聖霊によって変えられる

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/ld6mhNPZJ6s ペンテコステ礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き2章36-37節 タイトル:聖霊によって変えられる “ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。” 使徒の働き 2章36~37節

出エジプト記シリーズ05 思っていたのと違っても

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/_3aezpXccz0 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:出エジプト記14章1-21節 タイトル:思っていたのと違っても “主はモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。 パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。 わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」そこでイスラエル人はそのとおりにした。 民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、パロはイスラエル人を追跡した。しかしイスラエル人は臆することなく出て行った。 それでエジプトは彼らを追跡した。パロの戦車の馬も、騎兵も、軍勢も、ことごとく、バアル・ツェフォンの手前、ピ・ハヒロテで、海辺に宿営している彼らに追いついた。 パロは近づいていた。それで、イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。 そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。 私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」 主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。” 出エジプト記 14章1~21節

ルツ記シリーズ04 買い戻された者として

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを聴くことができます。 https://youtu.be/FWbC5GzJmA8 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ルツ記4章1-22節 タイトル:買い戻された者として “一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこにすわった。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。ボアズは、彼にことばをかけた。「ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってください。」彼は立ち寄ってすわった。 それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、「ここにおすわりください」と言ったので、彼らもすわった。 そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。 私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」 そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」 その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」 昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。 それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分のはきものを脱いだ。 そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。 さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」 すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。 また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。 ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、 ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、 アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、 サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、 オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。” ルツ記 4章1~22節

出エジプト記シリーズ04 人の頑なさ

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/ZQ1GcJke0Hk 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:出エジプト記5章1-10節 タイトル:人の頑なさ “その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」 パロは答えた。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」 その日、パロはこの民を使う監督と人夫がしらに命じて言った。 「おまえたちはれんがを作るわらを、これまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。 そしてこれまで作っていた量のれんがを作らせるのだ。それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。だから、『私たちの神に、いけにえをささげに行かせてください』と言って叫んでいるのだ。 あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」 そこで、この民を使う監督と人夫がしらたちは出て行って、民に告げて言った。「パロはこう言われる。『私はおまえたちにわらを与えない。” 出エジプト記 5章1~10節

出エジプト記シリーズ03 神の意志に生かされて

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/eJsIflQO4i8 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:出エジプト記3章13-14節 タイトル:神に意志に生かされて “モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」” 出エジプト記 3章13~14節

出エジプト記シリーズ02 何者でもないわたしを

以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/nEPraa7K-Dk 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:出エジプト記3章1-12節 タイトル:何者でもないわたしを “モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」” 出エジプト記 3章1~12節

出エジプト記シリーズ01 嵐を超える神のかご

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:出エジプト記2章1〜10節 タイトル:嵐を超える神のかご 1 序 一体どうすればこの問題が解決するのだろうか。 糸口すらも見えないそんな時が私たちの人生には幾度もおとずれます。 みなさんはそんな時どのように対処されますか。 今日はある信仰深い女性のお話ですが、ここから私たちの生き方を変えるヒントを掴みたいと思います。 2 ストーリー この物語は、ヘブル人たちがまだエジプトにいた頃のことです。 かつてヨセフというヘブル人によって食糧危機を乗り越えたエジプトでしたが、それから何年も後、エジプトの人々はヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。 そしてヨセフの子孫たちがどんどんエジプトの地で増えていくのをよしとせず、恐れさえしました。 彼らはなんとかヘブル人たちをおさめようとして奴隷にしてしまいます。 さらに王様は、ヘブル人から生まれた男の子は、ナイル川に投げ込んで殺すようにという命令まで出しました。 さてこのように大変な状況に置かれていたヘブル人たちでしたが、ある時一人の人が結婚し夫婦の間に、男の子が生まれました。 この夫婦の名前はここには出てきませんが、民数記26章59節を見ると、わかります。 “アムラムの妻の名はヨケベデで、レビの娘であった。彼女はエジプトでレビに生まれた者であって、アムラムにアロンとモーセとその姉妹ミリヤムを産んだ。” 民数記 26章59節 夫はアムラム、妻はヨケべデといいました。 2節を見ますと、ヨケべデは生まれた子が「かわいいのを見て三ヶ月の間‥隠しておいた。」と記されています。 かわいいという言葉は、ヘブライ語聖書ではトブというのですが、外見を見てただ「かわいい」という意味だけではなく他にも多くの意味があります。 他の箇所でこの言葉は、優れているとか、尊いとか、貴重という意味で使われています。 この男の子は、その存在が尊く、貴重であり、優れていたということなのでしょう。 さらに「見た」と訳されている言葉は、ヘブライ語ではラアといい、外見だけを見るのではなく、その存在が一体どんなものなのかを知ることであり悟ることです。 ヨケベデは、この子に神の計画を見たのではないでしょうか。 神が尊く用いてくださる特別な器として彼女は受け取ったのだと思います。 母親としてなんとしても我が子には生き延びてほしいという思いと、神様から与えられたこの信仰によって彼女は三ヶ月の間隠しておきました。 エジプトの王パロの命令は絶対です。 そのパロが「男の子が生まれたらナイル川に投げ入れて殺せ」と言ったのですから絶対に守らなくてはいけません。 しかしヨケべデはこれを破りました。命懸けでこの子を守ろうとしたのです。 ところが子どもは泣きます。 月齢が増えれば増えるほど、泣き声も大きくなります。 それで3節「隠しきれなく」なって、このままでは殺されてしまうと考えたのでしょう。 パピルスのカゴに瀝青と樹脂を塗って防水し、子どもをそのカゴの中に入れて、ナイル川の茂みの中に置きました。 そしてその子の姉は、弟がどうなるかを離れたところで見ていました。 するとそこにパロの娘がやってきて、そのカゴに気づきました。 召し使いにとって来させて蓋を開けると、自分の父親が迫害しているヘブル人の男の子が入っていて泣いていました。 「なんと」という言葉が入っているので、彼女が大変驚いたことがわかります。 おそらくこれまでもヘブル人に対する仕打ちについて話は聞いていたでしょう。 しかしこうして目の前で犠牲になろうとしているヘブル人の男の子を見て、彼女はかわいそうに思いました。助けてあげたいと思ったということです。 その様子を見ていたこの男の子の姉は、パロの娘の前に出て言いました。 私が行って、ヘブル人の中から乳母を呼んで参りましょうか。 このタイミングで出ていけば、偶然ではないとわかったはずですが、パロの娘は行ってきておくれと頼みました。 それで、この子の実の親である母親を連れてきて、乳母として紹介したのです。 こうして実の母親であるヨケベデは、生きながらえた息子と再会して、実の親でありながら育ての親として養育しました。 そしてこの子が大きくなった時、パロの娘のところへ連れて行きました。 パロの娘はその子にモーセという名前をつけました。 エジプトの言葉で、「水」と「引き出される」という意味を合わせた名前です。 こうしてモーセはナイル川から引き出されて救われました。 神の強力な御手による業以外の何物でありません。 モーセは後にヘブル人がエジプトから救われる時に大きく用いられます。 これが今日の大まかなストーリーです。 ここから今日もいくつかポイントを上げてお話ししたいと思います。 3 パピルスのかご まずパピルスのかごについてです。…

復活に生きる

イースター礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書3章1〜5節 タイトル:復活に生きる “さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。” ヨハネの福音書 3章1~5節 序 今日はイースター礼拝、イエスキリストの復活を記念する礼拝です。 イエスキリストは十字架にかかられ死なれましたが、三日目に復活し弟子たちの前に現れました。この出来事は、十字架の死が敗北ではなく、勝利であったことの証明です。神のご計画の通りに、神の御子イエスキリストはこの地上に来られ100%神様の言葉に従い、神の御心の通りに、十字架へとかかり殺されました。それは私たちの救いのためでした。そしてキリストは死を打ち破り三日目に復活されました。そして弟子たちの前に現れ、さらに弟子たちの目の前で天に昇っていかれました。今もイエスキリストは生きておられます。 今日はイースター礼拝ですので、イエスキリストの復活に関するお話ですが、特に私たちの内面との関連で、復活の話をしたいと思います。 1 ヨハネの福音書3章1〜5節の概略 この箇所は、ある夜のことイエス様のもとにユダヤ人の指導者であるニコデモという人がやってきた時のことについて書かれています。 ニコデモはイエス様に何かを聞きに来たようです。 それを察してイエス様は答えました。 “「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」”(3章3節) するとニコデモは、年をとったものが、もう一度母親のお腹の中に入って、また出てくるなんてことはできないでしょうと言いました。 イエス様はご自分が言ったことを理解できていないニコデモに対して再度言いました。 “「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。”(3章5節) 今日の箇所は大体このような流れになっています。 ニコデモという人とイエス様の対話です。 この中に大切な言葉が記されていますので、いくつかピックアップしてお話しします。 2  3節の説明 まず3節のイエス様の言葉の説明からお話します。 ⑴3節の最後のところに注目してください。 ここには「神の国を見ることはできません」と記されていました。 この神の国とは死んだ後に行く天国のことも含まれる言葉だと思いますが、神の国というのは、神の統治のことです。王である神がおられ、その王の言葉を忠実に聞く民がいる状態のことです。ですからこの世界を去る前であっても、私たちが神の言葉を聞き、それに従うならば、神の国に生きるているということができます。 しかし神の言葉を聞いてそれに従うことは簡単なことではありません。 ニコデモもそのことをよく知っていたのだと思います。 民の指導者でありながら、行き詰まりを感じた彼は、答えを持っているイエスキリストのもとにやってきました。 するとイエス様は、新しく生まれなければ神の国に生きることはできないと言いました。 神の国に生きることができていないニコデモにとって必要な言葉をここで語っておられるということができます。 新しく生まれたら、神の国に生きることができる。 つまり神の言葉を聞いてそれに従って生きていける方法をイエス様はここで伝えているのです。 ⑵ではこの新しく生まれるとは一体どういう意味なのでしょうか。 「新しく」と翻訳されている言葉は、本来アノウデンというギリシャ語です。この言葉には「上から」や「もう一度」という意味があります。 つまり新しく生まれるというのは、上から生まれることであり、もう一度生まれることということができます。 「上から」生まれるというのは、この地上の何かによってではないということです。上からというのは、つまり天から、神から与えられるものだということ、恵みによるものだということを意味しています。 では「もう一度」とはどういうことでしょうか。 私たちはすでに一度生まれています。 私たちそれぞれこの世界に誕生しました。 しかしこの一度目の誕生というのは、アダムの子孫としての誕生です。 生まれた時から、罪の中にいて、死を抱えた状態にあります。 イエス様はそのままでは神の国に生きることはできないと言われました。 つまりそのままの状態では神の言葉に従って生きることはできないということです。 ではどうすれば良いのか。 それがもう一度生まれるということなのですが、このもう一度生まれるという言葉の意味は、アダムの子孫としての自分の死を意味しています。 一度私たちは死ななくてはいけないということです。 その上でもう一度生まれなくてはいけないのです。 つまり新しく生まれるというのは、一度死んで復活することを意味する言葉なのです。 しかしこんなこと私たちにはできません。 だからニコデモも意味が分からなくて、もう一度母親のお腹の中に入って出てこいということですかと、ありえない質問を4節でしているのです。 では私たちはこのイエス様の言葉をどう理解したら良いのでしょうか。…

イエスキリストのたしかさ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書23章34〜43節 タイトル:イエスキリストのたしかさ 皆さんは自分の本当の姿が現れる瞬間はいつだと思われますか。 人は多くのアクセサリーや仮面をつけて生きているように思います。 しかしどんな人もこれら全てを外さなくてはいけない時があります。 それは死に直面した時です。 そこにはもはや自分をよく見せたりする余裕もありません。 今日のお話には、死に臨んでいる3人の人が出てきます。 死に臨んで、仮面を外し、本当の姿が現われてくるとすれば、この3人の人の素顔とはいったいどの様なものなのでしょうか。 そしてこのお話は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。 1 ⑴まず一人目はイエスキリストです。 彼は神の一人子であるにもかかわらず、その王座を惜しまずにこの地上に来られ、100%神でありながら100%人としての生涯を過ごされました。 30歳まで大工として過ごし、家族を養い、その後神の教えを伝えるものとして3年半生き、今日の聖書の箇所では、十字架にかけられて命を断たれようとしています。 彼はこの時まさに死に直面しているわけです。 その十字架で語られた最初の言葉が「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」でした。 死に直面して本当の姿が現れるとするなら、イエスキリストの本当の姿はまさに私たちを救うため、とりなすため、ゆるすために来られた救い主だったということができます。 イザヤ書53章にはこう書かれています。 “しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。” イザヤ書 53章5~8節 イエスキリストは、この旧約聖書の預言の通りに生き、そして死んだ救い主でした。 十字架にかけられても、恨み言ひとつ言わず、罵られても言い返しませんでした。 そればかりか、十字架上でゆるしを祈られたのです。 彼はまさに旧約聖書に記された救い主でした。 ⑵では二人目はどうでしょうか。 イエス様の隣で十字架にかけられた死刑囚です。 彼はイエス様にこう言いました。 「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」 彼はどうしてこんなことを言えたのでしょうか。 キリストだとは信じていない彼が、イエスをキリストというのは、嘲り以外の何ものでもありません。 何か周囲の言葉に影響されるように、イエス様を嘲っているようにも見えます。 死に直面して本来の姿が現れるとするなら、この死刑囚の本来の姿とは一体どういうものなのでしょうか。 目の前に神の一人子がいても気づかず、周りに流されて嘲りを重ねてしまう。そんな姿こそ彼の本来の姿でした。 そしてこれこそまさに人間の姿ではないでしょうか。 自己の罪を認めず、他人を非難することに忙しい。 それは死に臨んでも変わることなく、それどころか、いよいよ激しさを増すのです。 そしてその非難の矛先は神の一人子にまで及びます。 ⑶ では3人目はどうでしょうか。 この人も先ほどの人のように自らの罪のために死刑になった人です。 しかし先ほどの人とは正反対のことを語ります。 “ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」” ルカの福音書 23章40~41節 この人はまず先程の死刑囚の言葉をたしなめて言いました。 「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」 そしてさらに自分の罪についての話しに及びます。 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」 そしてイエスさまに罪がないことにまで彼の言葉は及びます。 「この方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 どうしてこの人は、先程の囚人とは違う思いになったのでしょうか。…

神が準備した人々

https://youtu.be/nzhQkywkCfs 主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルツ記3章1〜18節 タイトル:神が準備した人々 先週はルツ記の2章を見ました。 今日はその続きを見ていきます。 ベツレヘムが飢饉となり外国のモアブへと移り住んだエリメレクという人と、その妻のナオミ、そして二人の息子がいました。しかしナオミの夫のエリメレクはそこで死んでしまいます。息子たちは現地の女性と結婚し5人家族になりますが、約10年後にこの息子たちも死んでしまい、ナオミと二人の嫁だけが残されました。 そんな折に飢饉だった故郷のベツレヘムを神が顧みてくださり食物が取れるようになったことを知ってナオミは嫁のルツと共にベツレヘムへと向かいそこで暮らし始めました。 ルツは姑との暮らしのために落穂を拾って生計を立てることを試みます。 ある畑にやってきたルツはそこではからずもボアズという人に出会いました。 この人はナオミの親類であり、エリメレクの土地を買い戻す権利のある人でした。 そこでルツは大変よくしてもらってお土産まで持ってナオミのもとに帰りました。 ナオミはルツがボアズと出会ったことを知って喜び、ボアズのすすめの通りルツにボアズの畑でのみ落穂ひろいをするようにと言いました。 こうしてナオミとルツはベツレヘムで生活していました。 3章はこの後の話です。 1  ある日、ナオミはルツに言いました。 あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所をさがしてあげないといけない。 そうして、ボアズが親戚であることを伝えます。 2章20節でもナオミはルツにボアズが近親者で、買い戻しの権利のある人だということを伝えていましたが、ここでまた改めてボアズが再婚相手に最適であると言うのです。 さらに、3、4節を見ますと、ボアズにどのようにアプローチすべきかをレクチャーしています。 ルツはナオミの言った通りに全て行うことを約束し、実際にボアズのところに行って、その通りにしました。 ナオミが言ったことの中に「足のところをまくってそこに寝なさい」というものがありましたが、ルツはボアズが気付かぬ内にその通りにしました。 夜中になると、彼は驚いて目を覚まします。 そして自分の足元に誰か、女性がいるのがわかったので、あなたは誰かと尋ねました。 これにルツは答えるのですが、この言葉が非常に印象的なものになっています。 “‥「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」”(3:9) 「おおいをひろげて、おおってください」という言葉の意味は、結婚してくださいということです。(エゼキエル書16章8節参照) ルツはここで非常に大胆な行動に出ました。 ルツの方からボアズに対してプロポーズしたのです。 ボアズはこれを受け取り全て理解しました。 そしてルツを褒めます。 それが10節の言葉です。 “すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。” ルツ記 3章10節 あなたの「後からの真実」は、「先の真実」にまさっていますとボアズは言いますが、この「先の真実」というのは、これまでボアズが聞いてきたルツのナオミに対する誠実な行動のことだろうと思います。 すなわち、ルツには、モアブに残って新しい家族を見つけるという選択肢があったにもかかわらず、姑のナオミと一緒にベツレヘムに来て共に暮らすことを選んだことです。また、落穂拾いをしてナオミと一緒に暮らしていくために一生懸命働いていたことでしょう。 これが「先の真実」です。 しかしこれよりも「後の真実」の方が素晴らしいとボアズは褒めました。この「後の真実」と関連しているのが、10節の後半部分です。そこにはこうありました。「あなたは貧しい者でも、富むものでも、若い男達のあとを追わなかったからです。」ここからボアズがルツよりもかなり年上なのではないかと推測できます。年齢を重ねた彼よりも他の若い男性と結婚した方がルツ一人にとってみれば良いことだと彼は思っていたのかもしれません。しかしその選択をせずに、ナオミのことを思って、買い戻しの権利があるボアズのところにやってきたことを「後からの真実」と言ってたたえているのです。 あなたは自分一人のためだけの幸せではなく、姑とまたその家の幸せになる方法を選んだ真実な人だということなのでしょう。 ただし、「ではすぐ結婚しましょう」ということではなく、決められた順番があって、それによると自分が二番目なので、一番目の人が受け入れてくれたらその人のところに行くように言い、もしその人が権利を放棄したら自分が受け入れると約束しました。 こうしてルツはボアズの隣で何事もなく明け方の暗いうちまで過ごして、周囲の人々に見られて誤解をされないように、外套をきて、ボアズに大麦6杯ももらって帰って行きました。 ナオミはこの話をルツから聞き、ボアズが行動を起こすまで待つようにと言いつけて3章は終わります。 これがルツ記3章のだいたいのストーリーです。 今日もこの中からいくつかピックアップしてお話します。 2  ルツの真実 まずルツの真実についてです。 ルツはまだモアブにいる頃、実家に帰るようにナオミに言われた時、こう答えました。 “ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」” ルツ記 1章16~17節 今日は特に17節のところに注目したいのですが、ここで「あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたい」とまで言っています。これは単なる強調表現ではありません。日本のお墓もそうですが、当時のこの地域のお墓も死んだ人の骨をその家の先祖達と同じところに入れました。 つまりこのルツの言葉というのは、ナオミと一緒のお墓に私は入りますという意味であり、ナオミを見捨てて他の家に行ったりはしませんという誓いの言葉なのです。 そしてルツはこの言葉の通りに、行動しました。…