福音シリーズ⑨ キリストの復活

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:コリント人への手紙 第一 15章12~19節 タイトル:福音シリーズ⑨  キリストの復活 不安定な社会情勢が続いていますが、だからこそ今日も聖書の言葉に聴きたいと思います。 特に続けて見ております福音についてですが、今日は福音シリーズの第9回目になります。 タイトルはキリストの復活です。 キリストの復活は、彼の十字架と贖罪と同じように歴史的客観的事実です。聖書は復活の出来事について色々な角度から証ししています。 “女たちはイエスのみことばを思い出した。 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕” ルカの福音書 24章8~12節 “十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」” ヨハネの福音書 20章24~29節 これらの御言葉からも分かる通り、イエス様と一番長く共にいた弟子たちも復活は信じられませんでした。 女性たちがイエス様の復活を伝えても彼らは信じませんでした。 イエス様はそんな弟子たちのもとに現れました。 またその時いなかったトマスのためにも現れました。 第一コリント15章6節には”‥キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。‥”とあるように、イエス様は復活された後そのことを多くの弟子たちに現れて知らせました。 そしてご自身をあらわされた様子から、私たちはイエスさまが十字架刑までの肉体を持っておられたことと、同時にその肉体が全く同じではないことを知ることができます。 先ほどお読みしましたペテロが墓に行って中を確認する場面を見てもおわかりの通り、そこにはイエス様の死体がありませんでした。イエス様の肉体を包んでいたはずの亜麻布だけがあったのです。 つまり以前の肉体を持って復活されたということです。 イエス様は復活された後40日間弟子たちの前に現れました。 その時彼は釘に打たれて穴があいた手や、槍に貫かれた脇腹を見せました。これは十字架刑までの体であることの証明と言えます。 しかし一方で違う部分もありました。 弟子たちがイエス様のことをイエス様と認識できなかったり、突然現れたかと思えば見えなくなったりしました。 このように十字架刑までの体であることと同時に全く同じ体ではないことを示していかれたわけです。 とても不思議な姿に変えられてよみがえられたイエス様ですが、今日はこの復活の意味をもう少し考えてみたいと思います。 1  イエスキリストの復活の意味 イエスキリストの復活には独特な意味があります。 どのあたりが独特かを説明するには聖書に記されている他の人の復活と比較するとよくわかります。 新約聖書で復活した人というとラザロやヤイロの娘がいますがこの二人は復活はしましたが、この地上の生を全うすれば死ぬ体のままでした。 しかしキリストは復活して再び死ぬことはありませんでした。 彼は復活し弟子たちの前に現れ、その後そのまま天に昇られました。 そして今も生きておられ、永遠に生きておられる方です。 “キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。” ローマ人への手紙 6章9~10節 ラザロやヤイロの娘の復活はただこの地上での命を伸ばすだけのものとも言うこともできます。 彼らはいずれも以前の生活領域に帰っただけであり、いずれはもう一度死んだはずだからです。 しかしキリストの復活はただ命を伸ばす程度のものではなく、逆戻りしているわけではありません。 昇天に至る道に前進しているのです。 これまで誰も進めなかったところに道を作り進んでいかれたのです。 彼は罪と死の権勢に完全に打ち勝ちました。 ここが大きく違うところです。 これがイエスキリストの復活の意味です。…

福音シリーズ⑧ キリストは神でありながら完全な人となった

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ピリピ人への手紙 2章6〜11節 タイトル:福音シリーズ⑧ キリストは神でありながら完全な人となった “キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。” ピリピ人への手紙 2章6~11節 先週はキリストとの結合についてお話ししました。 パウロはクリスチャンのことを「キリストにあって」「キリストのうちにある」と表現します。これは、キリストとの結合を指している言葉です。 クリスチャンはキリストと結合した者なので、キリストによる罪のゆるしと義が与えられています。 今日はこの結合が可能となった根本的理由について考えて見ます。 結合の根本的理由とは、神の御子イエスキリストが人となられたことです。 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(6、7節) このように彼はご自分を無にして人間と同じようになられました。すなわち人としての性質をもたれたということです。 人の身代わりとなれるのは人だけです。だからイエスキリストは人となられたのです。彼が人となられたからこそ、人である私たちは彼につながることができます。 彼は人としてこの地で生きられました。 律法の下にある者として完璧に律法を守り通されその絶頂としてあの十字架にかかられ律法を成就されたのです。 彼の犠牲は十字架だけではなく、神の栄光の座を離れ、私たちと同じ人となられたことです。そしてご自身が造ったこの世界で生きたすべての過程です。 “この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。”とヨハネの福音書1章10節にあります通り、私たちの全く知らないところで、彼は歩まれご自身の使命を成し遂げられたのです。 今日はここからキリストが人となられたことについて見ていきます。 最初に考えてみたいのがキリストの受肉について、つまり誕生についてです。 1 キリストの受肉 ⑴  ①先ほども申し上げた通り、キリストは神の王座を離れ人となられました。 しかしこれは神であることを捨てたという意味ではありません。 神でありながらそこに人性を加えられたということです。 ですからキリストの本性は父なる神と変わりません。 ただ地上での生涯の期間は、自ら制限を受けたということです。 例えばキリストは神なのであらゆるところに同時に存在する力を持っていました。 しかし受肉した者として、人間の体を所有していたという環境がその力の行使を制限したのです。 これは足の速い人が遅い人と二人三脚をすることに例えることができます。 足の速い人はその足の片方を足の遅い人の足につないでおかなくてはいけません。 身体能力は減少していませんが、その能力を行使する条件は厳しい制限を受けています。これが受肉のキリストの状態です。 このランナーが束縛を解いて走れば、早く走ることができますが競技が続く限り自ら制限するのを選ぶのと同じように、キリストの受肉も自発的に選び取ったことであり、この地上にいる間自らその力を制限されたのです。 これがキリストが人性を加えられたということの意味です。 ②またこの受肉に関して重要なもう一つのことは、イエスの人性は罪深いわたしたち人間の人性ではないということです。 当然のことと言えば当然なのですが、一度整理しておきますと、キリストの人性はこの世界に存在した人で最も近い人を挙げるなら堕落前のアダムです。 もっと正確にいうならば、この世界が終わり全き者に変えられた者たちの人性です。 つまりキリストは単にわたしたちと同じく人であったのではなく、わたしたち以上に人らしい性質を持ってこの世界にこられたということです。 本来の人の形、神がよしとされた人の形が、あのキリストの中に存在していたのです。 ⑵ 馬小屋での誕生 神が人となるわけですから、これだけでもとてつもないことなのですが、さらに続いてこの世界に降りてこられた環境にも目を向けたいと思います。 彼はこの世の王族に生まれるわけでもなく、富や地位のある家に生まれるのでもなく、当時のイスラエルの全く平凡な家庭に生まれました。しかも全く人の注目を集めないベツレヘムという小さな町の馬小屋で生まれ飼い葉桶に寝かされたのです。 彼は人の内でも最も低い仕方で、お生まれになりました。 2 人間としての弱さ “そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。” マタイの福音書 4章2節 ここにはキリストがお腹を空かせたことが記されています。食べないと生きていけない肉体を持っていました。 “そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。” ヨハネの福音書 4章6節…

福音シリーズ⑦ アダムからキリストへ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章12~21節 タイトル:福音シリーズ⑦ アダムからキリストへ ここ最近また感染者が増え情報が錯綜し状況が不安定になっています。昨日熊本では大雨による大変な被害でした。九州への大雨の被害はこれで4年連続となったそうです。ニュースでは記録的豪雨という言葉が飛び交っています。ここ数年大雨のたびにこの言葉を聞くようになったように思います。やはり気候自体が変わってきているのかもしれません。ウイルスの蔓延、気候変動、バッタによる食糧危機まで騒がれはじめたこの時、私たちは何を支えに生きていけば良いのでしょうか。この問いに私はやはり福音であると申し上げたいです。今日で7回目となりますが今日も聖書から聴いていきたいと思います。 わたしたちはイエスキリストを信じる信仰により罪のゆるしを受け、義人とされました。それはわたしたちの罪がキリストに転嫁され、キリストの義がわたしたちに転嫁されたからです。 今日はローマ書5章から特にこの転嫁がどのようにして起こるのかを見ていきたいと思います。 1  二人の人 この世界が始まって以来、数えきれない人々が生まれては死んでいきました。この世界を造られ人を造られた神はその一人一人のことをよくご存知です。 しかし罪と義、死と命に関して、神は人類を二人の代表を通して見ておられます。 その二人とはアダムとイエスキリストです。 まずこの点に関してアダムについて話し、その後キリストについてお話ししたいと思います。 ⑴ アダム 全ての人類は生まれたままの状態ではアダムにつながっています。全ての人がアダムの内にいるのです。アダムは人類の代表です。 アダムが罪に堕ちたその結果はアダムとつながっている人類、アダムの内にいる全ての人のものということです。 アダムが罪を犯し死ぬものとなった時、全ての人はアダムの内で罪人となったということです。 そのことが5章12節に記されていることです。 “そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。” ローマ人への手紙 5章12節 さらにコリント人への手紙にもこう記されています。 “‥アダムにあってすべての人が死んでいる‥” コリント人への手紙 第一 15章22節 そしてこのことをローマ5章13、14節では論証しています。 “というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。” ローマ人への手紙 5章13~14節 アダムは善悪の知識の木の実を食べてはいけないという法を直接神から与えられました。そしてモーセもあのシナイ山で神から律法を与えられました。 このように法が与えられるからこそ、それに対する違反も成立します。罪人と判断されるということです。 「罪は何かの律法がなければ、認められないものです」とはそういう意味です。 ところが罪の報酬である死はアダムとモーセの間の時代を生きた人々の間にも存在し続けました。彼らには直接神から法が与えられていないにも関わらずです。 “セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。” 創世記 5章5~20節 ここからアダムの堕落の結果が子孫たちに及びアダムの罪が子孫たちの罪となっていることがわかります。 アダムの代表性というものがここで証明されているのです。 全ての人は自分の行動とは関係なくアダムにあって罪人なのです。 ではここからもう一人の代表であるイエスキリストについてお話しします。 ⑵ イエスキリスト…