福音シリーズ⑥ 何を誇りとしているでしょうか

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 6章11~14節 タイトル: 福音シリーズ⑥ 何を誇りとしているでしょうか “ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。” ガラテヤ人への手紙 6章11~14節 今日もまた福音シリーズとしてお話しさせていただきます。 まず皆さんに自問自答していただきたいことがあります。 それは「わたしは何を誇りとして生きているか。」ということです。 パウロは今日のみことばの6章14節で”‥私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。‥”と言っていますように、ただイエスキリストの十字架だけを誇って生きた人でした。 しかし今日の聖書にはパウロとは違い、イエスキリスト以外を誇り他者を見下す偽教師と呼ばれる人たちが出てきます。 彼らはガラテヤ教会の人々に間違った福音を植えつけようとしていました。 そんな彼らの教えをパウロはここで痛烈に批判しています。 パウロはこうしてガラテヤの教会が間違った方向へ進むのを阻止しようとしているのです。 ガラテヤ人への手紙ではキリストの十字架から引き離すこの偽教師たちの動きを冒頭から指摘していました。1章6、7節がそれです。 “私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。” ガラテヤ人への手紙 1章6~7節 そしてその対処の一つとして本書を書き進めてきましたが、この手紙を終えるにあたりもう一度具体的に話をしたかったようです。 当時ガラテヤには、イエスキリストを信じる信仰だけでは救われないとふれ回っていたいわゆる偽教師たちがいました。 彼らはイエスキリストを信じることを否定はしませんでしたが、それに加えて割礼を施すことと、いくつかの律法を守ることを強要しました。 これは実のところキリストを信じる信仰によって救われることの否定であり、福音を福音でないものに変えてしまうことでした。 パウロは彼らが唱える言葉を他の福音と言って批判していますが、偽教師たちにとっての義はこれだったのです。 キリストを信じる信仰以外に自分たちが正しいと思うことを付け足してそれを自分たちの努力でもって成し遂げようとしていました。 今日はこれを自分自身の義と呼びたいと思います。 ここでもう一度最初に自問自答していただいた問いを思い浮かべてみてください。 「わたしは何を誇りとして生きているか」 もしキリスト以外の何かを誇りとするならば、自分自身の義に従って生きる生き方をしているのかも知れません。 今日はこのことをもう一度確認したいと思います。 1 二種類の義 聖書には二種類の義が登場します。 一つは神の義です。神の義とはこの脈絡でいうと、神の恵みによりイエスキリストを信じる信仰によって与えられる義のことです。これは賜物、贈り物として与えられるものです。 そしてもう一つは自分自身の義です。これは自分自身の努力によって律法を守り神から何かを得ようとすることです。 自分自身の義に囚われていると、それを土台として間違った信仰が生まれます。 神は律法を行うことによって義を得ようするなら全てを完璧に神が求める水準で守らなくてはいけないと言われました(3章10節)が、人間にはそれは不可能です。 だから自分自身の義を基礎にした信仰の人たちは、自分ができるところまでその水準を落とし、それを行うことで満足します。 本当はそれで律法を守ったことにはならないのですが、そんなことはお構いなしに自分で勝手に決めます。 そしてそれを十分守れている自分とそうでない他者を比較して他者を裁きます。 ルカの福音書 18章9~14節を共に読みます。 “自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」” ここにも自分自身の義と神の義が記されています。 自分自身の義を前面に押し出して正しさを主張するのはパリサイ人です。 彼は宮にのぼって立ち、他の人のようではないこと、特に取税人のようではないことを感謝しています。 そして断食をしたり、十分の一を捧げていることを誇っています。 彼にとっての義の基準がこれなのでしょう。 その基準に自分は一生懸命努力して達している。…

福音シリーズ⑤ キリストがのろわれた者となるほどに

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 3章13節 タイトル: 福音シリーズ⑤  キリストがのろわれた者となるほどに “‥福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。” ローマ人への手紙 1章16節 福音はわたしたちに救いを得させる神の力です。 そしてこの福音の核心こそイエスキリストの十字架です。 使徒パウロはコリント人への手紙第一において”‥私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。”(コリント人への手紙 第一2章2節)と語っています。 これはパウロの一貫した姿勢でしたが、哲学的論議を喜ぶコリントにおいては,特にこの姿勢を堅持する必要を覚えたのでしょう。 イエスキリストの十字架以外をわたしは顧みないというパウロの強い意志があらわれています。 ところでパウロがこれほどまでに訴える十字架とは一体何なのでしょうか。 今日は特に十字架にあらわれる福音について聖書から聴いていきたいと思います。 1 呪われた者 “キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。” ガラテヤ人への手紙 3章13節 十字架と聞くとみなさんはキリストの何をイメージされるでしょうか。 先週はメッセージの中でこの十字架によって神の愛が示されたというお話をしましたが、そもそも十字架の第一義的意味は愛ではありません。 十字架は呪いを象徴するものでした。 今日はこのことからお話ししたいと思います。 今読んでいただいたガラテヤ3章13節にも「キリストはわたしたちのために呪われたものとなって」とあるようにキリストはあの十字架で呪われたものとなられたのです。 ではなぜキリストは呪われたものとならなければいけなかったのでしょうか。これに答えるためには、わたしたちが本来呪われたものだったことについてお話しする必要があります。 ⑴ わたしたちは呪われた者 新約聖書での呪いとは神に捨てられ罪に支配されている状態のことです。 ポールウォッシャーという牧師がこの呪いに関して幸いの反意語であるとしてマタイの福音書5章の言葉を引用しながら説明していました。 天の御国に入る人は幸いです。そこへ入れない人は呪われています。 神に慰められる人は幸いです。神の怒りを受ける人は呪われています。 地を受け継ぐものは幸いです。地から追い出されるものは呪われています。 幸いな人は満ち足りています。呪われた人は悲惨であり不幸です。 幸いな人は憐みを受けます。呪われた人は容赦なく罪に定められます。 幸いな人は神を見ます。呪われた人は神の前から追い出されます。 幸いな人は神の子です。呪われた人は捨てられます。 本来わたしたち人は神に呪われたものでした。 神に捨てられ罪に支配されたものでした。 天の御国には入れず、神の怒りを受けるものであり、憐れまれることなく、ただ神の律法によって裁かれるだけです。神の子になどなれるはずもありません。 ただ神の前で裁かれ捨てられるだけの存在です。 それがわたしたちです。 わたしたちはこの本来の自分を教えられていく必要があります。 罪の話をすること、そして聞くことは、いずれも気持ちの良いものではありません。 しかし聖書に記されていることは、すべてわたしたちにとって必要なことです。 だから罪について語り、聞く必要があるのです。 一度イメージしてみてください。 神が裁きのための会議を開いています。 わたしもみなさんもその脇で会議の内容を聞いていたとしましょう。 神はこう言われます。 新しい世界を作るためには現在のこの世の状況はあまりにもひどい。 汚れているもの、汚染されたものたちを排除して、この世界を作り直そう。 なんと恐ろしいことを言われるのかとわたしたちは思うはずです。 ただこの時はまだ他人事です。 しかしその後、間髪入れずに神がわたしとみなさんの名前をいうのです。 「あの子はダメだ、罪に汚染されてしまっている。排除しよう。」と。…

福音シリーズ④  客観的事実と主観的事実

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章5−8節 タイトル: 福音シリーズ④  客観的事実と主観的事実 福音について続けてお話しさせていただいています。 ここ数ヶ月で大きく社会の状況は変わりました。今も変わり続けています。 私たちは心が揺るがされる経験を今まさに味わっているところです。 しかしその中でも揺るがされないものを掴んで生きていきたいのです。 それで福音についてまた改めて聖書から聴いていきたいと思いました。 これまでもそうだったようにどんどん状況は変わります。 状況に自分の心を置いていたらその度に心が揺るがされ乱されるでしょう。 しかし福音に根を張っていれば状況に左右されることはありません。 私たちがよって立つところはどこなのか。 今日もまた共に福音について聖書に聴いて確認していきましょう。 今日は特に神の愛についてお話しさせて頂きます。 1 神の愛の実態 神の愛ときいて皆さんはどんなことを思い浮かべられるでしょうか。 今日の聖書には神の愛についてはっきり記されていました。 “しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。” ローマ人への手紙 5章8節 この御言葉は神の愛についてなんと言っているでしょうか。 神の愛は、まだ罪人であった私たちのためにキリストが死んだことによってあらわされたと言っています。 十字架という客観的で歴史的事実の中で表されたということです。 神の愛は感情ではありません。 ローマ5章8節には、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことだと言います。これが神の愛のあらわれなのです。 キリスト者の中には、神の愛を主観的、感情的に体験することを求める人たちもいると思いますが、ローマ5章8節は客観的、歴史的事実としての神の愛を語るのです。 罪人であるわたしのために神の御子が自分の命を捨てられたこと。 この事実を事実としてどれだけ知っているかが重要なのです。 神の愛は私たちの宗教的な熱心さや献身でもって分かるものではありません。 私たちの側の条件や行動を根拠に悟ることのできるものではないのです。 何かをしたから何かを得られるというものではないのです。それはこの世の法則です。 神を信じているのに、その信じ方が世の法則にのっとっていては歪んだ信仰になってしまいます。 私たちが生きるべき神の国の法則は、何かをしたからではなく、ただ贈り物として与えられた神の愛、すでにおきた客観的事実である十字架による贖い、これを受け取り応えていくことです。 そのためには繰り返しこの客観的事実に触れることが必要でしょう。 そこで今日もこれからこの事実について触れてみたいと思います。 2 「正しい人」と「情け深い人」 “正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。” ローマ人への手紙 5章7節 この御言葉には分かりにくい部分があると思います。 「正しい人」のためにでも死ぬ人はほとんどありません。 「情け深い人」のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 正しい人と情け深い人の差は何なのでしょうか。 なぜ正しい人のためには死ぬ人がほとんどいないのに、情け深い人のためにはひょっとしたらいると言えるのでしょうか。 この言葉からすると正しい人よりも情け深い人の方が良いということですが、このままだといまいちピンときません。 ロイドジョンズ牧師がこの違いを解説していたので、引用します。 正しい人というのは、法を守り、戒めを尊ぶ人のことである。あれこれの細かい規則に従い、非常に品行方正な人である。 情け深い人というのは、正しい人がするようなことをすべて行うが、さらにその上をいく人のことである。情け深い人は単に正しいというだけでなく、愛に支配されている。 1ミリオン行けと言われれば、2ミリオンいく。 下着を求める人がいれば上着も与える。単に正しいだけではなく、それを超えて進む。 ただ正しいだけの人のためには人は死のうとは思いません。 しかしその正しさに加えて愛を持った人ならひょっとすると身代わりになる人がいるかも知れないというのです。 自分のことを愛し尊び命をかけて尽くしてくれる。そんな人のためだったら命を投げ出してでも助けようとする人がひょっとするといるかもしれないということです。 ローマ5章7節の意味は「わたしたち人は、正しいだけの人のためには死ぬことはない。しかし正しいだけではなくてその人が愛の人だったら、中には死ぬという人がいるかもしれません。」という意味です。 3 罪人のために死んだキリスト…

福音シリーズ③ 罪の起源と現在

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:創世記 3章1~6節 タイトル: 福音シリーズ③ 罪の起源と現在 “さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。” 数週間前から2回ほど福音についてメッセージさせていただいています。 今回も福音についてですが、特に罪の起源と現代の私たちへの影響についてお話ししたいと思います。 1  罪の本質 今日の聖書はアダムとエバが罪を犯す場面です。 罪と言いましても、木の実を食べるという外形にだけ注目すると、さほど悪いことではないように思います。 なぜこれが罪の始まりと言えるのでしょうか。 この問題の本質は神が「とって食べてはいけない」と言われたにもかかわらず、それを食べたことです。 神が与えたルールを破ったことが問題でした。 神への不従順です。 不従順の裏には、神の御言葉への不信と自分が神になろうとする自己主張と傲慢があります。これこそ罪の始まりなのです。 創造主から独立して自分の力で生きようとしました。 自分の思い通りに願い通りに生きようとしたということです。 2  アダムとエバの決断の過程 ではどのようにして人は神の言葉に従わない決断をしたのでしょうか。 まず蛇がエバに言いました。 「あなたがたは園のどの木からも食べてはならないと神は本当に言われたのですか。」 実際の神の言葉と比較してみましょう。 “神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」” 創世記 2章16~17節 神は「どの木からでも思いのまま食べて良いと」言われました。 全く神が言ったこととは正反対のことを蛇は言っています。 一見的外れな言葉のように見えます。 しかし後半部分を見るとここが蛇の狙いだったのではないでしょうか。 「神は本当に言ったのか」と、神が言った言葉に疑問を持たせようとしているようです。 神の言葉に対する疑いの入り口へと誘う蛇の策略が見えるところです。 「本当にそのように言ったのですか。もう一度考えてみてください。」 これが蛇が言いたかったことです。 これに対しエバは言いました。 「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。」 これも実際の神の言葉と比較してみましょう。 ‥「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」(創世記2章16節) 同じでしょうか。違うでしょうか。 神は人に対して自由を与えてくれています。 園のどの木からでも「思いのまま」食べて良いと。 しかしエバの言葉からは「思いのまま」という言葉は抜け落ちてしまっています。 神は自由をめいいっぱい与えてくれています。その上で限定を加えています。 しかしエバはあたかも縛られているかのように言うのです。 比較するとそれがより際立ちます。 これは神の言葉の歪曲です。 罪は今でもこのようにして行われます。 神の言葉に疑問を抱きさらにそれをねじ曲げて神に敵対します。…