主日礼拝メッセージ
聖書箇所:使徒の働き9章32~43節
タイトル:イエスキリストが癒してくださるのです
教会には色々な人たちがいます。
それぞれが色々な状況に置かれています。
良い時もあれば悪い時もあります。
すべての教会員が何の悩みも問題もない中で、共に礼拝することはまずないでしょう。
必ず誰かが心に重い荷物を持ったままやってきます。
かくゆう私もそのような状況に置かれながらメッセージを取り次いでいるときもあります。
そんなわたしやみなさんに神様が語ってくださる言葉があります。それは「イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。」です。そしてわたしたちの名前を呼んで、「起きなさい。」と宣言されます。
この御言葉をご自身に語りかけられているものとして受け取る時間となりますよう祈ります。
[二つの出来事とそのクライマックス]
しばらくの間、使徒の働きはペテロから離れていましたが、ここから再びペテロが登場し彼の働きを詳しく知ることができます。
彼は一箇所にとどまることなく、福音宣教のためにあらゆるところを巡回していました。
その中の二つの町で起こった出来事について今日の聖書には記されています。
一つ目は、ルダという町で起こった出来事です。
ここでは長年中風で苦しんでいた人が癒されました。
そして二つ目は、ヨッパという町での出来事です。
ここではタビタという女性が死んで数日経っていたにも関わらず生き返りました。
そしてこの二つの出来事に共通しているのは両者ともその奇跡を通して周囲の人々が主に立ち返ったということです。
ルカはこのことを強調したかったのです。
奇跡においてフォーカスを当てるべきなのは、その奇跡により人が神に立ち返るということです。
そしてその業をされたのは神であるということです。
逆にフォーカスを当ててはいけないのは、その奇跡の管となった人間です。
今日の聖書においてはペテロです。
どんな出来事であれ人間はそのほんの一部でも栄光を受けてはいけません。
栄光は神のみが受けるものだからです。
もし人間がその一かけらでも受けているなら、それは神から盗んでいるということではないでしょうか。
私たちは目に見えるものに心が傾いてしまいやすい性質を持っています。目に見える人間と奇跡を切り離して見るのが苦手です。
だから今一度ここで申し上げたいのは、ルカがわざわざ、アイネヤやタビタを見て、人々が主に立ち返ったということを話の結論に持ってきていることです。
これが大切なことなのです。
この点をまずおさえて頂いた上で、個々の出来事について見ていきます。
[中風の人の癒し]
まず中風の人の癒しについてです。
この出来事はルダという町で起こりました。
このあたりはすでにピリポが福音を伝えて回ったところと考えられます。
エチオピアの宦官のところに導かれた後ピリポはカイザリヤに行きましたがその途上にあるのがこのルダという町です。
またサウロの迫害によってエルサレムから逃げ出した人たちがいた場所の一つではないかと考えられます。
つまりすでにクリスチャンがいて、ピリポも通った町でした。
福音を伝える人たちが何度も訪れている場所です。
そこに追い打ちをかけるようにペテロがやってきたわけです。
“彼はそこで、八年の間も床に着いているアイネヤという人に出会った。彼は中風であった。”
使徒の働き 9章33節
これだけキリストの弟子が出入りしているところなので、アイネヤがクリスチャンでなかったとしても、一度は福音を聞いたことがある人だと思います。
中風は今でこそ脳の病気の後遺症だとわかっていますが、当時は原因不明の病でした。
その病に8年間悩まされ寝床から起き上がることができないアイネヤという人がいました。
ペテロはこのアイネヤと出会いました。
“ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。”
使徒の働き 9章34節
8年もの長きにわたり中風で体を自由に動かせなかったアイネヤですが、イエスキリストがあなたをいやして下さるという言葉で瞬時にして癒されました。
そして彼は自分で床を整えることができるようになりました。
つい先ほどまでは、自分でできませんでしたが、イエスさまの御力で癒されたのです。
ここで少し彼の8年間を振り返ってみたいと思います。
8年もの間アイネヤは苦しみながら生きていました。周囲の人々も彼自身もその回復を信じてはいなかったでしょう。いつ終わりが来るかもわからない辛く苦しい生活です。
この8年の間、彼は自分で床を整えることさえできませんでした。
では一体誰が整えていたのでしょうか。
家族や友人に代わりにしてもらっていたのではないでしょうか。
そしてそれが8年も続いていました。
彼はどんな思いで代わりにしてもらっていたのでしょうか。
最初は感謝し申し訳ない思いでいたかもしれません。しかしそれが8年も続くと最初の頃の様な思いを続けることは難しいのではないでしょうか。
ひょっとすると代わりに床を整えてもらうことを当たり前のことと感じていたかもしれません。
私たち人間にはそういう悪い性質があるからです。
「できないものは仕方ないだろう。助けられる人がいるならその人が私を助けるべきだろう。それが当然だろう。私はできないのだから。」
こういうところが人間にはあるのではないかと思います。
また今日の聖書のお話は、肉体の病気だけに当てはまるものではありません。
人は体が健康でも心が弱ると、このような思いになっていきます。
こういう状態になると、助けられることに感謝できません。
悪い意味で開き直ってしまって、その助けが当たり前に感じるからです。
そうすると、誰も助けてくれない時や、助けが不十分であるときに不満を持ちます。
これは助けを神からの恵みとして受け取っているのではなく、当然の権利として受け取っているからです。
助けとはそもそも神が与えてくださるものです。
神が人に働きかけて、助けたいという思いを与えてくれて、私たちの元にその人はやってくるのです。
それは神からの憐れみであり、恵みです。
しかし心が病んでしまうとそういう感覚が鈍くなります。無感動になっていくのです。
こういう状態の人は、肉体は中風ではなくても、心が中風のように不自由になっています。
そしてそれは自力でどうにもならないものになっています。
しかし今日の御言葉はそんな弱った人に語りかけてくださいます。
“‥「‥イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」‥”
使徒の働き 9章34節
主はこの言葉で私たちの弱った心を強くしてくださいます。
主の恵みで立ち上がる力をくださいます。
そしてすべての人の助けに感謝できる人になります。
それが神から与えられた助けであると認識できるようになるからです。
恵みを恵みとして受け取ることができるようになるからです。
恵みを恵みとして受け取ることの出来るわたしとみなさんでありますように。
わたしたちがそのようになる時、その変化を見て周囲の人々は主を知ります。
35節には、”ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返った。”とあります。
ルダとその近くのサロンの人々は、アイネヤをみて、主に立ち返りました。
私たちの変化を通しても、人々が主に立ち返ります。
どんな小さな変化でも構いません。
主にあって変えられる時、周囲の心が変わるのです。
わたしとみなさんもこのアイネヤのような祝福を受けられますようにお祈りします。
[タビタ。起きなさい。]
続いてヨッパでの出来事についてです。
“ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。”
“ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。”
使徒の働き 9章36~37節
ヨッパにはアラム語でタビタという人がいました。この人はキリストの弟子であったと記されています。カッコ書きでギリシャ語に訳せばドルカスであると書かれていますが、これは使徒の働きの著者であるルカのつけた翻訳ではなく、この後の箇所を見ていくと現地の人々が実際にドルカスと呼んでいたことがわかります。
彼女はアラム語を使う人にはタビタと呼ばれ、ギリシャ語を使う人々にはドルカスと呼ばれていたようです。
どちらも「かもしか」という意味で、旧約聖書では美しい、優しい、素早い者の比喩に使われている言葉でした。この言葉の通り彼女は美しく優しくキビキビと動く女性でした。彼女は「多くの良い業と施し」をしていました。
しかしそんな彼女が死んでしまいます。
やもめたちを慰め励まし自分に与えられたタラントである裁縫を使い、多くのやもめたちのそばに立って支えていたタビタが死んだのです。
やもめ達にとって最も親しい友であり助け手でした。
そんな彼女が死んだので、やもめたちは大変悲しんでいるのです。
ただもう一つ心に留めておきたいことがあります。
誰かがなくなったら必ずその隣にいる人がタビタの隣にはいません。
みなさん誰かのお葬式を想像してみて下さい。
最初から最後まで一番そばにいて最後まで別れを惜しんでいる人たちは一体誰でしょうか。
そうです。家族です。
それなのにタビタの周囲に家族の気配がありません。
ここからは推測ですが、タビタ自身も、やもめだったのではないでしょうか。
彼女もまた社会的に弱い存在だったのです。
しかし彼女はその不利な条件に押しつぶされて、「私には何もできない。」と言って投げ出すのではなく、自分も大変なのに、他のやもめたちのことを考えて自分の裁縫技術を駆使して服を作ってあげていたのです。タビタとはそんな人物であったのではないでしょうか。
“ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください」と頼んだ。”
“そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。”
使徒の働き 9章38~39節
ルダでの中風の人の癒しを聞きつけたヨッパの弟子たちは、タビタを何とかしてもらおうとやって来ました。
ペテロはその言葉を聞いて直ぐにヨッパに向かいました。
そしてヨッパに到着すると、やもめたちが泣きながらペテロのそばに来て、作ってもらった服を見せました。
ギリシャ語聖書を確認しますと、タビタが作った上着や下着をただ持って来ているのではなく、まさに今自分たちが来ている服が、彼女が作ってくれた服なのだと言っていることがわかります。
タビタはやもめたちに寄り添いその生活に直結する奉仕をしていました。そしてタビタがしてあげたものだけがやもめたちの手元に残りました。このことは彼女たちの悲しみを一層鮮明に描写しています。
これほど慕われたキリストの弟子がいなくなったなら、ヨッパの弟子たちにとってとてつもない打撃であったはずです。タビタは自分が神に与えられていることを最大限に生かして生きることができる人でした。そして周囲の人たちに良い影響を与えることができる人でした。そんな人がいなくなってしまったのです。
“ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。
そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。
このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。”
使徒の働き 9章40~42節
ペテロは彼女たちの悲痛な叫びを聞いて、主に祈ります。
「タビタ。起きなさい。」
タビタと呼びかけているということは、ペテロもアラム語で話しているということです。
起きなさいもアラム語に変えて読んで見ますと、「タビタ、クミ」です。
どこかで聞いたことがないでしょうか。
イエスキリストが会堂管理者の娘をよみがえらされたときも、この言葉を使われました。
そこではこう言いました。「タリタ、クミ」と。
これは「少女よ起きなさい」という意味です。
ペテロはかつてイエスキリストがされた通りに行いました。
ただ一つ違うのは、イエスキリストはご自身の力でそれをなされたのに対して、ペテロは祈り求めイエスキリストの力によってよみがえらせた点です。
力はイエスキリストにあります。
人間の力ではありません。
だからこそこのヨッパでの出来事も、「多くの人々が主を信じた。」という言葉で締めくくっています。
この声により、ペテロを通して語るキリストの声により、タビタは生き返りました。
まちがいなくタビタはこの地域の弟子たちにとって重要な人物でありました。
タビタの死によりある意味でこの地域の共同体は瀕死の状態だったのです。
タビタを生き返らさせることにより、この町の信仰共同体は回復しました。
さらに周囲の人々はタビタの出来事を通して信仰を持つようになり、いよいよ力強い共同体に変えられていくのです。
今日は二つの町で起きた奇跡を通して人々が主に立ち返る出来事を共に見ました。
あくまでこの出来事で強調すべきなのは、最後の部分です。
すなわちこの奇跡を通してそれを見た人々が救われたということです。
そしてそれを成し遂げたのはペテロではなく、主イエスキリストであったということです。
そのことを今日はもう一度覚えていただきたいと思います。
今この時も弱った人々に対して、起きなさいと主は言われています。
立ち上がりなさいと主は言われています。
その言葉はわたしたちに命を与える言葉であり、わたしたちに活力を与える言葉です。
そしてこの教会に未来を与える言葉なのです。
今週もこのイエスキリストのみことばから命をいただいて生きていかれるみなさんでありますように。
祝福を祈ります。