主を知らぬ人々の心

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き17章16〜34節 タイトル:主を知らぬ人々の心 今朝は久しぶりに使徒の働きを共に見ていきます。 使徒の働き1章8節にはこう記されています。 “‥聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” これはイエスキリストの言葉です。 この言葉の通り、イエスキリストの弟子たちは聖霊を受けてイエスキリストの証人となりました。 すなわちイエスキリストの十字架と復活による義と新しい命によって生かされることこそ真の道であることを知らせてまわったのです。 はじめはエルサレム、その後ユダヤ、さらにサマリヤ全土、そして小アジア地域にまで広がり、マケドニヤへと渡った福音はさらにアテネにまで及びました。 この地への宣教師として立てられたのはパウロです。 16節にあります通り、ふたりの人すなわちテモテとシラスを待つ為にアテネに滞在していたパウロでした。 “さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。” 使徒の働き 17章16~17節 パウロは町が偶像で溢れているのを見て憤りを感じました。 それで会堂や広場に出向き人々と論じ合いました。 会堂にはユダヤ人たちや異邦人でありながらイスラエルの神を信じる「神を敬う人たち」がいました。 また広場にはアテネに住む異邦人たちがいましたが、その中にはエピクロス派とストア派の学者たちもいました。 エピクロス派とはアテネのエピクロスという人によって始まった多神教の哲学学派でした。彼らが信じる神々は世界には無関心の神々でした。 ストア派はアテネでゼノンが起こした哲学学派で、この世の全てが神の一部と考える汎神論的哲学でした。 世界と神とは同一であり、神に人格があるとは考えませんでした。 この学者たちの中のある者たちはパウロを指して「おしゃべり」と言ってけなしました。 おしゃべりと訳された言葉は、「種をついばむ鳥」を表す言葉で、そこから広場で物を拾う「拾い屋」、ついにはあちこちから知識を受け売りする「受け売り屋」を意味するようになった言葉です。 パウロはこれらの哲学者たちから相当軽く見られていたようです。 また「外国の神々を伝えているらしい」という風にも言われました。 多神教のアテネの学者たちらしい言い方です。 多くの神々がいる中の一つの神を伝えていると考えていたようです。 これらの言葉からもアテネの人々が全くパウロの言葉に心を開いていないのがわかります。 パウロは命をかけてその人生をかけて福音を述べ伝えているのですが、それを聴いているアテネの人々は全くそのようには受け取らないのです。 おそらくエピクロス派やストア派よりも下位に属する学派か何かだとでも思っていたのでしょう。 ただそれでも彼らはパウロをアレオパゴスへと連れて行きました。 21節にある通り、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」からです。 アレオパゴスとは、「アレス神の丘」という意味です。 戦神アレスがこの丘で審判を受けたという伝説からそう呼ばれるようになったようです。 この法廷は,アテネの長老たちによって構成され,宗教や道徳の監督にも当たっていました。アレオパゴスは,アテネの最も重要な制度であり、道徳と宗教に関して特別の裁判権を持っていました。 この評議会の中心に立たされたパウロは、福音について語り始めます。 異邦人相手ということで、ユダヤ人が相手の時のように旧約聖書から引用するのではなく、この町の中にある祭壇に記されていた言葉を引用して語り始めます。 こうして復活のところにさしかかった時にある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「またいつか聞くことにしよう」と言いました。 つまり相手にされなかったということです。 しかしそんな中、パウロが語る福音をきいて、信じた人たちもいました。 これが今日のストーリーの概略です。 1 神の国とこの世との衝突 使徒の働き1章8節にあった通り、パウロはキリストの証人としてアテネに立ち福音を語りました。 1章8節にはエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまでと言って、どんどん福音が伝えられる範囲が広がっていく様子がうかがえるのですが、この範囲が広げられるたびに起こることがありました。 それはこの福音を握って生きる神の国と、それを信じようとしないこの世との衝突です。 今日の箇所もこの衝突が起きています。 2 偶像を作る理由 ⑴ここで一つ考えてみたいことがあります。 それはなぜアテネの人々は偶像を作っていたのかということです。 それも町に溢れるほどに作って何がしたかったのでしょうか。 ここに世界中の人々に通じるものがあります。 この世で生きている人々全てが、アテネの人々のように石や木で何かを作るわけではないかもしれませんが、全ての人が偶像を持って生きています。 それはお金なのかもしれませんし、地位や名誉なのかもしれません。 人によってその種類は様々ですが、地上の何かでもって、この世界で生きる時に生じる不安や恐れを消そうとしているのです。…

信仰シリーズ② 信仰と律法の行い

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙 3章19~28節 タイトル:信仰シリーズ②  信仰と律法の行い “さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。” ローマ人への手紙 3章19~28節 今日も信仰について聖書から共に聴いていきたいと思います。 今日のお話もみなさん何度も聞いてこられたお話かと思います。 しかしこの不安定な状況の中では、変わることのないものをつかまなくてはいけません。福音そして信仰はどんな状況下でも変わることのない真理です。 今日もまた一度信仰について聴いていきたいと思います。 イエスキリストはわたしたちの身代わりとなって十字架で死なれ葬られ三日目によみがえられました。 わたしたちは彼につながることによって、彼の義と新しい命を得ることができます。 この時にイエスキリストとわたしたちの間をつなぐ管のような働きをするのが信仰なのです。 今日もこのイメージをまず持っていただいてはじめていきたいと思います。 1  神の律法について ローマ人への手紙3章10節と23節を見てください。 “それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。” ローマ人への手紙 3章10節 “すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、” ローマ人への手紙 3章23節 このように聖書は誰一人として神の前に正しい人はいない、全ての人が罪を犯したといいます。 何をもって罪と判断しているのかというと、それは神が与えた律法によってです。 この律法を全うできれば、人は罪なしとされ神の前で正しいもの、義人と認められるのですが、誰一人としてこの律法を守れる人はいないと聖書は言うのです。 律法というとみなさん何をイメージされるでしょうか。 おそらく出エジプト記に記されている十戒をイメージされるのではないでしょうか。 十戒ももちろん律法なのですが、もっとわかりやすくイエスキリストが教えてくださっている箇所が聖書にありますのでそちらを一緒に開いてみましょう。 “「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」” マタイの福音書 22章36~40節 イエスキリストはここで律法を要約して答えています。 神の教えを煎じ詰めると、結局この二つの愛に尽きるということです。 神への愛と隣人への愛です。 これは一時的な態度のことでも形式的なものでもありません。 「神の律法」は、個々の決まりをその都度守っているかどうかを問うのではなく、私たちの心そのものを問うものです。 もし神様にかなう心を持っているなら当然できることが記されていると言っても良いと思います。 この世のすべてを造られた神への愛と、隣人への愛。 自分自身を犠牲にしてでも神と隣人に尽くす心の人でなくてはいけないのです。 しかしそんな人がこの世にいるでしょうか。 自分自身はどうか一度考えて見てください。 イエスキリストが言われたこの神への愛と隣人を愛する愛に貫かれた心を持ち生きているでしょうか。 ハイデルベルク信仰問答という教理問答の第5問にこのような問答があります。 問5 あなたはこれらすべてのこと(律法)を完全に行うことができますか。…

第5問 ただひとりの神

第5問 ただひとりの神 問: ひとりより多くの神々がいますか。  答: ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。  Q. 5. Are there more Gods than one? A. There is but one only, the living and true God. 世の中にはたくさんの神々があります。第4問では神様の驚くべき属性と被造物との違いについてふれましたが、このような神様(God)が、他にもいるのかというのが第5問の問いです。 この質問の背景には、これまで人類が多くの神々(gods)を自らの手で作り出して来たことがあります。 そして第5問の答えですが、生きたまことの神様は一人しかおられないと書かれています。これは「死んだ神々、偽物の神々はたくさんいる。」とも言い換えることができます。 この世の多くの宗教は各々自分たちの神々を持っています。しかし小教理問答第5問は「生きたまことの神はただ一人しかおられません。」と言うのです。 人間は心から神様を消しさることはできません。なぜなら、神様がすべての人の心に「神についての意識」を植えつけられたからです。これは神様が人に神様を発見できる力を与えたということですが、わたしたちの先祖アダムが神に従わないことを決意し堕落したことで、間違ったものを本当の神のように信じ追求するようになっていきました。このため人間は何か神秘的な力を求め続けて来ました。これが人類の歴史において繰り返されてきたことです。 小教理問答は第5問で神が一人だと断言し、続く第6問で真の神の位格についてのお話へとうつっていきます。

信仰シリーズ① 信仰の定義とその成長

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き2章36節 タイトル:信仰シリーズ①  信仰の定義とその成長 人は神の前にアダムかキリストのうち、どちらに属しているかによってのみ判断されるというお話を以前しました。 私たちはアダムの子孫として生まれてくるので、生まれた時からアダムに属する者です。 アダムは神を裏切り神から離れた者なので、私たちも神を裏切り神から離れた存在として生きて行かなくてはいけません。 しかし御言葉と聖霊によって信仰が与えられるとそれによってアダムにつながる者からキリストにつながる者へと変えられます。 これまで福音について続けて見てきましたが、今日から「信仰」について見ていきます。 正確には福音のお話の中の信仰といった位置づけなのですが、信仰シリーズとしてお話しさせていただきます。 信仰にフォーカスを当てる理由は、それだけ信仰が大切だからです。 どうして大切かというと、イエスキリストと私たちをつなぐ管こそ信仰だからです。 先ほど私たちはアダムに属する者として生まれるという話をしました。 これは神の前に罪を犯したアダムが、彼がまさに善悪の知識の木の実を食べるという決断をしたときに、私たちも彼と共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見ているということを意味します。 だから私たちは罪人として生まれてくるのです。 しかしこれと同じ原理で、私たちはキリストにつながる者となります。 つまりキリストがこの世界で完全に神に従う人生を歩まれ、その絶頂としての十字架での死、そして葬り、三日目のよみがえり、これら全ての過程に私たちも共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見てくださるということです。 神がそのように言われるのですから、実際にいたということなのです。 そしてこれはイエスキリストと私たちがつながったということなのですが、このつなぎ役になっているのが信仰なのです。 御言葉と聖霊によってこの信仰があたえられたわけですが、今日はこの信仰とは一体何かを共に考えていきたいと思います。 1 信仰とは 信仰とは一体なんでしょうか。 二つに分けて考えることができます。 ⑴ 一つはイエスキリストが私たちのためにしてくださったことを知りそれを信じることです。 これは先ほど申し上げたように、この世界に人となって来てくださったこと、そして神に完全に従う人生を歩まれたこと、そして十字架で私たちの身代わりとなって死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと。 このことを知り信じることです。 ⑵そしてもう一つがイエスが一体誰なのか、どのような方なのかを知り信じることです。 “ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」” 使徒の働き 2章36節 この箇所からイエスが一体誰なのかがわかります。 イエスは主であり、キリストであるということです。 ①イエスが主であるということは,彼がすべての権威を持っているということであり(マタ28:18)、天地のすべてのものを彼が治めていることを意味します(ピリ2:10)。 新約聖書の時代には「主」ということばは,異邦世界において王とか偶像の神々を意味した言葉でした。 だから「イエスは主である」ということは,イエスこそ真の神であり支配者であるという信仰の告白だったわけです。 当時のローマ皇帝は自らを神格化しようとしていましたが、このようにしてイエスは主であるということで本当の神が一体誰なのかを表しているわけです。 ②またキリストであるとも書いていますが、キリストとはヘブライ語で油を注ぐことを意味するマーシャフから派生しているマーシーアハのギリシャ語訳です。 旧約では、王や預言者や祭司がその職務に任命されるときに油注がれ、またイスラエル自体も油注がれた人々として登場します(ハバクク3:13)。したがって油注がれた者、メシアとは民を救うために選ばれた神の道具を意味する言葉と言えます。 つまりイエスがメシア、キリストであるというのは、まことの王であり預言者であり祭司であり、神の救いをもたらす存在だという意味なのです。 以上のことを知ること、これがイエスキリストを信じるということです。 そしてこのことについて聖書は私たちに語ってくれるのです。 イエスキリストが私たちのために何をしてくださったのか、そしてイエスキリストが一体どんな方なのかを教えてくれるのです。 2 信仰の成長 聖書を読むことが大切なのは聖書にイエスキリストのことが書いてあるからです。 イエスキリストのことを知るには聖書を読まなくてはいけません。 聖書を読んでイエスキリストのことを知ればさらに信仰は成長していきます。 イエスキリストを知ると言っても、これは単純な知識のことではありません。 イエスに信頼し彼に頼って生きていくときに、体験的な生きた知識になっていくのです。 聖書を読んでイエスのことを知ってそれを持って生きていくときに、体験的にわかるということもあれば、逆に先に体験したあとで聖書から発見するということもあると思いますが、とにかくイエスキリストを知るというのは、私たちの生活と密接不可分なことなのです。 こうして生きていくと自分とイエスキリストとの関係がはっきりしていきます。 するとこの真の知識に自分の生活そして人生を委ねていくことができるようになっていきます。 客観的事実としてイエスは私たちの主であり、キリストなのですが、それが自分自身の体験を通して主観的なものにもなっていき心からイエスは主でありキリストですと言えるようになるのです。 そうすると生活が変わり始め、人生が変わり始めます。 “兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。” テサロニケ人への手紙…

福音シリーズ⑨ キリストの復活

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:コリント人への手紙 第一 15章12~19節 タイトル:福音シリーズ⑨  キリストの復活 不安定な社会情勢が続いていますが、だからこそ今日も聖書の言葉に聴きたいと思います。 特に続けて見ております福音についてですが、今日は福音シリーズの第9回目になります。 タイトルはキリストの復活です。 キリストの復活は、彼の十字架と贖罪と同じように歴史的客観的事実です。聖書は復活の出来事について色々な角度から証ししています。 “女たちはイエスのみことばを思い出した。 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕” ルカの福音書 24章8~12節 “十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」” ヨハネの福音書 20章24~29節 これらの御言葉からも分かる通り、イエス様と一番長く共にいた弟子たちも復活は信じられませんでした。 女性たちがイエス様の復活を伝えても彼らは信じませんでした。 イエス様はそんな弟子たちのもとに現れました。 またその時いなかったトマスのためにも現れました。 第一コリント15章6節には”‥キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。‥”とあるように、イエス様は復活された後そのことを多くの弟子たちに現れて知らせました。 そしてご自身をあらわされた様子から、私たちはイエスさまが十字架刑までの肉体を持っておられたことと、同時にその肉体が全く同じではないことを知ることができます。 先ほどお読みしましたペテロが墓に行って中を確認する場面を見てもおわかりの通り、そこにはイエス様の死体がありませんでした。イエス様の肉体を包んでいたはずの亜麻布だけがあったのです。 つまり以前の肉体を持って復活されたということです。 イエス様は復活された後40日間弟子たちの前に現れました。 その時彼は釘に打たれて穴があいた手や、槍に貫かれた脇腹を見せました。これは十字架刑までの体であることの証明と言えます。 しかし一方で違う部分もありました。 弟子たちがイエス様のことをイエス様と認識できなかったり、突然現れたかと思えば見えなくなったりしました。 このように十字架刑までの体であることと同時に全く同じ体ではないことを示していかれたわけです。 とても不思議な姿に変えられてよみがえられたイエス様ですが、今日はこの復活の意味をもう少し考えてみたいと思います。 1  イエスキリストの復活の意味 イエスキリストの復活には独特な意味があります。 どのあたりが独特かを説明するには聖書に記されている他の人の復活と比較するとよくわかります。 新約聖書で復活した人というとラザロやヤイロの娘がいますがこの二人は復活はしましたが、この地上の生を全うすれば死ぬ体のままでした。 しかしキリストは復活して再び死ぬことはありませんでした。 彼は復活し弟子たちの前に現れ、その後そのまま天に昇られました。 そして今も生きておられ、永遠に生きておられる方です。 “キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。” ローマ人への手紙 6章9~10節 ラザロやヤイロの娘の復活はただこの地上での命を伸ばすだけのものとも言うこともできます。 彼らはいずれも以前の生活領域に帰っただけであり、いずれはもう一度死んだはずだからです。 しかしキリストの復活はただ命を伸ばす程度のものではなく、逆戻りしているわけではありません。 昇天に至る道に前進しているのです。 これまで誰も進めなかったところに道を作り進んでいかれたのです。 彼は罪と死の権勢に完全に打ち勝ちました。 ここが大きく違うところです。 これがイエスキリストの復活の意味です。…

福音シリーズ⑧ キリストは神でありながら完全な人となった

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ピリピ人への手紙 2章6〜11節 タイトル:福音シリーズ⑧ キリストは神でありながら完全な人となった “キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。” ピリピ人への手紙 2章6~11節 先週はキリストとの結合についてお話ししました。 パウロはクリスチャンのことを「キリストにあって」「キリストのうちにある」と表現します。これは、キリストとの結合を指している言葉です。 クリスチャンはキリストと結合した者なので、キリストによる罪のゆるしと義が与えられています。 今日はこの結合が可能となった根本的理由について考えて見ます。 結合の根本的理由とは、神の御子イエスキリストが人となられたことです。 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(6、7節) このように彼はご自分を無にして人間と同じようになられました。すなわち人としての性質をもたれたということです。 人の身代わりとなれるのは人だけです。だからイエスキリストは人となられたのです。彼が人となられたからこそ、人である私たちは彼につながることができます。 彼は人としてこの地で生きられました。 律法の下にある者として完璧に律法を守り通されその絶頂としてあの十字架にかかられ律法を成就されたのです。 彼の犠牲は十字架だけではなく、神の栄光の座を離れ、私たちと同じ人となられたことです。そしてご自身が造ったこの世界で生きたすべての過程です。 “この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。”とヨハネの福音書1章10節にあります通り、私たちの全く知らないところで、彼は歩まれご自身の使命を成し遂げられたのです。 今日はここからキリストが人となられたことについて見ていきます。 最初に考えてみたいのがキリストの受肉について、つまり誕生についてです。 1 キリストの受肉 ⑴  ①先ほども申し上げた通り、キリストは神の王座を離れ人となられました。 しかしこれは神であることを捨てたという意味ではありません。 神でありながらそこに人性を加えられたということです。 ですからキリストの本性は父なる神と変わりません。 ただ地上での生涯の期間は、自ら制限を受けたということです。 例えばキリストは神なのであらゆるところに同時に存在する力を持っていました。 しかし受肉した者として、人間の体を所有していたという環境がその力の行使を制限したのです。 これは足の速い人が遅い人と二人三脚をすることに例えることができます。 足の速い人はその足の片方を足の遅い人の足につないでおかなくてはいけません。 身体能力は減少していませんが、その能力を行使する条件は厳しい制限を受けています。これが受肉のキリストの状態です。 このランナーが束縛を解いて走れば、早く走ることができますが競技が続く限り自ら制限するのを選ぶのと同じように、キリストの受肉も自発的に選び取ったことであり、この地上にいる間自らその力を制限されたのです。 これがキリストが人性を加えられたということの意味です。 ②またこの受肉に関して重要なもう一つのことは、イエスの人性は罪深いわたしたち人間の人性ではないということです。 当然のことと言えば当然なのですが、一度整理しておきますと、キリストの人性はこの世界に存在した人で最も近い人を挙げるなら堕落前のアダムです。 もっと正確にいうならば、この世界が終わり全き者に変えられた者たちの人性です。 つまりキリストは単にわたしたちと同じく人であったのではなく、わたしたち以上に人らしい性質を持ってこの世界にこられたということです。 本来の人の形、神がよしとされた人の形が、あのキリストの中に存在していたのです。 ⑵ 馬小屋での誕生 神が人となるわけですから、これだけでもとてつもないことなのですが、さらに続いてこの世界に降りてこられた環境にも目を向けたいと思います。 彼はこの世の王族に生まれるわけでもなく、富や地位のある家に生まれるのでもなく、当時のイスラエルの全く平凡な家庭に生まれました。しかも全く人の注目を集めないベツレヘムという小さな町の馬小屋で生まれ飼い葉桶に寝かされたのです。 彼は人の内でも最も低い仕方で、お生まれになりました。 2 人間としての弱さ “そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。” マタイの福音書 4章2節 ここにはキリストがお腹を空かせたことが記されています。食べないと生きていけない肉体を持っていました。 “そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。” ヨハネの福音書 4章6節…

福音シリーズ⑦ アダムからキリストへ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章12~21節 タイトル:福音シリーズ⑦ アダムからキリストへ ここ最近また感染者が増え情報が錯綜し状況が不安定になっています。昨日熊本では大雨による大変な被害でした。九州への大雨の被害はこれで4年連続となったそうです。ニュースでは記録的豪雨という言葉が飛び交っています。ここ数年大雨のたびにこの言葉を聞くようになったように思います。やはり気候自体が変わってきているのかもしれません。ウイルスの蔓延、気候変動、バッタによる食糧危機まで騒がれはじめたこの時、私たちは何を支えに生きていけば良いのでしょうか。この問いに私はやはり福音であると申し上げたいです。今日で7回目となりますが今日も聖書から聴いていきたいと思います。 わたしたちはイエスキリストを信じる信仰により罪のゆるしを受け、義人とされました。それはわたしたちの罪がキリストに転嫁され、キリストの義がわたしたちに転嫁されたからです。 今日はローマ書5章から特にこの転嫁がどのようにして起こるのかを見ていきたいと思います。 1  二人の人 この世界が始まって以来、数えきれない人々が生まれては死んでいきました。この世界を造られ人を造られた神はその一人一人のことをよくご存知です。 しかし罪と義、死と命に関して、神は人類を二人の代表を通して見ておられます。 その二人とはアダムとイエスキリストです。 まずこの点に関してアダムについて話し、その後キリストについてお話ししたいと思います。 ⑴ アダム 全ての人類は生まれたままの状態ではアダムにつながっています。全ての人がアダムの内にいるのです。アダムは人類の代表です。 アダムが罪に堕ちたその結果はアダムとつながっている人類、アダムの内にいる全ての人のものということです。 アダムが罪を犯し死ぬものとなった時、全ての人はアダムの内で罪人となったということです。 そのことが5章12節に記されていることです。 “そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。” ローマ人への手紙 5章12節 さらにコリント人への手紙にもこう記されています。 “‥アダムにあってすべての人が死んでいる‥” コリント人への手紙 第一 15章22節 そしてこのことをローマ5章13、14節では論証しています。 “というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。” ローマ人への手紙 5章13~14節 アダムは善悪の知識の木の実を食べてはいけないという法を直接神から与えられました。そしてモーセもあのシナイ山で神から律法を与えられました。 このように法が与えられるからこそ、それに対する違反も成立します。罪人と判断されるということです。 「罪は何かの律法がなければ、認められないものです」とはそういう意味です。 ところが罪の報酬である死はアダムとモーセの間の時代を生きた人々の間にも存在し続けました。彼らには直接神から法が与えられていないにも関わらずです。 “セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。” 創世記 5章5~20節 ここからアダムの堕落の結果が子孫たちに及びアダムの罪が子孫たちの罪となっていることがわかります。 アダムの代表性というものがここで証明されているのです。 全ての人は自分の行動とは関係なくアダムにあって罪人なのです。 ではここからもう一人の代表であるイエスキリストについてお話しします。 ⑵ イエスキリスト…

福音シリーズ⑥ 何を誇りとしているでしょうか

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 6章11~14節 タイトル: 福音シリーズ⑥ 何を誇りとしているでしょうか “ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。” ガラテヤ人への手紙 6章11~14節 今日もまた福音シリーズとしてお話しさせていただきます。 まず皆さんに自問自答していただきたいことがあります。 それは「わたしは何を誇りとして生きているか。」ということです。 パウロは今日のみことばの6章14節で”‥私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。‥”と言っていますように、ただイエスキリストの十字架だけを誇って生きた人でした。 しかし今日の聖書にはパウロとは違い、イエスキリスト以外を誇り他者を見下す偽教師と呼ばれる人たちが出てきます。 彼らはガラテヤ教会の人々に間違った福音を植えつけようとしていました。 そんな彼らの教えをパウロはここで痛烈に批判しています。 パウロはこうしてガラテヤの教会が間違った方向へ進むのを阻止しようとしているのです。 ガラテヤ人への手紙ではキリストの十字架から引き離すこの偽教師たちの動きを冒頭から指摘していました。1章6、7節がそれです。 “私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。” ガラテヤ人への手紙 1章6~7節 そしてその対処の一つとして本書を書き進めてきましたが、この手紙を終えるにあたりもう一度具体的に話をしたかったようです。 当時ガラテヤには、イエスキリストを信じる信仰だけでは救われないとふれ回っていたいわゆる偽教師たちがいました。 彼らはイエスキリストを信じることを否定はしませんでしたが、それに加えて割礼を施すことと、いくつかの律法を守ることを強要しました。 これは実のところキリストを信じる信仰によって救われることの否定であり、福音を福音でないものに変えてしまうことでした。 パウロは彼らが唱える言葉を他の福音と言って批判していますが、偽教師たちにとっての義はこれだったのです。 キリストを信じる信仰以外に自分たちが正しいと思うことを付け足してそれを自分たちの努力でもって成し遂げようとしていました。 今日はこれを自分自身の義と呼びたいと思います。 ここでもう一度最初に自問自答していただいた問いを思い浮かべてみてください。 「わたしは何を誇りとして生きているか」 もしキリスト以外の何かを誇りとするならば、自分自身の義に従って生きる生き方をしているのかも知れません。 今日はこのことをもう一度確認したいと思います。 1 二種類の義 聖書には二種類の義が登場します。 一つは神の義です。神の義とはこの脈絡でいうと、神の恵みによりイエスキリストを信じる信仰によって与えられる義のことです。これは賜物、贈り物として与えられるものです。 そしてもう一つは自分自身の義です。これは自分自身の努力によって律法を守り神から何かを得ようとすることです。 自分自身の義に囚われていると、それを土台として間違った信仰が生まれます。 神は律法を行うことによって義を得ようするなら全てを完璧に神が求める水準で守らなくてはいけないと言われました(3章10節)が、人間にはそれは不可能です。 だから自分自身の義を基礎にした信仰の人たちは、自分ができるところまでその水準を落とし、それを行うことで満足します。 本当はそれで律法を守ったことにはならないのですが、そんなことはお構いなしに自分で勝手に決めます。 そしてそれを十分守れている自分とそうでない他者を比較して他者を裁きます。 ルカの福音書 18章9~14節を共に読みます。 “自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」” ここにも自分自身の義と神の義が記されています。 自分自身の義を前面に押し出して正しさを主張するのはパリサイ人です。 彼は宮にのぼって立ち、他の人のようではないこと、特に取税人のようではないことを感謝しています。 そして断食をしたり、十分の一を捧げていることを誇っています。 彼にとっての義の基準がこれなのでしょう。 その基準に自分は一生懸命努力して達している。…

福音シリーズ⑤ キリストがのろわれた者となるほどに

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 3章13節 タイトル: 福音シリーズ⑤  キリストがのろわれた者となるほどに “‥福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。” ローマ人への手紙 1章16節 福音はわたしたちに救いを得させる神の力です。 そしてこの福音の核心こそイエスキリストの十字架です。 使徒パウロはコリント人への手紙第一において”‥私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。”(コリント人への手紙 第一2章2節)と語っています。 これはパウロの一貫した姿勢でしたが、哲学的論議を喜ぶコリントにおいては,特にこの姿勢を堅持する必要を覚えたのでしょう。 イエスキリストの十字架以外をわたしは顧みないというパウロの強い意志があらわれています。 ところでパウロがこれほどまでに訴える十字架とは一体何なのでしょうか。 今日は特に十字架にあらわれる福音について聖書から聴いていきたいと思います。 1 呪われた者 “キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。” ガラテヤ人への手紙 3章13節 十字架と聞くとみなさんはキリストの何をイメージされるでしょうか。 先週はメッセージの中でこの十字架によって神の愛が示されたというお話をしましたが、そもそも十字架の第一義的意味は愛ではありません。 十字架は呪いを象徴するものでした。 今日はこのことからお話ししたいと思います。 今読んでいただいたガラテヤ3章13節にも「キリストはわたしたちのために呪われたものとなって」とあるようにキリストはあの十字架で呪われたものとなられたのです。 ではなぜキリストは呪われたものとならなければいけなかったのでしょうか。これに答えるためには、わたしたちが本来呪われたものだったことについてお話しする必要があります。 ⑴ わたしたちは呪われた者 新約聖書での呪いとは神に捨てられ罪に支配されている状態のことです。 ポールウォッシャーという牧師がこの呪いに関して幸いの反意語であるとしてマタイの福音書5章の言葉を引用しながら説明していました。 天の御国に入る人は幸いです。そこへ入れない人は呪われています。 神に慰められる人は幸いです。神の怒りを受ける人は呪われています。 地を受け継ぐものは幸いです。地から追い出されるものは呪われています。 幸いな人は満ち足りています。呪われた人は悲惨であり不幸です。 幸いな人は憐みを受けます。呪われた人は容赦なく罪に定められます。 幸いな人は神を見ます。呪われた人は神の前から追い出されます。 幸いな人は神の子です。呪われた人は捨てられます。 本来わたしたち人は神に呪われたものでした。 神に捨てられ罪に支配されたものでした。 天の御国には入れず、神の怒りを受けるものであり、憐れまれることなく、ただ神の律法によって裁かれるだけです。神の子になどなれるはずもありません。 ただ神の前で裁かれ捨てられるだけの存在です。 それがわたしたちです。 わたしたちはこの本来の自分を教えられていく必要があります。 罪の話をすること、そして聞くことは、いずれも気持ちの良いものではありません。 しかし聖書に記されていることは、すべてわたしたちにとって必要なことです。 だから罪について語り、聞く必要があるのです。 一度イメージしてみてください。 神が裁きのための会議を開いています。 わたしもみなさんもその脇で会議の内容を聞いていたとしましょう。 神はこう言われます。 新しい世界を作るためには現在のこの世の状況はあまりにもひどい。 汚れているもの、汚染されたものたちを排除して、この世界を作り直そう。 なんと恐ろしいことを言われるのかとわたしたちは思うはずです。 ただこの時はまだ他人事です。 しかしその後、間髪入れずに神がわたしとみなさんの名前をいうのです。 「あの子はダメだ、罪に汚染されてしまっている。排除しよう。」と。…

福音シリーズ④  客観的事実と主観的事実

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章5−8節 タイトル: 福音シリーズ④  客観的事実と主観的事実 福音について続けてお話しさせていただいています。 ここ数ヶ月で大きく社会の状況は変わりました。今も変わり続けています。 私たちは心が揺るがされる経験を今まさに味わっているところです。 しかしその中でも揺るがされないものを掴んで生きていきたいのです。 それで福音についてまた改めて聖書から聴いていきたいと思いました。 これまでもそうだったようにどんどん状況は変わります。 状況に自分の心を置いていたらその度に心が揺るがされ乱されるでしょう。 しかし福音に根を張っていれば状況に左右されることはありません。 私たちがよって立つところはどこなのか。 今日もまた共に福音について聖書に聴いて確認していきましょう。 今日は特に神の愛についてお話しさせて頂きます。 1 神の愛の実態 神の愛ときいて皆さんはどんなことを思い浮かべられるでしょうか。 今日の聖書には神の愛についてはっきり記されていました。 “しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。” ローマ人への手紙 5章8節 この御言葉は神の愛についてなんと言っているでしょうか。 神の愛は、まだ罪人であった私たちのためにキリストが死んだことによってあらわされたと言っています。 十字架という客観的で歴史的事実の中で表されたということです。 神の愛は感情ではありません。 ローマ5章8節には、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことだと言います。これが神の愛のあらわれなのです。 キリスト者の中には、神の愛を主観的、感情的に体験することを求める人たちもいると思いますが、ローマ5章8節は客観的、歴史的事実としての神の愛を語るのです。 罪人であるわたしのために神の御子が自分の命を捨てられたこと。 この事実を事実としてどれだけ知っているかが重要なのです。 神の愛は私たちの宗教的な熱心さや献身でもって分かるものではありません。 私たちの側の条件や行動を根拠に悟ることのできるものではないのです。 何かをしたから何かを得られるというものではないのです。それはこの世の法則です。 神を信じているのに、その信じ方が世の法則にのっとっていては歪んだ信仰になってしまいます。 私たちが生きるべき神の国の法則は、何かをしたからではなく、ただ贈り物として与えられた神の愛、すでにおきた客観的事実である十字架による贖い、これを受け取り応えていくことです。 そのためには繰り返しこの客観的事実に触れることが必要でしょう。 そこで今日もこれからこの事実について触れてみたいと思います。 2 「正しい人」と「情け深い人」 “正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。” ローマ人への手紙 5章7節 この御言葉には分かりにくい部分があると思います。 「正しい人」のためにでも死ぬ人はほとんどありません。 「情け深い人」のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 正しい人と情け深い人の差は何なのでしょうか。 なぜ正しい人のためには死ぬ人がほとんどいないのに、情け深い人のためにはひょっとしたらいると言えるのでしょうか。 この言葉からすると正しい人よりも情け深い人の方が良いということですが、このままだといまいちピンときません。 ロイドジョンズ牧師がこの違いを解説していたので、引用します。 正しい人というのは、法を守り、戒めを尊ぶ人のことである。あれこれの細かい規則に従い、非常に品行方正な人である。 情け深い人というのは、正しい人がするようなことをすべて行うが、さらにその上をいく人のことである。情け深い人は単に正しいというだけでなく、愛に支配されている。 1ミリオン行けと言われれば、2ミリオンいく。 下着を求める人がいれば上着も与える。単に正しいだけではなく、それを超えて進む。 ただ正しいだけの人のためには人は死のうとは思いません。 しかしその正しさに加えて愛を持った人ならひょっとすると身代わりになる人がいるかも知れないというのです。 自分のことを愛し尊び命をかけて尽くしてくれる。そんな人のためだったら命を投げ出してでも助けようとする人がひょっとするといるかもしれないということです。 ローマ5章7節の意味は「わたしたち人は、正しいだけの人のためには死ぬことはない。しかし正しいだけではなくてその人が愛の人だったら、中には死ぬという人がいるかもしれません。」という意味です。 3 罪人のために死んだキリスト…