自分で自分を救うことからの解放

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き21章17〜40節 タイトル:自分で自分を救うことからの解放 1 序 今日の聖書箇所からパウロの受難について記されています。 パウロはイエスキリストと出会いイエスキリストに従う人でした。 イエスキリストを信じるとは、こういうことを言うのだと思います。 イエスキリストを信じ従って生きていくとイエスキリストに似たものになっていきます。 それは生き方そのものの変化であり生きる道の変化です。 パウロは自分の道ではなくイエスキリストの道をもうすでに歩んでいました。 パウロがこれだけ迫害を受けて受難の道を生きるのは、彼がイエスキリストを信じ従って生きていたからです。 パウロの中でイエスキリストが生きておられたからです。 今日はそんなパウロが誤解され汚名を着せられて打ち叩かれる場面をともに見ていきます。 2 ストーリー パウロたち一行はエルサレムに着きました。 すると教会は彼らを歓迎しました。 おそらくリーダーであったと思われるヤコブにも会いに行き、これまで異邦人世界で神がしてくださったことを報告しました。 するとエルサレム教会の人々は大変喜び神をほめたたえました。 しかしユダヤ人クリスチャンの中に広まるある噂のためにパウロが攻撃されるのではないかという不安が教会にはありました。 その噂というのは、パウロが子どもの割礼を施すなと言ったりして、ユダヤ人の慣習に逆らうような主張をしているということでした。 確かにパウロはクリスチャンとなりこれらの慣習によって救われるのではなく、恵みにより信仰によって救われることを信じていました。 しかし彼はユダヤ人の慣習を軽視していません。 コリント人への手紙第一にはこのように書いています。 “ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。 律法を持たない人々に対しては、--私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが--律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。” コリント人への手紙 第一 9章20~22節 彼はイエスキリストの福音を伝えるために相手のつまずきになるようなことを避けた人でした。 信仰の本質に関わることでないかぎり、彼は相手に合わせることで宣教を成功させてきたのです。 そんなパウロが割礼を受けるなとか、ユダヤ人の慣習を守るなとか、ましてやモーセに逆らえなどと言うはずがありません。 この噂はおそらくパウロをよく思わない人たちによって流されたものなのでしょう。 しかしそれをエルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちが信じてしまっていて、パウロに危害が及ぶのではないかという危惧がエルサレム教会にはあったようです。 それでパウロに対して提案をしました。 教会にいるユダヤ人の中に、慣習に従ってナジル人の誓願をたてている4人がいるので、その人たちが身をきよめて頭を剃る費用を出すことでした。 このことを公にすることによって、誤解を解くことができるだろうと考えたからです。 パウロはこれを良しとして、4人と一緒に身をきよめて宮に入りました。 そしてきよめの期間の7日後に供物をしてその代金を出す予定になっていました。 1日、2日、3日と過ぎて行き、7日がほとんど終わろうとしていた時に事件が起きました。 アジア州からやってきたユダヤ人たちがパウロが宮にいるのを発見すると群衆を煽りたてて手をかけたのです。 以前パウロが宮の外で外国人と一緒にいたところを見ていたので、てっきりその人を連れて本来外国人が入れないところまで入ってきていると思ったようです。 パウロはユダヤ人たちが大切にしている慣習を何とも思っておらず、かえってそれに逆らうように言う人だという先入観が彼らにもあったのかもしれません。 これによってパウロは群衆にとらえられてしまい宮の外に引きずり出されてしまいました。 31節には「パウロを彼らが殺そうとしていた時」と記されているので、この時点でもうすでに相当殴られたり蹴られたりしていたのだと思います。 そしていよいよ殺してしまおうという時にローマの千人隊長が百人隊長たちを率いて駆けつけ、パウロは命拾いしました。 しかしそれでも騒ぎがやまず、一体なぜこんな暴動が起きているのかを隊長たちは理解することができませんでした。 それでとにかく渦中にあるパウロを救い出さなくてはいけないということで、ローマ兵たちがパウロを担ぎ上げて運びました。 パウロはこうして護られながらローマの兵営の中に連れ込まれようとしていました。 するとその時、彼はギリシャ語でこう言いました。一言お話ししてもよろしいですか。 千人隊長はパウロがギリシャ語を話せることに驚いてこう言いました。 あなたは、ギリシャ語を話せるのか、するとあなたは、以前暴動を起こして四千人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないのか。 するとパウロはこう答えました。 私はキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人々に話をさせてください。 千人隊長はこれをゆるし、パウロはヘブル語で群衆に話し始めました。 これが今日の聖書のストーリーです。…

信仰シリーズ⑦ 信仰は世に打ち勝つ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章1〜5節 タイトル:信仰シリーズ⑦ 信仰は世に打ち勝つ 1 序 今朝は久しぶりに信仰について分かち合いたいと思います。 信仰とは神を知る知識です。 知識といっても、頭だけで知るのではなく、それに信頼して人生を委ねて生きることまでを含んだ言葉です。  今日はこの信仰によってこそ、この世に打ち勝つことができるというタイトルでお話します。 2     今日はまず4節と5節を先に読みます。 “なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。” ヨハネの手紙 第一 5章4~5節 今読んでいただいた中に「世」という言葉が登場しましたが、これは一体どういう意味でしょうか。 世とは、神がつくられたこの世界のことではありません。 世というのは、神と敵対する力のことです。 神の言葉を聞かず、神を神とも思わず、ただ自分の思い通りに生きる人々、あるいはクリスチャンであっても、神にどうしても明け渡せない領域もこの世に入るかもしれません。 これに私たちは打ち勝つことができると、この聖句は言っています。 どのようにしてでしょうか。 それは4節が言うように、私たちの信仰によってなのです。 さてこれはどういう意味なのでしょうか。 そのことを1節から見ていきます。 3 “イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。” ヨハネの手紙 第一 5章1節 ここには「イエスがキリストであると信じる者」について書かれています。 「イエスがキリストであると信じる者」すなわち信仰を持つものは、神によって生まれたものだというのです。 では神によって生まれるとはどういうことでしょうか。 新しい命が神に与えられて新しい命に生きる者となったということです。 “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” コリント人への手紙 第二 5章17節 これは新しい命に生きるとはどういうことなのかを教えてくれる聖句です。 私たちはもともと古い人として生きていました。古い人とはアダムに属する者として罪の中に生きているものです。 しかしその古い人は、イエスキリストの十字架によって死にました。 イエスキリストが十字架にかかったときに、一緒に十字架にかけられたからです。 これは客観的歴史的事実です。これにより私たちは罪の支配から解放されました。 さらにその後、キリストは三日目によみがえられたのですが、この時に私たちは、すでにキリストの中にいて共によみがえりました。つまりこの時に新しい人とされたのです。 だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者だと言いますが、すでに私たちはキリストのうちにあったのです。 そしてこのことを聖霊の働きによって信仰を与えられて信じ受け入れさせてくださったのです。 この信仰がイエスキリストの十字架の出来事と私たちをつなげてくれたのです。 聖霊の働きによる信仰がなくては、いくらキリストと共に死んで甦ったことが事実であろうと、それが自分のこととはなりません。 信仰は人とキリストをつなぐ管なのです。 この信仰という管によって十字架につけられよみがえった事実が私のものとなるのです。 信仰によってこの世に勝つことができる理由は、信仰が私とキリストをつないでくれるからです。 私が私自身の力でこの世に勝つのではなく、キリストの力で私はこの世に勝つことができるのです。 ではキリストにつなぎ合わされた私たちが世に勝つとは一体どういうことなのでしょうか。 それはローマ帝国やヘロデ王がしたような力によっての勝利ではありません。 キリストの力は剣ではないからです。 では一体どのようにしてでしょうか。 この答えを得るには4章20節から見ていく必要があります。 4 …

召命を受け取り生きる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:エレミヤ書1章1〜10節 タイトル:召命を受け取り生きる “ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。 次のような主のことばが私にあった。 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。--主の御告げ--」 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」” この書は今から2500年以上前エルサレム周辺で活躍したエレミヤという人が書いたものです。 彼が生きた時代は激動の時代でした。 今日読んでいただいた1章2節にもありますとおり、ユダの王がヨシヤという非常に敬虔で優れた王がおさめていた時代から、エホヤキム、ゼデキヤという王までの時代を彼は生きました。そしてこのゼデキヤがユダの国の最後の王となりました。この時代にユダの国は滅ぼされ民はバビロンで捕囚生活を送ることになります。 今日はそんな大変な時代に主に立てられた預言者エレミヤが神に召し出された時のみことば、召命の言葉を見ていきます。 1 召命とは 「召命」は神から呼ばれることで、英語ではコーリングと言われます。 クリスチャンであれば皆、召命を受けて、クリスチャンとされ神の子とされています。 召命は、キリストを信じる者へと召され、キリストを証しする人生へと呼び出されることです。 これには定年はありません。引退もありません。 全生涯を貫く信仰の人生を生きる者としての召しなのです。 2 エレミヤへの召命 ⑴今日登場したエレミヤという人はアナトテの祭司ヒルキヤの子として生まれました。 召命を受けた時のエレミヤは、まだ若く一人前の祭司とは言えなかったと思われます。 そんなエレミヤにある時、神の言葉が臨みました。  “「わたしは‥あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」”(エレミヤ書 1章5節) 召命はどこに生まれたかではなく、神の語りかけから来ます。 エレミヤが召命を受けとった時代は紀元前7世紀、2節にはユダの王、ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことと書かれています。 この時ちょうど大国アッシリアの王が死に、翌年、新バビロニアが独立して、さらにその翌年にはメディアが独立するというオリエント世界の大きな変化の時期でした。 どの国もイスラエルにとっては大きな脅威となる強国です。 さらに3節を読むと神からの語りかけがこの後の時代にも続いたことがわかります。 「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わり、すなわち、その年の第五の月に、エルサレムの民の捕囚の時まで続いた」。 イスラエルはこの大変動の中で最後には国を失い、その民のおもだった人々がバビロンに捕囚となって身柄を移されました。奴隷として連れていかれてしまったのです。 この大きな変動時代にエレミヤは「諸国の民の預言者」として召されました。 自分の同胞に対し神の言葉を語り、さらにそれを越えて、大変動に巻き込まれた他国の人々すべてに神の言葉を告げました。 しかしこの素晴らしい神からの呼びかけに対するエレミヤの最初の応答は決して良いものではありませんでした。 彼の最初の言葉は、「ああ、神、主よ。」でした。 ここから彼が苦闘しているのがわかります。 この時エレミヤは苦悶の中で戸惑い憂いていました。 「わたしはどう語っていいかわかりません。」 エレミヤはこう言うしかありませんでした。 召命は一生を覆うものですが、その召命には「わたしには」できませんという領域が含まれています。 エレミヤはまだ祭司としての実績もありませんでした。さらにイザヤのようにエルサレムの神殿付きの祭司でもなく、アナトテという片田舎に追いやられてしまった祭司の家系でしかなかったのです。 条件だけを見ればこのエレミヤの反応にも納得がいきます。 だから彼はこういったのです。 「見てください。わたしにはできない。」と。 ⑵ 主イエス・キリストのものとされ、クリスチャンとして生きることには、この「私にはできない」というところが必ずあります。 召された者として生きることの内には不可能が含まれています。 「神様あなたがいうところでわたしは到底生きられません。その使命に耐えられるとは到底思えません。そんな道をわたしは歩きたくないのです。」 神様の召命の中にはこういうところがあるのです。…

主のみこころのままに

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き21章1〜15節 タイトル:主のみこころのままに 1 ストーリー バウロは、第三回伝道旅行から帰る途中のミレトでエペソ教会から長老たちを呼んで別れの説教をしました。 それから、バウロは、ロドス、パタラを経由して、ツロに立ち寄りました。そこで7日を過ごしていると、この土地の弟子たちが、御霊に示されてエルサレムに上らぬようにとパウロに忠告しました。 しかしパウロはこれを聞き入れず、弟子たちとともに海岸にひざまづいて祈って出発しました。 その後カイザリヤに上陸して数日を過ごしました。 しかしここでもパウロがエルサレムへ行くのを引き止める人たちがいました。 中でも預言者アガボの預言は印象的で、パウロの帯を持ち出して自分自身を縛り、この帯の持ち主はエルサレムでこのようになると預言しました。 この動きにパウロと同行していたルカたちも加わりパウロをエルサレムへ行かないようにと懇願します。 しかし、これらの忠告や引き止めの手を振り切って、パウロはエルサレムへと入っていくのです。 2 主のみこころのままに このお話で今日注目した箇所は14節です。 “彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに」と言って、黙ってしまった。” 使徒の働き 21章14節 主のみこころのままに。 この言葉はとても重たい言葉です。 主の御心をなさってください。 主の最善をなさってください。 という祈りをしたことがある方も多いのではないかと思います。私もその一人です。 ただ今日のこの箇所から見える主のみこころがなることを望むというのはとても重く難しいことです。 しかしこれを知ることは私たちにとって有益であると思いますので、今日はこのことについてシャアさせていただきます。 ⑴ わたしのおこころ まず今日使用する言葉の紹介と意味について触れておきます。 今日は「みこころ」と「おこころ」という言葉を反意語として使います。 みこころとは神様の心という意味です。 一方おこころというのは、私の心という意味で使います。 さてその上でまずお話ししたいのは、今日登場したパウロをエルサレムへ行かせまいとした人たちのおこころについてです。 彼らにとって間違いなくパウロは重要な存在でした。今や異邦人教会の開拓者としてどんどんその勢力を拡大していくその最前線を担っていた偉大な宣教師です。そんな彼が捕まり自由を奪われることを誰も望んではいなかったはずです。ですからここで彼らのおこころというのは、パウロが捕まることなく、今まで通り各地を旅しながら福音を宣教し続けることでした。 しかしツロで説得しようとした弟子たちの言葉をパウロは聞きませんでした。 その結果彼らは説得を諦めてひざまづいて祈って送り出すことになりました。 カイザリヤでは、アガポという預言者がきて、パウロが捕まることを実演してみせました。この町の弟子たちはもちろんパウロに同行していたルカたちもエルサレムにはいってほしくないと思いました。 これがこの時の彼らのおこころでした。 しかしパウロは「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えて、彼らの手を振り解きました。 そんな彼らの口から出た言葉が今日取り上げた「主のみこころのままに」という言葉でした。 人は誰しも自分のおこころの通りになることを望んでいます。 しかしその通りにならないことの方がこの世界は多いです。 ツロの人々もカイザリヤの人々もパウロと同行していた人々も同じでした。 自分のおこころとは違う方へと進む現実がありました。 その時ツロの人々はただひざまずいて祈り、カイザリヤの人々とパウロの同行者は、ただ主のみこころがなるようにと祈ったのです。 自分のおこころから神のみこころへと思いが移され始めた瞬間でした。 ⑵ おこころから、みこころへ ツロの人々はただひざまづいて祈りました。 これはただ主の前に主こそ王であり、自分はその民であるということ、そして主の声を聞いてそれに従おうとする姿と言えます。 また自分の考えを貫くためにぐっと力を入れて握っていた拳を開く、そんな瞬間だったと言えるかもしれません。 カイザリヤの人たちやパウロの同行者たちは、パウロの言葉を聞いて「主のみこころがなるように」と言い、黙ってしまったとありました。 自分のおこころを下に置いて、神の御心を求めることの一つの要素は黙るということです。 パウロの反論を聞いていると、この時周囲にいた人たちは相当強い言葉でパウロを説得しようとしたようです。 しかしパウロの言葉を聞いて彼らは黙りました。 これもまたなんとか自分のおこころが守られるようにと握りしめた拳を開いて、主に委ねることを意味します。 彼らにとってこの決断はとても苦しいものだったはずです。 自分のおこころでは、絶対にこうだろうと思うようなことがあったとして、それとは真逆に動いていく現実にあらがわないことを決めなくてはいけないのです。 ⑶ みこころを求める祈り…

神をほめたたえよ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇150篇 タイトル:神をほめたたえよ みなさん。今日は今年最後の主日礼拝です。 みなさんにとって2020年はどんな年だったでしょうか。 それぞれに色々な出来事があったと思います。良いこともあれば、辛いこともあったはずです。 また世界的に大きな問題となった出来事も今年はありました。そして今も続いています。 そんな大変な時を通らされている私たちですが、今日この最後の主日の礼拝において覚えていただきたいことは、すべてが主の主権の中にあるということです。良いことも悪いこともすべて主の手の中で起こることです。 それを踏まえた上で私たちが共にすべきことは、どんな時でもただ主を崇め賛美するということではないでしょうか。 なぜならそれこそ私たちがこの世に存在する意味であり、主が私たちを造られた理由であり、その中で生きることこそ私たちの幸せだからです。 今日見る詩篇という書は、一篇一篇バラバラになっているわけではありません。 聖書はすべて神の霊感によって書かれたものですので、この順番と構成すらも主の手によるものだと見ることができます。 詩篇は1篇からみていきますと、いろいろな人間の感情がうずまいています。そこには、喜びもある一方で涙と落胆と慟哭があります。 しかしすべての詩がこの詩篇150篇に向かっていたものと見ることができます。150篇こそ詩篇全体の結論なのです。 涙も落胆も慟哭もすべて主への賛美に向かうためのもの、私たちの心を主への賛美に向かわせてくれるものだということです。 ですから私たちに今年起きた出来事、そしてそこで感じた思いも全て、この最後の詩篇である150篇へと導くものだったと見ることができるのです。 この詩篇という書簡全体に記されている人間の思いと、よく似た感情を私たちもこの一年持ったはずです。 決して良いことばかりだったという人はいないと思います。 日々悔しい思いの中で、涙を持って生きてきた方もおられるかもしれません。 しかし詩篇の最後も神への賛美で終わるように、私たちは、今日、主への賛美でこの最後の主日礼拝を終えていきたいと思います。 私たちの目的は神を賛美することです。 今日の聖書、詩篇150篇はそれを教えてくれています。 そしてその賛美をどこでするのか。なぜするのか。どのようにしてか。誰がするのか。ということを教えてくれている箇所です。 1 どこでするのか。 “ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。” 詩篇 150篇1節 ここで詩篇はどこで賛美するのかを語っています。 「神の聖所」と「御力の大空」で、神をほめたたえよとあります。 まず「神の聖所」とは何かを考えてみます。 ここでこの詩篇の著者が神殿とは言わず聖所と語るところに意味が込められています。 神殿と言ってしまうとエルサレム神殿だけを指すことになりますが、聖所であれば神様を崇める場所全てという意味になります。 私たちはどこで神を崇めているでしょうか。 当然その中にはこの教会が含まれていることと思いますが、それだけではありません。 私たちが神を崇める場所はどこでも聖所です。 それが職場であろうと、通勤通学の電車の中であろうと、台所であろうとどこであろうとそこが聖所です。 皆さんにとっての聖所はどこでしょうか。 特にご自身がお祈りをする場所や聖書を開く場所も聖所に含まれるでしょう。 また過去を振り返ってみてここで私は神様と出会ったというところがあるのではないでしょうか。 そこもまたお一人お一人にとって聖所です。 創世記に登場するヤコブという人が兄と父を騙したことで、兄に命を狙われて逃げました。 そしてその途中で神様と出会いました。 ヤコブはその場所を油を注いで聖別し名前をベテルと名付けました。 ベテルとは神の家という意味です。 ヤコブにとってはこの場所こそ聖所でした。 またこれは物理的な場所に限定されるものではありません。 要は神様との出会いの記憶そのものが大事なのです。 この記憶の一つ一つが神と出会う人生の聖所なのです。 ですから神様と出会った思い出深い場所がなくなったとしても永遠に残り続けるものです。 今年は特に試みが多い年だったと思いますが、その中で神に祈られたこと、また聖書を開き今ご自身が置かれている問題の答えを探されたこともあったのではないでしょうか。 そういう神様との交わりの記憶がまた聖所なのです。 そういうところを思い出して神を崇めることをこの詩篇は歌うのです。 では「御力の大空」とはどういう意味でしょうか。 これは主の力で造られた空のことです。 空はこの世のもっとも高い場所ですが、そこで賛美されるべきだとこの歌は歌います。 もっとも高いところですら主を賛美するわけですから、それよりも低いこの地上ではもちろんのことです。…

キリストとの新たな出会い

クリスマス礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書2章1〜20節 タイトル:キリストとの新たな出会い みなさんにとって、今年はどんな一年だったでしょうか。 先週より一気に冷え込んで、いよいよ冬本番といった感じですが、もう今年も残すところあと10日となりました。 喜びの出来事もあったかもしれませんが、起きてほしくなかったと思うようなこともあったのではないでしょうか。 そして人は、どちらかというと、この起きてほしくなかった、本当はそうあって欲しくなかったということに気を取られ心痛めるものなのかもしれません。 今日はクリスマス礼拝です。 実はクリスマスにもまたこの本当はそうあってほしくないという出来事がたくさん記されています。 1 “そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。” ルカの福音書 2章1~2節 ここに登場するのはローマ皇帝の名前や、ローマ帝国の中のシリア地方を管轄していた総督の名前です。 当時イスラエルは、ローマ帝国に支配され多額の税金を課せられ苦しんでいました。 住民登録が行われたのも税金の徴収を徹底するためです。 町のいたるところにローマの軍人が駐屯している状態でした。 イスラエルの人々は当時非常に暗い時代を生きていました。 この国に聖霊によって身ごもったマリアとその夫のヨセフがいました。 二人はこの時ナザレという田舎町に住んでいました。この町はイスラエルの中でもさらに人々から無視されていた地域でした。 マリアとヨセフは、ローマの命令のために、このナザレからヨセフの家系のルーツであるベツレヘムという町に行かなければいけませんでした。 ナザレからベツレヘムまではだいたい115キロから120キロ、高低差が400メートルあります。 身重のマリアはおそらくロバか何かに乗せての移動だったと思います。 夫のヨセフは細心の注意を払いながらゆっくり歩いたでしょう。そうすると少なくとも一週間はかかる距離です。 直線距離で大阪から岐阜に入ったあたりまでの距離です。 ヨセフとマリアはこの距離を移動しなくてはいけませんでした。 自分たちの国を支配しているローマ帝国の皇帝の命令のためでした。 一週間二人は大変な思いをしたことでしょう。そしてやっとのことでベツレヘムに到着します。 しかし住民登録のために多くの人たちが集まっていたのか、宿屋がどこも満室でした。 それで仕方なく家畜小屋に向かいます。 家畜小屋といっても私たちが想像する木で出来た小さな小屋ではなく、洞窟のようなところだったと言われています。 そこでマリアは出産することになりました。 そして出産した後は子どもを寝かせるベッドも布団もないので、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。 飼い葉桶も木でできたものではなく、石でできたとても冷たいものでした。家畜が餌を食べるお皿のようなものなので、ヨダレも染み込んだ大変汚いものでした。 マリアは出産というただでさえ大変な出来事を洞窟の中で行わなければいけませんでした。彼らには居場所がなかったからのです。 このストーリーには本当はそうで無ければよかったという出来事があります。 彼らの国が支配されていなければ良かった。 出産のタイミングと住民登録が重ならなければよかった。 そもそも住民登録などなければ良かった。 宿屋が満室でなければよかった。彼らに居場所がないなんてことはなければよかった。 生まれたばかりの子が家畜小屋の飼い葉桶に寝かされるなんてことはない方が良いのです。 クリスマスストーリーには、この本当はそうで無ければよかったが満ちています。 しかしそういうところに神は人となって生まれて下さったのです。 イエスキリストがうまれられたのは、なんの不自由もなく、不安もなく、毎日の暮らしに満足している、そんな順風満帆なところではありません。 本当はそうでないほうが良いのにと私たちが思ってしまうような状況の中に主は生まれられました。 これは言い換えれば、こういうところにこそイエスキリストとの出会いがあるということです。 2 御使いの知らせを受けてイエスのもとにやって来た羊飼いにもそうでなければ良かったという出来事がありました。 寒空の下、何の光もない夜の闇を羊を連れて彼らは野宿をしていました。 現在は羊飼いという仕事に偏見を持つことはないと思いますが、当時羊飼いという仕事は大変卑しい仕事として知られていました。 彼らは羊を守るためにいつやってくるかもわからない狼や野犬を警戒しながら番をしなくてはいけませんでした。それは昼夜を問わず続けられます。 日が沈むと冷え込むので、温まるために羊に体を寄せて寝ていたようですが、そうすると羊の毛についた汚れや匂いや虫が体についてしまいます。ですから彼らの服は動物の匂いが染み込み虫もついた大変汚い服だったようです。 さらに彼らは野宿のため神殿儀式などに参加できず、ユダヤ教から破門されており、裁判の証人にもなれませんでした。 彼らは、経済的にも宗教的にも差別され、証人としての資格もない人たちだったのです。 多くの人たちが人口調査のために集うなか、彼らはベツレヘムの町の外で野宿していました。…

祝福された人

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書 1章39~45節 タイトル:祝福された人 今日の聖書は、マリアが聖霊によって身篭り男の子を産むと天使に告げられた後の出来事を記しています。 親類のエリサベツが老年であるにもかかわらず妊娠したということも告げられたので、マリアは立って急いでエリサベツのもとに向かいました。 するとすでに胎内で聖霊に満たされていたバプテスマのヨハネはエリサベツのお腹の中でおどり、さらにエリサベツ自身も聖霊に満たされて大声をあげて言いました。 「あなたは女の中の祝福された方。」と 今日はこの祝福という言葉の意味について考えていきたいと思います。 マリアが「私は聖霊によって身篭りました」と言った時、周囲の人々はどんな反応をしたでしょうか。 いいなずけであったヨセフにこのことが伝わると、彼は密かに離縁しようとしたと聖書には記されています。 ヨセフも信じられなかったのです。 マリアはヨセフの反応に苦しんだはずです。 村人たちはお腹が大きくなっていくマリアを見てどのように思ったのでしょうか。田舎町です。マリアのことは生まれた時から知っていたはずです。 周囲の視線にマリアは何を感じたのでしょう。過去に石打ちにされた人を思いだして恐怖したかもしれません。 最終的にヨセフは夢の中で天使から真実を告げられて、マリアのお腹にいる子どもが聖霊によるということを信じて迎え入れるのですが、それまでのマリアの苦しみは想像を絶するものです。 その後マリアは出産しますが、イエスの命が狙われていることを天使に告げられてエジプトにまで下ってしばらく暮らさなくてはいけませんでいた。 そして時は流れて30年後、イエスがいよいよこの地上に公に現れてその働きを始められるわけですが、その時はもう夫のヨセフの姿がありません。おそらくそれまでに死んでしまったのだろうと言われています。 さらにその数年後には大切に育てた子どもであるイエスが十字架にかけられて死にます。 そして三日目によみがえったと思ったら、今度は天に昇って行ってしまうのです。 イエスを生み育てた母として彼女はこの時何を思ったのでしょうか。 これが祝福された方と言われた人の人生なのでしょうか。 彼女の人生を客観的に見た時に苦しみ多き人生に見えます。 聖書が語る祝福とは一体なんなのでしょうか。   1 祝福の源泉 「祝福がありますように」という言葉を聞いたことはおありでしょう。皆さんはその時どのような意味で受け取っていらっしゃいますか。祝福という言葉を聖書で見る度にこれはどういう意味なのだろうかと思います。 今日は少し聖書から祝福はどういう意味で使われている言葉なのかを探りたいと思います。 ただそうは言っても、祝福と書かれている部分に全て触れることはできませんので、いくつかをピックアップしてみていきたいと思います。 まず最初にこの聖書の中で最も昔のことについてかかれているところ、その一つを見ます。 “私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。” エペソ人への手紙 1章3~5節 この手紙はパウロがエペソの教会の人々に書き送った物ですので、書かれた時代は今から約2000年前です。しかしこの箇所の内容ははるか昔この世界ができる前のことが書かれています。 4節を見ますと、「神は私たちを世界の基の置かれる前から‥選び」と書かれていますように、この世界が造られる前のことを言っているのです。 続いて3節を見てください。 ここに祝福という言葉があります。 神様が私たちを祝福してくれたというわけです。 その内容が先ほどの4節の内容です。 世界の基の置かれる前から彼にあって、つまりはイエスキリストにあって選ばれました。 「あって」とは結び合わされてということですの、イエスキリストに結び合わされて選ばれていたということです。 そして選ばれただけではなくて、神様の前できよく、傷のないものにしようとされました。 神様はこの世界を造る前から私たちをイエスキリストに結び合わせてくれていたとここでは語られているのです。結びあわされるというのは一つとなるということです。 そして神の前できよく、傷のない者にして、ご自分の子にしようと定めておられました。 これが祝福の源泉です。 祝福を辿っていくとここに行き着くのです。 この世界が造られる前からすでに私たちは神に覚えられていました。イエスキリストの犠牲によって救われることがこの時すでに計画されていたのです。 2 契約 そしてこの後、世界が造られます。 それが創世記の1章です。 第一日、第二日、第三日と夕があり朝がありました。 私たちの先祖アダムはこの第六日に造られました。 この後、人類にとって素晴らしい日々を過ごすことができたのですが、罪に落ちた私たち人類はその時から神に背を向けて生きるようになってしまいます。 しかし神はアブラハムを通して、神の民を救う計画を本格的に進め始めます。 アブラハムと神との契約の中にも、祝福という言葉が登場します。…

単純な心

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇27篇1〜5節 タイトル:単純な心 今日の詩篇で、ダビデは問題を見つめ続けるのではなく、そこから視線を主に向け、主を見上げています。 彼はこの詩篇で戦争をイメージさせる言葉を使って、自分が今どれほど厳しい立場にあるのかを表現しています。 彼は命を狙われていたのだと思います。 しかしその中でダビデは、自分に迫る命の危機だけを見つめ続けるのではなく、主を見あげました。 そういう中で彼が言った言葉が、この1節から3節の言葉です。 1 現状を把握し主に向かう “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。” 詩篇 27篇1~3節 1節に「砦」とありますが、これは外敵の侵入を防ぐための建物です。 主は自分の命を守ってくれる砦だと彼は信仰告白しています。 そしてその砦があるから、どんな敵も恐れることはないと続けます。 ここでまず注目すべき点は、ダビデがしっかりと現状を理解しているということです。 周りは敵だらけで、しかもその敵は自分の命を狙っている。 自分は命の危険にされされているということを彼はよく知っていました。 戦うためにはまず現状を把握しないといけませんが、ダビデはそれができていました。 そしてその上で、彼は先へと進んだのです。 辛い状況が目の前にあり、それが長期化すると、その状況に目を閉じて、それがないかのように思ってやり過ごそうとするということが人にはあります。 ある種の防衛本能なのかもしれませんが、現実逃避とも言えると思います。 ダビデはそうではありませんでした。 自分が今大変なのだということ、砦が必要なのだということをちゃんと認めていました。 ただこの現状把握でとまってしまうと、今度はそのことばかりグルグル頭の中を回り始めます。 神の言葉を黙想しなくてはいけないのですが、状況や周囲の人たちの言葉ばかり黙想してしまうようになります。これは思い煩いです。 思い煩いは、わたしやみなさんにはどうにもできないことを囁きます。 「あなたがあんなことをしたから、今こんな事態になっているのでしょう。」 「あなたがもう少し頑張ればなんとかなったんではないの?」 色々な言葉を連想させて私たちの心を引きずっていきます。 この詩篇を書いたダビデはどうでしょうか。 現状把握をした上で、神様に視線を向けました。 私たちもこのように、現状をしっかり把握した上でどういうところが問題なのかを分かった上で、究極的にこの問題の解決は神様にしかないのだと委ねていくことが大切です。 それは自分自身の力で必死に握ろうとしている何かを離すこととも言えます。 わたしたちは握るのは得意ですが、離すのが苦手です。 離したと思っても気づくとまた一生懸命握っています。 だから毎日手放さなくてはいけません。 そうして神様の前に委ねていくのです。 ダビデはそのように生きた人でした。 彼は主を心から信頼していました。 彼にとって主は「光」でした。 光が闇を追い退けてしまうように、主が敵をおい退けてくださるというダビデの信仰告白です。 だからこそ誰を恐れようと言えるのです。 続いて2節を見ますと、ここには「私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた」と記されています。 おそらく過去のダビデの戦いの勝利をうたっているのだろうと思います。 彼はこれまでの主の助けを振り返り、だからこそ今回もということで3節を歌うわけです。 3節で、ダビデは言います。 たとい私に向かって陣営がはられても、私の心は恐れない。 陣営がはられるということは、敵が戦闘態勢を整えて今にも飛びかかってくる状況です。 そうあっても私は恐れない、動じないとダビデは言うのです。 彼の心には平安がありました。 私たちが何かの出来事に心を奪われ、イライラしたり、心を落ち込ませている時、それは心の平安を奪われている時です。 敵を恐れ、もうすでに敗北しているのです。 ダビデはその戦いに勝利していました。…

主の眼差しを受けて待ち望む

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの黙示録 14章14~20節 タイトル:主の眼差しを受けて待ち望む 今日からアドベントが始まります。 アドベントとは到来、来臨を意味し、クリスマスの4週前の日曜日からクリスマスの日まで続きます。アドベントの期間は主の到来を待ち望む期間です。 主の到来を待ち望むという言葉には二つの意味があります。 一つは、2000年前にイエスキリストがお生まれになったことを覚えて、そのお生まれを待ち望むこと。 そしてもう一つは、天におられるイエスキリストが再びこの地に来られる再臨を待ち望むことです。 今日はこの二つ目について触れたいと思います。 今日の聖書はヨハネの黙示録14章です。 この箇所の前のところには、悪魔を表す竜と、それに力を与えられた獣がこの世界で暴れ回る様子が記されています。 しかしその後この幻を神に見せていただいたヨハネはさらに希望の幻を見ました。 それはイエスキリストがシオンの山の上に立っておられる姿でした。 そしてその側には過去現在未来すべての救われたクリスチャンを意味する14万4千人の人たちがいました。 イエスキリストの十字架による贖いによって罪赦され神の民とされた人々がそこにはいたのです。 当時キリスト教会は、大変な迫害の最中にありました。 この幻を見たヨハネ自身もバトモス島という島に流されていました。仲間達もたくさん捕まり殺された人たちも多くいたことと思います。 そういう状況下にある彼にとってこの幻は大きな希望になったはずです。 おそらく彼はあの14万4千人の中にすでに死んだ仲間たちの姿も見ただろうと思います。 さらにこの後彼は天からの声を聞きました。 “また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」” ヨハネの黙示録 14章13節 今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。 つまり主に結び合わされて死んだ人たちは幸いな人だということです。 ローマ帝国に捕まり死刑にあった人であろうとも、それでも主を信じて死んだならそれは幸せなことなのだというのです。 どうしてそれが言えるのかというと、それが先程の幻にあらわれています。 イエスキリストと共にいるものとされたからです。 彼らは決して孤独に死んだのはありません。 主にあって死んだ、主に結び合わされて、主の中で死んだのです。 生の終わりは死ではなく、 その先に新たな生があります。 主イエスキリストにあるあらたな命に生きる生です。 その中にいる人は幸いなのだという声をヨハネは聞いたのです。 1 収穫の時 今日の聖書はさらにその続きとしてみた幻です。 ヨハネの黙示録 14章14~16節 “また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。“ ヨハネはここで雲に乗っている人の子のような方、つまりイエスキリストを見ました。 この方は金の冠を被っています。つまり真の王であることを示しています。 世の中は当時ローマ皇帝こそ王でした。 しかし真の王はこの金の冠をかぶり雲の王座に座っておられるイエスキリストであることをあらわす幻です。 この真なる王が手に鋭いかまを持っていました。 この真の王こそ、この世を裁く審判者であることを描写しています。 彼は一人の御使いの合図を受けて、地に鎌を入れて、穀物を刈り取りました。 穀物は完全に熟してすでに刈り取るべき時が来ていたからです。 これはすなわち終わりの時がやってきて、神の民が御国に導き入れられることを示しています。 その日その時が来ると、このようにイエスキリストが神の民である私たちを刈り取って神の国へと連れて行ってくださるということを教えてくれる箇所です。 この刈り取りについて、収穫について語っている言葉がマタイの福音書13章にありますが、39節には「収穫とはこの世の終わりのことです。」と書かれています。 この世の終わりというと、この世界の破滅をイメージされる方が多いと思うのですが、クリスチャンにとっては新しい世界の始まりであり、神の国の完成を意味します。それは本当に苦しみも痛みも涙もない世界の始まりの時なのです。その時にイエスキリストにつながっている人は、農夫が収穫の時に穀物を刈り取るように、神の国に導き入れられるのです。 その続きの43節には「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」とあります。 だからイエスキリストにあって死んだ者は幸せだと言えるのです。 ではこれがこの世界の終わりの時だとするなら、今はどのような状況と言えるでしょうか。 それは王冠を被ったイエスキリストが鎌を持ってこの世界を見ておられる時と言えると思います。…

主に感謝せよ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇136篇 タイトル:主に感謝せよ 今日の聖書は詩篇136篇です。 この詩篇はとても特徴的な詩篇です。 それぞれの節が前半後半に分かれていて、後半部分は「その恵みはとこしえまで」という言葉を繰り返しています。 これはおそらく先ほど私たちが共に読んだ交読文のように、礼拝の司式をする人が前半を歌い、後半は会衆が歌うという形でなされていたのだろうと思います。 ですからこれは個人で歌う歌というよりも、共同体で共に歌う賛美だったということができます。 共に歌うことはそれ自体が共同体をおぼえる行いです。 現代の私たちと同じように、当時のイスラエルの人々の中にもいろいろな人たちがいました。 しかしこの共同体の賛美はさまざまな人たちを主にあって一つにしたのです。 神の恵みを思い巡らし感謝することは、一人でももちろんできますが、共同体として共に行うこともまた必要なことなのでしょう。 今日もこの詩篇によって私たちが一つの思いとなり共に神に感謝を捧げる時となりますように祈ります。 この詩篇の冒頭を見ますと「感謝せよ」という言葉が繰り返されていることに気づかれることと思います。 この世は絶えず私たちを苦しめ、感謝などできないと思えるような時も多々あります。疲れ果ててしまうこともあると思います。 しかし今日の詩篇は、そんなわたしたちにも感謝を教えてくれます 詩篇136篇が教える感謝は条件ではありません。 今置かれている環境、その状況によって左右されてしまうものではありません。 環境や状況によって左右される人は、それが好転しても結局感謝はできません。 瞬間的に喜んで感謝しますと言ったとしても、次の瞬間には感謝はどこかへ飛んでいってしまいます。 感謝は条件ではありません。 感謝を知っている人だけが感謝をします。 では感謝を知っているとはどういうことなのでしょうか。 それは自分が既に神から多くのものを受け取っていることを知っているということです。 そして神によって生かされているということを知っているということです。 今日の御言葉である詩篇136篇はまさにそのことを教えてくれる詩篇になっています。 はるか昔、イスラエルの人々が神を見上げつつ共に歌った歌を、今日私たちも共に読み今現在の事として受け取り直す。 そのような時間となることを祈ります。 1  神がおられることへの感謝 “主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。 主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。” 詩篇 136篇1~3節 この世には神と信じられている存在がたくさんあります。 この詩篇の作者の周囲にも、この詩篇を歌った人々の周りにも多くの神々がありました。 私たちの周囲にも神の名のつくものがたくさんありますが、どれも人が勝手に作り出したものです。 しかしこの多神教の世界にあっても、私たちは神がお一人であることを知っています。 「光あれ」と言ってこの世界を造られ、また人を造り愛し導いてくださる神はお一人だけです。 神の神、主の主という表現は、最上を意味する言葉です。 申命記10章17節にもこのような言葉があります。 “あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり‥” 神の神、主の主というのは、神の素晴らしさ、その偉大さを表現するための言葉です。 この世界のあらゆるものに優先する大いなる方、それが真の神です。 そんな神に感謝せよと詩篇記者はここで歌うのです。 その方はかつてモーセに「私はある」と言われた方です。 どんなものにも依存することなく神として存在し続ける方。 この方が存在することに感謝せよとこの詩篇は歌うのです。 そしてそれは恵みであり、その恵みはとこしえまで、つまり永遠に続きます。 この世界は神なき世界です。 実際には神はおられるのですが、それを受け入れ信じようとしない世界です。 そしてかつてのイスラエルの周囲の人々がそうだったように、勝手に自分に都合の良い神々を作りあげてそれを拝む世界です。 そんな希望のない光のない世界ですが、それでも永遠から永遠まで神は神として存在し続けてくださることを私たちは知っています。 だから感謝することができるのです。 1〜3節は、神の存在への感謝を歌っている箇所です。…