はからずも

https://youtu.be/GAaSjxDsqz4 主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルツ記1章19〜2章20節 タイトル:はからずも “それから、ふたりは旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出し、女たちは、「まあ。ナオミではありませんか」と言った。 ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」” ルツ記 1章19~21節 先週はルツ記の1章18節まで見ました。 今日はその続きを見ていこうと思います。 ベツレヘムが飢饉となり外国のモアブへと移り住んだエリメレクという人と、その妻のナオミ、そして二人の息子がいました。しかしナオミの夫のエリメレクはそこで死んでしまいます。息子たちは現地の女性と結婚し5人家族になりますが、約10年後にこの息子たちも死んでしまい、ナオミと二人の嫁だけが残されました。 そんな折に飢饉だった故郷のベツレヘムを神が顧みてくださり食物が取れるようになったことを知ってナオミは故郷へと向かいます。途中嫁たちに実家に戻って再婚相手を探すように強く勧めたナオミでしたが、二人の嫁のうちの一人ルツはどうしても帰ろうとせず、共にベツレヘムへと帰ってきました。 「あなたの神は私の神」というルツの言葉から、すでにルツには神を信じる信仰が与えられていることがわかりました。 1 今日はこの二人がベツレヘムに到着したところから見ていきます。 ベツレヘムにつくとナオミとルツのことで人々が騒ぎ出しました。 その中にはナオミの名前を呼ぶ人もいました。 しかしナオミは「私をナオミとは呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。 ナオミとは快いという意味ですが、マラとは苦しみという意味です。 ナオミの人生に起きたことはとても快いと言えるものではありませんでした。だから彼女はもうマラと呼んでほしい苦しみと呼んでほしいとさえ言ったのです。 この箇所は彼女の哀しみの歌、哀歌と呼べる箇所です。 彼女にとって、夫を失ったことも息子たちを失ったことも本当に苦しく悲しい出来事でした。当然このことだけでも十分苦しいわけですが、さらに大きな問題としてナオミの前に残されたのが、彼女が神を信じる人であったことと関連しています。神を信じる人であったことの何が問題なのでしょう。それは神が最善であるにもかかわらず、自分が神を信じるものであるにもかかわらず、夫と息子が死んだことです。このような場合、私たち人間はどこかに原因を探します。ひょっとしてあれがいけなかったのではないか。これがいけなかったのではないか。何か理由を探しては、それが原因で悪いことが起きたのかもしれないと納得しようとします。しかし実際は悲惨な出来事とその人個人の善悪は関係がありません。もし善人と呼ばれる人の人生が順風満帆で、悪いことをしている人の人生が困難ばかりであれば、そのように説明することもできるかもしれませんが、そんなことはないのです。 ですからナオミもこう言っています。 “ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。 私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」” ルツ記 1章20~21節 ここには、ナオミの苦い思いが色濃くあらわれています。 しかし特定の罪のために自分にこういうことが起きたとは言いません。 ただ神のゆるしがなくては、どんなことも起きないという前提に立って語っているに過ぎません。 ナオミもどうして自分にこんな不幸がやってきたのかがわからないのです。 聖書もこのことに答えてはいません。 ですから私たちもどうしてなのかわかりません。 突然の事故や病気、自然災害で家族が失われた時、私たちはその理由を知ることはできません。 ただ神のゆるしなしには起こり得ないことだということだけが残ります。 ナオミはまさにそのような状態でした。 非常に大きく重い難問をナオミは抱えたまま故郷に戻ってきたのだと思います。 しかし神はナオミをそのままにはしません。 これから空っぽの状態になってしまったナオミに神は祝福を注いでいかれます。 ナオミはこの神様の祝福を味わうたびに、下を向いていた顔を上へと向けることができるようになっていったのではないでしょうか。 そしてこの神様の祝福の通路として用いられたのが、嫁のルツであり、ルツと結婚することになるボアズでした。 続きを確認していきます。 “こうして、ナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て、大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着いた。” ルツ記 1章22節 “ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで」と言った。 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。 ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように」と答えた。 ボアズは刈る者たちの世話をしている若者に言った。「これはだれの娘か。」 刈る者たちの世話をしている若者は答えて言った。「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」…

第9問 世界の創造

第9問 世界の創造 問: 創造の御業とは、何ですか。 答: 創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたことです。 創造とは、聖定の実行の二つの内の一つです。 聖定の実行→創造と摂理 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」(ヨハネの黙示録4:11)すなわち、創造は神様の「聖定」の中のお働きだということです。創造は徹底的に計画され、その計画にしたがって実行されました。偶然に、あるいは何の意味もなく、この世界が存在することになったのではありません。目的があり方向性があるのです。 そして第9問の回答を通して創造というものをみていくと、そのすごさがわかります。神は全世界を無から存在するものとされました。 さらにその手段として技術者の助けを得たり時間と材料を使ったのではなく、ただ「御言葉によって」創造されました。そして創造の日について言及し、つくられた全てのものが非常に良かったと言われました。 創造についてのこのような説明によって、私たちは全世界とその存在全てが神様の前でどのようなものなのかを知ることができます。 ☆創造の目的:神様はなぜこの世界をつくられたのでしょうか? 創造の目的についての二つの見解 ①神様は何か必要があって造られたという見解 私たちは何かを発明したりつくり出すとき、必要だからつくります。利用し使うためにつくります。だから神様もこれと同じだという見解です。神様は一人でいると退屈だから、寂しいから、虚しいから、空白部分を何かで埋めようとして、この世界を造られたと考えるわけです。 ②聖書の立場 創造は、神様の聖定の一部であり目的があります。その目的は聖定の目的と同じです。それは「神様の栄光」です。創造の目的は神様の栄光にあり、創造のすべての方式と順序と過程、その結果までもすべて三位一体の神様の議論によって計画されたものです。後に第11~12問で学ぶ「摂理」も同じことです。そのように創造された全てのものが創造の本来の目的のままになっていくように保存し治めることを摂理といいます。摂理の目的も「神様の栄光」です。 ☆創造の結果:とても良かった 神様の栄光のためにその議論にしたがってつくられた世界はどのような姿だったのでしょうか。「とても良かった」と聖書はいいます。全能の神様が6日間真心をこめてつくられたのだから、さぞ良かったことでしょう。私たちには想像もできないほどだったはずです。小教理問答の英語本文では“All very good”となっていて神様が非常に満足したことが表されています。 では「良かった」というのはどういう意味でしょうか。現在の私たちの周囲を見回すと、この言葉が説得力をもって迫ってはきません。この世が良いなんて、とても思えないからです。すべてのものが良かったと、どうして言えるでしょうか。今の私たちには不可能なことです。 しかし最初につくられた世界は今日わたしたちが目にする世界とは全く違う完全に良い状態でした。それがどれほど良かったかは今の私たちには知ることはできません。ただ聖書に書かれているエデンの園を頭の中で思い描くことしかできません。 このように神様が創造した世界が「とても良かった」ということをここでしっかり記憶にとめておいてくださると嬉しいです。この事実がどれほど重要なことか、小教理問答を続けて学んでいけば知ることができると思います。なぜなら神様がとても良いと言われた世界がどのようにして変化したのか、なぜ変化してしまったのか、またどのようなことが今現在行われているのかが、少しずつ明らかになっていくからです。

第8問 聖定の実行

第8問 聖定の実行 問:神はその聖定を、どのように実行されますか。 答:神が聖定を実行されるのは、創造と摂理の御業においてです。   神の聖定は、聖定それ自体とその実行に分けることができます。そして聖定の実行は創造(問9-10)と摂理(問11)に分けることができます。問8はこのことを教えてくれています。    神の聖定は、永遠の時にすでに決まっていて私たちとは無関係の概念ではありません。なぜなら神はその中に私達を置き、呼びだし、導いて行かれる方だからです。 私たちは、神の造られた世界の中で、神の御手から起こるさまざまな出来事に出会いながら、毎日を送っているということです。 喜びも試練も神の愛の御手から来ています。 試練の中で神の愛がわからなくなる時も、信仰者は神に信頼して神の御計画の中で生かされていると信じて生きていきます。「われわれは神の内に生き、動き、存在しているのである」(使徒の働き17:28)。 生活のあらゆるところで、神の御業を認め、神に従い、感謝し、神をたたえる道が、聖定(ご計画)をただお一人で実行なさる神に対する信仰によって開かれています。  

第7問 聖定

第7問 聖定 問: 神の聖定とは何ですか。 答: 神の聖定とは、神のご意志の議論による永遠の目的です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。 第5問と第6問では神様がどのような方なのかを学びました。 第7問から第11問では神様のはたらきについて学びます。 神の聖定 目的→神様の栄光 範囲と対象→全てのもの 「聖定」とは神様のお働きの出発点となる神様の永遠のご計画のことです。 そしてこの「聖定」は「神のご意志の議論」によるものです。 議論と記されているので、少し不思議に思われるもしれません。この議論は私たちが行う議論とは次元が違うものです。私たちは何かをするときに各自の足りない部分を補うために議論をするのではないでしょうか。しかし神様の議論は足りない部分を補うためのものではありません。この議論は私たちが理解できない領域のものです。聖定について、私たち人間がこういうことだと断定することはできません。ただし聖書を通して神様が教えてくださる分だけは知ることができます。 聖定の目的と範囲と対象は明確です。目的は神様の栄光のためであり、範囲と対象はすべてのものです。神さまがすると決めたことはどんなことでも実現します。神様がしないと決めたことは起こりません。 聖書ははっきりと「すべてのこと」が神様によると言っています。神様の聖定から外れたものは存在しません。ですからこの世には、神様の知らないところで勝手に起こったり、偶然おこることもないのです。その中には私たちにとって良いものも悪いものもすべて含まれています。私たちの救いだけではなく、挫折や罪、サタンの誘惑や世の悪、不条理、貧困、病までもすべて含まれているのです。歴史をもっと遡ってみれば、アダムが善悪の知識の木の実をとって食べたこと(創世記3:6)も神様が永遠の時からすでに聖定されていたことだといえます。 ここまで話が及ぶと、疑問がたくさん生じるはずです。特に神様がサタンの活動と人間の罪までも聖定のなかに含んでいたというところは理解が困難なところです。まるで神様に罪の原因があるかのように感じませんか。 そこで、聖定という概念をもう一度考えてみたいと思います。 まず次の二つの単語の意味を考えてみましょう。 「御心」と「計画」です。 この二つの言葉はどのように違うのでしょうか。 ある物事をしっかり成す上で私たちは計画を立てます。この時この計画の中に私たちが望むものだけが含まれているわけではありません。望んでいないことも含まれていることがあるでしょう。つまり望んでいること(御心)と計画は違う概念なのです。 例えをあげて説明します。 私たちがある場所に建物を建てようとするとき、まず元々その土地にある建物を壊さなくてはいけません。ここで家を壊すことは目的ではありません。しかし計画のなかには必ず入っていなくてはいけない工程といえるでしょう。 これと同じように罪や堕落の場合を考えてみます。堕落は神様が望んでいたことではありません。しかしそれは神様の計画のなかに意図されて含まれたものなのです。 この説明だけではおそらく疑問は解消されないでしょう。わかったような、わからないような感じだと思います。 この部分も三位一体の教理のように理解が難しいところといえるかもしれません。 歴史的にもこの教理は多くの人々が、その難しさゆえに悩んだところです。異端もたくさんうまれました。この「聖定」を間違って理解すると、人を神様の操り人形のように考えてしまったり、二元論的な神様として見てしまったりします。 この問題を解決するもっともよい方法は、全てを理解することは困難だということをまず認めることです。 そして論理的な説明に執着するよりも実際に聖定がどのような形で実行されていくのかを見ていくことをお勧めします。 次の第8問から第11問までが、その聖定の実行に関する問になります。

空っぽを満たす神

https://youtu.be/Q_N-erPl_rc 主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルツ記1章1〜18節 タイトル:空っぽを満たす神 ユダのベツレヘムのエリメレクという人が、飢饉のためにベツレヘムを出て家族と一緒にモアブに移り住みました。しかししばらくするとこのエリメレクが死に、妻のナオミと息子二人が残されました。 その後息子二人はいずれもモアブの地で結婚しました。ナオミと二人の息子とそれぞれの妻ルツとオルパでこの後10年ほど暮らしていました。 しかしある時、ナオミの息子たちが二人とも死んでしまいました。 こうしてナオミと嫁二人だけが残されました。 そんな折、ベツレヘムが飢饉状態を脱して食物がとれる様になったという知らせを受けたナオミは、故郷に帰って暮らそうと考えます。 このナオミについて行こうとする嫁ルツとオルパがいました。 最初はこれをゆるしていたナオミでしたが、彼女たちを実家にかえして再婚させた方が幸せになれると考えて、家に帰るように言います。 するとオルパはその通りに実家に帰って行きました。 しかしルツはナオミにすがりついたまま離れませんでした。 ナオミは覚悟を決めて、ルツと共にベツレヘムへと向かいます。 今日の聖書は大体このようなあらすじになっています。 このお話から今日はいくつかピックアップしてお話しします。 1 空っぽになったナオミ この書はルツ記と呼ばれますが、中心人物はナオミです。 ナオミとは、「快い」という意味です。 この快いという意味の名前を持ったナオミはエレメレクの妻としてこれまで生きてきました。 しかし夫が死んで未亡人となってしまいました。 そして今度は息子たちまで死んでしまいました。 これでもう母と呼んでくれる存在はいなくなってしまいました。 特にこの時代、女性は数にも入れられない存在で社会的に非常に低い地位でした。社会との関わりが持てるのは男性だけでした。 ですから女性は誰かの妻であるか母であるかが必要でした。 そんな時代に夫と息子を10年の間に一挙に失ってしまいました。 それで、ナオミは自分をナオミと呼ばれることを嫌がるようになりました。 なぜなら彼女の人生は全く快いと呼べるものではなかったからです。 非常に過酷なものでした。 非常に苦しみ多き人生でした。 だから違う名前で呼んでくれと頼みます。 1章20節にはナオミのこんな言葉が記されています。 “‥「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。‥” マラとは「苦しみ」という意味です。 快いとは呼ばずにもう苦しみとよんでくださいということです。 自分自身の人生を見た時に、快いとはとても呼べないものだったからでしょう。 苦しみ多い人生だったからです。 また21節には「主が私を素手で帰された」とあるように、ナオミの人生からなくてはいけないものが抜け落ちて全く空っぽになってしまいました。 そんな彼女の人生に対する虚しさが滲み出ている箇所です。 他にもナオミの悲しみをうかがわせる箇所があります。 彼女の言葉が記されているわけではありませんが、その描写が彼女の悲しみと憂いを表しているようです。 “ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。 ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。 しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。” ルツ記 1章3~5節 3節に「彼女とふたりの息子があとに残された」とあるように、大黒柱であるエリメレクが死んだ後の家庭をこの一言で描写しています。 とても物悲しい場面です。 しかしそこでへこたれずに、故郷へ戻るという退路を断つ意味もあってか、息子と現地モアブの女性との結婚が決まり、しばらくの間家族5人で生活していたことがわかります。 しかしその後なんとこの息子たちまで死んでしまうのです。 5節にはこうあります。 「こうしてナオミは2人の子どもと夫に先立たれてしまった。」 故郷を経ち、モアブの地にやってきた時は、夫もいて息子たちもいました。 しかし今は全員いなくなってしまいました。 残されたナオミの心の痛みがすでに死んでいた夫と合わせて語られることでより深く苦しいものとして描写されています。 まさに空っぽと言っても良いナオミがそこにはいました。…

向きを変える

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マタイの福音書18章1〜4節  タイトル:向きを変える “そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。” マタイの福音書 18章1~4節 1 序 誰もがある方向に向かって歩き、また走っています。 何かを目指し、何かを目標に掲げて生きています。 今日登場したイエスキリストの弟子たちもある方向へと向かっていました。 その方向は誰が一番偉いかという方向でした。 この方向には、他の人よりも偉くなりたいとか、他の人よりも良い環境で生きていきたいとか、他の人よりも一目置かれたいとか、「他の人よりも」から始まる何かがありました。 他の言い方で言うならば、自分を高くするための生き方。 その方向に向かっていたということができると思います。 さて私たちはどうでしょうか。 私たちが向かっている方向はどのような方向なのでしょうか。 当時のイエス様の弟子たちが求めていた方向でしょうか。 それともイエス様が走っておられた方向なのでしょうか。 2 ストーリー 今日の聖書箇所は、天の御国では誰が一番偉いかという弟子たちの質問から始まります。 これに対して、イエス様は小さい子どもを呼び寄せて、弟子たちの真ん中に立たせて言いました。 あなた方も悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません。 子どものように自分を低くする人が天の御国で一番偉い人です。 3 ⑴自分を高くする方向へと向かっていた弟子たちに対してイエス様は悔い改めなさいと言われました。 今私たちが見ているのは新改訳聖書第三版ですが、新改訳2017ではここが「向きを変えなさい」と翻訳されています。悔い改めるというのは向きを変えるという意味があります。 イエス様は自分を高くする方向へ向かって生きる弟子たちに対して、向きを変えなさいと言われました。歩いて行く方向を転換しなさいということです。 そうすると子どものようになれるというのです。 では子どものようになるとはどういう意味なのでしょうか。それは良いことなのでしょうか。 当時のユダヤ社会では子どもは重要な存在ではありませんでした。 大人に服従するしかない取るに足らない存在でした。 数にも入れられませんでした。 イエス様は方向転換をしてそのような存在になるようにと言われるのです。 これは自分を高くする生き方から自分を低くする生き方に方向転換するようにということです。そしてそういう人は天の御国では偉大だというのです。 ⑵では自分を低くするとはどういうことなのでしょうか。 それは人に仕えられる生き方ではなく、人に仕える生き方のことです。 “あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」” マタイの福音書 20章26~28節 ここでイエス様は仕えるものになるようにと言われます。 また、しもべになるようにと言われます。 そしてその理由として、イエス様自身が人に仕えられるためにではなく、人に仕えるためにこの世に来たからだと言うのです。 私たちがもしイエスキリストの真の弟子ならば、イエスキリストに似ていくはずです。 イエスキリストと同じ方向に向かっていくはずです。 日々方向を修正しながらの歩みにはなるでしょうが、それでもイエスキリストが歩まれた方向へと向かっていくはずです。 4 このお話の背景には、天の御国、神の国の根本原理と、この世の国の原理があります。 この世は弟子たちが目指していたような、自分を高くする方向に向かって流れています。 偉くなりたいと思い、人の先に立ちたいと思います。そしてそれが正しいとされます。 それがこの世の国の原理だからです。…

共に背負う

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マタイの福音書5章38〜44節 タイトル:共に背負う “『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。” マタイの福音書 5章38~44節 1  38節に「目には目で、歯には歯で」という言葉が記されています。 この言葉は出エジプト記21章24節とレビ記24章20節に記されていて、イエス様はこの言葉を引用したようです。 この御言葉は一見すると、目を傷つけられたら目に仕返しをして、歯を傷つけられたら歯に攻撃を仕掛けるようにと、まるで報復を促すかのようにも見える言葉です。 しかしこの言葉の意味は、昔復讐が行きすぎて目を傷付けられた人が相手の命までとってしまうことがあったので、それを抑えるために、目を傷付けられたら目までにして置きなさいという意味のものでした。 これでも十分怖く感じますが、法の主旨としては、報復を抑えるためだったということができます。 しかしこの律法を成就されたイエス様の命令は、これら被害を被った分の報復の権利すらも放棄するようにというものです。 ここからイエス様を信じて生きる弟子のあり方が見えてきます。 ⑴”しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。” マタイの福音書 5章39節 ここでは右の頬を打たれた場合を例に挙げてイエス様が語っておられます。 このような場合、旧約の律法では、やられた分で止めなさい、つまり右の頬を打ち返すところでとどめなさいということになります。 しかしイエスさまは弟子たちに向かってそれもやってはいけないと言われ、むしろ左の頬も向けるようにと言うのです。 ただ、実際この状況になった時に反対の頬も向けるようにという意味ではありません。 本当にこのようにすれば相手は余計に腹を立てるでしょう。 またこれは完全にやられっぱなしになれという意味でもありません。 イエス様自身が、役人たちが不当に頬を叩いたときに抗議しておられますし、パウロとシラスは謂れの無い疑いをかけられて牢屋に入れられた時に抗議しました。 では一体これはどういう意味なのでしょうか。 これは相手の要求よりもさらにこちらが譲ることを意味しています。 イエスキリストを信じる弟子のあり方、いわば行動原理を示しているところなのです。 これは次に続く言葉と一緒に考えるとよくわかります。 ⑵”あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。” マタイの福音書 5章40節 告訴という言葉から借金の返済や損害の賠償をしなくてはいけない人に向けられたものだと想定されます。 下着というのは、現代の肌着のことではなく普段来ている服のことです。 これは借金の返済の担保として取ることができました。 しかし上着は、昼間はコートとして用い、夜は毛布として用いるもので、ほとんどの場合一人一着しか持っていなかったと言われています。 それでこれは担保として取ることが律法で禁じられていました。 ですから本来は上着まで渡すことはありませんし、取り立てる方も上着まで要求できません。しかしイエス様はこのような場合にも上着まで与えるようにいうのです。 こちらも相手の要求を超えて、すすんで行動することを意味する言葉です。 ⑶ さらに41節にはこうありました。 “あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。” マタイの福音書 5章41節 相手が求めている1ミリオンではなく、その倍の二ミリオンいくようにと言います。 これは軍隊によって荷物運びのために徴用されることを想定しているお話です。 軍隊による徴用は、毎日をやっと生きている人にとっては大変な負担であったと思われます。 しかしその要求よりもさらにその倍を進んで行うことをイエス様は命じておられるのです。 こちらもまた相手の求めを超えて行動することを意味する言葉です。 2 イエス様はここでイエス様に従って生きることが一体どういうことなのかをインパクトの強い例えを用いて語っています。 そしてこの例えが示すものはいずれも、相手の要求を超えて行動することです。 私たちは自分で責任領域を決めて、これ以上は相手の責任で、ここから内側は私の責任だと考え壁を作ります。「ここまで!」と決めてしまうのです。 しかしその壁を壊して、人のことも自分のことのようにとらえられる生き方に招かれているのです。…

信仰シリーズ⑧ イエスを信じた弟子

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書14章25〜33節 タイトル:信仰シリーズ⑧ イエスを信じた弟子 “さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。” ルカの福音書 14章25~33節 1 序 今日の聖書箇所には、イエス様とイエス様について歩く大勢の群衆が登場します。 イエス様はそんな群衆に向かって語られるのですが、それが実に厳しい言葉です。 今日のお話は群衆から弟子となることについてのお話です。 イエス様はこう言われました。 自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹その上自分の命までも憎まない者は、私の弟子になることはできません。 「憎む」という言葉を使って強い言い方をしておられますが、この言葉の通りに家族を憎み嫌うようにという意味ではありません。 これは何よりもイエスキリストを一番にするということです。家族よりも、さらには自分の命よりも大事にするということです。 さらにイエス様の言葉は続きます。 「自分の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子になることはできません。」 自分の十字架とは私たちそれぞれに与えられた使命のことです。自分の思いや計画を優先させるのではなく、主が私に準備されている使命を生きることです。 そうでなければ弟子にはなれないとイエス様は言われたのです。 そしてこのことを今度は例えで語られます。 それが28節以降に記されている内容です。 塔を立てる時に、まず費用を計算しないで立てたりしないだろうと質問を投げかけます。 さらに31節で、どんな王でも戦争をする時に、相手の戦力とこちらが割かなければいけない戦力を比べて計算して戦争をするかどうか決めるだろうと問いかけます。 実はこれは全て主イエスを信じる信仰を持って生きるということ、つまりはイエスの真の弟子になることがどういうことなのかを説明している箇所です。 今日の聖書箇所はイエス様の非常に厳しい問いかけが記されています。 それだけにメッセージも厳しいと思われるかもしれません。 しかしその厳しさ以上に私たちに約束されている祝福は大きいものです。 私たちの手の中にある全てのものよりも勝る大きな祝福が約束されています。 この世の全てよりも、さらに大きな真の命であるイエスキリストを受け取るか。 それとも自分の手で掴んでいる何かを掴み続けるのかという問いかけと言えるかもしれません。 どうぞそのことを心に留めつつ耳を傾けていただけたらと思います。 2 信仰の二つの側面 “あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。” エペソ人への手紙 2章8~9節 “私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。” ヤコブの手紙 2章14節 聖書は信仰を二つの側面から説明します。 それは信仰が神の恵みによるものだということと、人が決断して神に従い行うことだということです。 一見するとこれは矛盾するようにも思えるので、なんとかしてこの二つを調和させようという思いにもなりますが、その必要はありません。 私たちは聖書に書いてある通りに信じれば良いからです。 聖書自体が二つの側面から書いているのでそのまま受け入れて信じれば良いのです。 イエス様と出会うまでは、私たちはこの世の権勢に従って生きていました。 それはこの世で成果を上げて評価されることと言えるでしょう。そしてそのために多くの人は努力するわけです。 しかしクリスチャンになると恵みを知ります。ただで受けとることができる贈り物です。信仰もこの恵みとして与えられるものです。 しかしまたしばらくすると信仰が恵みという言葉だけで語れるものではないことがわかってきます。 自分の意思と知性を働かせて主に従うという決断と行動をも含み込んだ言葉だということがわかってくるのです。 信仰には二つの側面があります。 そしてこの二つの側面は両方大切であり両方を知ることによる効果があります。…

イエスをあかしする者の歩み

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き22章30節〜23章11節 タイトル:イエスをあかしする者の歩み 1 序 先週は使徒の働き22章から、この世で神の民として生きるというタイトルでお話ししました。 宮にいたパウロを引きずり出して殺そうとしていたユダヤ人たちと、そんなパウロを救い出したローマ兵たちが登場しました。 彼らはそれぞれ自分たちにとって大切なもののために行動していました。 ユダヤ人たちはユダヤの国そしてその慣習を第一にしていました。ローマ兵たちはローマ帝国とそのルールを一番に行動していました。そして彼らはいずれも慌てふためいたり、怒り狂ったりして、自分たちが大切にしているものをなんとしても守ろうとしていました。彼らの心の中には自分たちの大切なものが奪われてしまうのではないかという不安があったのだと思います。 一方パウロはどうでしょうか。どんな状況になっても慌てふためくことなく、ただ自分がすべきことを実行していました。それはイエスキリストの福音を伝えるということです。彼はまさにこの世で神の国の民として生きた人でした。 このことは彼自身も認めるところでした。 2 ストーリー 今日の聖書箇所の冒頭部分でパウロはこう言っています。 “‥「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」” 使徒の働き 23章1節 生活すると訳された言葉は、「私たちの国籍は天にあります」という時の「国籍」と同じ語根で、市民権を持つものとして生きるという意味です。つまりパウロはここで神の国の民として自分は真っ当に生きてきたと語っているということです。 これに対して怒りを露わにしたのが当時の祭司長アナニヤでした。 彼はパウロのそばにいる人に対してパウロの口を打てと命じました。 しかしこの集会はユダヤの法に則って行われた正式なものではなく、あくまでも異邦人であるローマの千人隊長の要請によって集められたものです。しかも有罪が確定するまでは、被告人は罰を受けることがないというルールもありました。 それでパウロは3節のように反論しました。 “そのとき、パウロはアナニヤに向かってこう言った。「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」” 使徒の働き 23章3節 「白く塗った壁」とは、倒れそうになっている壁に外側からしっくいを塗って、危険な状態を隠していることです。これは一見すると堂々としていても、実のところはぼろぼろで倒れそうだという意味で、アナニヤに対する痛烈な批判でした。 この言葉に驚いた周囲の人々は、パウロに向かって「大祭司をののしるのか」と言います。 これに対してパウロは5節のように言いました。 “「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書いてあります。」” 使徒の働き 23章5節 この箇所を見てある人はパウロは視力が悪くて本当に大祭司だとは分からなくて言ったと考えたようですが、そもそも相手が大祭司でなくても、サンへドリンと呼ばれる最高議会のメンバーであることにはかわりありません。パウロの目の前にいるのは民の指導者たちなのです。 つまりアナニヤが大祭司であろうとなかろうと関係がないのです。 ここでパウロは暗に言っていると考えることができます。 ユダヤの法による裁きが行われてもいないのに頬を叩かせる者など指導者なはずがないと。 ですからこの箇所はパウロなりの皮肉であろうと思います。 ここまで見てくると、パウロとユダヤの人々との対立がよくわかります。 前の日までは何とかして福音を伝えようとしていたパウロでしたが、いよいよここでは衝突は避けられないことを知って彼も戦闘態勢を整えているようです。 しかしこの次の節からまたパウロがユダヤの人々の考えに風穴を開けようと試みる姿が見えます。 “しかし、パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」 彼がこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた。 サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。 騒ぎがいよいよ大きくなり、パリサイ派のある律法学者たちが立ち上がって激しく論じて、「私たちは、この人に何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いかが、彼に語りかけたのかもしれない」と言った。 論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵隊に、下に降りて行って、パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた。” 使徒の働き 23章6~10節 ここまでと方針転換をしたパウロの姿がここから描かれます。 パウロはこの時、復活信仰を持ち出してパリサイ人とサドカイ人との議論に持ち込みました。 この箇所はパウロが一計を案じて議会を混乱させて裁判をローマで受けられるようにしたと言われることもありますが、果たして本当にそうなのだろうかと思います。 前回一緒に見た聖書箇所でもそうでしたが、パウロの心は福音を伝えることで一杯でした。そこにはいつもブレがない人でした。 ですから少しの隙間さえあればそこに入っていき福音を伝えるための一石を投じようとするのではないかと思うのです。 実際この論争によってもともと復活は信じていたパリサイ人たちから、ひょっとしたら霊か御使いがパウロに語りかけたのかもしれないと言う人まで現れました。 こうして論争がどんどん激しくなっていったので、パウロが引き裂かれるかもしれないということで、ローマ兵たちがまたパウロを保護し兵営へと連れていきました。 今日のストーリの流れは大体このようなものです。 3 さて、エルサレムに来てからのパウロの行動に関しては、とてもムラがあるように見えるので、読む人によって色んな解釈ができるところです。 いくつかの註解書を見ましたが、どれも興味深いものでした。 ただ私は、パウロがエルサレムに入る前に人々の前で言った言葉を軸にしてエルサレムの行動を見ていきたいと思っています。 その言葉とは“‥私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」”(21章13節)という言葉です。 パウロは元々ローマに行きたいと思っていましたし、この時もそれは変わりはないのですが、それでももし神がエルサレムで死ななければいけないと言われるのであれば、私は死ぬという信仰告白の言葉です。 パウロは決死の覚悟を持ってエルサレムに入ってきました。…

この世で神の国に生きる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き 22章22-30節 タイトル:この世で神の国に生きる 1 ストーリー 前回、パウロがユダヤ人たちに誤解され殺されかけていたところ、ローマ兵たちが助けに入ったところまでを共に見ました。 あの後パウロはヘブル語でユダヤ人たちに語りかけました。 自分がどのようにしてイエスキリストに出会い宣教師になったかということでした。 しかしイエスキリストによって異邦人へと派遣されたという話になるとユダヤ人たちが再び怒り出しました。 今日の聖書のストーリはこの後の場面です。 ユダヤ人たちは怒り狂い声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言いました。 そして、わめきたて、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らす有様でした。 これに危険を感じた千人隊長はパウロを兵営に引き入れるように命じました。 そしてどうしてこのような騒ぎになっているのかを突き止めるべく、パウロを鞭打って取り調べるようにと兵士たちに命じました。 そこで兵士たちがパウロを鞭打つ準備をしていたところ、そばにいた百人隊長にパウロが言いました。 「ローマ市民であるものを裁判にもかけずに鞭打って良いのですか。」 ローマにとってローマの市民権は絶対的な力を持ちます。 百人隊長は驚いて千人隊長にこの事実を伝えました。 すると千人隊長本人がパウロに確認しました。 「あなたはローマ市民なのか。私は大金を出してローマの市民権を買ったのだ。」 するとパウロは言いました。 「私は生まれながらのローマ市民です。」 それで千人隊長は、正式な手続きも踏まずにローマ市民を縛ってしまったことを恐れ、他の人たちもパウロから一斉に身を引きました。 この辺りに当時のローマの市民権の威力を感じます。 ローマ帝国というのは力で他の国々を制圧していった帝国ですが、同時にルールというものにも厳格であり、この両方を兼ね備えた国だったようです。 だからローマの市民権を持っている千人隊長といえど、そのルールを破ってしまったことに動揺したのだろうと思います。 3  さて、今日のこのお話の中から注目したいのは、まず登場人物たちがそれぞれ何を宝としているかということです。 このお話のために、登場人物を3つのグループに分けてみます。 まず一つ目はユダヤ人グループです。 二つ目はローマの兵士たちのグループです。 三つ目はクリスチャン、つまりはパウロです。 ⑴ ではまずユダヤ人たちからお話しします。 ユダヤ人たちはこの時一体何を宝として動いていたのでしょうか。彼らが一番にしていたものは何でしょうか。 彼らが最初パウロを神殿から引きずり出した時、ある誤解をしていましたが、それはパウロが外国人を神殿に引き入れているという誤解でした。 実際にはそんなことはしていなかったのですが、彼らはそのように勘違いしてパウロを神殿から引きずり出してあのような暴動へと発展したのです。 伝統、慣習、ルールこそ彼らが第一にしているものでした。そして彼らのルールの中にユダヤ人第一主義がありました。 ですから外国人を連れて神殿に入っているという勘違いをした時も、パウロをひきずり出しましたし、パウロが証をした時も、自分は外国人に救いを伝えるものとして派遣されたという話になると彼らは聴いていられなくなったのです。彼らの宝は、ユダヤであり、そのルールでした。 ⑵ ではローマ兵たちはどうでしょうか。 彼らは、一体何を大切にして、何を宝として生きているのでしょうか。 まずお話しておきたいのは、彼らが、暴動の中に入ってパウロを助けた理由は、パウロのためではないということです。 彼らはローマによってユダヤのエルサレムに派遣された人たちです。この地方の治安を守るためにいる存在です。だから暴動が起きたら止めるのです。そしてあのようにリンチによって誰かが殴り殺されるような事態は避けなくてはいけません。彼らの責任問題になるからです。 また彼らはパウロがローマ市民であることを知ったときに、ローマのルールを破ってローマ市民を適正な裁判にかけずに縛ってしまったことを恐れました。 以上の理由から、彼らが大切にしていたのは、ローマの法であり、ローマ皇帝であり、またローマという国そのものだということができます。 ⑶ ではパウロはどうでしょうか。 彼はエルサレムに来るまでに、何人もの人たちにそれを止められていました。なぜなら捕まってしまうかも知れなかったからです。そのことを聖霊によって教えられた兄弟たちがなんとしてもパウロを行かせないようにと思って説得しました。しかしパウロはそれでも心を折れずただ神の導きに従うことを選んだのです。 エルサレムに到着してからは、ユダヤ人クリスチャンたちのつまずきになってはいけないということで、わざわざユダヤのルールに乗っ取って神殿まで行きました。さらにそこで誤解され袋叩きに合い殺されそうになっても、神の福音を伝えることを忘れない人でした。 自分がどのようにしてキリストと出会ったのか。アナニヤの話、ステパノの話、異邦人への派遣の話。 このようなことを彼は自分を殺そうとした人たちにも語ったのです。 彼が大切にしているものは何でしょうか。 それはイエスキリストでした。 福音を一番の宝として、神の国に生きいている人だったのです。…