぐ向かっている者であの人は間違った方向に向かっていると思えるような時でも簡単に判断したくないのです。 どんな衝突であろうとどんな反目であろうとも、神が必ずそれぞれにとって良い道筋を用意し最終的に神の国へと導きいれられるのですから。 今日はそのことを心にとどめつつ共に聖書を開いていきたいと思います。 前回の礼拝では、アンテオケ教会にユダヤから人がやってきたことが原因で論争が起こり、パウロたちがエルサレム教会まで行く場面を共に見ました。 結局この騒動は、神の導きによりユダヤ人と異邦人たちがお互いがつまずきにならないように配慮する形で終えることができました。 アンテオケ教会とエルサレム教会の分裂すらも危ぶまれた出来事ですが、かえってこの出来事によって強く結束するにいたったと言ええるかもしれません。 この決定を文書にしたエルサレム教会は、ユダとシラスをアンテオケ教会に送り口頭でも伝えるようにしました。 この出来事において大きな役割を果たしたのがパウロやバルナバであったことは言うまでもありません。 しかし皮肉なことに今度はこの2人が衝突し結局分裂してしまうことになるのです。 さてこの出来事、みなさんはどのようにご覧になりますか。 幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」 (使徒の働き15章36節) パウロとバルナバの宣教旅行は聖霊の導きのままとにかくどこであろうと福音をもって向かいそこで福音を伝えることでした。 しかし今回は前回のようにまだ福音が伝わっておらず行ったことのない所に行くのではなく、前回福音を伝えてキリストの弟子となった人たちの所に行ってみようということになりました。 言うなればアフターケアです。 このことに関してパウロとバルナバの意見は一致していました。 しかしバルナバの「マルコも連れていきたい。」という言葉で瞬時にその場の雰囲気は変わってしまったようです。 バルナバはマルコを連れていきたいと思っていましたが、パウロはこれに反対しました。このやりとりがどれぐらい続いたのか聖書からはわかりませんが、結局激しい反目となってしまいました。   ここで彼らが分裂した原因であるマルコ(ヨハネ)について少しおさらいしておきましょう。 第一回目の伝道旅行の時、パウロとバルナバはマルコと呼ばれるヨハネを連れてキプロス島へと向かいました。 そこで福音を伝えた後パンフリヤへと向かいますが、ここでヨハネはエルサレムへと帰ってしまいました。 まだ旅の序盤でした。 このことが原因でパウロはヨハネが伝道旅行に向いていないと判断したということでしょう。 さてこのヨハネの行動についてですが、聖書はその理由に関して沈黙しています。 しかし学者の間では色々なことが言われています。 主に二つの意見があります。 まず一つ目は、パンプリヤから先へ行くことの困難さです。この先に行くにはタウロス山脈という大変な山々を超えなくてはいけませんでした。彼はパンフリヤまではついて来ましたが、その山脈を見たときにこれはどうにもならないと思ってエルサレムへと帰ったのだろうという説です。 ヨハネは大変大きな家に住む人でした。あのペンテコステの出来事が起こったのはヨハネの家だったと言われています。その時男だけで120人もいました。これだけの人数の人が入って座ることのできる屋上の間を持つ家の息子だったのです。お金に困ることもなくあまり苦労したことがなかったのではないでしょうか。そんな彼が親戚であるバルナバの影響で勇気を出してパンフリヤまでついて来たけども、タウロス山脈があまりにも大きく心が折れてしまったのではないかという考えです。 二つ目は、リーダーシップの問題です。ヨハネは自分の親戚であるバルナバを頼りにここまで付いて来たはずです。そして最初はそのバルナバがリーダーシップを発揮していたことが聖書に登場する名前の順番からもわかります。 しかしキプロス島の途中からバルナバよりもパウロが前に出るようになり、リーダーが入れ替わるような形になったのではないかと考えられます。 パウロとバルナバ、どちらが先輩でしょうか。バルナバです。エルサレム教会で誰もがパウロを恐れて近づかなかったにもかかわらず慰めの子であるバルナバはパウロを信じ受け入れ使徒たちに紹介までしました。 さらにパウロの故郷まで行って彼を探し出しアンテオケ教会の働きにつかせたのもバルナバでした。そんな彼に支えられながらパウロはここまで来たのです。しかしキプロス島での伝道活動の時期から完全にリーダーが入れ替わるような形になってしまったのでしょう。バルナバを頼りにしていたヨハネからすれば気持ちの良いことではなかったはずです。バルナバがリーダーでないのなら自分は行かないということでヨハネは帰ったのだという説が二つ目の説です。 一つ目の説は、地理的な背景を理由にした説で、二つ目の理由は聖書に記されている名前の順序から導き出される説です。 他にも想像してみると色々考えられる理由はあるかもしれません。 迫害によって荒らされていたエルサレム教会のことがどうしても気になったのかもしれないとか。 あるいは、飢饉に苦しむユダヤ人クリスチャンたちのことを思ってのことかもしれないとか。 みなさんもそれぞれ色々な理由が思い浮かぶのではないでしょうか。 ただいずれも想像の域を出ません。 しかし聖書の御言葉に注目していくと、マルコと呼ばれていたヨハネの心がどこを向いていたのかは見えてくるように思います。 それは彼が伝道旅行から離脱したときに、マルコではなくヨハネと記されていることからわかることです。 “パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。” 使徒の働き 13章13節 ここに使徒の働きを記したとされるルカの意図が見えるようです。 なぜあえて彼はここでマルコとは言わずヨハネと記したのでしょうか。 マルコはギリシャ名ですが、ヨハネはヘブライ名です。…

葛藤と論争のただ中にも神は共におられる

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き15章1~21節 タイトル:葛藤と論争のただ中にも神は共におられる 今日のタイトルは葛藤と論争の只中にも神は共におられるとしました。 わたしたちの内側には葛藤が生じることがあります。 それは仕事のことかもしれませんし、家庭のことかもしれません。 またそれは過去に関することかもしれませんし、現在のことかもしれませんし、未来に関することかもしれません。 その葛藤の只中にいる時、人は神が共におられることを忘れてしまいます。 また共同体の中に論争が生じた時もそうです。 神が共におられることがわからなくなるのです。 しかし今日の聖書を見ると、たとえ神が共におられるように思えない出来事であったとしても、そこに確かに神がおられて導いておられることがわかってきます。 今日はそんなところをおさえつつ共に恵みを分かち合いたいと思います。 イエスさまは使徒の働き1章8節でこう言われました。 “しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” この言葉の通り、福音はエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そしてさらに広域へ異邦人世界へと広がっていきました。 異邦人世界への宣教の働きを担うために立てられたのが、アンテオケ教会です。 そしてそこから派遣されたのがパウロとバルナバでした。 彼らは異邦人世界で多くの働きをし、それを通して多くの異邦人がキリストを信じるようになりました。 そして派遣元であるアンテオケと戻ってきたのです。 そこでどれほど主が働かれて多くのキリスト者が起こされていったのかを報告しました。 アンテオケ教会にとって何よりの知らせであったことでしょう。 しかしそんな喜びに満たされている教会に、ユダヤから人がやってきたことで問題が起こります。 使徒の働き15章1節 ”さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。” アンテオケ教会というのは異邦人(ユダヤ人でない人たち)中心の教会です。 だからユダヤ人たちが守っていたモーセの慣習であるとか、その中に含まれる割礼というものを受けていませんでした。 割礼を受けていようがいまいが救いには全く関係がありません。 しかしユダヤ地方からやってきたある人たちは、アンテオケ教会でモーセの慣習の大切さを唱えたのです。 これに対してパウロとバルナバが立ち上がりました。 2節では「‥パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じた」とありますように、なかなかの騒ぎに発展したようです。 そしてアンテオケ教会だけでは収集がつかないと思ったのでしょう。 教会の本部といっても良いエルサレムに上って、使徒たちや長老たちと話しあうことになりました。 パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、一緒にエルサレムへと向かいました。 そしてエルサレムに着くとそこでも神がともにいて行われたことを、報告しました。 当然この報告の中には異邦人たちが聖霊を受けてイエスキリストを信じたことなどが含まれます。 しかしこれに対して反対する人たちがいました。 使徒の働き15章5節 ”しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。” 元々パリサイ派だった人で、イエスキリストを信じた人がエルサレム教会にはいたようです。 パリサイ派というのは、モーセの律法を厳格に守るように努めていた人たちです。 この人たちが立ち上がって、異邦人たちであってもモーセの律法を守らせ割礼を受けさせるべきだと言いました。 <ネガティブ?ポジティブ?> アンテオケ教会と同じような出来事がこのエルサレム教会でも起こりました。 アンテオケ教会での争いにしてもエルサレムでの対立にしてもそうですが、いずれも決して良い出来事ではありません。 人間の目からみるとネガティブな出来事でしかありません。 しかしここにも主が共におられたことを心にとどめたいと思います。 そしてこの出来事が最終的に主の御心は何かを求めるところで一致したことを考えると神の目から見れば決してネガティブなものではなかったはずです。 一見ネガティブな出来事でしかないと思えるようなことも、主が共におられることに心を向けていくとポジティブな出来事に見えるようになります。 ネガティブな出来事というのは、実はわたしたちの心を主に向けてくれるきっかけになります。 今回のアンテオケ教会やエルサレム教会での論争しかり、わたしたちの生活の中で起きるあらゆるネガティブな要素はわたしたちを不安にし、不満を募らせるものになりえますが、そこで止まってしまうのではなく、その先を見ていく時に、ポジティブなものに変わりうるのです。 アンテオケ教会やエルサレム教会で起きたことは、それだけを見れば良いことではありません。 しかしこの出来事を通して、彼らは主の御心を求めるところで一致していくのです。 <エルサレム会議> 続いてエルサレムでの会議の中身に入っていきます。 “そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。…

神の国に入るには

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き14章19~23節 タイトル:神の国に入るには みなさん、最近辛いな苦しいなと思う出来事はありましたか。 今日の御言葉の中心は、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」というところです。 この言葉を見てみなさんはどのように思われるでしょうか。 嫌だな、出来れば避けて通りたいなと思われますか。 わたしも出来れば苦しみたくはありません。 しかし神の国に入るには多くの苦しみを経なければならないと聖書はたしかに語っています。 ではどのようにしてこの苦しみを経ていくのでしょうか。 今日の聖書を見ていくと、少しイメージがかわるかもしれません。 今日の聖書を理解するために前回までの流れを少しおさらいしたいと思います。 パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケを出た後、イコニオムへ行き、そこからルステラという町に来ました。 そこの住民は特にギリシャ神話に登場するゼウスとヘルメスを信奉していました。 そのきっかけとなったと考えられるのが、昔この地にいた農夫ピレモン・バウキスに起こった出来事です。 ある日彼はゼウスとヘルメスがルステラを訪れた際にそれとは知らずに二人をもてなし、その親切の報いを受けたという昔話をがあったのです。 そこにパウロとバルナバがやって来て、奇跡を起こしたので、町の人々はパウロとバルナバがヘルメスとゼウスなのだと誤解してしまいました。 それでパウロとバルナバに捧げ物をしようとしたのです。 しかしパウロとバルナバは、自分たちは神々ではないと答え、ルステラの人々の信仰も同時に否定しました。 ちょうどその頃パウロとバルナバの信仰に反対するユダヤ人たちがやってきてルステラの人々を焚き付けて、パウロを石で打ちたたき町の外に捨てるように仕向けます。 ルステラの人々はついさっきまで神々と信じ祭り上げていたパウロを今度は殺そうとしました。 心を砕き信仰を伝えようとした相手が裏切る姿は福音を伝える側にとって大変大きな痛みになります。 どうせ打ち叩かれるなら全く関係のない強盗の方がまだましです。 パウロにとって大変ショックな出来事だったことでしょう。 しかしパウロはその後、驚くべき対応をします。 “しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。” 使徒の働き 14章20節 このように記されているのです。 まるで何事もなかったかのように彼はそのまま町に入っていきました。 心を砕いて福音を伝えようとした相手がそれを理解してくれず、こちらを攻撃してくる時、みなさんだったらどんな思いになりますか。 わたしはこの箇所を準備しながら、本当に苦しくなりました。 自分に当てはめて考えた時、とてもパウロのような対応はできないと思ったからです。 取り囲んでいる弟子たちにその苦悩を少しもこぼすことなく、何も言わずにまた自分を殺そうとした人たちのいる町に入っていくなんてとても出来ないと思いました。 パウロをこうまでさせるものは一体何なのでしょうか。 それが次の節以降を読んでいくと見えてくるようです。 21節22節を読みます。 “彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。” 使徒の働き 14章21~22節 まずここで注目したいのが、彼らがまっすぐアンテオケに戻るのではなく、それまでに回ってきた道を引き返す形で戻ったことです。 ルステラからデルベに行った彼らでしたが、そのまま山越えすればパウロの生まれたタルソを通って、最短距離で母教会があるアンテオケへ戻れます。 ところが彼らはルステラ、イコニオム、アンテオケと引き返して行きました。 大変つらい迫害を受けた場所に戻ったのです。 理由がなければそんな場所に戻ることはあり得ません。 彼らにとって行かなくてはいけない理由があったのです。 その理由とは、「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』と言」うことでした。 つまりルステラ、イコニオム、アンテオケで福音を受け入れた人たちのためだったのです。 好き好んで自分を攻撃する人間がいるところに行こうと思う人はいません。 しかしそこに御言葉で勧め励ます必要のある人がいると思う時、たとえそこに自分を攻撃する人々が待ち受けていようとも戻ろうと思えるのでしょう。 バウロとバルナバのこの行動は神様との関係はもちろんですが、さらに神が準備しておられる人々との関係からの決意の行動と言えるのです。 続いて注目したいのは、信仰にしっかりとどまることの難しさです。 人が信仰を告白してクリスチャンになる時の思いは決して偽物ではないでしょう。 しかしその後一度も揺れ動くことなくスムーズにいくことはまずありません。 なぜなら「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」からです。 パウロの励ましを受けとった彼らを待っていたのもまた激しい迫害でした。…

天に宝をたくわえる聖徒

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:マタイ福音書6章19~21節 タイトル:天に宝をたくわえる聖徒 今日は2020年の最初の主日礼拝です。 毎年のことですが、今年も荒野教会の標語とその意味をお伝えする時間にしたいと思います。 今年の標語は、天に宝をたくわえる聖徒です。 今年一年荒野教会のお一人お一人がこの標語を目標に歩まれることを心からお祈りいたします。 ではまず今日の御言葉を共に読みます。 “自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。” マタイの福音書 6章19~21節 ここには地上に宝を蓄えるのをやめなさいと記されています。 「やめなさい」という言葉が示す通り、イエス様の話の相手が今地上に宝を蓄えていることがわかります。 当時イエス様の前にいたのは弟子たちですので、この時その弟子たちが地上に宝を蓄えていることを前提に語られた言葉です。 そして現代の弟子であるわたしたちにもイエスさまは語っておられます。「自分の宝を地上に蓄えるのをやめなさい」と。 この御言葉は字義的に単純に読めば、私たちの財産(宝)をどのように使うかを示す言葉と言えるわけですが、今日はそれだけではなくもう少し宝という言葉の意味を考えてみたいと思います。 宝とは一体何だろうか。財産だけを指しているのだろうか。 それを問うていくと、私たちにとって一番大切なもの最優先のもの、それが宝だという考えに至ります。 みなさんは何を最優先に考えておられるでしょうか。 今それが思い浮かぶという方もいれば良くわからないという方もいるかもしれません。 しかし確かなことは、イエスさまがわたしたちにこのように言っておられるということです。 「今最優先にしているものを捨てて天のものを一番にするように」と。 2020年の最初の主日にまず考えてみたいことは、わたしの最優先事項は一体何かということです。 人は最初生まれた状態のままだと天にあるものを宝とせず、この世のものを宝とするようになっています。 それがわたしたち人間の本性だからです。 たしかにわたしたちはイエスキリストによって救われ新しい人となったので、天のものを求めようとする心もあります。 しかし救われる前の原理もまだわたしたちのうちには残っていて、地上のものを求めようとしてしまいます。 わたしたちの内側ではこの二つが日々衝突するのです。 新しい人と古い人といっても良いこの二つが衝突します。 そんなわたしたちに最善をご存知のイエスさまが言われるのです。 宝を天に蓄えなさいと。 ここでイエスさまが言いたいのは、まず天のものを宝としなさいということです。天に蓄えることができるのは天のものだけだからです。その上でその宝を蓄えなさいと言っておられるのです。 それは誰かに奪われることもないし、傷をつけられることもありません。 ではこの天のものとは何なのでしょうか。 これを考えるためにまず天のものとは逆のものである地上のものを考えてみたいと思います。 言葉の意味を考える時は、それとは真逆のものを考えてみると見えてくることがあります。 そのために律法学者たちが追及していたものを見てみましょう。 彼らこそ地上のものを求めた人の代表です。 “だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。” マタイの福音書 6章2~4節 ここでイエスさまは施しについて語っておられます。 偽善者たち(これは律法学者たちのことですが、)彼らは人に見られるために施しをしており、その報いを受けているとあります。 報いとは自分がしたことに対する結果です。 彼らは人からの賞賛を求めて施しをしていて、その結果、人から賞賛を得ているのです。 それが彼らの報いです。 彼らの宝は人からの賞賛でした。 また祈りについても彼らは神に聞いていただくためではなく、人に祈っている姿を見せるために祈っていました。 “また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。” マタイの福音書 6章5~6節 彼らはその報いを受けてしまっています。 彼らの宝はここでも人からの賞賛でした。…