主日礼拝メッセージ
聖書箇所:使徒の働き9章17~31節
タイトル:教会の一致
あるキリスト教のラジオ番組で牧師がこんなことを話していました。
ある日新しく教会に来られた方について信徒さんたちが「何かまた変わった人が来たわね。」と言っていたんです。その時わたしは「いやいや、あなたも相当変わってますよ。」と思いました。「でもそういう牧師が一番変わっている。私を含めよくこの人たちをベストメンバーとして選んだものだ。」と思いました。
みなさん。わたしたちの教会はまだ小さな教会ですが、10人いれば合わない人が1人はいると統計学的には言うそうです。
もしこれが正しければ、わたしたちにはすでにこの荒野教会に来る人たちの中に合わない人がいるということです。
しかしわたしたちの意見や好みを基準にしていれば教会は分裂し跡形もなくなってしまうでしょう。
クリスチャンであるわたしたちが基準にしたいのは、わたしたち自身の好みではなく、神の御言葉です。
新約聖書のローマ人への手紙14章4節には
“あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。”という御言葉があります。
全てのクリスチャンは主のしもべです。
しもべは主人にしかさばけません。
つまりイエスキリストにしかさばけないということです。
主が選ばれた人をしもべ同士で批判しあい弾きだしてはいけないのです。
この事はどの時代を生きるクリスチャンにとっても大切なことです。
今日はそれを使徒の働きから共に見ていこうと思います。
今日の聖書で、まず注目していただきたい箇所は31節です。
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」
この御言葉を読むと、イエスキリストの弟子たちが、迫害を逃れて散らされながらも、そこで福音を伝え、どんどん広がっていく様子がうかがえます。
どうして捕らえられたり処刑されたりするかもしれない状況の中で、信仰を捨てることなくこれほどまでに拡大していくことができたのでしょうか。
実はこの問いに対する答えも31節にあります。
それは「教会」という言葉に表されています。
ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤには今や多くの教会がありました。
しかし日本語の聖書はもちろん原文のギリシャ語聖書を見ても、「教会」という単語は複数形で書かれておらず、単数形で書かれています。
ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤと言及しながらも、ここであえて単数形で表現するのは、教会が一つであることを示すためです。
ユダヤのキリスト教会、ガリラヤのキリスト教会、サマリヤのキリスト教会といくつもの教会に分かれているのではありません。存在する場所が違うだけで、教会は一つだという教会の一致を示していると言えます。
そして当時のこの地域の人々のことを考えた時、これはとても驚くべきことでした。
元々この地域の人々はお互いを見下し裁いていた人たちだったからです。
ユダヤの人々は、ガリラヤからは預言者など出ないと言っていましたし、サマリヤのことを外国人との混血を理由に忌み嫌っていました。
また逆にサマリヤの人々もユダヤを嫌っていました。
それなのに、今やこの地域は一つの教会と呼べるほどに一致していたのです。
これこそ迫害の中でも教会が成長し拡大していった大きな理由です。
一致こそ教会成長の鍵です。
ではどのようにして教会は一致していったのでしょうか。
その内容について今日は見ていこうと思います。
今日の聖書箇所は大きく二つのお話に分けることができます。
一つは、ダマスコという町での出来事、もう一つはエルサレムでの出来事です。
[ダマスコでの出来事]
まず一つ目、ダマスコでの出来事について見ていきます。
ここに登場するサウロという人は、実はこの町に来るまでキリスト教徒を激しく迫害するユダヤ教徒でした。
この町に来た理由も、キリスト教徒たちを捕まえて牢屋に入れるためでした。
しかしダマスコに入る前に天上のイエスキリストが直接サウロと出会われ、彼は今まで自分がして来たことが間違いであったことがわかったのです。
そしてこの町でアナニヤというキリストの弟子から祈りを受け洗礼を受けた彼は完全に新しい人となって、キリストにある兄弟姉妹の仲間になりました。
そしてその町で勢いよく伝道していきます。
しかしその町のユダヤ人たちはサウロの変化を見てうろたえ彼をを殺す計画を立てました。
それを知ったサウロは夜のうちに自分の弟子たちの協力のもと、城壁づたいに釣り降ろされて逃げて行きました。
これが一つ目のお話です。
[エルサレムでの出来事]
続いて二つ目は、エルサレムでの出来事についてです。
サウロはダマスコを出て約3年後にエルサレムへとやって来ました。
そしてエルサレムのクリスチャンたちの仲間に加わろうとします。
彼は以前エルサレムでクリスチャンたちを激しく迫害していました。
使徒の働き8章3節には「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」とあります。
そんなところに、どんな思いでやってきたのでしょうか。
イエス様の弟子なら受け入れてくれるはずだという安易な考えでやって来たのでしょうか。
わたしにはそうは思えません。
サウロはクリスチャンたちにとってあまりにも恐ろしい存在でした。
彼の手で、たくさんのクリスチャンが捕らえられ、残りの人々の多くもエルサレムから逃げ出しました。
サウロという人物がしてきたことに、弟子たちは大変大きな被害を受けたのです。
だからサウロがイエス様を信じたといって近づいて来ても信じられません。
これは当然のことです。
私の考えですが、サウロはきっとこうなることを知っていたのだと思います。
こうなることを覚悟の上で、根気強く話してわかってもらおうと、エルサレムまで来たのではないでしょうか。
ダマスコから脱出するときにはすでに自分の弟子もいたサウロですので、サウロ派を作って自分なりに福音を伝えていくこともできたかもしれません。
彼の旧約聖書の知識と天上のキリストと出会った体験をもってすれば可能だったはずです。
しかしそれを彼はあえてしなかったのです。
なぜなら教会は一致することが大切だと彼は知っていたからです。
後にサウロが記すこととなる手紙の中には一致という言葉が何度も登場します。
コリント人への手紙 第一 1章10節
“さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。”
エペソ人への手紙 4章3節
“平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。”
エペソ人への手紙 4章13節
“ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。”
ピリピ人への手紙 2章2節
“私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。”
このようにサウロはクリスチャンの一致、教会の一致が大切だと知っていました。
このために彼は自分ができることを全てやろうとしたのではないでしょうか。
聖書には書かれていませんが、エルサレムの弟子たちの仲間に入ろうとしたサウロは、過去に自分がしたことをないもののようにして、何食わぬ顔で入ってきたのではないと思うのです。
エルサレム教会の「仲間に入ろうとした」という言葉の中には、彼の謝罪が含まれているはずです。
そうでないと「仲間に入ろうとした」とは言えません。
ご自分がサウロだったらどうされますか。もしご自分が、ある教会を攻撃していた人間だったとして、その後クリスチャンになったらどうするでしょうか。もしその教会に行くことになったらどうするでしょう。何もなかったかのように入っていくでしょうか。
たしかに彼は以前イエスキリストが主であることを知りませんでした。
しかしそれでも知らない時だから仕方ないとはなりません。
有耶無耶にはできない問題です。
ですからこの時サウロはエルサレムの弟子たちに謝罪したのだと思うのです。
その上で「悔い改めたので是非仲間に加えて頂きたい。」と頼んだのではないでしょうか。
それが「仲間に入ろうとした」という言葉の意味だと思います。
そしてそんな彼の心に答えるかのように、サウロの前にバルナバという人が現れました。
11章24節にはバルナバのことがこう記されています。
“彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。‥”
彼は聖霊と信仰に満ちている人でした。
使徒の働き 9章27節
“ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。”
バルナバはサウロを「引き受けた」と聖書は語ります。
他の弟子たちがサウロを疑い恐怖している中でバルナバはサウロを引き受けました。
この「引き受けた」と翻訳されている言葉は、ギリシャ語でエピランバノマイといって、手を伸ばして「掴む」とか「捕まえる」という意味がある言葉です。
ここからバルナバがどのようにサウロを引き受けたのかがわかります。
彼はサウロを誰かに頼まれて仕方なく引き受けたのではなく、自ら進み出てサウロに手を伸ばし、使徒たちのところに連れて行きました。
サウロの言葉や態度を見て、彼が本当に悔い改めて新しく生まれた人だとわかったのでしょう。
そのことに確信を持ったバルナバが、積極的に行動する姿が見える場面です。
そして使徒たちの前でダマスコでのサウロの様子を語りました。
こうして使徒たちもサウロを受け入れ、他の弟子たちも彼を受け入れるに至りました。
これが二つ目のお話です。
[一致しようとする者たち]
ここまで見てきましたように、サウロの側にも、それを仲介したアナニヤやバルナバの側にも、教会の使徒や弟子たちにも、一致しようとする心が見られます。
回心したサウロも、他で群れを作ったりせず、エルサレム教会に仲間に入れてもらうためにやってきました。
そしてバルナバもそのことを受け入れ使徒たちに紹介しその結果他の弟子たちもサウロを受け入れました。
それでサウロは、”エルサレムで弟子たちとともにいて自由に出はいり”できるようになりました。
[結び]
これが教会が一致するということです。
そしてこれが教会が成長し拡大していくための秘訣なのです。
今日わたしたちは自分の教会員としての生活を素直に見つめてみたいと思います。
年齢の違い、性格の違い、職業の違い、性別の違い、国籍の違い。
教会にはそれぞれ全く違う人たちが集まって来ます。
その中で「自分は共に歩むことを諦めていないだろうか。あるいは弾き出していないだろうか。」
そういうことを考えてみたいのです。
今隣にいる人も、後ろにいる人も、前にいる人も、そして12時以降にやってくる小中高生たちも、神さまがこの教会へと導いた人たちです。
全ての人たちにこの教会に来た意味があるのです。
そしてそれぞれにこの教会での役割があります。ただしそれはわたしたちが一つとなっていく時に発揮できるものだと思うのです。
わたしたちは教会として一つであろうとしているでしょうか。
時に一致しようと伸ばした手が、相手に振りほどかれることもあると思います。
無視され虐げられることもあると思います。
しかしそれでも手を伸ばし続けるのです。
サウロもこの後パウロとなって、多くの教会を開拓し牧会しました。
その中で彼は無視され虐げられることもしばしばでした。
しかしそれでも彼は手を伸ばし続けました。
私たちもこうありたいと思います。
主が必ず一致を与えてくださると信じて手を伸ばし続けましょう。
その継続的な姿勢こそ神がくださる熱心です。
祝福をお祈りいたします。