福音を語ること

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き10章34~43節 タイトル:福音を語ること <導入> 昨年の末から長老さんの息子さんに勉強を教えています。 高校受験のために始めたことでしたが、今も続けて同じ時間を過ごせていることは感謝なことです。 特に高校生になってからの方が成績も良くなり私も嬉しく思っています。 私が教えているのは英語の文法だけなのですが、それ以外の成績も私に伝えてくれます。 私のことを信頼してくれているからというのもあるかもしれませんが、それだけではなく、やはり成績が全体的に良いから伝えやすいのではないかと思います。 良い知らせというのは誰しも伝えたくなるものです。 先日教会の高校生3人と一緒に釣りに行きました。 3時間ほどしかしていませんが全部で82匹釣れました。 これも私が今お伝えするのは良い知らせだからです。 良い知らせは人に伝えたいものです。 その知らせが良ければ良いほど私たちは話さずにおれなくなるでしょう。 では私たちが持つ良い知らせの中で最も素晴らしい良い知らせは一体なんでしょうか。 もちろんそれは福音です。 福音はギリシャ語ではユーアンゲリオンというのですが、直訳すると「良い知らせ」となります。 最近いつ良い知らせ(福音)を伝えられましたか。 良い知らせであればあるほど伝えたいと思うなら、わたしたちは事あるごとにこの福音を語っていないといけないのではないでしょうか。 しかしそうはなっていない現実があります。 特に伝道の賜物があると言われる人たちを除いて大抵のクリスチャンはなかなか伝道することができません。ためらいをおぼえてしまうものです。 イエスキリストが死んでよみがえられ、わたしに新しい命を与えてくれたことは他の何ものにも代え難い良い知らせです。 それなのに言いたくて仕方ないという心でいられないわたしたちがいるのです。 なぜでしょうか。 <本論> 今日の聖書からこのことについて共に学んでいきたいとおもいます。 今日はペテロの伝道説教の箇所です。 “そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、” 使徒の働き 10章34節 口を開いて語るのは当たり前のことですが、これは特に荘厳な演説の語り出しを表す慣用句です。 ペテロが大勢集まった人を前にして正式に説教を始めたことを示しています。 これは歴史的な出来事でした。 現代の私たちからすれば異邦人であれユダヤ人であれ関係がありませんが、当時は重大な問題でした。 クリスチャンであってもまだユダヤ人にしか伝えられていなかったこの福音がいよいよ公に異邦人へと伝えられる瞬間がきたのです。 “あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。” 使徒の働き 10章37~38節 ここにはイエスキリストの公生涯について書かれてあります。 バプテスマのヨハネから洗礼を受けて後、表舞台に立たれたイエスキリストはガリラヤから福音宣教を開始し、ユダヤ全土にまでその働きを広げられました。 その働きは聖霊の力によるものでした。 悪魔に押さえつけられている人々を解放する働きをされました。 “私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。” 使徒の働き 10章39~40節 ここには福音の一番中心的なことが書かれています。 すなわち十字架の死と復活についてです。 彼はこの世界で多くの人々を救い解放し福音を伝えました。 彼には責められるところは何一つありませんでした。 神様の目からみて全くの無罪でした。 それなのに、彼は木にかけられて殺されてしまうのです。 申命記21章22~23節にはこう記されています。 “もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。” つまりイエスが死んだのは神に呪われたものとなったということです。 本人には全く罪がなく呪われる理由も何一つありません。…

神の言葉を聴く事と、伝える事

 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き10章23~33節 タイトル:神の言葉を聴く事と、伝える事 みなさんは神様の言葉を聴くとはどういうことだと思われますか。 また神様の言葉を伝えるとはどういうことなのでしょうか。 今日はこのことについて考えてみたいと思います。 今日の聖書箇所は以前お話したペテロとコルネリオの出会い場面の続きです。 彼らはそれぞれ常識を持っていました。 ペテロの常識はユダヤ人としてのそれです。 彼は異邦人と親しく交わることを忌み嫌っていました。 だからコルネリオという異邦人からの使いが来て一緒に来て欲しいと言われてもわかったと言うはずがない人でした。 またコルネリオもローマのイタリア隊というエリート集団で100人を束ねる100人隊長でしたので、自国の植民地であるユダヤに人にをやって来て欲しいと頼むことなどあり得ないことでした。 しかしペテロもコルネリオもその常識を超える決断をします。 なぜなら神がそれぞれにその常識から脱することを求められたからです。 コルネリオはペテロに使いを送り、ペテロは異邦人から送られた使いを受け入れ共に寝泊まりして明くる日コルネリオが待つカイザリアへと出発しました。 [神の言葉を聴くことについて] ここから神の言葉を聴くことについてお話ししていきます。 まず少し時間の流れを整理してみましょう。 “するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、” 使徒の働き 10章30節 この言葉はペテロと出会ったコルネリオが言った言葉です。 この言葉からわかることがあります。 それはコルネリオが御使いを見て言葉を受け取ってから今日まで4日が経っているということです。 1日目 コルネリオが御使いから言葉を受け取る。 この時点ですでに午後3時なので、この日は出発できない。 2日目 コルネリオが部下と僕を遣わす。 3日目 ヨッパまで丸1日歩いた後ペテロと出会う。 この日はペテロと共にかわなめしシモンの家に泊まる。 4日目 カイザリアに向けて出発 5日目 到着 部下と僕を遣わしてから丸三日経っています。 この間にコルネリオは親族や親しい友人達を呼び集めてペテロの到着を共に待っていました。 “その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。” 使徒の働き 10章24節 ヨッパにいたペテロから「行きます」という返事があったわけではありません。 現代であれば電話やLINEで来るか来ないかがはっきりわかりますが、当時はそんなものは当然ありません。 ということはこの三日間来るか来ないか分からない人をコルネリオは待っていたということになります。 しかも親族や親しい友人まで呼んで待っていたのです。 どんな思いで彼は待っていたのでしょうか。 待っていたと翻訳されている言葉はギリシャ語でプロスドカオウといって、「待つ」という意味の他に「期待する」という意味もあります。 使徒の働き27章でも同じ単語が使われていますがそこでは「待ちに待った」と翻訳されています。 つまりコルネリオが待っていたという時、それは期待して待っていたことを意味します。ほかの言葉で言い換えるなら待ち望んでいたというべきでしょう。 今か今かと期待しながら自分が送った部下と僕に連れられてペテロという人がやってくるのを待っていたのです。 その間コルネリオはどのように過ごしていたのでしょうか。 彼は午後の3時の祈りを守っていた人なので、部下を遣わした日もこのことに関して祈り、部下たちがペテロと会った日も祈り、彼らがヨッパを出発した日も祈ったことでしょう。そしてこの日ペテロがカイザリアに着いた日も祈りをしようとおもっていたころに、ペテロがやってきたという報告をうけてコルネリオは家を飛び出しペテロの前に跪いたのです。 “ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。” 使徒の働き 10章25節 コルネリオのペテロに対する態度を見ますと、神から送られてきた使いとして受け入れていることがわかります。 コルネリオはペテロを通して神の言葉がはっきり与えられると信じてそれを待ち望んでいました。 祈り求めつつ、親戚や友人達にも知らせて、できうる限りのことをして待っていたのです。…

良い時も悪い時も

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇9篇1~10節 タイトル: 良い時も悪い時も この詩篇はダビデが記録した詩篇です。 ここでダビデは、以前勝ち取った勝利について語ったのち、それはすべて神さまの力であったことを大いに誉めたたえています。 そして今あらたに敵が目の前に迫っており、かつて自分を救い出したと同じ助けを神に乞い求めている詩篇です。 今日見るところは、ダビデが以前神さまの力で勝利を勝ち取ったことについてです。 ここから良い時も悪い時も主をおぼえて生きる生活について分かち合いたいと思います。 ⑴ “私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。” 詩篇 9篇1節 「心を尽くして主に感謝する」とは一体どういうことなのでしょうか。 ある言葉の意味を深く探るのに良いのは正反対の言葉を考えてみることです。 聖書には正反対の意味をもつ言葉として「二心」という言葉が登場します。 “人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。” 詩篇 12篇2節 宗教改革者のジャンカルヴァンは二心についてこう言っています。 「彼らは一言二言神の助けについて語ったのちは、巧みに自分を誇り、自分の勇敢さを歌い上げる。あたかも彼らは何一つ神によって助けられなかったかのごとくである。‥彼らは神に犠牲をささげた後に、自分の思慮深さ、器用さ、能力、武力、兵力に捧げ物をするのである。」 一言二言神の助けを語ったのちに、自分がいかに優れているかを語る。 結局のところ自分がどれだけ優れているかということを言いたいということでしょう。 しかしそれでは不敬虔なものに見えてしまうので、それを覆い隠すために表向きは神の助けを語るということです。 今までに数人の人からこういう話を聞いたことがあります。 教会にイエスさまのことを全く知らない人がやってきた時にあまりにも多くの人が自分を飾るというお話です。 どういう意味かというと、イエスさまを信じて明らかに人生が変えられて今の自分になったにもかかわらず、それを伝えないということです。 あたかも自分は以前からこうでしたと言っているように見えるというのです。 少し極端な言葉かもしれませんが、わたしは一理あるなと思いました。 実際にどこまで話すのかというのは微妙な問題を含みます。 あまりに正直に話しすぎて聞いた人がつまずくこともあるからです。 ただそういうところも慎重に考えながらイエス様を信じる前と後の違いというのをハッキリ話すことは大切なことです。 もしこのことをためらわれるなら、それは一体何が原因なのかを探ってみないといけないと思います。 ひょっとするとカルヴァンが言うような思いなのかもしれないからです。 「今の自分がいるのは、神さまの恵みによるのです。」と口で告白しつつも、そこに自分の功績を付加したい誘惑にあっているのかもしれないのです。 わたしたちは二心の者ではなく、心をつくして主に感謝し、全ての栄光を主が受け取られるようにしたいと思います。 ダビデはこの時、心を尽くして主に感謝しています。 すべての功績、すべての成功が主のものであるというのです。 サウルは千を打ち、ダビデは万を打ったと言われるほどに、ダビデは戦争で負けしらずでしたが、それらはすべて神さまの力によるのだと語ります。 わたしたちはどうでしょうか。 すべて神様がしてくださったと信じて生きているでしょうか。 みなさんの人生においてすべての栄光を神様が受けておられるでしょうか。 どこかに自分の功績を付加したいというおもいはないでしょうか。 そんな問いを投げかけてくれる聖句だと思います。 次にダビデは「あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げ」ると言います。奇しい業なので、通常では考えられない明らかに神さまの介入だとわかる出来事がダビデの前に起こったのでしょう。しかも余すことなく語るということは、一度限りのことではなく、何度もあってそれによりダビデは勝利をおさめていたのです。 神がダビデのためにこれまで果たしてくださったあらゆる奇跡を広く想起して、すべて神さまあなたのおかげですと言ってこの詩篇は始まっています。 ⑵ 続いて2節です。 “私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。” 日本語の聖書では「誇ります」と訳されていますが、ヘブライ語聖書には大きな喜びという言葉が記されています。 ですからここは本来、喜びという言葉が二回続いているということです。 ダビデが喜びという言葉を強調したかったからでしょう。 彼はこの時おおいに喜びました。 ではその対象となっているのは何でしょうか。 ダビデはこう言っています。 「わたしはあなたを喜」ぶと。 これは神の存在そのものを喜ぶということです。…

苦難を通して神様を知る

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇27篇1~5節 タイトル:苦難を通して神様を知る 最近「主がしてくださいました。感謝します。」と言ったこと、あるいは思ったことはありますか。 私たちは普段生活する中で何か良いことがあれば、「主がしてくださいました。感謝します。」と抵抗なく言えると思います。 今日の詩篇のダビデのように「主は私の光、私の救いです。」という言葉に同意することもできるはずです。 しかし周囲の状況があまり良くないときに、今日のダビデのように、「主は私の光です。救いです。」と心から言うことはなかなか難しいのではないでしょうか。 どうしても、その悪い状況に心が向いてしまいます。どうしたらこの問題を解決できるだろうかと思い巡らし、その状況が長く続くと、思い煩い、心が沈んでいきます。その時わたしたちはすでに問題に囚われてしまっているのです。 しかし今日の詩篇を記したダビデは問題を見つめ続けるのではなく、そこから視線を主に向け、主を見上げました。 彼はこの詩篇で戦争をイメージさせる言葉を使って、自分が今どれほど厳しい立場にあるのかを表現しています。彼は命を狙われていたのだと思います。 しかしその中でダビデは、自分に迫る命の危機だけを見つめ続けるのではなく、主を見ました。そういう中で彼が言った言葉が、この1節から3節の言葉です。 “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。” 詩篇 27篇1~3節 1節に「砦」とありますが、これは外敵の侵入を防ぐための建物です。 主は自分の命を守ってくれる砦だと彼は信仰告白しているのです。 そしてその砦があるから、どんな敵も恐れることはないと続けます。 ここでまず注目すべき点は、ダビデがしっかりと現状を理解しているということです。 周りは敵だらけで、しかもその敵は自分の命を狙っている。 自分は命の危険にされされているということを彼はよく知っていました。 戦うためにはまず現状がどうかということを知らなくてはいけませんが、ダビデはそれができていました。 そしてその上で、彼は先へと進んだのです。 私たちも彼のようでありたいと思います。 周囲の状況に目をつむっていては、問題が解決するはずもありませんが、逆にいつまでも周囲を見渡して、それを自分で解決しようとしていてもその状況は変わりません。 ダビデのように正確な現状認識の後に、その先へと進むことが大切です。 私たちは何か問題が起きるとそのことばかり考えてしまいます。 大きな音が突然聞こえると驚いてそちらの方を見て、しばらく固まってしまう状態と似ています。 そんなわたしたちに今日の聖書が教えてくれているのは、問題をしっかり把握することは大切だけど、そこにとどまるのではなく、主を見上げ、主に信頼することがもっと大切だということです。 現状把握でとまってしまうと、そのことばかりグルグル頭の中を回り始めます。 これは思い煩いです。 思い煩いは、わたしやみなさんにはどうにもできないことも、どうにかできるとささやきます。 「あなたがこうしたらこうなるんじゃないの?」「あなたがもう少し頑張ればなんとかなるんじゃないの?」 色々なパターンを想像させて私たちを下へ下へと引きずっていきます。 しかし私たちはこのように考えるのではなく、現状をしっかり把握した上でどうゆうところが問題なのかを分かった上でこの問題の解決は神様にしかないのだと委ねていくことが大切です。 それは自分自身の力で必死に握ろうとしている何かを離すこととも言えます。 わたしたちは握るのは得意ですが、離すのが苦手です。 これには練習が必要です。 最初はきっとうまくできないでしょう。 しかしその中でも神さまの語りかけに耳を傾けて手を離して神さまに委ねるのです。 ダビデはそれができていました。 彼は主を心から信頼していました。 2節に、「私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた」と記されています。 これがダビデの信頼が特に強くあらわれた部分です。ヘブライ語の聖書もここは完了形で「倒れた」とすでに終わったこととして書かれています。 実際の状況は本当に変わったわけではありません。 相変わらず敵はダビデの周囲にいます。 でもそんな状況であるにもかかわらず、彼は主に信頼しているので、もうすでに神に聞かれたこととして祈っているのです。 イエス様は言われました。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11章23節)。 ダビデはこの時点ですでに勝利していました。 彼はすでに祈りが聞かれたと信じていたからです。 そうして彼はまず守るべき「心」を守りました。 3節で、ダビデは言っています。 「私の心は恐れない。」 彼は心から平安を奪われないことに成功しているのです。 私たちが何かの出来事に心を奪われ、イライラしたり、心を落ち込ませている時、それは心の平安を奪われている時です。…

終末を望み見て生きる

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ヨハネの黙示録22章1~5節 タイトル:終末を望み見て生きる。 車の運転をしていると、時折危なっかしい運転をしている人を見かけます。 一体どんな人が運転しているのかと気になって信号待ちの合間に見てみると、前かがみになりながら必死にハンドルを握っています。おそらく初心者ドライバーなのでしょう。 普段運転をされる方はよくお分かりになると思いますが、前かがみになると視界が狭くなり、視線も近くの方に向かいます。運転においてこれはあまり良くありません。運転する時はできるだけ広く視野を保ちつつ、先の方を見ながらその視界の中に手前も一緒に捉えていくことが大切です。 これは人生においても言えることです。 今この瞬間だけ見て生きていては、歩む方向を見失います。 遠くを見つめながらもその視界の中に今を捉えて歩くのです。 ただしこれは老後のことを考えてという意味ではありません。 老後も大切かもしれませんが、私たちが見るべきはさらにその先のこと、すなわち終末です。 <終末とは> 終末は二種類に分けられます。 一つは、個人的終末です。 これは自分が死んでこの世界を去ることに関することです。 もう一つは一般的終末です。 これはイエスキリストが再臨して、この世界が終わること、その後やってくる完璧な世界に関することです。 今日はこの一般的終末がやってきた後のことについて触れている聖書箇所です。 私たちはクリスチャンとして今だけを見て生きるのではなく、遠くを見つめつつもその視界に今を捉えながら生きる者でありたいと思います。 さて今日ともに読みました御言葉ですが、これは聖書の中でも最後の書簡であるヨハネの黙示録であり、その中でも最後の章22章にある内容でした。 この世界が終わった後におとずれる世界についてです。 では、この新しい世界とはどんな世界なのでしょうか。 ローマ人への手紙 8章11節にはこうあります。 “もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。” 天国に入るとか救いと聞くと霊魂の話をイメージする人が多いと思います。 しかし聖書が語るこの世界の終わりにおとずれる世界は霊魂だけの話ではなく、肉体も共に生かされて入れられていく世界だというのです。 人というのはそもそも肉体と霊魂が合わさった総体のことです。 霊魂だけでは人ではなく、肉体だけでも人ではないのです。 それにもし霊魂だけの世界で終わらせるなら、最初からアダムとエバに肉体など与えなくても良いのではないでしょうか。 ピリピ人への手紙 3章20~21節にはさらに踏み込んで書かれています。 “けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。” 「ご自身の栄光の体」とは、キリストの復活の体のことです。このキリストの復活の体と同じ姿に変えてくださるというのです。 キリストの復活の体と聞いてどんな体をイメージされますか。 あるときは壁をすり抜けたことがありました。 しかしあるときは弟子たちが触れることができました。 つまり地上の物理的制約に縛られない体だということです。 いたと思ったら、いなくなり、また突然あらわれという具合に、私たちが今持っている体とは全く違う存在の仕方をしている様でした。 この世界が終わる頃私たちもあの様な体に変えられるのだと聖書は語っているのです。 “聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。” コリント人への手紙 第一 15章51~52節 どうですか。信じられますか。 死んで霊魂だけ天国に入る方が、信じるのが簡単な気がするでしょう。 それはわたしたちの常識に近いからです。 あるテレビ番組で死後の世界があると思うかというアンケートをとっていたのですが、実に70%の人があると答えていました。 この70パーセントの人たちも、霊魂だけでどこか違う世界に入ることを肯定しているようでした。 このことに関してだけ言えばクリスチャンもノンクリスチャンも同じような感覚を持っているようです。 しかし聖書はさらにその先のことまで記しているのです。 私たちは聖書を信じるクリスチャンですので、聖書が語ることに耳を傾け、その世界観をしっかり明確に持って生きていきたいと思います。 それが遠くを見ることになるからです。 遠くをしっかり見つめたらそこから光が差し込んでいることがわかります。 それは完成された神の国からの光です。 その光をしっかり見つめるために、完成された神の国について今日はみていきます。…

自分の常識よりも神に従う

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き10章1~23節 タイトル:自分の常識よりも神に従う 使徒の働きには色々な出来事が記されていますが、その中でも三つの大きな転機となる出来事があります。 一つ目は、聖霊降臨です。 聖霊が降られることによって、本格的に教会は始まりました。 これは外すことができない出来事です。 二つ目はダマスコでサウロが天上のキリストと出会ったことです。 彼はクリスチャンの敵でありましたが、キリストと直接出会い、異邦の民へと福音を伝える宣教師となりました。 そして三つ目が今日共に見ていくコルネリオとその家庭に福音がのべ伝えられる出来事です。 この三つの出来事は、全て異邦の民へと福音が拡がっていく事と関係しています。 聖霊が臨んだ時、ペテロは他の使徒たちと共に立ち上がり、世界各地からエルサレムへ来ていたユダヤ人たちあるいは異邦人改宗者たちの前で福音を宣べ伝えました。 そしてその福音を受け取った人たちが各地に散って行ったのです。 これが最初の福音の地理的な拡がりと言えると思います。 その後エルサレムにおいて教会の群れは大きくなっていきましたが、ステパノが殉教した後、サウロがクリスチャンたちに大変な迫害を加えてまわりました。 これにより多くのクリスチャンがエルサレムから逃げて行きました。 この時に逃げ出した人の中にピリポという人がいましたが、彼がユダヤと仲が悪かったサマリヤへと行くのです。 ユダヤとサマリヤはもともと一つの民族でしたが、お互いを軽蔑し嫌っていました。 しかしピリポがそこで福音を述べ伝えるとなんとそこに大きな喜びがあったというのです。 こうしてユダヤ人だけではなく、サマリヤ人にも福音が広がって行きました。 これは福音による民族の回復と呼べるかもしれません。 そしてさらに地理的な拡大だけでなく、民族的な拡大のために一人の宣教師が選ばれます。 それがクリスチャンの天敵であったサウロという人でした。 彼は天上のイエスキリストと出会い完全に変えられてキリストを異邦人へ伝えるものとなりました。 そして今日共に見るコルネリオとその家庭へ宣べ伝えられる出来事ですが、この出来事が本格的な異邦人伝道の始まりとなります。 なぜならコルネリオ一家に福音が伝えられることは、異邦人の最初の教会形成になったからです。カイザリヤにこの後教会ができたことは21章16節や24章23節を見るとわかります。 そしてこれら全てが使徒の働き1章8節でイエスさまが語られた大宣教命令から始まったことであり、聖霊の力を得てなされたものなのです。 “しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” 使徒の働き 1章8節 この言葉の通りに、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土と、ここまで福音がのべ伝えられてきました。 そして今日共に読んだ10章からさらに福音は拡がります。 使徒の働きの9章までは、ユダヤ人たちを中心にした宣教でしたが、ここからは一気に異邦人へ福音が伝えられていくのです。 ただ、ここには障害になり得るものがありました。 それは常識です。 常識がなぜ福音を伝える邪魔になりうるのでしょうか。 それはここでの常識というのは、「こうあるべき」と「こうあってはいけない」という柵で自分を囲い相手も囲うものだからです。 どんな人にもその人にとっての常識があります。 クリスチャンであれノンクリスチャンであれ誰でも持っているものです。 今日の聖書箇所に登場したコルネリオとペテロにもそれぞれ常識がありました。 まずコルネリオ側から考えてみたいとおもいます。 コルネリオはイタリア隊という部隊の100人隊長でした。 イタリア隊は植民地から徴兵した兵ではなく、イタリアで直接訓練された精鋭部隊でした。いわばエリートです。そのエリート100人を束ねていたのが、コルネリオでした。 そんな彼からすれば属国ユダヤの人間など取るに足りない存在です。 さらにペテロがいた家は皮なめしという仕事をしている人の家でしたが、これが一層印象を悪くするものでした。 皮なめしと聞いてどんな仕事を想像されるでしょうか。 普段の生活の中でなかなか聞かない言葉だと思います。 これは動物の皮を加工して、革にする仕事です。 加工段階で動物の血に触れることになるので、これがユダヤ人たちが忌み嫌うことでした。 ですからコルネリオは自分たちの国が植民地支配しているユダヤ、その中でも見下されている人の家にいるペテロを招くように言われたのです。 コルネリオの常識の中にこのような考えはなかったでしょう。 そんな名前も知らないユダヤ人を招く必要など彼にはありませんでした。 またペテロの側から考えても、コルネリオは異邦人であり、ユダヤ人のペテロにとっては汚れた存在でした。 彼の招きに応えるなんてことはペテロの常識の中にはありません。 しかし今日の聖書箇所をみていくと、そんな彼らが自分の常識を捨てて神さまに従う方を選んでいます。 一体何が彼らをそうさせたのでしょうか。…

教会の一致

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き9章17~31節 タイトル:教会の一致 あるキリスト教のラジオ番組で牧師がこんなことを話していました。 ある日新しく教会に来られた方について信徒さんたちが「何かまた変わった人が来たわね。」と言っていたんです。その時わたしは「いやいや、あなたも相当変わってますよ。」と思いました。「でもそういう牧師が一番変わっている。私を含めよくこの人たちをベストメンバーとして選んだものだ。」と思いました。 みなさん。わたしたちの教会はまだ小さな教会ですが、10人いれば合わない人が1人はいると統計学的には言うそうです。 もしこれが正しければ、わたしたちにはすでにこの荒野教会に来る人たちの中に合わない人がいるということです。 しかしわたしたちの意見や好みを基準にしていれば教会は分裂し跡形もなくなってしまうでしょう。 クリスチャンであるわたしたちが基準にしたいのは、わたしたち自身の好みではなく、神の御言葉です。 新約聖書のローマ人への手紙14章4節には “あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。”という御言葉があります。 全てのクリスチャンは主のしもべです。 しもべは主人にしかさばけません。 つまりイエスキリストにしかさばけないということです。 主が選ばれた人をしもべ同士で批判しあい弾きだしてはいけないのです。 この事はどの時代を生きるクリスチャンにとっても大切なことです。 今日はそれを使徒の働きから共に見ていこうと思います。 今日の聖書で、まず注目していただきたい箇所は31節です。 「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」 この御言葉を読むと、イエスキリストの弟子たちが、迫害を逃れて散らされながらも、そこで福音を伝え、どんどん広がっていく様子がうかがえます。 どうして捕らえられたり処刑されたりするかもしれない状況の中で、信仰を捨てることなくこれほどまでに拡大していくことができたのでしょうか。 実はこの問いに対する答えも31節にあります。 それは「教会」という言葉に表されています。 ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤには今や多くの教会がありました。 しかし日本語の聖書はもちろん原文のギリシャ語聖書を見ても、「教会」という単語は複数形で書かれておらず、単数形で書かれています。 ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤと言及しながらも、ここであえて単数形で表現するのは、教会が一つであることを示すためです。 ユダヤのキリスト教会、ガリラヤのキリスト教会、サマリヤのキリスト教会といくつもの教会に分かれているのではありません。存在する場所が違うだけで、教会は一つだという教会の一致を示していると言えます。 そして当時のこの地域の人々のことを考えた時、これはとても驚くべきことでした。 元々この地域の人々はお互いを見下し裁いていた人たちだったからです。 ユダヤの人々は、ガリラヤからは預言者など出ないと言っていましたし、サマリヤのことを外国人との混血を理由に忌み嫌っていました。 また逆にサマリヤの人々もユダヤを嫌っていました。 それなのに、今やこの地域は一つの教会と呼べるほどに一致していたのです。 これこそ迫害の中でも教会が成長し拡大していった大きな理由です。 一致こそ教会成長の鍵です。 ではどのようにして教会は一致していったのでしょうか。 その内容について今日は見ていこうと思います。 今日の聖書箇所は大きく二つのお話に分けることができます。 一つは、ダマスコという町での出来事、もう一つはエルサレムでの出来事です。 [ダマスコでの出来事] まず一つ目、ダマスコでの出来事について見ていきます。 ここに登場するサウロという人は、実はこの町に来るまでキリスト教徒を激しく迫害するユダヤ教徒でした。 この町に来た理由も、キリスト教徒たちを捕まえて牢屋に入れるためでした。 しかしダマスコに入る前に天上のイエスキリストが直接サウロと出会われ、彼は今まで自分がして来たことが間違いであったことがわかったのです。 そしてこの町でアナニヤというキリストの弟子から祈りを受け洗礼を受けた彼は完全に新しい人となって、キリストにある兄弟姉妹の仲間になりました。 そしてその町で勢いよく伝道していきます。 しかしその町のユダヤ人たちはサウロの変化を見てうろたえ彼をを殺す計画を立てました。 それを知ったサウロは夜のうちに自分の弟子たちの協力のもと、城壁づたいに釣り降ろされて逃げて行きました。 これが一つ目のお話です。 [エルサレムでの出来事] 続いて二つ目は、エルサレムでの出来事についてです。 サウロはダマスコを出て約3年後にエルサレムへとやって来ました。 そしてエルサレムのクリスチャンたちの仲間に加わろうとします。 彼は以前エルサレムでクリスチャンたちを激しく迫害していました。 使徒の働き8章3節には「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」とあります。 そんなところに、どんな思いでやってきたのでしょうか。…

苦しみも慰めも共に

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:コリント人への手紙 第二 1章4~6節 タイトル:苦しみも慰めも共に この世界で生きていく上でなくてはならないものはたくさんあります。 まず衣食住は基本的なものとして必要です。 それを得るための収入源も必要でしょう。 家族や友人の存在もなくては孤独に押しつぶされてしまいます。 ほかにも必要なことが色々あると思いますが、今日はその中の1つについて考えてみたいと思います。 それは慰めです。 慰めという言葉を検索してみると、落ち込んでいる人の肩に手をかけて声をかけている画像が出てきます。 これがわたしたちの多くが持っている慰めのイメージではないでしょうか。 人はこのようにして肩に手を回して話を聞き慰めてくれる存在を必要としています。 みなさんには今話を聞き慰めてくれる方がいますか。 ご自身の隣にいるのは誰ですか。 少し考えながらこれからお話することを聞いてみてください。 [慰めについて] ではまず聖書における慰めとはどのようなものかを考えてみます。 慰めという言葉はギリシャ語ではパラクレシスと言いますが、これは本来戦いに際して、恐れや、不安で躊躇している兵士たちを勇気付けて戦いに送り出す時につかわれた言葉で、慰めのほかに励ますという意味もあります。 慰めと聞くと、落ち込んでいる人に共感して、背中を撫でながら「よしよし、大変だったね」と言ってくれるようなイメージが湧きますが、励ましとなると、片方の腕を肩にかけながら、もう片方の手で前方を指し示してくれるようなイメージが湧かないでしょうか。「大丈夫だ。あなたが生きる道はこの先にあるじゃないか。」と言ってくれるているようです。 聖書が言うパラクレシスは共感して慰めるだけではなく、励まし力をくれることです。 [コリント人への手紙 第二 1章4~5節] “神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。” この世で生きている限り、どんな人にも必ず苦難がやってきます。 そんなわたしたちにはパラクレシスが必要です。 慰めと励ましが必要なのです。 これがあればわたしたちは生きていけます。 どんな苦しみの時も乗り越えていけます。 神はそのパラクレシスを与えてくださる方なのです。 ところでこのパラクレシスとよく似た言葉でパラクレトスという言葉があります。 この2つは語源を同じくする言葉なのですが、パラクレトスとは助け主、聖霊を意味します。 つまり慰め励ます事と、聖霊とは密接な関係があるということです。 このことから聖霊はわたしたちを慰め励ましてくださる方だということができます。 さらにパラクレトスという単語を分解してみると、聖霊がどんな方なのか。そしてわたしたちをどのように慰め励ましてくれるのかがよりわかってきます。 パラは「そばに」という意味、クレオは「呼び出す」という意味がありますが、ここからそばに引きよせて肩に手を回して慰め励ましてくれる様子をイメージすることができます。 これが聖霊の私たちに対する接し方です。 冒頭でご説明した画像のように、すぐそばで同じ方向を向いて肩に手を回して慰めてくださる方です。 また聖霊はわたしたちの歩むべき道を指し示してくれます。 何を一番に見るべきなのかを教えてくれます。 「イエスキリストを見なさい。あの方が十字架にかかって血潮を流されたから、あなたは罪ゆるされたんじゃないか。復活されたから今のあなたの新しい命はあるんじゃないか。」 ということを何度も何度も繰り返し教えてくださるのです。 ある時は祈りの中でこの思いがあたえられることがあります。 また御言葉を黙想する中でこのことに気づかされることがあります。 また人から与えられる慰め励ましを通してこのことを教えられることがあります。 今苦難の中にいるという方には、聖霊による慰めと励ましを受け取って欲しいと思います。 そのためには祈りが必要でしょう。 また聖書の黙想も必要でしょう。 そしてキリストを信じている人たちからの言葉かけや献身、その背後に聖霊がおられるのだなという霊的な視点が必要です。 こういう生き方をしていれば、そうでない頃よりもはるかに良い人生を生きていけます。 聖霊から慰めと励ましをうけとってください。 そうすれば今度は苦しみの中にいる人をその受け取ったもので、慰め励ますことができるようになります。それが今日の1章4節の御言葉なのです。 [パウロの困難と受け取った慰め] この手紙を書いたパウロ自身も困難の中を生きた人でした。…

人に話すよりも神様に

聖書箇所:詩篇6篇 タイトル:人に話すよりも神様に クリスチャンは信仰を持ち神様と共に生きている人たちですが、それでも時に愚痴を言いたくなることもあります。 職場、学校、家庭、何処にいても悩みは尽きず、その中で私たちは苦しみ悩みます。 そしてその思いを、時に周囲の人々に愚痴という形でもらしてしまうのです。 しかしみなさん、もし人に愚痴をいうよりも、まず神様に聞いてもらう事を優先したら人生が変わると思いませんか。 今日の詩篇に登場するダビデは人よりもまず神さまに聞いてもらう事を優先した人でした。 今日は彼の祈りから共に教えられていきたいと思います。 [1節] “主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。” 詩篇6篇の著者であるダビデには、この時神に責められても仕方がないと思うような何かがあったのかもしれません。 自分のその何かに対して神さまからの怒りが今注がれているのだと思っているようです。 誰しも神の心に100パーセント合った人生を送れるわけではありません。 どんな人も失敗することはあります。 素晴らしい信仰者であったダビデも神に責められるような部分があったのでしょう。 それで今神に懲らしめられているのだと彼は思ってこの詩を書いているわけです。 神は間違った道に行く人をたしかに懲らしめられます。 しかし大事なのはそれで終わりではないということです。 懲らしめを通し、もう一度正しい道に戻し、回復を与え、倒れる前よりもさらに良い人生を与えられるのが神さまです。 イスラエルの民が神を捨てた時も、神は彼らを懲らしめバビロン帝国に滅ぼさせました。 しかし神はバビロンに連れていかれたイスラエルをそこでも守り導き、ついにはエルサレムに戻し国は復興しました。 神さまは懲らしめて終わりではありません。 神さまの目的はその出来事を通してわたしたちがもう一度神さまの大切さを思い出し、より深く神さまを知ることなのです。 [2〜3節] “主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。 私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。” ダビデはおそらくこの時何か病を患っていたのではないでしょうか。 どんな病かはわかりませんが、いやしてくださいとお祈りしています。 いやされないといけない状態にダビデはあったのしょう。 では「骨が恐れおののく」とは一体どんな状態でしょうか。 骨自体は恐れを感じることができませんが、ダビデは自分の体全体をささえる骨が恐れているということによって、全身が恐れに包まれている様子を表現したかったのではないでしょうか。 さらに体だけではなく、「魂」も恐れていると3節には記されています。 ここからダビデは心も体も恐怖に包まれていたことがわかります。 また、3節の最後は、「主よ。いつまでですか。あなたは。」となっています。 この箇所は祈りが途中で途切れているような書き方がされています。 宗教改革者のジャンカルヴァンはこの箇所について次のように言っています。 「この祈りが不完全で途中で終わっていること自体が、彼の心だけでなく、喉をもおさえつけている悲哀の激しさをよりよくあらわしている。悲しみが祈りの中途で言葉をつまらせ、消え果てさせてしまうのである。」 つまりダビデはあえてこのような書き方で、辛い中で祈った時のことを表現しようとしているということでしょう。 みなさんは、祈っている途中に言葉がつまる経験をされたことはないでしょうか。 今目の前にある問題が自分にとってあまりに大きいので、祈っても途中で言葉が途切れてしまう経験です。 ダビデもそういう状況にあったのかもしれません。 それを正直にわたしたちにも教えてくれているのです。 いつも深く長く祈ることができるわけではありません。 祈らなければいけないとわかっていてもそれがうまくいかないこともあるのです。 ダビデの祈りはそんな人間の弱さも教えてくれているようです。 そして祈りの内容を見てみると、「いつまでですか。」となっています。 みなさんは「いつまでですか。」と祈られたことがありますか。 あるいは「いつまでこんな生活続けるんだろう」と思ったことはないですか。 「いつまでですか」という言葉は、本当に今の生活が苦しくてどうしようもなくて逃げ出したいけど逃げられない。 そういう中で出てくる言葉ではないでしょうか。 ダビデもここで「いつまでですか」と言って、「自分はすでに限界まで我慢した。もうたくさんだ。」という思いを表現しているのではないでしょうか。 [4〜7節] “帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。 死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。 私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。…