主日礼拝メッセージ
聖書箇所:ヨハネの黙示録22章1~5節
タイトル:終末を望み見て生きる。
車の運転をしていると、時折危なっかしい運転をしている人を見かけます。
一体どんな人が運転しているのかと気になって信号待ちの合間に見てみると、前かがみになりながら必死にハンドルを握っています。おそらく初心者ドライバーなのでしょう。
普段運転をされる方はよくお分かりになると思いますが、前かがみになると視界が狭くなり、視線も近くの方に向かいます。運転においてこれはあまり良くありません。運転する時はできるだけ広く視野を保ちつつ、先の方を見ながらその視界の中に手前も一緒に捉えていくことが大切です。
これは人生においても言えることです。
今この瞬間だけ見て生きていては、歩む方向を見失います。
遠くを見つめながらもその視界の中に今を捉えて歩くのです。
ただしこれは老後のことを考えてという意味ではありません。
老後も大切かもしれませんが、私たちが見るべきはさらにその先のこと、すなわち終末です。
<終末とは>
終末は二種類に分けられます。
一つは、個人的終末です。
これは自分が死んでこの世界を去ることに関することです。
もう一つは一般的終末です。
これはイエスキリストが再臨して、この世界が終わること、その後やってくる完璧な世界に関することです。
今日はこの一般的終末がやってきた後のことについて触れている聖書箇所です。
私たちはクリスチャンとして今だけを見て生きるのではなく、遠くを見つめつつもその視界に今を捉えながら生きる者でありたいと思います。
さて今日ともに読みました御言葉ですが、これは聖書の中でも最後の書簡であるヨハネの黙示録であり、その中でも最後の章22章にある内容でした。
この世界が終わった後におとずれる世界についてです。
では、この新しい世界とはどんな世界なのでしょうか。
ローマ人への手紙 8章11節にはこうあります。
“もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。”
天国に入るとか救いと聞くと霊魂の話をイメージする人が多いと思います。
しかし聖書が語るこの世界の終わりにおとずれる世界は霊魂だけの話ではなく、肉体も共に生かされて入れられていく世界だというのです。
人というのはそもそも肉体と霊魂が合わさった総体のことです。
霊魂だけでは人ではなく、肉体だけでも人ではないのです。
それにもし霊魂だけの世界で終わらせるなら、最初からアダムとエバに肉体など与えなくても良いのではないでしょうか。
ピリピ人への手紙 3章20~21節にはさらに踏み込んで書かれています。
“けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。”
「ご自身の栄光の体」とは、キリストの復活の体のことです。このキリストの復活の体と同じ姿に変えてくださるというのです。
キリストの復活の体と聞いてどんな体をイメージされますか。
あるときは壁をすり抜けたことがありました。
しかしあるときは弟子たちが触れることができました。
つまり地上の物理的制約に縛られない体だということです。
いたと思ったら、いなくなり、また突然あらわれという具合に、私たちが今持っている体とは全く違う存在の仕方をしている様でした。
この世界が終わる頃私たちもあの様な体に変えられるのだと聖書は語っているのです。
“聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”
コリント人への手紙 第一 15章51~52節
どうですか。信じられますか。
死んで霊魂だけ天国に入る方が、信じるのが簡単な気がするでしょう。
それはわたしたちの常識に近いからです。
あるテレビ番組で死後の世界があると思うかというアンケートをとっていたのですが、実に70%の人があると答えていました。
この70パーセントの人たちも、霊魂だけでどこか違う世界に入ることを肯定しているようでした。
このことに関してだけ言えばクリスチャンもノンクリスチャンも同じような感覚を持っているようです。
しかし聖書はさらにその先のことまで記しているのです。
私たちは聖書を信じるクリスチャンですので、聖書が語ることに耳を傾け、その世界観をしっかり明確に持って生きていきたいと思います。
それが遠くを見ることになるからです。
遠くをしっかり見つめたらそこから光が差し込んでいることがわかります。
それは完成された神の国からの光です。
その光をしっかり見つめるために、完成された神の国について今日はみていきます。
聖書が語る完成された神の国は今の世界とは比べものにならないほど素晴らしいものです。
人は完全にイエスキリストと一つとなり、お互いがお互いを愛し、お互いがお互いを尊敬する関係になります。
そこには地震も津波もありません。
悲惨な事件も事故もありません。
病気もありません。
人が永遠に生きることのできる世界です。
そんなのは、非現実的な夢だという人もこの世にはたくさんいます。
しかし聖書はそんな夢のような世界があるというのです。
“彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」”
ヨハネの黙示録 21章4節
涙はことごとくぬぐい取られ、もはや死もなく苦しみもない世界です。そんな世界がやってくるというのです。それは完全に主と一つになった世界。争いも妬みも恨みもない世界。そんな世界が今の世界の後に準備されていると聖書は明確に語るのです。
<命の水の川>
“御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。”
ヨハネの黙示録 22章1~2節
聖書が語るその世界(都)には、命の水の川が流れています。
この川は水晶のようにひかりかがやいています。
この川は神と子羊の玉座から流れ出ています。
命の根源であられる方のもとより流れ出る水なので、命の水です。
その水が都へと流れて行く。
命の水が都全体を潤しているのが見えます。
この都は神と子羊から流れ出る命の水により、命に満ち溢れた都です。
創世記 2章10節のエデンの園の川も「園を潤し」ていました。
川によって園は潤いに満ちていました。
エゼキエル書47章が伝えるイメージも創世記2章を背景にさらに詳しく描写したものです。
エゼキエルは水が神殿の敷居の下から浮き上がって東の方へ流れているのを見ました。
神殿から東のほうへ行くと何があるでしょうか。
神殿がエルサレムにあるという前提で考えてみると、東の方へ行くと死海があります。
死海とは、塩分の非常に高い湖で、その名前の通り生物は生きてけません。
現在も観光地として有名ですが、注意書きの看板にはswimmingという単語は使われておらず、bathingという単語が使われていて泳ぐのではなく入浴となっています。
これは泳いで誤って水を飲んでしまった場合に急激に体内のナトリウムバランスが崩れ健康を害するからだそうです。もし肺に水がはいると肺炎に類似した症状を起こし死に至るケースもあります。
そんな生物が生きていけない湖に神殿から水が流れ込むと水をきよくし、その水が及ぶところの生き物は全て生きるのです。
神殿から流れる水、つまり神から流れ出る命の水が、死んだものに命を与える力があることを教えてくれています。
<命の木>
命の水の川は大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があります。
木は両岸にあるので、複数形で書かれなくてはいけないところですが、ギリシャ語聖書を見てもここは単数形で書かれており矛盾しているように見えます。
しかし、これはエデンの園の中央にあった一本の命の木とエゼキエル書47章に登場する川の両岸の複数の木のイメージを重ね合わせたためでしょう。
こうすることにより、エゼキエル書に登場した木は、実はあのエデンの園の命の木なのだということがわかります。
そしてエデンの園と、エゼキエル書、そして黙示録は繋がっていることがここからご理解いただけると思います。
命の木はアダムの時代から変わることなくどの時代も存在し続けたのです。
蛇の誘惑にあった時も、罪を犯して追放された時も、この地が水で覆われた時も、アブラムがカルデヤのウルから呼び出された時も、ダビデが油注がれた時も、新約時代に入ってからも、今現在も命の木は存在し続けているのです。
ではこの命の木とは一体何なのでしょうか。
ギリシャ語聖書にはξύλονと記されていますが、この単語は、使徒の働き5章30節、10章39節、13章29節、ガラテヤ3章13節、ペテロⅠ 2章24節などで使われています。
木は一体何のことだと思われますか。
上の聖書箇所において木と訳されているξύλονは、十字架を表すものとして使われています。
命の木というのはキリストの十字架のことなのです。
祖先アダムが神から離れてこのかた罪にうもれ命を失い、傷だらけだったわたしたち。死海の水を飲み込み死んでいたわたしたちを、キリストはその十字架で自らが傷つけられ痛めつけられることによって救い出してくださいました(ペテロⅠ 2章24節)。だからこそ命の木の葉は諸国の民を癒す力があるのです。十字架だからこそ人を癒すことができるのです。
エデンは園でした。
しかし黙示録では都になっています。
園は耕され都になったのです。
そしてそこには変わることなく命の木が立ち続けていて、わたしたちに命を与え続けてくれるのです。
この世界に人間が登場してから色々な出来事がありましたが、その背後で絶えず神が園を耕して来られたのです。そしていつもそこには命の木がありました。本当の命に溢れる実と葉がなる木です。わたしたちはこれをいただいて永遠に生きる者となりました。神の御子の命を注ぎ出す木です。神の御子の死と復活を与える木です。
<神である主が照らされる>
“もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。”
ヨハネの黙示録 22章5節
完成された神の国にはともしびも太陽の光もいりません。
神である主が照らしてくださるからです。
この光はわたしたちが今肉眼で認識する光とはまた性質の違うものなのでしょう。
神の存在そのものがわたしたちを照らしてくださるようです。
冒頭でお話したように、わたしたちは現在だけを見るのではなく、遠くを見つつ現在をその視界のうちに捉えながら歩いていかなければいけません。
しかし、遠くを見るには、明確に神の国の完成した姿を知ることが必要です。
そこから差し込んでいる光を見なければ、何を見て生きていけばよいかわかりません。
あの人がこう言っていた。この人がこう言っていた。
というのも時に力になることがあるかもしれません。
しかし絶対にぶれないのは、聖書のみことばに記された神の国の姿です。
その姿から溢れ出る光を見ながら、その光に照らされながら今を生きること以上の希望の人生があるでしょうか。
<結び>
近くだけを見て運転するのが危険なように、今だけを見て生きるのは良くありません。
常に先を見据えて行きましょう。
先とは終末のことです。
この世界が終わった後やってくる完全な神の国のことです。
そこから溢れ出る光は今のわたしたちにも見ることができます。
その光を見て歩んでいきましょう。
祝福をお祈りいたします。