出エジプト記シリーズ03 神の意志に生かされて

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/eJsIflQO4i8 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:出エジプト記3章13-14節 タイトル:神に意志に生かされて “モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」” 出エジプト記 3章13~14節

出エジプト記シリーズ02 何者でもないわたしを

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/nEPraa7K-Dk 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:出エジプト記3章1-12節 タイトル:何者でもないわたしを “モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」” 出エジプト記 3章1~12節

出エジプト記シリーズ01 嵐を超える神のかご

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:出エジプト記2章1〜10節 タイトル:嵐を超える神のかご 1 序 一体どうすればこの問題が解決するのだろうか。 糸口すらも見えないそんな時が私たちの人生には幾度もおとずれます。 みなさんはそんな時どのように対処されますか。 今日はある信仰深い女性のお話ですが、ここから私たちの生き方を変えるヒントを掴みたいと思います。 2 ストーリー この物語は、ヘブル人たちがまだエジプトにいた頃のことです。 かつてヨセフというヘブル人によって食糧危機を乗り越えたエジプトでしたが、それから何年も後、エジプトの人々はヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。 そしてヨセフの子孫たちがどんどんエジプトの地で増えていくのをよしとせず、恐れさえしました。 彼らはなんとかヘブル人たちをおさめようとして奴隷にしてしまいます。 さらに王様は、ヘブル人から生まれた男の子は、ナイル川に投げ込んで殺すようにという命令まで出しました。 さてこのように大変な状況に置かれていたヘブル人たちでしたが、ある時一人の人が結婚し夫婦の間に、男の子が生まれました。 この夫婦の名前はここには出てきませんが、民数記26章59節を見ると、わかります。 “アムラムの妻の名はヨケベデで、レビの娘であった。彼女はエジプトでレビに生まれた者であって、アムラムにアロンとモーセとその姉妹ミリヤムを産んだ。” 民数記 26章59節 夫はアムラム、妻はヨケべデといいました。 2節を見ますと、ヨケべデは生まれた子が「かわいいのを見て三ヶ月の間‥隠しておいた。」と記されています。 かわいいという言葉は、ヘブライ語聖書ではトブというのですが、外見を見てただ「かわいい」という意味だけではなく他にも多くの意味があります。 他の箇所でこの言葉は、優れているとか、尊いとか、貴重という意味で使われています。 この男の子は、その存在が尊く、貴重であり、優れていたということなのでしょう。 さらに「見た」と訳されている言葉は、ヘブライ語ではラアといい、外見だけを見るのではなく、その存在が一体どんなものなのかを知ることであり悟ることです。 ヨケベデは、この子に神の計画を見たのではないでしょうか。 神が尊く用いてくださる特別な器として彼女は受け取ったのだと思います。 母親としてなんとしても我が子には生き延びてほしいという思いと、神様から与えられたこの信仰によって彼女は三ヶ月の間隠しておきました。 エジプトの王パロの命令は絶対です。 そのパロが「男の子が生まれたらナイル川に投げ入れて殺せ」と言ったのですから絶対に守らなくてはいけません。 しかしヨケべデはこれを破りました。命懸けでこの子を守ろうとしたのです。 ところが子どもは泣きます。 月齢が増えれば増えるほど、泣き声も大きくなります。 それで3節「隠しきれなく」なって、このままでは殺されてしまうと考えたのでしょう。 パピルスのカゴに瀝青と樹脂を塗って防水し、子どもをそのカゴの中に入れて、ナイル川の茂みの中に置きました。 そしてその子の姉は、弟がどうなるかを離れたところで見ていました。 するとそこにパロの娘がやってきて、そのカゴに気づきました。 召し使いにとって来させて蓋を開けると、自分の父親が迫害しているヘブル人の男の子が入っていて泣いていました。 「なんと」という言葉が入っているので、彼女が大変驚いたことがわかります。 おそらくこれまでもヘブル人に対する仕打ちについて話は聞いていたでしょう。 しかしこうして目の前で犠牲になろうとしているヘブル人の男の子を見て、彼女はかわいそうに思いました。助けてあげたいと思ったということです。 その様子を見ていたこの男の子の姉は、パロの娘の前に出て言いました。 私が行って、ヘブル人の中から乳母を呼んで参りましょうか。 このタイミングで出ていけば、偶然ではないとわかったはずですが、パロの娘は行ってきておくれと頼みました。 それで、この子の実の親である母親を連れてきて、乳母として紹介したのです。 こうして実の母親であるヨケベデは、生きながらえた息子と再会して、実の親でありながら育ての親として養育しました。 そしてこの子が大きくなった時、パロの娘のところへ連れて行きました。 パロの娘はその子にモーセという名前をつけました。 エジプトの言葉で、「水」と「引き出される」という意味を合わせた名前です。 こうしてモーセはナイル川から引き出されて救われました。 神の強力な御手による業以外の何物でありません。 モーセは後にヘブル人がエジプトから救われる時に大きく用いられます。 これが今日の大まかなストーリーです。 ここから今日もいくつかポイントを上げてお話ししたいと思います。 3 パピルスのかご まずパピルスのかごについてです。…

復活に生きる

イースター礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書3章1〜5節 タイトル:復活に生きる “さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。” ヨハネの福音書 3章1~5節 序 今日はイースター礼拝、イエスキリストの復活を記念する礼拝です。 イエスキリストは十字架にかかられ死なれましたが、三日目に復活し弟子たちの前に現れました。この出来事は、十字架の死が敗北ではなく、勝利であったことの証明です。神のご計画の通りに、神の御子イエスキリストはこの地上に来られ100%神様の言葉に従い、神の御心の通りに、十字架へとかかり殺されました。それは私たちの救いのためでした。そしてキリストは死を打ち破り三日目に復活されました。そして弟子たちの前に現れ、さらに弟子たちの目の前で天に昇っていかれました。今もイエスキリストは生きておられます。 今日はイースター礼拝ですので、イエスキリストの復活に関するお話ですが、特に私たちの内面との関連で、復活の話をしたいと思います。 1 ヨハネの福音書3章1〜5節の概略 この箇所は、ある夜のことイエス様のもとにユダヤ人の指導者であるニコデモという人がやってきた時のことについて書かれています。 ニコデモはイエス様に何かを聞きに来たようです。 それを察してイエス様は答えました。 “「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」”(3章3節) するとニコデモは、年をとったものが、もう一度母親のお腹の中に入って、また出てくるなんてことはできないでしょうと言いました。 イエス様はご自分が言ったことを理解できていないニコデモに対して再度言いました。 “「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。”(3章5節) 今日の箇所は大体このような流れになっています。 ニコデモという人とイエス様の対話です。 この中に大切な言葉が記されていますので、いくつかピックアップしてお話しします。 2  3節の説明 まず3節のイエス様の言葉の説明からお話します。 ⑴3節の最後のところに注目してください。 ここには「神の国を見ることはできません」と記されていました。 この神の国とは死んだ後に行く天国のことも含まれる言葉だと思いますが、神の国というのは、神の統治のことです。王である神がおられ、その王の言葉を忠実に聞く民がいる状態のことです。ですからこの世界を去る前であっても、私たちが神の言葉を聞き、それに従うならば、神の国に生きるているということができます。 しかし神の言葉を聞いてそれに従うことは簡単なことではありません。 ニコデモもそのことをよく知っていたのだと思います。 民の指導者でありながら、行き詰まりを感じた彼は、答えを持っているイエスキリストのもとにやってきました。 するとイエス様は、新しく生まれなければ神の国に生きることはできないと言いました。 神の国に生きることができていないニコデモにとって必要な言葉をここで語っておられるということができます。 新しく生まれたら、神の国に生きることができる。 つまり神の言葉を聞いてそれに従って生きていける方法をイエス様はここで伝えているのです。 ⑵ではこの新しく生まれるとは一体どういう意味なのでしょうか。 「新しく」と翻訳されている言葉は、本来アノウデンというギリシャ語です。この言葉には「上から」や「もう一度」という意味があります。 つまり新しく生まれるというのは、上から生まれることであり、もう一度生まれることということができます。 「上から」生まれるというのは、この地上の何かによってではないということです。上からというのは、つまり天から、神から与えられるものだということ、恵みによるものだということを意味しています。 では「もう一度」とはどういうことでしょうか。 私たちはすでに一度生まれています。 私たちそれぞれこの世界に誕生しました。 しかしこの一度目の誕生というのは、アダムの子孫としての誕生です。 生まれた時から、罪の中にいて、死を抱えた状態にあります。 イエス様はそのままでは神の国に生きることはできないと言われました。 つまりそのままの状態では神の言葉に従って生きることはできないということです。 ではどうすれば良いのか。 それがもう一度生まれるということなのですが、このもう一度生まれるという言葉の意味は、アダムの子孫としての自分の死を意味しています。 一度私たちは死ななくてはいけないということです。 その上でもう一度生まれなくてはいけないのです。 つまり新しく生まれるというのは、一度死んで復活することを意味する言葉なのです。 しかしこんなこと私たちにはできません。 だからニコデモも意味が分からなくて、もう一度母親のお腹の中に入って出てこいということですかと、ありえない質問を4節でしているのです。 では私たちはこのイエス様の言葉をどう理解したら良いのでしょうか。…