福音シリーズ⑦ アダムからキリストへ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章12~21節 タイトル:福音シリーズ⑦ アダムからキリストへ ここ最近また感染者が増え情報が錯綜し状況が不安定になっています。昨日熊本では大雨による大変な被害でした。九州への大雨の被害はこれで4年連続となったそうです。ニュースでは記録的豪雨という言葉が飛び交っています。ここ数年大雨のたびにこの言葉を聞くようになったように思います。やはり気候自体が変わってきているのかもしれません。ウイルスの蔓延、気候変動、バッタによる食糧危機まで騒がれはじめたこの時、私たちは何を支えに生きていけば良いのでしょうか。この問いに私はやはり福音であると申し上げたいです。今日で7回目となりますが今日も聖書から聴いていきたいと思います。 わたしたちはイエスキリストを信じる信仰により罪のゆるしを受け、義人とされました。それはわたしたちの罪がキリストに転嫁され、キリストの義がわたしたちに転嫁されたからです。 今日はローマ書5章から特にこの転嫁がどのようにして起こるのかを見ていきたいと思います。 1  二人の人 この世界が始まって以来、数えきれない人々が生まれては死んでいきました。この世界を造られ人を造られた神はその一人一人のことをよくご存知です。 しかし罪と義、死と命に関して、神は人類を二人の代表を通して見ておられます。 その二人とはアダムとイエスキリストです。 まずこの点に関してアダムについて話し、その後キリストについてお話ししたいと思います。 ⑴ アダム 全ての人類は生まれたままの状態ではアダムにつながっています。全ての人がアダムの内にいるのです。アダムは人類の代表です。 アダムが罪に堕ちたその結果はアダムとつながっている人類、アダムの内にいる全ての人のものということです。 アダムが罪を犯し死ぬものとなった時、全ての人はアダムの内で罪人となったということです。 そのことが5章12節に記されていることです。 “そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、--それというのも全人類が罪を犯したからです。” ローマ人への手紙 5章12節 さらにコリント人への手紙にもこう記されています。 “‥アダムにあってすべての人が死んでいる‥” コリント人への手紙 第一 15章22節 そしてこのことをローマ5章13、14節では論証しています。 “というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。” ローマ人への手紙 5章13~14節 アダムは善悪の知識の木の実を食べてはいけないという法を直接神から与えられました。そしてモーセもあのシナイ山で神から律法を与えられました。 このように法が与えられるからこそ、それに対する違反も成立します。罪人と判断されるということです。 「罪は何かの律法がなければ、認められないものです」とはそういう意味です。 ところが罪の報酬である死はアダムとモーセの間の時代を生きた人々の間にも存在し続けました。彼らには直接神から法が与えられていないにも関わらずです。 “セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。 セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。 セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。 エノシュはケナンを生んで後、八百十五年生き、息子、娘たちを生んだ。 エノシュの一生は九百五年であった。こうして彼は死んだ。 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。 ケナンはマハラルエルを生んで後、八百四十年生き、息子、娘たちを生んだ。 ケナンの一生は九百十年であった。こうして彼は死んだ。 マハラルエルは六十五年生きて、エレデを生んだ。 マハラルエルはエレデを生んで後、八百三十年生き、息子、娘たちを生んだ。 マハラルエルの一生は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。 エレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。 エレデはエノクを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。 エレデの一生は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。” 創世記 5章5~20節 ここからアダムの堕落の結果が子孫たちに及びアダムの罪が子孫たちの罪となっていることがわかります。 アダムの代表性というものがここで証明されているのです。 全ての人は自分の行動とは関係なくアダムにあって罪人なのです。 ではここからもう一人の代表であるイエスキリストについてお話しします。 ⑵ イエスキリスト…

福音シリーズ⑥ 何を誇りとしているでしょうか

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 6章11~14節 タイトル: 福音シリーズ⑥ 何を誇りとしているでしょうか “ご覧のとおり、私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。 あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。 なぜなら、割礼を受けた人たちは、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。” ガラテヤ人への手紙 6章11~14節 今日もまた福音シリーズとしてお話しさせていただきます。 まず皆さんに自問自答していただきたいことがあります。 それは「わたしは何を誇りとして生きているか。」ということです。 パウロは今日のみことばの6章14節で”‥私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。‥”と言っていますように、ただイエスキリストの十字架だけを誇って生きた人でした。 しかし今日の聖書にはパウロとは違い、イエスキリスト以外を誇り他者を見下す偽教師と呼ばれる人たちが出てきます。 彼らはガラテヤ教会の人々に間違った福音を植えつけようとしていました。 そんな彼らの教えをパウロはここで痛烈に批判しています。 パウロはこうしてガラテヤの教会が間違った方向へ進むのを阻止しようとしているのです。 ガラテヤ人への手紙ではキリストの十字架から引き離すこの偽教師たちの動きを冒頭から指摘していました。1章6、7節がそれです。 “私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。” ガラテヤ人への手紙 1章6~7節 そしてその対処の一つとして本書を書き進めてきましたが、この手紙を終えるにあたりもう一度具体的に話をしたかったようです。 当時ガラテヤには、イエスキリストを信じる信仰だけでは救われないとふれ回っていたいわゆる偽教師たちがいました。 彼らはイエスキリストを信じることを否定はしませんでしたが、それに加えて割礼を施すことと、いくつかの律法を守ることを強要しました。 これは実のところキリストを信じる信仰によって救われることの否定であり、福音を福音でないものに変えてしまうことでした。 パウロは彼らが唱える言葉を他の福音と言って批判していますが、偽教師たちにとっての義はこれだったのです。 キリストを信じる信仰以外に自分たちが正しいと思うことを付け足してそれを自分たちの努力でもって成し遂げようとしていました。 今日はこれを自分自身の義と呼びたいと思います。 ここでもう一度最初に自問自答していただいた問いを思い浮かべてみてください。 「わたしは何を誇りとして生きているか」 もしキリスト以外の何かを誇りとするならば、自分自身の義に従って生きる生き方をしているのかも知れません。 今日はこのことをもう一度確認したいと思います。 1 二種類の義 聖書には二種類の義が登場します。 一つは神の義です。神の義とはこの脈絡でいうと、神の恵みによりイエスキリストを信じる信仰によって与えられる義のことです。これは賜物、贈り物として与えられるものです。 そしてもう一つは自分自身の義です。これは自分自身の努力によって律法を守り神から何かを得ようとすることです。 自分自身の義に囚われていると、それを土台として間違った信仰が生まれます。 神は律法を行うことによって義を得ようするなら全てを完璧に神が求める水準で守らなくてはいけないと言われました(3章10節)が、人間にはそれは不可能です。 だから自分自身の義を基礎にした信仰の人たちは、自分ができるところまでその水準を落とし、それを行うことで満足します。 本当はそれで律法を守ったことにはならないのですが、そんなことはお構いなしに自分で勝手に決めます。 そしてそれを十分守れている自分とそうでない他者を比較して他者を裁きます。 ルカの福音書 18章9~14節を共に読みます。 “自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」” ここにも自分自身の義と神の義が記されています。 自分自身の義を前面に押し出して正しさを主張するのはパリサイ人です。 彼は宮にのぼって立ち、他の人のようではないこと、特に取税人のようではないことを感謝しています。 そして断食をしたり、十分の一を捧げていることを誇っています。 彼にとっての義の基準がこれなのでしょう。 その基準に自分は一生懸命努力して達している。…

福音シリーズ⑤ キリストがのろわれた者となるほどに

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙 3章13節 タイトル: 福音シリーズ⑤  キリストがのろわれた者となるほどに “‥福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。” ローマ人への手紙 1章16節 福音はわたしたちに救いを得させる神の力です。 そしてこの福音の核心こそイエスキリストの十字架です。 使徒パウロはコリント人への手紙第一において”‥私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。”(コリント人への手紙 第一2章2節)と語っています。 これはパウロの一貫した姿勢でしたが、哲学的論議を喜ぶコリントにおいては,特にこの姿勢を堅持する必要を覚えたのでしょう。 イエスキリストの十字架以外をわたしは顧みないというパウロの強い意志があらわれています。 ところでパウロがこれほどまでに訴える十字架とは一体何なのでしょうか。 今日は特に十字架にあらわれる福音について聖書から聴いていきたいと思います。 1 呪われた者 “キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。” ガラテヤ人への手紙 3章13節 十字架と聞くとみなさんはキリストの何をイメージされるでしょうか。 先週はメッセージの中でこの十字架によって神の愛が示されたというお話をしましたが、そもそも十字架の第一義的意味は愛ではありません。 十字架は呪いを象徴するものでした。 今日はこのことからお話ししたいと思います。 今読んでいただいたガラテヤ3章13節にも「キリストはわたしたちのために呪われたものとなって」とあるようにキリストはあの十字架で呪われたものとなられたのです。 ではなぜキリストは呪われたものとならなければいけなかったのでしょうか。これに答えるためには、わたしたちが本来呪われたものだったことについてお話しする必要があります。 ⑴ わたしたちは呪われた者 新約聖書での呪いとは神に捨てられ罪に支配されている状態のことです。 ポールウォッシャーという牧師がこの呪いに関して幸いの反意語であるとしてマタイの福音書5章の言葉を引用しながら説明していました。 天の御国に入る人は幸いです。そこへ入れない人は呪われています。 神に慰められる人は幸いです。神の怒りを受ける人は呪われています。 地を受け継ぐものは幸いです。地から追い出されるものは呪われています。 幸いな人は満ち足りています。呪われた人は悲惨であり不幸です。 幸いな人は憐みを受けます。呪われた人は容赦なく罪に定められます。 幸いな人は神を見ます。呪われた人は神の前から追い出されます。 幸いな人は神の子です。呪われた人は捨てられます。 本来わたしたち人は神に呪われたものでした。 神に捨てられ罪に支配されたものでした。 天の御国には入れず、神の怒りを受けるものであり、憐れまれることなく、ただ神の律法によって裁かれるだけです。神の子になどなれるはずもありません。 ただ神の前で裁かれ捨てられるだけの存在です。 それがわたしたちです。 わたしたちはこの本来の自分を教えられていく必要があります。 罪の話をすること、そして聞くことは、いずれも気持ちの良いものではありません。 しかし聖書に記されていることは、すべてわたしたちにとって必要なことです。 だから罪について語り、聞く必要があるのです。 一度イメージしてみてください。 神が裁きのための会議を開いています。 わたしもみなさんもその脇で会議の内容を聞いていたとしましょう。 神はこう言われます。 新しい世界を作るためには現在のこの世の状況はあまりにもひどい。 汚れているもの、汚染されたものたちを排除して、この世界を作り直そう。 なんと恐ろしいことを言われるのかとわたしたちは思うはずです。 ただこの時はまだ他人事です。 しかしその後、間髪入れずに神がわたしとみなさんの名前をいうのです。 「あの子はダメだ、罪に汚染されてしまっている。排除しよう。」と。…

福音シリーズ④  客観的事実と主観的事実

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙5章5−8節 タイトル: 福音シリーズ④  客観的事実と主観的事実 福音について続けてお話しさせていただいています。 ここ数ヶ月で大きく社会の状況は変わりました。今も変わり続けています。 私たちは心が揺るがされる経験を今まさに味わっているところです。 しかしその中でも揺るがされないものを掴んで生きていきたいのです。 それで福音についてまた改めて聖書から聴いていきたいと思いました。 これまでもそうだったようにどんどん状況は変わります。 状況に自分の心を置いていたらその度に心が揺るがされ乱されるでしょう。 しかし福音に根を張っていれば状況に左右されることはありません。 私たちがよって立つところはどこなのか。 今日もまた共に福音について聖書に聴いて確認していきましょう。 今日は特に神の愛についてお話しさせて頂きます。 1 神の愛の実態 神の愛ときいて皆さんはどんなことを思い浮かべられるでしょうか。 今日の聖書には神の愛についてはっきり記されていました。 “しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。” ローマ人への手紙 5章8節 この御言葉は神の愛についてなんと言っているでしょうか。 神の愛は、まだ罪人であった私たちのためにキリストが死んだことによってあらわされたと言っています。 十字架という客観的で歴史的事実の中で表されたということです。 神の愛は感情ではありません。 ローマ5章8節には、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことだと言います。これが神の愛のあらわれなのです。 キリスト者の中には、神の愛を主観的、感情的に体験することを求める人たちもいると思いますが、ローマ5章8節は客観的、歴史的事実としての神の愛を語るのです。 罪人であるわたしのために神の御子が自分の命を捨てられたこと。 この事実を事実としてどれだけ知っているかが重要なのです。 神の愛は私たちの宗教的な熱心さや献身でもって分かるものではありません。 私たちの側の条件や行動を根拠に悟ることのできるものではないのです。 何かをしたから何かを得られるというものではないのです。それはこの世の法則です。 神を信じているのに、その信じ方が世の法則にのっとっていては歪んだ信仰になってしまいます。 私たちが生きるべき神の国の法則は、何かをしたからではなく、ただ贈り物として与えられた神の愛、すでにおきた客観的事実である十字架による贖い、これを受け取り応えていくことです。 そのためには繰り返しこの客観的事実に触れることが必要でしょう。 そこで今日もこれからこの事実について触れてみたいと思います。 2 「正しい人」と「情け深い人」 “正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。” ローマ人への手紙 5章7節 この御言葉には分かりにくい部分があると思います。 「正しい人」のためにでも死ぬ人はほとんどありません。 「情け深い人」のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 正しい人と情け深い人の差は何なのでしょうか。 なぜ正しい人のためには死ぬ人がほとんどいないのに、情け深い人のためにはひょっとしたらいると言えるのでしょうか。 この言葉からすると正しい人よりも情け深い人の方が良いということですが、このままだといまいちピンときません。 ロイドジョンズ牧師がこの違いを解説していたので、引用します。 正しい人というのは、法を守り、戒めを尊ぶ人のことである。あれこれの細かい規則に従い、非常に品行方正な人である。 情け深い人というのは、正しい人がするようなことをすべて行うが、さらにその上をいく人のことである。情け深い人は単に正しいというだけでなく、愛に支配されている。 1ミリオン行けと言われれば、2ミリオンいく。 下着を求める人がいれば上着も与える。単に正しいだけではなく、それを超えて進む。 ただ正しいだけの人のためには人は死のうとは思いません。 しかしその正しさに加えて愛を持った人ならひょっとすると身代わりになる人がいるかも知れないというのです。 自分のことを愛し尊び命をかけて尽くしてくれる。そんな人のためだったら命を投げ出してでも助けようとする人がひょっとするといるかもしれないということです。 ローマ5章7節の意味は「わたしたち人は、正しいだけの人のためには死ぬことはない。しかし正しいだけではなくてその人が愛の人だったら、中には死ぬという人がいるかもしれません。」という意味です。 3 罪人のために死んだキリスト…

福音シリーズ③ 罪の起源と現在

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:創世記 3章1~6節 タイトル: 福音シリーズ③ 罪の起源と現在 “さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」 すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。” 数週間前から2回ほど福音についてメッセージさせていただいています。 今回も福音についてですが、特に罪の起源と現代の私たちへの影響についてお話ししたいと思います。 1  罪の本質 今日の聖書はアダムとエバが罪を犯す場面です。 罪と言いましても、木の実を食べるという外形にだけ注目すると、さほど悪いことではないように思います。 なぜこれが罪の始まりと言えるのでしょうか。 この問題の本質は神が「とって食べてはいけない」と言われたにもかかわらず、それを食べたことです。 神が与えたルールを破ったことが問題でした。 神への不従順です。 不従順の裏には、神の御言葉への不信と自分が神になろうとする自己主張と傲慢があります。これこそ罪の始まりなのです。 創造主から独立して自分の力で生きようとしました。 自分の思い通りに願い通りに生きようとしたということです。 2  アダムとエバの決断の過程 ではどのようにして人は神の言葉に従わない決断をしたのでしょうか。 まず蛇がエバに言いました。 「あなたがたは園のどの木からも食べてはならないと神は本当に言われたのですか。」 実際の神の言葉と比較してみましょう。 “神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」” 創世記 2章16~17節 神は「どの木からでも思いのまま食べて良いと」言われました。 全く神が言ったこととは正反対のことを蛇は言っています。 一見的外れな言葉のように見えます。 しかし後半部分を見るとここが蛇の狙いだったのではないでしょうか。 「神は本当に言ったのか」と、神が言った言葉に疑問を持たせようとしているようです。 神の言葉に対する疑いの入り口へと誘う蛇の策略が見えるところです。 「本当にそのように言ったのですか。もう一度考えてみてください。」 これが蛇が言いたかったことです。 これに対しエバは言いました。 「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。」 これも実際の神の言葉と比較してみましょう。 ‥「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」(創世記2章16節) 同じでしょうか。違うでしょうか。 神は人に対して自由を与えてくれています。 園のどの木からでも「思いのまま」食べて良いと。 しかしエバの言葉からは「思いのまま」という言葉は抜け落ちてしまっています。 神は自由をめいいっぱい与えてくれています。その上で限定を加えています。 しかしエバはあたかも縛られているかのように言うのです。 比較するとそれがより際立ちます。 これは神の言葉の歪曲です。 罪は今でもこのようにして行われます。 神の言葉に疑問を抱きさらにそれをねじ曲げて神に敵対します。…

バラバラの人々を一つに

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き2章1〜4節 タイトル: バラバラの人々を一つに キリスト教の行事には三大祝祭日というものがあります。 一つはクリスマスで、イエス様がこの地にこられたことを記念する祝祭です。 二つ目はイースターで、イエス様が復活されたことを記念する祝祭です。 そして三つ目がペンテコステです。これは聖霊が降臨されたことを記念する祝祭です。 ペンテコステはギリシャ語で50という意味があります。 イエス様の復活から50日目に聖霊が臨まれたことから、聖霊が降臨された日を50日(ペンテコステ)と呼ぶようになりました。 今日はその聖霊降臨を記念するペンテコステ礼拝です。 今日共に見ていく聖書はその聖霊を神がこの地に送られた場面です。 1 聖霊を待っていた弟子たち 神は弟子たちに約束どおり聖霊を送られました。 この日弟子たちは一つのところに集まっていました。 彼らはイエス様の言葉を忠実に守っていました。 使徒の働き1章3、4節にはこう書いてあります。 「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じされた。エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」 イエス様は復活されて40日間、弟子達の前に現れました。そして天にのぼられました。 聖霊が臨んだのはイエス様の復活の50日後です。 この日に、かつてなかったような聖霊の注ぎがありました。 これ以前もこれ以後も同じ出来事はありませんでした。 弟子たちにとってエルサレムは居心地の良いところではありません。 イエス様が処刑された場所だからです。 復活のイエス様が共におられるときは心強かったでしょうが、天に昇られて10日間は弟子たちだけで生きていたことになります。 もちろんその間も神が守ってくださっていたのは間違いありませんが、それでも弟子たちの側からすると不安になっても仕方がない状況でした。 イエス様が殺されてからまだたった一月しか経っていません。 イエス様を十字架にかけた勢力はまだ健在です。 弟子たちは完全アウエーの中にいました。 しかしエルサレムで待てというイエス様の言葉通りに彼らはエルサレムで待っていました。 そんな彼らに聖霊がいよいよ降る日がやってきます。 2  聖霊降臨 “すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。” 使徒の働き 2章2節 ここには「 天から、突然激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。」とあります。 実際に風が吹いたのではなく、風が吹いたような音がしました。 ヨハネの福音書3章8節でイエス様がこんなことを言っています。 「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」 御霊、つまり聖霊を描写するときにイエス様は風を使って説明されました。 ヘブライ語で霊を意味する「ルーアッハ」רוּחַは、「霊」の他に「風」(wind)や「息」(breath)と訳すことができます。 ヘブライ語を使う弟子たちの中では、霊、風、吹くという言葉はセットだったのではないでしょうか。 だから風が吹く音を弟子たちが聞いた時、約束の聖霊が降ったのだと分かったと思うのです。 そしてその音は彼らのいた家全体に響き渡りました。 “また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。” 使徒の働き 2章3節 ここには「炎のような舌が分かれて現れて、一人ひとりの上にとどまった。」とあります。 ここでまず注目していただきたいのは炎です。 聖書で炎や火というのは神の臨在を意味します。 モーセに主が現れたのは柴の中の炎の中でした。(出3:2)  創世記15章でアブラムと契約を結ばれたときも、割いた動物の間を通ったのが、燃えているたいまつでした。(創15章) 炎は神の臨在を象徴するものです。 だから弟子たちは神が来られたと分かったのでしょう。…

神さまとのアイコンタクト

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇13篇 タイトル: 神さまとのアイコンタクト 今回緊急事態宣言が解除されましたが、以前のように何も気にせず対面で話せるようになるまでには一体どれだけの時間がかかるのでしょうか。先が不透明すぎて全く見えません。 わたしたちは自粛期間中も、またそれがあけた今も、これまで味わったことのない種類のストレスに見舞われています。これが通常時にすでにかかっていたストレスの上にさらにのしかかってきているのが今の状況と言えるでしょう。 苦しい期間が長く続くと「いつまでなのか」という疑問が湧いてきます。 今日の聖書詩篇13篇もそんな言葉で始まります。 しかも最初の1節2節で4回も「いつまでですか」とダビデは言います。 著者のダビデの心のうちでは何度も何度も「いつまでですか」という質問が繰り返されていたようです。 私たちが置かれている現在の状況に関しても、「いつまでだろうか」という疑問が湧いてきます。 またおそらくこれまでも、いつまでこんな苦しい状況が続くのだろうかと思ったことは何度もあったと思います。 そしてこれからも同じようにこの質問は繰り返されていくことでしょう。 この世界で生きるということはそういうことなのかもしれません。 しかし私たちには常に希望があります。 私たちの「いつまでこの苦しみは続くのか」という疑問は、決して自問自答ではないのです。 常にこれを受け止めてくれる方が共におられるのです。 この世界をつくり、今も統べ治めておられる神が、この私たちの疑問を受け止めてくださいます。 あまりにも苦しくて神に祈ることもできないという時ですら聖霊が私たちと共におられるので、父なる神へとその思いを確実に伝えて下さいます。 今日共にみる詩篇の著者であるダビデも苦しみの只中にある時に、全て言葉に変えて祈っていたかはわかりません。 振り返ってみるとわたしはこのように祈っていたようだ。 あるいは心の中で呻いていたが、あれを言葉にするとこういう祈りだったのだろう。 そのように思い返してこの歌を書いたかもしれません。 これらのことを念頭に置きながら共に詩篇13篇を見ていきましょう。 1  絶望から希望へ “主よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。” 詩篇 13篇1節 この詩篇の作者であるダビデは何か大変な苦難の中を歩いていたようです。 これがサウル王に命を狙われていた時期をうたったものなのか、あるいは他の時期のものなのかは定かではありませんが、確かに彼はこの時苦難の中にいました。 「主よいつまでですか」と言っていますが、彼は先が全く見えない霧の中を彷徨い歩きながら、この時がいつ終わるのかと主に叫んでいるようです。 「いつまでですか」と言っていることからもわかるように、ダビデのこの苦しみは相当な期間に及んでいたようです。「早く終わってほしい、早く解放されたい。」そんなダビデの心の声も聞こえてきそうな言葉です。 またダビデは今自分が神に忘れられていると語ったり、神が自分を見てくれていないと言います。 これはどちらも神に見捨てられたという思いを表現している言葉です。 わたしたちも様々な苦難に押さえつけられて、神の助けの印を一つも見つけられないような時、神は私を見捨てられたのではないか。私にはあまり関心がないのではないか。そういう思いが忍び込んでくることがあるのではないでしょうか。 ダビデもこの時苦難の中にあって、神が助けてくださっていることを全く実感できない状態でした。 しかしそんな絶望的なスタートをきるこの詩篇13篇ですが、結論部分をみると、「わたしは主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」となっています。 あしらわれるとは、応対されるということです。 この絶望的な言葉から始まる歌が最終的に行き着く先は、神が豊かに応対してくれたという感激の賛美なのです。 これは私たちにとって大変大きな慰めになります。 いつ終わるともしれない霧の中を歩いているように今もし感じておられたとしても、その不安の中で苦しんでいたとしても、神に見捨てられたと思っているとしても、そんな私たちの行き着く先は神への感謝の賛美なのです。 2  誰もわかってくれない? “いつまで私は自分のたましいのうちで思いはからなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上に勝ちおごるのでしょう。” 詩篇 13篇2節 思いはかるとありますが、思い悩む(新改訳2017)ということです。 ダビデは思い悩んでいました。自分のたましいのうちで思い悩んでいました。 自分のたましいの内なので他者は誰も知りません。 思い悩み、主よいつまでですかと叫び続けていますが、それも知りません。 全くの孤独の中をダビデは一人歩んでいるのでしょう。 しかもその悩みは途絶えることがありません。 「一日中」続いています。 そしてそのこともまた誰も知らないのです。 みなさんはこれまで生きてきて最も孤独だった時はいつでしょうか。 その時の経験はこの時のダビデの詩を理解させてくれるはずです。…

福音シリーズ② 十字架とその影

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヘブル人への手紙10章1〜14節 タイトル:福音シリーズ② 十字架とその影 先日39の県で緊急事態宣言が解除されました。 東京や大阪など9都道府県は解除されずに残りましたが、もうすぐ解除されそうです。多くの店舗や施設の休業要請は解除されました。 これから気をつけながらできる限り通常の生活に戻っていくことになります。 こうして刻一刻と私たちの周りの状況は変化していきます。 しかし私たちはその状況を注視しながらも、絶対に変わらないものに心を置いて生きていきたいと思います。 ということで今日も絶対に変わることのない福音についてお話しします。 先々週はコリント人への手紙第一15章から福音を聞くことと、それを受け入れることについてお話ししました。 今日はその内容について旧約聖書をなぞりながらお話ししたいと思います。 1  実体と影 “律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。 もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。 ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。 雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。” ヘブル人への手紙 10章1~4節 ここに登場する律法とは、祭儀律法のことです。祭司がどのように主に捧げ物をするのかが規定されていました。 しかしこれはあくまで影であり実体ではありません。 実体がなければ影は存在しません。 影は実体にくっついてそれを暗示的に映し出すに過ぎません。 このように律法は後にくる素晴らしいものを予期させるだけでそれ自体では人を救うことはできないものです。 どれだけ捧げ物をしてもその人は完全にはなれません。ただ年ごとに罪が思い出されるに過ぎません。雄牛とやぎの血は罪を除くことができないからです。 祭儀が影であるなら、実体はなんでしょうか。 それがイエスキリストです。 “ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」” ヘブル人への手紙 10章5~7節 ここに登場する聖書は旧約聖書のことです。 ここでは律法と言っても良いでしょう。 これが何について記されていたかというと、私についてだとイエスキリストが言うのです。律法はイエスキリストについて教えるものだったということです。 つまり旧約聖書を見てイエスキリストについて書かれたところを見れば、よりイエスキリストのことがわかるということができます。 眼鏡やコンタクトレンズの調整に行くと、変わったメガネをかけて少しずつ度数をあわして自分の目にあったレンズにしてくれます。 その時に使う眼鏡が少し特殊で、色々な度数のレンズを入れたり外したり重ねたりしながら視力検査の印に焦点が合うように調節してくれます。 これと同じように旧約聖書に書かれている数々のキリストの影は全てキリストに焦点を合わせるためのものです。 それらを見ていくと、キリストの十字架のイメージが豊かになりはっきり見えてきます。 そこで旧約に現れる主だった捧げ物について今日は共に見ていきたいと思います。 2 アダム、アベル、アブラハム ⑴ アダム “このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。” 創世記 3章7節 この箇所は神の前に罪を犯してしまったアダムとエバの姿が記されています。 最初彼らはイチジクの葉を綴り合わせて腰の覆いを作りましたが、神が見た時それはとても不十分だったようです。 そこで神は彼らのために皮の衣を作って着せてあげました。 “神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。” 創世記 3章21節 皮の衣はどのようにして作られたのでしょうか。 これは動物を殺し作られたものです。 神はあのエデンの園で、この世始まって以来の被造物を殺すという行動をとられたのです。そしてその皮を使ってアダムとエバに着せてあげたのです。 彼らの罪を動物が死んで血を流すことによって覆ったということです。 この時から罪の解決には身代わりの死が必要であることが示され始めました。…

第4問 神とはどんな方か

問: 神とは、どんなかたですか。 答: 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、真実において、無限、永遠、不変のかたです。 Q. 4. What is God? A. God is a Spirit, infinite, eternal, and unchangeable,  in his being, wisdom, power, holiness, justice, goodness, and truth.  第4問は神様が一体どんな方なのかという問いです。とても基本的な問いといえるかもしれませんが、答えは簡単ではありません。 英語の原文を見ると、特徴的なところがあります。それは質問がWhoではなくWhatと記されていることです。 神様が誰(Who) なのかということは、私たち人間には知ることができませんが、その属性が何(What)であるかについては、知ることができるからです。 「What is God?」  この質問に対して正しい回答をするにはどうすれば良いでしょうか。 それは第2問の核心部分である「神様が私たちに教えて下さればわかる。」というのが答えです。 一般的な科学や哲学でもって、ある存在を探求する知識とは根本的に種類が違うものなのです。 神様は私たち人間が分析して把握することのできる方ではありません。 私たちは有限の存在ですが、神様は無限です。有限は無限を知ることはできません。 今まで学んできた小教理問答第2~3問の流れをおさえた上で、これから見ていく第4~6問を見ていってください。 この知識は私たちの側から知ることはできず、神様が教えて下さるとき、その分だけ知ることができるものです。 そのような知識だということをまずおさえた上で続きを見ていきましょう。 第3問では聖書は神様のことについて語っているということを学びました。 つまり聖書を見れば神様が一体どんな方なのかがわかるということです。 したがって第4問の質問「神とはどんなかたですか。」の答えは聖書に記されているのです。 人は聖書を通して神様を知るのです。 聖書はその冒頭部分から神様を紹介しています。「 はじめに神は天と地とを創造された。 」 このように聖書は始まります。 「神様は霊であられ‥無限、永遠、不変の方です。」 何が無限で、永遠で、不変なのでしょうか?  神様の存在、知恵、権能、聖、義、慈愛、真実が無限、永遠、不変なのです。 この属性は人が持っているような簡単に変化してしまう軟弱な属性とは違います。 神様の属性は変わりません。これは後に学ぶ「神の聖定」と深くつながっているところです。 <神様についての多様な観念> 神様についての多様な観念はここでは大きく二つに分けてお話しします。 1つ目は神様をとても遠い方だと考えることで、2つ目は度を超えてとても親密なものと考えることです。…

毎日聖書を調べる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き17章10〜15節 タイトル: 毎日聖書を調べる 本日は久しぶりに使徒の働きを共に見ます。 前回どこまで進んだかといいますと、パウロ一行はテサロニケという町で宣教をしていました。 彼らは旧約聖書からイエスキリストの福音を説明し論証して教えました。 これにより幾人かはわかって信仰にはいりましたが、多くの人はこれに反発しパウロたちは大変激しい迫害を受けることとなりました。 おそらくこの町でキリストの弟子となったと思われるヤソンとほかの兄弟たちが捕まり保証金を払ってやっと解放されるような状況でした。 そこでテサロニケの兄弟たちはパウロとシラスを送り出します。 1 ベレヤでの宣教 “兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。” 使徒の働き 17章10節 祈りの中で行き先を示されて行ったというよりも、迫害が起こりその町の兄弟たちにも被害が及ぶという状況に押し出されるような形でベレヤへとやってきました。 テサロニケから西へ80キロのところにある町でした。 ここでもテサロニケの時と同様に旧約聖書の御言葉でもって宣教します。 するとこの町の人たちは非常に熱心に御言葉を聞き、毎日聖書を調べました。 “ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。” 使徒の働き 17章11節 「良い人たち」と記されていますが、素直な人たちとした方がよいところかもしれません。 新改訳聖書2017や口語訳聖書では素直な人たちとなっています。 しかし素直といっても、なんでも聞いて受け入れるという意味ではありません。 彼らはパウロから熱心に話を聞いて、その通りかどうか毎日聖書を調べていました。 最初から批判的な思いで聞くことも良くありませんが、全部鵜呑みにしてアーメンを連呼していてもいけません。 ここでいう素直さというのは、熱心に心を開いて聞くことと、その話が聖書とあっているかどうかを確認することの両方が備わっていることです。 こうしてベレヤの人々はイエスキリストのことを信じ受け入れました。(使徒の働き 17章12節) 2 苦難のマケドニア宣教 しかしこれで終わらないのが、パウロのマケドニア宣教です。 トロアスで一人のマケドニア人が「渡ってきて私たちを助けてください」と言っている幻を主の導きと信じてやってきたパウロでした。 しかしピリピでは鞭打たれて投獄され、テサロニケでも迫害にあい、今度はこのテサロニケの人たちが、わざわざベレヤまでやってきて騒ぎを起こすのです。 “ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。” 使徒の働き 17章13節 3 ベレヤからアテネへ “そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。” 使徒の働き 17章14~15節 ベレヤにシラスとテモテを残しパウロはアテネへと向かいました。 この時ベレヤから案内のために一緒にやってきた兄弟たちがいました。 ベレヤからアテネは約320キロあります。 だいたい大阪から広島までの距離です。 そんな距離をわざわざ一緒にやってきたのです。 そして到着するとシラスとテモテへの言付けをうけとって帰って行きました。 4  御言葉による宣教 テサロニケにおいても、ベレヤにおいても、パウロは一貫して聖書から語りました。 この聖書というのは旧約聖書のことですが、この旧約聖書に記されているメシアに関する言葉を引用し一つ一つ説明していったのだろうと思います。 結果テサロニケではあまり多くのクリスチャンは生まれませんでしたが、ベレヤでは多くのクリスチャンが生まれました。遠くアテネまでわざわざ案内してくれるほどのキリストの弟子となっていました。 今日特に注目したいのが、この御言葉によって宣教したというところです。 御言葉には命があります。力があります。 一見テサロニケの宣教は失敗してベレヤはまずまずだったように見えますが、そうではありません。 それが使徒の働きの続きを見ていくとわかります。 “プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、”…