主日礼拝メッセージ
聖書箇所:詩篇9篇1~10節
タイトル: 良い時も悪い時も
この詩篇はダビデが記録した詩篇です。
ここでダビデは、以前勝ち取った勝利について語ったのち、それはすべて神さまの力であったことを大いに誉めたたえています。
そして今あらたに敵が目の前に迫っており、かつて自分を救い出したと同じ助けを神に乞い求めている詩篇です。
今日見るところは、ダビデが以前神さまの力で勝利を勝ち取ったことについてです。
ここから良い時も悪い時も主をおぼえて生きる生活について分かち合いたいと思います。
⑴
“私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。”
詩篇 9篇1節
「心を尽くして主に感謝する」とは一体どういうことなのでしょうか。
ある言葉の意味を深く探るのに良いのは正反対の言葉を考えてみることです。
聖書には正反対の意味をもつ言葉として「二心」という言葉が登場します。
“人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。”
詩篇 12篇2節
宗教改革者のジャンカルヴァンは二心についてこう言っています。
「彼らは一言二言神の助けについて語ったのちは、巧みに自分を誇り、自分の勇敢さを歌い上げる。あたかも彼らは何一つ神によって助けられなかったかのごとくである。‥彼らは神に犠牲をささげた後に、自分の思慮深さ、器用さ、能力、武力、兵力に捧げ物をするのである。」
一言二言神の助けを語ったのちに、自分がいかに優れているかを語る。
結局のところ自分がどれだけ優れているかということを言いたいということでしょう。
しかしそれでは不敬虔なものに見えてしまうので、それを覆い隠すために表向きは神の助けを語るということです。
今までに数人の人からこういう話を聞いたことがあります。
教会にイエスさまのことを全く知らない人がやってきた時にあまりにも多くの人が自分を飾るというお話です。
どういう意味かというと、イエスさまを信じて明らかに人生が変えられて今の自分になったにもかかわらず、それを伝えないということです。
あたかも自分は以前からこうでしたと言っているように見えるというのです。
少し極端な言葉かもしれませんが、わたしは一理あるなと思いました。
実際にどこまで話すのかというのは微妙な問題を含みます。
あまりに正直に話しすぎて聞いた人がつまずくこともあるからです。
ただそういうところも慎重に考えながらイエス様を信じる前と後の違いというのをハッキリ話すことは大切なことです。
もしこのことをためらわれるなら、それは一体何が原因なのかを探ってみないといけないと思います。
ひょっとするとカルヴァンが言うような思いなのかもしれないからです。
「今の自分がいるのは、神さまの恵みによるのです。」と口で告白しつつも、そこに自分の功績を付加したい誘惑にあっているのかもしれないのです。
わたしたちは二心の者ではなく、心をつくして主に感謝し、全ての栄光を主が受け取られるようにしたいと思います。
ダビデはこの時、心を尽くして主に感謝しています。
すべての功績、すべての成功が主のものであるというのです。
サウルは千を打ち、ダビデは万を打ったと言われるほどに、ダビデは戦争で負けしらずでしたが、それらはすべて神さまの力によるのだと語ります。
わたしたちはどうでしょうか。
すべて神様がしてくださったと信じて生きているでしょうか。
みなさんの人生においてすべての栄光を神様が受けておられるでしょうか。
どこかに自分の功績を付加したいというおもいはないでしょうか。
そんな問いを投げかけてくれる聖句だと思います。
次にダビデは「あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げ」ると言います。奇しい業なので、通常では考えられない明らかに神さまの介入だとわかる出来事がダビデの前に起こったのでしょう。しかも余すことなく語るということは、一度限りのことではなく、何度もあってそれによりダビデは勝利をおさめていたのです。
神がダビデのためにこれまで果たしてくださったあらゆる奇跡を広く想起して、すべて神さまあなたのおかげですと言ってこの詩篇は始まっています。
⑵
続いて2節です。
“私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。”
日本語の聖書では「誇ります」と訳されていますが、ヘブライ語聖書には大きな喜びという言葉が記されています。
ですからここは本来、喜びという言葉が二回続いているということです。
ダビデが喜びという言葉を強調したかったからでしょう。
彼はこの時おおいに喜びました。
ではその対象となっているのは何でしょうか。
ダビデはこう言っています。
「わたしはあなたを喜」ぶと。
これは神の存在そのものを喜ぶということです。
存在そのものを喜ぶとは、たとえ自分の祈りが聞かれても聞かれなくても、自分にとって良いことが起きても、悪いことが起きても、変わることなく神様を喜ぶということです。
これには大きな信頼が必要です。
何が起きても神様が良い方向へと導いてくださるという信仰がなくては存在自体を喜ぶことはできません。
ダビデにはその信仰がありました。
自分にとって良いことが起きても、悪いことが起きても、変わることなく神さまを喜べる信仰が彼にはあったのです。
そしてこの後さらに確信を持って祈ります。
“私の敵は退くとき、つまずき、あなたの前で、ついえ去ります。
あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです。”
詩篇 9篇3~4節
ダビデは神の救いの業を喜び、神の御存在を喜ぶ人でした。
そしてこの節にはダビデの神理解が記されています。
一体神さまとはどんな方なのかということです。
神はわたしの正しい訴えを支持してくださる方だとダビデはいいます。
神さまが自分の側に立ってくれる方だということでしょう。
そして義の審判者だと語ります。
しかもその方は王座に座られるので王様なのです。
この世界すべてを統治される方であり、神の御前で正しく生きる者の側に立ってくださる方だとダビデは知っていました。
だからわたしの敵はつまずきついえ去ると言えるのです。
正しく歩むダビデの側に神がおられるなら、ダビデの敵は神の敵だからです。
ダビデは自信をもってこの祈りをささげています。
それは彼が、神が一体誰なのかどんな方なのかがわかっていたからです。
そしてこれこそ信仰なのです。
信仰とは神を知る知識と言い換えることができます。
信じるという感情そのものではないのです。
この神知識を知るためにわたしたちは色々なところを通らされます。
わたしたちが良いと思える道もあれば、どうしてこんな道を通らされなくてはいけないのかと思う道もあります。
しかしわたしたちはこれらの道を通らされることによって、以前よりも神様のことがわかるようにされていくのです。
“御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。”
詩篇 9篇10節
御名を知る者は、神さまにより頼みます。
神様を知る者は、神様に信頼し依り頼み、個人的な関係を持ちます。
神様はそんな人を見放すことがありません。
今苦しんでいる方がいるなら、御名を知る者として神さまに信頼し依り頼みましょう。
今はまだその助けが見えないかもしれませんが、必ず主が助け導いてくださいます。
そしてその苦難を通しその歩みを通して、わたしたちはさらに神様のことを知るものとなっていきます。
⑶
良い時も悪い時もわたしたちは主に信頼し主に栄光捧げるものでありたいと思います。
良い時はすべて主がしてくだったと心を尽くして主に感謝しましょう。
そして悪い時は主に信頼し依り頼み乗り越えていきましょう。
いずれの時もわたしたちは主の御力により導かれ、以前よりもはるかに主を知る者に変えられていきます。
祝福をお祈りいたします。