主日礼拝メッセージ
聖書箇所:使徒の働き10章1~23節
タイトル:自分の常識よりも神に従う
使徒の働きには色々な出来事が記されていますが、その中でも三つの大きな転機となる出来事があります。
一つ目は、聖霊降臨です。
聖霊が降られることによって、本格的に教会は始まりました。
これは外すことができない出来事です。
二つ目はダマスコでサウロが天上のキリストと出会ったことです。
彼はクリスチャンの敵でありましたが、キリストと直接出会い、異邦の民へと福音を伝える宣教師となりました。
そして三つ目が今日共に見ていくコルネリオとその家庭に福音がのべ伝えられる出来事です。
この三つの出来事は、全て異邦の民へと福音が拡がっていく事と関係しています。
聖霊が臨んだ時、ペテロは他の使徒たちと共に立ち上がり、世界各地からエルサレムへ来ていたユダヤ人たちあるいは異邦人改宗者たちの前で福音を宣べ伝えました。
そしてその福音を受け取った人たちが各地に散って行ったのです。
これが最初の福音の地理的な拡がりと言えると思います。
その後エルサレムにおいて教会の群れは大きくなっていきましたが、ステパノが殉教した後、サウロがクリスチャンたちに大変な迫害を加えてまわりました。
これにより多くのクリスチャンがエルサレムから逃げて行きました。
この時に逃げ出した人の中にピリポという人がいましたが、彼がユダヤと仲が悪かったサマリヤへと行くのです。
ユダヤとサマリヤはもともと一つの民族でしたが、お互いを軽蔑し嫌っていました。
しかしピリポがそこで福音を述べ伝えるとなんとそこに大きな喜びがあったというのです。
こうしてユダヤ人だけではなく、サマリヤ人にも福音が広がって行きました。
これは福音による民族の回復と呼べるかもしれません。
そしてさらに地理的な拡大だけでなく、民族的な拡大のために一人の宣教師が選ばれます。
それがクリスチャンの天敵であったサウロという人でした。
彼は天上のイエスキリストと出会い完全に変えられてキリストを異邦人へ伝えるものとなりました。
そして今日共に見るコルネリオとその家庭へ宣べ伝えられる出来事ですが、この出来事が本格的な異邦人伝道の始まりとなります。
なぜならコルネリオ一家に福音が伝えられることは、異邦人の最初の教会形成になったからです。カイザリヤにこの後教会ができたことは21章16節や24章23節を見るとわかります。
そしてこれら全てが使徒の働き1章8節でイエスさまが語られた大宣教命令から始まったことであり、聖霊の力を得てなされたものなのです。
“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”
使徒の働き 1章8節
この言葉の通りに、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土と、ここまで福音がのべ伝えられてきました。
そして今日共に読んだ10章からさらに福音は拡がります。
使徒の働きの9章までは、ユダヤ人たちを中心にした宣教でしたが、ここからは一気に異邦人へ福音が伝えられていくのです。
ただ、ここには障害になり得るものがありました。
それは常識です。
常識がなぜ福音を伝える邪魔になりうるのでしょうか。
それはここでの常識というのは、「こうあるべき」と「こうあってはいけない」という柵で自分を囲い相手も囲うものだからです。
どんな人にもその人にとっての常識があります。
クリスチャンであれノンクリスチャンであれ誰でも持っているものです。
今日の聖書箇所に登場したコルネリオとペテロにもそれぞれ常識がありました。
まずコルネリオ側から考えてみたいとおもいます。
コルネリオはイタリア隊という部隊の100人隊長でした。
イタリア隊は植民地から徴兵した兵ではなく、イタリアで直接訓練された精鋭部隊でした。いわばエリートです。そのエリート100人を束ねていたのが、コルネリオでした。
そんな彼からすれば属国ユダヤの人間など取るに足りない存在です。
さらにペテロがいた家は皮なめしという仕事をしている人の家でしたが、これが一層印象を悪くするものでした。
皮なめしと聞いてどんな仕事を想像されるでしょうか。
普段の生活の中でなかなか聞かない言葉だと思います。
これは動物の皮を加工して、革にする仕事です。
加工段階で動物の血に触れることになるので、これがユダヤ人たちが忌み嫌うことでした。
ですからコルネリオは自分たちの国が植民地支配しているユダヤ、その中でも見下されている人の家にいるペテロを招くように言われたのです。
コルネリオの常識の中にこのような考えはなかったでしょう。
そんな名前も知らないユダヤ人を招く必要など彼にはありませんでした。
またペテロの側から考えても、コルネリオは異邦人であり、ユダヤ人のペテロにとっては汚れた存在でした。
彼の招きに応えるなんてことはペテロの常識の中にはありません。
しかし今日の聖書箇所をみていくと、そんな彼らが自分の常識を捨てて神さまに従う方を選んでいます。
一体何が彼らをそうさせたのでしょうか。
今日の聖書からもう少し見ていきましょう。
“さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、”
使徒の働き 10章1~2節
ここにはコルネリオという人の紹介文が記されています。
彼はカイザリヤという地中海に面した港町にいました。
先週登場したドルカスがいた町ヨッパから北へ50キロのところにあった町です。
一晩どこかで宿泊したとしてヨッパからだいたい丸一日かかる距離です。
コルネリオはイタリア隊と呼ばれる部隊の100人隊長でした。
当時600~1000人ほどの隊員が駐屯していたと言われています。
2節を見ますと、コルネリオは「敬虔な人」だったと書かれています。
敬虔な人とは、正式に割礼を受けてユダヤ教徒になってはいませんが、神を信じその教えに従っていた人のことです。
コルネリオは割礼は受けていないけれどもユダヤ教の教えをよく守る人だったようです。
彼の家族も揃ってユダヤ教を信じていましたし、ユダヤ人たちに施しをしていたとも記されています。
そしてユダヤ教の祈りの時間である午後3時にも祈りを守っていました。
そんな彼がある時祈っていると幻を見ます。
それは御使いの幻でした。
御使いはコルネリオを呼びました。
彼が「主よ。何でしょう。」と答えると、御使いは「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています。」「あなたはヨッパにいるペテロという人を招きなさい」と言われるのです。
先程申し上げたようにコルネリオが自分の考えを優先してもおかしくありませんでした。
いくらユダヤ人たちの信仰に共感しているといっても、支配者側の人間と被支配者側の人間には大きな開きがあります。
支配者側の人間がわざわざ50キロもはなれた町にしもべ二人と側近の部下1人を送るのは常識から外れることでした。
しかし彼は自分の考えよりも神さまの考えを優先させたのです。
こうしてコルネリオに送られた僕と部下はカイザリヤを出発した翌日ヨッパに到着するのですが、ちょうどヨッパの近くまで来た頃に、ペテロがある夢をみます。
それは、あらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また空の鳥などがはいった大きな敷布がペテロの前に釣り下ろされて、ほふって食べなさいと神様に語られる夢でした。
しかしペテロはこの夢の意味がわかりません。
レビ記で汚れたものとされている動物までその中にあり、屠って食べることなど到底できないとペテロは答えました。
そこで神さまは二度三度繰り返し見せてペテロにメッセージを伝えました。
この出来事の意味は、旧約時代汚れていると言われたどんな動物も今は神に清められた。どんなものでも食べることができる。
そしてそれは旧約時代に汚れているとされた異邦人も今や清められイエスキリストの福音を受けとることができるという意味です。
三度目でもはっきり分からなかったペテロでしたが、この直後コルネリオが送った3人がペテロのいた家に到着し、聖霊がその人たちと共に行けと言われてやっと意味がわかりペテロは動きます。
彼はコルネリオが送ったしもべと部下を家に迎え入れ一晩泊まった後カイザリヤに向かうのです。
ユダヤ人は異邦人と共に食事をしたり同じ屋根の下で泊まることを嫌います。
しかしペテロはそういったユダヤ人の常識を優先せず、聖霊の声に従いました。
全世界に福音が広まった現代の私達から見ればユダヤ人だろうがユダヤ人でなかろうが福音を伝えて当然だと思うでしょう。
しかし当時はまだ本格的にユダヤ人以外に福音が伝えられ教会が成立する前でした。
ペテロの常識の中に異邦人が救われることや異邦人教会が立てられることなんてこれっぽっちもなかったのです。
しかし「ためらうな」という聖霊の声を優先し自分の考えを下ろしたのです。
神さまの考えと自分の考えが同じなら従うことに苦労はしません。
しかし今日のお話のように自分の常識と違う場合従うことが難しくなります。
それでも従えるならその人は謙遜な人だと言えるでしょう。
謙遜というのは「私なんて大したことないですよ。」と人前で言うことではありません。
私よりも神さま、あなたの方がご存知ですという神への信頼から生まれる態度です。
コルネリオもペテロも謙遜な人でした。
自分の常識よりも神の声に従った人だからです。
ではこの謙遜はどこから来たのでしょうか。
コルネリオとペテロに共通していることを探して見ましょう。
彼らの共通点、それは二人とも祈る人だったことです。
コルネリオもペテロも祈りの中で、神に語りかけられました。
コルネリオが祈った時間は午後3時、これはユダヤ教で決められていた時間でした。彼は毎日この時間に祈りを捧げていたのでしょう。そしてその祈りは神におぼえられていました。
またペテロが祈っていた時間も敬虔なユダヤ人たちが祈った時間でした。彼も祈りを怠らない人でした。
自分の常識ではなく神の言葉に従う謙遜な人として生きるには、神への信頼が不可欠です。そしてこの信頼は神との絶え間ない対話を土台として出来ていきます。
人との信頼関係も相手との十分な対話が必要なように、神さまへの信頼も十分な対話が必要なのです。それが祈りです。
コルネリオもペテロも神さまに祈る人でした。彼らは神さまと十分な対話をし信頼していました。
こういう人は自分の常識の範疇の外のことであっても神さまに従う謙遜な生き方ができます。
そして自分の常識の外に引き出されて行く人たちを神さまは用いて福音を伝えられる方なのです。
皆さんはどんな生き方がしたいですか。
ご自身の常識の内側で生きていたいですか。
それともその外側に出て行きたいですか。