イエスキリストのたしかさ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書23章34〜43節 タイトル:イエスキリストのたしかさ 皆さんは自分の本当の姿が現れる瞬間はいつだと思われますか。 人は多くのアクセサリーや仮面をつけて生きているように思います。 しかしどんな人もこれら全てを外さなくてはいけない時があります。 それは死に直面した時です。 そこにはもはや自分をよく見せたりする余裕もありません。 今日のお話には、死に臨んでいる3人の人が出てきます。 死に臨んで、仮面を外し、本当の姿が現われてくるとすれば、この3人の人の素顔とはいったいどの様なものなのでしょうか。 そしてこのお話は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。 1 ⑴まず一人目はイエスキリストです。 彼は神の一人子であるにもかかわらず、その王座を惜しまずにこの地上に来られ、100%神でありながら100%人としての生涯を過ごされました。 30歳まで大工として過ごし、家族を養い、その後神の教えを伝えるものとして3年半生き、今日の聖書の箇所では、十字架にかけられて命を断たれようとしています。 彼はこの時まさに死に直面しているわけです。 その十字架で語られた最初の言葉が「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」でした。 死に直面して本当の姿が現れるとするなら、イエスキリストの本当の姿はまさに私たちを救うため、とりなすため、ゆるすために来られた救い主だったということができます。 イザヤ書53章にはこう書かれています。 “しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。” イザヤ書 53章5~8節 イエスキリストは、この旧約聖書の預言の通りに生き、そして死んだ救い主でした。 十字架にかけられても、恨み言ひとつ言わず、罵られても言い返しませんでした。 そればかりか、十字架上でゆるしを祈られたのです。 彼はまさに旧約聖書に記された救い主でした。 ⑵では二人目はどうでしょうか。 イエス様の隣で十字架にかけられた死刑囚です。 彼はイエス様にこう言いました。 「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」 彼はどうしてこんなことを言えたのでしょうか。 キリストだとは信じていない彼が、イエスをキリストというのは、嘲り以外の何ものでもありません。 何か周囲の言葉に影響されるように、イエス様を嘲っているようにも見えます。 死に直面して本来の姿が現れるとするなら、この死刑囚の本来の姿とは一体どういうものなのでしょうか。 目の前に神の一人子がいても気づかず、周りに流されて嘲りを重ねてしまう。そんな姿こそ彼の本来の姿でした。 そしてこれこそまさに人間の姿ではないでしょうか。 自己の罪を認めず、他人を非難することに忙しい。 それは死に臨んでも変わることなく、それどころか、いよいよ激しさを増すのです。 そしてその非難の矛先は神の一人子にまで及びます。 ⑶ では3人目はどうでしょうか。 この人も先ほどの人のように自らの罪のために死刑になった人です。 しかし先ほどの人とは正反対のことを語ります。 “ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」” ルカの福音書 23章40~41節 この人はまず先程の死刑囚の言葉をたしなめて言いました。 「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」 そしてさらに自分の罪についての話しに及びます。 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」 そしてイエスさまに罪がないことにまで彼の言葉は及びます。 「この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 どうしてこの人は、先程の囚人とは違う思いになったのでしょうか。…

神が準備した人々

https://youtu.be/nzhQkywkCfs 主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルツ記3章1〜18節 タイトル:神が準備した人々 先週はルツ記の2章を見ました。 今日はその続きを見ていきます。 ベツレヘムが飢饉となり外国のモアブへと移り住んだエリメレクという人と、その妻のナオミ、そして二人の息子がいました。しかしナオミの夫のエリメレクはそこで死んでしまいます。息子たちは現地の女性と結婚し5人家族になりますが、約10年後にこの息子たちも死んでしまい、ナオミと二人の嫁だけが残されました。 そんな折に飢饉だった故郷のベツレヘムを神が顧みてくださり食物が取れるようになったことを知ってナオミは嫁のルツと共にベツレヘムへと向かいそこで暮らし始めました。 ルツは姑との暮らしのために落穂を拾って生計を立てることを試みます。 ある畑にやってきたルツはそこではからずもボアズという人に出会いました。 この人はナオミの親類であり、エリメレクの土地を買い戻す権利のある人でした。 そこでルツは大変よくしてもらってお土産まで持ってナオミのもとに帰りました。 ナオミはルツがボアズと出会ったことを知って喜び、ボアズのすすめの通りルツにボアズの畑でのみ落穂ひろいをするようにと言いました。 こうしてナオミとルツはベツレヘムで生活していました。 3章はこの後の話です。 1  ある日、ナオミはルツに言いました。 あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所をさがしてあげないといけない。 そうして、ボアズが親戚であることを伝えます。 2章20節でもナオミはルツにボアズが近親者で、買い戻しの権利のある人だということを伝えていましたが、ここでまた改めてボアズが再婚相手に最適であると言うのです。 さらに、3、4節を見ますと、ボアズにどのようにアプローチすべきかをレクチャーしています。 ルツはナオミの言った通りに全て行うことを約束し、実際にボアズのところに行って、その通りにしました。 ナオミが言ったことの中に「足のところをまくってそこに寝なさい」というものがありましたが、ルツはボアズが気付かぬ内にその通りにしました。 夜中になると、彼は驚いて目を覚まします。 そして自分の足元に誰か、女性がいるのがわかったので、あなたは誰かと尋ねました。 これにルツは答えるのですが、この言葉が非常に印象的なものになっています。 “‥「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」”(3:9) 「おおいをひろげて、おおってください」という言葉の意味は、結婚してくださいということです。(エゼキエル書16章8節参照) ルツはここで非常に大胆な行動に出ました。 ルツの方からボアズに対してプロポーズしたのです。 ボアズはこれを受け取り全て理解しました。 そしてルツを褒めます。 それが10節の言葉です。 “すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。” ルツ記 3章10節 あなたの「後からの真実」は、「先の真実」にまさっていますとボアズは言いますが、この「先の真実」というのは、これまでボアズが聞いてきたルツのナオミに対する誠実な行動のことだろうと思います。 すなわち、ルツには、モアブに残って新しい家族を見つけるという選択肢があったにもかかわらず、姑のナオミと一緒にベツレヘムに来て共に暮らすことを選んだことです。また、落穂拾いをしてナオミと一緒に暮らしていくために一生懸命働いていたことでしょう。 これが「先の真実」です。 しかしこれよりも「後の真実」の方が素晴らしいとボアズは褒めました。この「後の真実」と関連しているのが、10節の後半部分です。そこにはこうありました。「あなたは貧しい者でも、富むものでも、若い男達のあとを追わなかったからです。」ここからボアズがルツよりもかなり年上なのではないかと推測できます。年齢を重ねた彼よりも他の若い男性と結婚した方がルツ一人にとってみれば良いことだと彼は思っていたのかもしれません。しかしその選択をせずに、ナオミのことを思って、買い戻しの権利があるボアズのところにやってきたことを「後からの真実」と言ってたたえているのです。 あなたは自分一人のためだけの幸せではなく、姑とまたその家の幸せになる方法を選んだ真実な人だということなのでしょう。 ただし、「ではすぐ結婚しましょう」ということではなく、決められた順番があって、それによると自分が二番目なので、一番目の人が受け入れてくれたらその人のところに行くように言い、もしその人が権利を放棄したら自分が受け入れると約束しました。 こうしてルツはボアズの隣で何事もなく明け方の暗いうちまで過ごして、周囲の人々に見られて誤解をされないように、外套をきて、ボアズに大麦6杯ももらって帰って行きました。 ナオミはこの話をルツから聞き、ボアズが行動を起こすまで待つようにと言いつけて3章は終わります。 これがルツ記3章のだいたいのストーリーです。 今日もこの中からいくつかピックアップしてお話します。 2  ルツの真実 まずルツの真実についてです。 ルツはまだモアブにいる頃、実家に帰るようにナオミに言われた時、こう答えました。 “ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」” ルツ記 1章16~17節 今日は特に17節のところに注目したいのですが、ここで「あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたい」とまで言っています。これは単なる強調表現ではありません。日本のお墓もそうですが、当時のこの地域のお墓も死んだ人の骨をその家の先祖達と同じところに入れました。 つまりこのルツの言葉というのは、ナオミと一緒のお墓に私は入りますという意味であり、ナオミを見捨てて他の家に行ったりはしませんという誓いの言葉なのです。 そしてルツはこの言葉の通りに、行動しました。…

はからずも

https://youtu.be/GAaSjxDsqz4 主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルツ記1章19〜2章20節 タイトル:はからずも “それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか」と言った。 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」” ルツ記 1章19~21節 先週はルツ記の1章18節まで見ました。 今日はその続きを見ていこうと思います。 ベツレヘムが飢饉となり外国のモアブへと移り住んだエリメレクという人と、その妻のナオミ、そして二人の息子がいました。しかしナオミの夫のエリメレクはそこで死んでしまいます。息子たちは現地の女性と結婚し5人家族になりますが、約10年後にこの息子たちも死んでしまい、ナオミと二人の嫁だけが残されました。 そんな折に飢饉だった故郷のベツレヘムを神が顧みてくださり食物が取れるようになったことを知ってナオミは故郷へと向かいます。途中嫁たちに実家に戻って再婚相手を探すように強く勧めたナオミでしたが、二人の嫁のうちの一人ルツはどうしても帰ろうとせず、共にベツレヘムへと帰ってきました。 「あなたの神は私の神」というルツの言葉から、すでにルツには神を信じる信仰が与えられていることがわかりました。 1 今日はこの二人がベツレヘムに到着したところから見ていきます。 ベツレヘムにつくとナオミとルツのことで人々が騒ぎ出しました。 その中にはナオミの名前を呼ぶ人もいました。 しかしナオミは「私をナオミとは呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。 ナオミとは快いという意味ですが、マラとは苦しみという意味です。 ナオミの人生に起きたことはとても快いと言えるものではありませんでした。だから彼女はもうマラと呼んでほしい苦しみと呼んでほしいとさえ言ったのです。 この箇所は彼女の哀しみの歌、哀歌と呼べる箇所です。 彼女にとって、夫を失ったことも息子たちを失ったことも本当に苦しく悲しい出来事でした。当然このことだけでも十分苦しいわけですが、さらに大きな問題としてナオミの前に残されたのが、彼女が神を信じる人であったことと関連しています。神を信じる人であったことの何が問題なのでしょう。それは神が最善であるにもかかわらず、自分が神を信じるものであるにもかかわらず、夫と息子が死んだことです。このような場合、私たち人間はどこかに原因を探します。ひょっとしてあれがいけなかったのではないか。これがいけなかったのではないか。何か理由を探しては、それが原因で悪いことが起きたのかもしれないと納得しようとします。しかし実際は悲惨な出来事とその人個人の善悪は関係がありません。もし善人と呼ばれる人の人生が順風満帆で、悪いことをしている人の人生が困難ばかりであれば、そのように説明することもできるかもしれませんが、そんなことはないのです。 ですからナオミもこう言っています。 “ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」” ルツ記 1章20~21節 ここには、ナオミの苦い思いが色濃くあらわれています。 しかし特定の罪のために自分にこういうことが起きたとは言いません。 ただ神のゆるしがなくては、どんなことも起きないという前提に立って語っているに過ぎません。 ナオミもどうして自分にこんな不幸がやってきたのかがわからないのです。 聖書もこのことに答えてはいません。 ですから私たちもどうしてなのかわかりません。 突然の事故や病気、自然災害で家族が失われた時、私たちはその理由を知ることはできません。 ただ神のゆるしなしには起こり得ないことだということだけが残ります。 ナオミはまさにそのような状態でした。 非常に大きく重い難問をナオミは抱えたまま故郷に戻ってきたのだと思います。 しかし神はナオミをそのままにはしません。 これから空っぽの状態になってしまったナオミに神は祝福を注いでいかれます。 ナオミはこの神様の祝福を味わうたびに、下を向いていた顔を上へと向けることができるようになっていったのではないでしょうか。 そしてこの神様の祝福の通路として用いられたのが、嫁のルツであり、ルツと結婚することになるボアズでした。 続きを確認していきます。 “こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。” ルツ記 1章22節 “ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで」と言った。 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。 ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」…

第9問 世界の創造

第9問 世界の創造 問: 創造の御業とは、何ですか。 答: 創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたことです。 創造とは、聖定の実行の二つの内の一つです。 聖定の実行→創造と摂理 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」(ヨハネの黙示録4:11)すなわち、創造は神様の「聖定」の中のお働きだということです。創造は徹底的に計画され、その計画にしたがって実行されました。偶然に、あるいは何の意味もなく、この世界が存在することになったのではありません。目的があり方向性があるのです。 そして第9問の回答を通して創造というものをみていくと、そのすごさがわかります。神は全世界を無から存在するものとされました。 さらにその手段として技術者の助けを得たり時間と材料を使ったのではなく、ただ「御言葉によって」創造されました。そして創造の日について言及し、つくられた全てのものが非常に良かったと言われました。 創造についてのこのような説明によって、私たちは全世界とその存在全てが神様の前でどのようなものなのかを知ることができます。 ☆創造の目的:神様はなぜこの世界をつくられたのでしょうか? 創造の目的についての二つの見解 ①神様は何か必要があって造られたという見解 私たちは何かを発明したりつくり出すとき、必要だからつくります。利用し使うためにつくります。だから神様もこれと同じだという見解です。神様は一人でいると退屈だから、寂しいから、虚しいから、空白部分を何かで埋めようとして、この世界を造られたと考えるわけです。 ②聖書の立場 創造は、神様の聖定の一部であり目的があります。その目的は聖定の目的と同じです。それは「神様の栄光」です。創造の目的は神様の栄光にあり、創造のすべての方式と順序と過程、その結果までもすべて三位一体の神様の議論によって計画されたものです。後に第11~12問で学ぶ「摂理」も同じことです。そのように創造された全てのものが創造の本来の目的のままになっていくように保存し治めることを摂理といいます。摂理の目的も「神様の栄光」です。 ☆創造の結果:とても良かった 神様の栄光のためにその議論にしたがってつくられた世界はどのような姿だったのでしょうか。「とても良かった」と聖書はいいます。全能の神様が6日間真心をこめてつくられたのだから、さぞ良かったことでしょう。私たちには想像もできないほどだったはずです。小教理問答の英語本文では“All very good”となっていて神様が非常に満足したことが表されています。 では「良かった」というのはどういう意味でしょうか。現在の私たちの周囲を見回すと、この言葉が説得力をもって迫ってはきません。この世が良いなんて、とても思えないからです。すべてのものが良かったと、どうして言えるでしょうか。今の私たちには不可能なことです。 しかし最初につくられた世界は今日わたしたちが目にする世界とは全く違う完全に良い状態でした。それがどれほど良かったかは今の私たちには知ることはできません。ただ聖書に書かれているエデンの園を頭の中で思い描くことしかできません。 このように神様が創造した世界が「とても良かった」ということをここでしっかり記憶にとめておいてくださると嬉しいです。この事実がどれほど重要なことか、小教理問答を続けて学んでいけば知ることができると思います。なぜなら神様がとても良いと言われた世界がどのようにして変化したのか、なぜ変化してしまったのか、またどのようなことが今現在行われているのかが、少しずつ明らかになっていくからです。

第8問 聖定の実行

第8問 聖定の実行 問:神はその聖定を、どのように実行されますか。 答:神が聖定を実行されるのは、創造と摂理の御業においてです。   神の聖定は、聖定それ自体とその実行に分けることができます。そして聖定の実行は創造(問9-10)と摂理(問11)に分けることができます。問8はこのことを教えてくれています。    神の聖定は、永遠の時にすでに決まっていて私たちとは無関係の概念ではありません。なぜなら神はその中に私達を置き、呼びだし、導いて行かれる方だからです。 私たちは、神の造られた世界の中で、神の御手から起こるさまざまな出来事に出会いながら、毎日を送っているということです。 喜びも試練も神の愛の御手から来ています。 試練の中で神の愛がわからなくなる時も、信仰者は神に信頼して神の御計画の中で生かされていると信じて生きていきます。「われわれは神の内に生き、動き、存在しているのである」(使徒の働き17:28)。 生活のあらゆるところで、神の御業を認め、神に従い、感謝し、神をたたえる道が、聖定(ご計画)をただお一人で実行なさる神に対する信仰によって開かれています。  

第7問 聖定

第7問 聖定 問: 神の聖定とは何ですか。 答: 神の聖定とは、神のご意志の議論による永遠の目的です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。 第5問と第6問では神様がどのような方なのかを学びました。 第7問から第11問では神様のはたらきについて学びます。 神の聖定 目的→神様の栄光 範囲と対象→全てのもの 「聖定」とは神様のお働きの出発点となる神様の永遠のご計画のことです。 そしてこの「聖定」は「神のご意志の議論」によるものです。 議論と記されているので、少し不思議に思われるもしれません。この議論は私たちが行う議論とは次元が違うものです。私たちは何かをするときに各自の足りない部分を補うために議論をするのではないでしょうか。しかし神様の議論は足りない部分を補うためのものではありません。この議論は私たちが理解できない領域のものです。聖定について、私たち人間がこういうことだと断定することはできません。ただし聖書を通して神様が教えてくださる分だけは知ることができます。 聖定の目的と範囲と対象は明確です。目的は神様の栄光のためであり、範囲と対象はすべてのものです。神さまがすると決めたことはどんなことでも実現します。神様がしないと決めたことは起こりません。 聖書ははっきりと「すべてのこと」が神様によると言っています。神様の聖定から外れたものは存在しません。ですからこの世には、神様の知らないところで勝手に起こったり、偶然おこることもないのです。その中には私たちにとって良いものも悪いものもすべて含まれています。私たちの救いだけではなく、挫折や罪、サタンの誘惑や世の悪、不条理、貧困、病までもすべて含まれているのです。歴史をもっと遡ってみれば、アダムが善悪の知識の木の実をとって食べたこと(創世記3:6)も神様が永遠の時からすでに聖定されていたことだといえます。 ここまで話が及ぶと、疑問がたくさん生じるはずです。特に神様がサタンの活動と人間の罪までも聖定のなかに含んでいたというところは理解が困難なところです。まるで神様に罪の原因があるかのように感じませんか。 そこで、聖定という概念をもう一度考えてみたいと思います。 まず次の二つの単語の意味を考えてみましょう。 「御心」と「計画」です。 この二つの言葉はどのように違うのでしょうか。 ある物事をしっかり成す上で私たちは計画を立てます。この時この計画の中に私たちが望むものだけが含まれているわけではありません。望んでいないことも含まれていることがあるでしょう。つまり望んでいること(御心)と計画は違う概念なのです。 例えをあげて説明します。 私たちがある場所に建物を建てようとするとき、まず元々その土地にある建物を壊さなくてはいけません。ここで家を壊すことは目的ではありません。しかし計画のなかには必ず入っていなくてはいけない工程といえるでしょう。 これと同じように罪や堕落の場合を考えてみます。堕落は神様が望んでいたことではありません。しかしそれは神様の計画のなかに意図されて含まれたものなのです。 この説明だけではおそらく疑問は解消されないでしょう。わかったような、わからないような感じだと思います。 この部分も三位一体の教理のように理解が難しいところといえるかもしれません。 歴史的にもこの教理は多くの人々が、その難しさゆえに悩んだところです。異端もたくさんうまれました。この「聖定」を間違って理解すると、人を神様の操り人形のように考えてしまったり、二元論的な神様として見てしまったりします。 この問題を解決するもっともよい方法は、全てを理解することは困難だということをまず認めることです。 そして論理的な説明に執着するよりも実際に聖定がどのような形で実行されていくのかを見ていくことをお勧めします。 次の第8問から第11問までが、その聖定の実行に関する問になります。

空っぽを満たす神

https://youtu.be/Q_N-erPl_rc 主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルツ記1章1〜18節 タイトル:空っぽを満たす神 ユダのベツレヘムのエリメレクという人が、飢饉のためにベツレヘムを出て家族と一緒にモアブに移り住みました。しかししばらくするとこのエリメレクが死に、妻のナオミと息子二人が残されました。 その後息子二人はいずれもモアブの地で結婚しました。ナオミと二人の息子とそれぞれの妻ルツとオルパでこの後10年ほど暮らしていました。 しかしある時、ナオミの息子たちが二人とも死んでしまいました。 こうしてナオミと嫁二人だけが残されました。 そんな折、ベツレヘムが飢饉状態を脱して食物がとれる様になったという知らせを受けたナオミは、故郷に帰って暮らそうと考えます。 このナオミについて行こうとする嫁ルツとオルパがいました。 最初はこれをゆるしていたナオミでしたが、彼女たちを実家にかえして再婚させた方が幸せになれると考えて、家に帰るように言います。 するとオルパはその通りに実家に帰って行きました。 しかしルツはナオミにすがりついたまま離れませんでした。 ナオミは覚悟を決めて、ルツと共にベツレヘムへと向かいます。 今日の聖書は大体このようなあらすじになっています。 このお話から今日はいくつかピックアップしてお話しします。 1 空っぽになったナオミ この書はルツ記と呼ばれますが、中心人物はナオミです。 ナオミとは、「快い」という意味です。 この快いという意味の名前を持ったナオミはエレメレクの妻としてこれまで生きてきました。 しかし夫が死んで未亡人となってしまいました。 そして今度は息子たちまで死んでしまいました。 これでもう母と呼んでくれる存在はいなくなってしまいました。 特にこの時代、女性は数にも入れられない存在で社会的に非常に低い地位でした。社会との関わりが持てるのは男性だけでした。 ですから女性は誰かの妻であるか母であるかが必要でした。 そんな時代に夫と息子を10年の間に一挙に失ってしまいました。 それで、ナオミは自分をナオミと呼ばれることを嫌がるようになりました。 なぜなら彼女の人生は全く快いと呼べるものではなかったからです。 非常に過酷なものでした。 非常に苦しみ多き人生でした。 だから違う名前で呼んでくれと頼みます。 1章20節にはナオミのこんな言葉が記されています。 “‥「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。‥” マラとは「苦しみ」という意味です。 快いとは呼ばずにもう苦しみとよんでくださいということです。 自分自身の人生を見た時に、快いとはとても呼べないものだったからでしょう。 苦しみ多い人生だったからです。 また21節には「主が私を素手で帰された」とあるように、ナオミの人生からなくてはいけないものが抜け落ちて全く空っぽになってしまいました。 そんな彼女の人生に対する虚しさが滲み出ている箇所です。 他にもナオミの悲しみをうかがわせる箇所があります。 彼女の言葉が記されているわけではありませんが、その描写が彼女の悲しみと憂いを表しているようです。 “ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。 ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。 しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。” ルツ記 1章3~5節 3節に「彼女とふたりの息子があとに残された」とあるように、大黒柱であるエリメレクが死んだ後の家庭をこの一言で描写しています。 とても物悲しい場面です。 しかしそこでへこたれずに、故郷へ戻るという退路を断つ意味もあってか、息子と現地モアブの女性との結婚が決まり、しばらくの間家族5人で生活していたことがわかります。 しかしその後なんとこの息子たちまで死んでしまうのです。 5節にはこうあります。 「こうしてナオミは2人の子どもと夫に先立たれてしまった。」 故郷を経ち、モアブの地にやってきた時は、夫もいて息子たちもいました。 しかし今は全員いなくなってしまいました。 残されたナオミの心の痛みがすでに死んでいた夫と合わせて語られることでより深く苦しいものとして描写されています。 まさに空っぽと言っても良いナオミがそこにはいました。…