この一年を振り返る時

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:イザヤ書43章1~4節 タイトル:この一年を振り返る時 私たちは日々評価を受けながら生きています。 ひょっとすると直接目の前にいる人に「あなたはああだ、こうだ」と悪い評価をされたことがある方もおられるかもしれません。 また直接言われなくても、「私は今この人に悪い評価を下されているのではないか。」と思うことがあると思います。 そんなときどんな思いになるでしょうか。 自分の中で自分の存在価値が落ちていくような思いにならないでしょうか。 そしてその人の声はいつの間にか自分自身の声に変わって絶えず心の中で自分自身に悪い評価を下し続けているかもしれません。 私たちはこういう評価を日々受けながら生きています。 2019年もそういうことがあったでしょう。 しかし是非心に留めてください。 どんな者もおとしめることができず、ケチをつけられないところで私たちを価値あるものだと言ってくださる方がいます!と。 その方は、「私の目には」「あなたは高価で尊い」と言われます。 人の目にどのようにうつるかに関係なく、私の目には高価で尊いのだと言われます。 「私」とは一体誰でしょうか。 それはこの世界をつくり私たち一人一人をつくられた神様のことです。 私たちの創造主が言われるのです。 人に何かを言われた時こそ、あるいは自分の心の中の声が自分自身をおとしめる時こそ、このことを思い出したいと思います。 何かができるから尊いのではありません。 主が尊いと言われるから尊いのです。 43章1節にはこう記されています。 「‥あなたをつくりだした方、主はこう仰せられる。‥あなたを形づくった方。主はこう仰せられる。」 まず「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言われるこの主に心を向けて今年一年を終えたいと思います。 それこそわたしたちが世の声に負けない力、自分自身の声に負けない力だからです。 自分のことを尊いと思えないと人に優しくできませんし、自分にも優しくなれません。 人を責め、自分を責める。 そんな負のスパイラルに陥ってしまいます。 しかし自分の尊さを知っている人は、人を受け止めてあげることができます。自分が不甲斐ないと思えるような時でも、そんな自分を受け止めることができます。 聖書を読むことと祈ることは重要だとよく聞かれると思いますが、人の声や自分の声に負けないためにはどうしても必要なものです。 それによってわたしたちは神の声を聞くことができるからです。 神の声を聞かなければ、わたしたちは自分の声と他人の声で心を支配されてしまいます。 水谷潔という牧師さんが書いた「悪魔の格言」という本の中にこんな言葉が書かれてありました。 「クリスチャンが神様を見ない時、その視線はどこに向かうでしょうか。向かう先は、神なき世の中、自分以外の誰か、そして、自分自身。自分があるがままで受け入れられ、愛されていることを思えば、自分の欠点や失敗はあまり問題でなくなり、人と比較することからも解放されてゆくもの。「誰を最優先に見るか」それが人の歩みを決めます。」 またこの本は少し変わった視点で書かれている本で悪魔の側に立って書かれてある部分があります。 そこには、こう書いてあります。 「おい、おい、クリスチャンが神を見ず、他ばかり見てどうするの?まあ、こっちはありがたいけどね~。」 そして同じページにはこんな短歌もありました。 「神を見ず、世を見て、人見て、自分見て」 今年一年、わたしたちはどんな歩みをしてきたでしょうか。 この本の悪魔が言うように、神を見ず、世を見て、人を見て、自分を見る。 そんな歩みをしてきたのでしょうか。 それとも神に視線を送り続け神の声に耳を傾けて来られたでしょうか。 今一度振り返る時間を持っていただけたらと思います。 スマフォの予定表や手帳を開けば今年あったことが思い出されるのではないでしょうか。 その中には今も鮮明に覚えていることもあるかもしれませんが、記憶から抜け落ちているものもあると思います。 そういう出来事を一つ一つ思い出しながら、その時どのように乗り越えていったのかをもう一度思い出してみてください。 中には思い出すのも嫌だという出来事もあるかもしれません。 そういう出来事を見つけたら、まだ生傷の状態で残っているということです。 そういうタイプの傷は放っておくと、どんどん心の深いところまで沈んでいきます。そうすると傷は見えなくなりますが、性格や考え方に悪い影響を与えるものになっていきます。 これは健全な乗り越え方ではありません。 ただ誤魔化しているだけです。 みなさんには是非健全な乗り越え方をしていっていただきたいのです。 普段は忙しくて一つ一つ確認していたら何も出来ないという方もいらっしゃるかもしれませんが、この年末年始ではそういう時間を一度持ってみてください。 そして心に引っかかる出来事を見つけたら、その時に神さまとの対話がしっかり持たれていたのか確認してみてください。…

闇を照らす光イエスキリスト

 クリスマス礼拝メッセージ  聖書箇所:ルカの福音書2章1~16節  タイトル:闇を照らす光イエスキリスト クリスマスの時期になると街中ではクリスマスソングが聞こえてきたり、お店にはクリスマスを意識した飾り付けがなされます。 パーティーを企画してみんなで盛り上がる人もいるでしょう。 子どもたちはプレゼントを心待ちにしています。 クリスマスは特別な時を味わうことができます。 クリスマスを彩るイルミネーションや数々の催しの中にいる人たちにとって、この時期はとても楽しくウキウキするものと言えるかもしれません。 しかし共に食卓を囲む幸せそうな家の隣では、体をわるくした人が誰にも看病されることもなく一人ぼっちで過ごしているということもあります。 さらに他の家では、ひもじい思いをしながら親の帰りを待つ子どもがいます。 クリスマスはクリスチャンでない人にとっても素晴らしい時です。 しかしそれが楽しければ楽しいほど、それが美しく素晴らしければ素晴らしいほど、それを受け取ることのできない人々の現実はいつも以上にくっきりと浮かび上がってくるようです。 スポットライトを浴びている人の横に影がくっきり現れる様子と似ているかもしれません。 “そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。” ルカの福音書 2章1~2節 今日の聖書の最初1節、2節に登場するのはローマ皇帝の名前や、ローマ帝国の中のシリア地方を管轄していた総督の名前です。 この人たちこそ当時スポットライトを浴びていた人たちです。 一方影に追いやられている人たちもいました。 当時ローマ帝国に支配され押さえつけられていたイスラエルという国です。 3節以降は支配されていたこのイスラエルの側のお話になります。 当時この国はローマ帝国から課せられる多額の税金に苦しんでいました。 住民登録が行われたのも税金の徴収を徹底するためです。 町のいたるところにローマの軍人が駐屯している状態でした。 イスラエルの人々は当時非常に暗い時代を生きていました。 その中に聖霊によって身ごもったマリアとその夫のヨセフもいました。 二人はこの時ナザレという田舎町に住んでいました。この町はイスラエルの中でもさらに人々から無視されていた地域でした。 マリアとヨセフは、ローマの命令のために、このナザレからヨセフの家系のルーツであるベツレヘムという町に行かなければいけませんでした。 ナザレからベツレヘムまではだいたい115キロから120キロ、高低差が400メートルあります。 身重のマリアはおそらくロバか何かに乗せての移動だったと思います。夫のヨセフは細心の注意を払いながらゆっくり歩いたでしょう。そうすると少なくとも一週間はかかる距離です。 120キロも歩いたことがないのでピンと来ませんが、直線距離で大阪から岐阜に入ったあたりまでの距離です。 ヨセフとマリアはこの距離を移動しなくてはいけませんでした。 自分たちの国を支配しているローマ帝国の皇帝の命令のためでした。 一週間二人は大変な思いをしたことでしょう。そしてやっとのことでベツレヘムに到着します。 しかし住民登録のために多くの人たちが集まっていたのか、宿屋がどこも満室でした。 それで仕方なく家畜小屋に向かいます。 家畜小屋といっても私たちが想像する木で出来た小さな小屋ではなく、洞窟のようなところだったと言われていますが、そこでマリアは出産することになりました。 そして出産した後は子どもを寝かせるベッドも布団もないので、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。 飼い葉桶も木でできたものではななく、石でできたとても冷たいものでした。家畜が餌を食べるお皿のようなものなので、ヨダレも染み込んだ大変汚いものでした。 マリアは出産というただでさえ大変な出来事を洞窟の中で行わなければいけませんでした。 7節にも書かれてある通り、彼らには居場所がなかったのです。 しかしそんな居場所のなかった彼らのもとにこの世を救う神の御子がおくられました。 闇の中で苦しみながらひっそりと生きていたマリア、そしてヨセフのもとに本当の光が現れた瞬間でした。 今日の聖書には他にもこの社会に居場所がなかった人たちが登場しました。 それは羊飼いです。 寒空の下、何の光もない夜の闇を羊を連れて彼らは野宿をしていました。 現在は羊飼いという仕事に偏見を持つことはないと思いますが、当時羊飼いという仕事は大変卑しい仕事として知られていました。 彼らは羊を守るためにいつやってくるかもわからない狼や野犬を警戒しながら番をしなくてはいけませんでした。それは昼夜を問わず続けられます。 日が沈むと冷え込むので、温まるために羊に体を寄せて寝ていたようですが、そうすると羊の毛についた汚れや匂いや虫が体についてしまいます。ですから彼らの服は動物の匂いが染み込み虫もついた大変汚い服だったようです。 このようにとても大変な思いをして仕事をしていた彼らでしたが、あまりお金にはならず、いつもギリギリの暮らしでした。 さらに仕事の性質上、礼拝に出ることもできません。 ユダヤ人たちにとって礼拝は非常に大切なもので彼らのアイデンティティといっても良いものです。 それに参加しない羊飼いということでも見下されていたようです。 彼らは、経済的にも宗教的にも差別されていた人たちだったのです。 しかしそんな羊飼いたちの元に、ある夜良き知らせが伝えられるのです。…

神に恵みを受けた人の人生

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ルカ福音書1章26~38節 タイトル:神に恵みを受けた人の人生 聖書には「恵み」という言葉が何度も登場します。 みなさんはこの「恵み」という言葉にどのような印象をお持ちでしょうか。 そして恵みはどのように受け取っていくものなのでしょうか。 今日は天使に「恵まれた方。」と呼ばれたマリアのお話を通してこのことを考えてみたいと思います。 マリアの住んでいたナザレという町は、エルサレムから140キロほど北にある小さな町でした。考古学的見地から400人ほどの人口だったと言われていますので、おそらくその中の多くの人がマリアのことやその婚約のことを知っていたことでしょう。 また当時は12、13歳で結婚するものでしたので、マリアもおそらくそれぐらいの年だっただろうと思います。まだあどけなさの残る少女でした。 そんな彼女のもとに祭司ザカリヤが神殿の中で出会った天使ガブリエルがあらわれます。 “ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。” ルカの福音書 1章26~29節 「おめでとう。」と書かれていますが、これはギリシャ語で「カイロウ」といって、当時一般に用いられていた挨拶です。現代の言葉に言いかえれば「こんにちは」になります。 ですからこの言葉にマリアは戸惑ったのではありません。 そのあとの言葉「恵まれた方、主があなたとともにおられます。」という言葉に彼女は戸惑い何のあいさつかと考え込んだのです。 考えこんだというところが祭司ザカリヤとは違うところでした。 ザカリヤはガブリエルの姿をみてただ恐れるだけでした。そしてその言葉を拒絶しました。 しかしマリアはまず考え込んだのです。 つまりこの言葉を思い巡らしたということです。 “すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。” ルカの福音書 1章30~31節 「怖がる事はない」と書かれてありますので、マリアも少なからず恐れを抱いていたことがわかります。 しかし彼女の心は戸惑いながらも天使ガブリエルの言葉を思い巡らしていました。 そんなマリアにガブリエルは続けて語ります。 「マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」 神から恵みを受けたというのは、神から「あなたの人生は幸せな人生だ」という太鼓判を与えられたようなものです。 しかしその後に続く言葉は当時のマリアには決して幸せだと思えるものではありませんでした。 「あなたはみごもって男の子を生む」と言われたからです。 これはマリアにとってうれしいことではありませんでした。 むしろ彼女の人生の中で最も大きな危機に見舞われる知らせだったのです。 彼女はすでにヨセフのいいなずけでした。 これは婚約関係にあったことを意味します。 イスラエルでは婚約した二人は1年間離れて暮らし結婚準備をしますが、この間も実質結婚関係にあるものと見られました。 この期間に婚約者の知らぬところで子どもを身ごもったとなれば、旧約聖書の申命記22章23、24節に記されている御言葉に該当することになります。 “ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。” 申命記 22章23~24節 マリアはこの後聖霊によってイエスキリストをみごもるわけですが、ナザレの町の人々からするとこの御言葉で対処しなくてはいけない出来事になってしまうのです。 だからマリアにとって身ごもることは喜ばしいことではありませんでした。 しかし天使ガブリエルはマリアに向かって「あなたは神から恵みを受けたのです」と言うのです。 神からの恵みというものが私たち人間の側の喜びと同じではないことがわかるところです。 この時のマリアは自分が石で打ち殺される可能性を考えなくてはいけませんでした。 婚約者のヨセフがマリアの不貞を訴え出れば石打ちの刑にかけられてしまうのです。 私たちはこの時から2000年後の未来にいてマリアの夫であるヨセフが神から言葉をいただいて信じマリアとイエスを受け入れたことを知っています。 しかしこの時のマリアにとっては現在進行形の出来事であり、これから先に起こる大きな試練の幕開けの合図だったのです。 彼女はこれまでに石打ちの刑にあって殺された人たちを見たことがあったかもしれません。少なくとも話には聞いていたはずです。 同じ町の誰かが町民の手によって石打ちの刑にされたことを聞いたことがあったでしょう。 当時を生きていたマリアにとってこれは非常に現実味のあることでした。 ヨセフとの結婚を静かに待っていた田舎町の少女は突如としてどん底の状況に突き落とされたのです。 しかし天使ガブリエルはあなたは恵みを受けたのだと言うのです。 恵みとは一体なんでしょう。 どのようにして受け取っていくものなのでしょうか。…

私たちの思いと神のご計画

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ルカ福音書1章5~17節 タイトル:私たちの思いと神のご計画 今日からアドベントの第二週目になります。 今日はルカ福音書から共に恵みを分かち合いたいと思います。 私たちはこうして今日も主日の礼拝を守り真面目に信仰生活をしているクリスチャンです。 最善を尽くし主の前に祈り御言葉を日々いただきながら暮らしておられることと思います。 しかし私たちのこの歩みの中に暗い影を落とすような出来事は何一つないかと言われるとそうではないと思います。 真面目に信仰生活をしていても問題が起きることがあります。 今日はこのような出来事を「しかし」の出来事としたいと思いますが、私たちはこの「しかし」の出来事に出会うと信仰生活の意味を意識的にあるいは無意識に問い始めます。 中には祈ることに疑問を感じたり、御言葉への信頼の揺らぎなどが起こる方もいるかもしれません。 あの人は神に祈りを聞いてもらえるのかもしれないけど、私の祈りは聞いてもらえないという思いなどもこのことに含まれるでしょう。 しかしそれでも私たちは主日の礼拝に参席し共に祈り共に賛美し共に聖書を開きます。 このことは今日登場するザカリヤとエリサベツと重なるところだと私は思います。 彼らにもこの「しかし」の出来事がありました。 それにもかかわらず彼らは主の前に真実に歩み続け祝福された人生を送りました。 とするならば私たちの人生もまた彼らのような祝福されたものであるはずです。 今日はそのことを共に確認します。 “ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。” ルカの福音書 1章5節 ザカリヤという名前は(主は覚えている)という意味です。 彼はアビヤの組に属する祭司でした。 この組分けについては歴代誌Ⅰ24章10節に登場します。 具体的には神殿の奉仕の組分けです。 全部で24ある組の8番目にあたるのがこのアビヤの組でした。 エリサベツは(神は誓いである)という意味です。 彼女はアロンの子孫です。 時々聖書の登場人物の名前についてメッセージの中で解説をしますが、名前の意味にあまり興味がわかない方もおられるかもしれないので少し説明させて下さい。 聖書の中に登場する名前には啓示的側面があります。 例えば、アブラハムは最初はアブラムで(父は高められる)という意味の名前でした。しかし神はアブラムにアブラハムという(多くの国民の父)という名前を与えられました。 そしてこの名前の通りに彼は多くの国民の父となりました。 聖書の登場人物の名前には神の計画が込められているのです。 これが今日の聖書でも意味を説明する理由です。 ザカリヤは(主は覚えている)という意味、エリサベツは(神は誓い)という意味でした。 ここから主は覚えておられる方だということと、誓いの方であることがわかります。 誓いとは将来ある出来事を必ず成し遂げることを約束することです。神は約束をしてくださりそれを絶対に忘れず覚えておられ必ず成し遂げられる方だという意味がザカリヤとエリサベツの名前には込められていると言えます。 そしてそのことが表されるストーリーがこの後展開されていきます。 “ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。” ルカの福音書 1章6~7節 ここにはザカリヤもエリサベツも正しく主の掟を守る人だったと書かれています。 この時ユダヤはローマ帝国に支配され、しかもその支配地域に王として立てられていたヘロデはエドム出身の人でした。 ユダヤ人たちにとってとても暗い時代だったと言えます。 しかしそんな中でも誠実に主の言葉を聞き、守ろうとした人たちがザカリヤとエリサベツでした。 それなのに彼らには子どもが与えられていなかったと7節には記されています。 主の言葉を聞き守っていた。 「だから」子どもがたくさん与えられたと記されていれば理解しやすいのですが、ここには「だから」で繋がる言葉はこないで「しかし」で繋がる言葉がきています。 しかしエリサベツは不妊で子どもがなかったというのです。 (口語訳では「ところが」という接続詞が入っています。英語のNASBという聖書にもButという言葉が入っています。) こうなると途端に理解が追いつかなくなりませんか。 しかも現在は二人とも年老いているといいます。 これはもう妊娠がのぞめる年齢ではないということです。 “「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」” ルカの福音書 1章25節 これは後のエリサベツの言葉ですが、この言葉から当時子どもが出来ないのは女性にとって恥であったことがうかがえます。…

裁きを待たれる主

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ヨハネの黙示録7章1~8節 タイトル:裁きを待たれる主 私たちは普段生活していると見えるものだけで判断し行動しようとしてしまうものです。そしてその結果失敗したり落ち込んだりすることもあります。 しかし聖書を読むと目に見えることが全てではないということがわかります。いやむしろ目に見えないことの方が実は重要なのだという思いにも導かれていきます。 今日の聖書も私たちの肉眼では見えない出来事が記されていますが、確かに起きていることです。 今日はそのことに目を注いでみたいと思います。 今日の聖書は終末における神のしもべたちの様子について記されています。 どうして終末について見ようと考えたかというと、今日から始まるアドベントと関係しています。 アドベント(Advent)とはラテン語Adventusが語源でその意味は来臨、到来です。 来臨、到来にはさらに二重の意味があります。 一つは旧約聖書で約束されていた救い主、メシアが世に来られることです。この第一の到来を祝うのがクリスマスです。アドベントはこの第一の到来を想いその意味を黙想しつつクリスマスの準備をする時だと言えます。 そしてもう一つは、天に昇られたメシアが再びこの地に来られることです。この出来事はこれから起きることです。アドベントはこの第二の到来を待ち望みつつ備える日でもあります。 今日はこの二つ目のメシアが再び来られることを待ち望むことについて語るために以前黙示録を6章まで見ていたことも鑑みて7章を見ようと思います。 “この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。” ヨハネの黙示録 7章1節 ここで風と言われるのは神の最後の審判のことです。 神の審判を表す風を四人の御使いたちが押さえることで地と海が守られている様子が記されています。 四人の御使いや、地の四隅、そして地の四方の風など4という数字が何度も出てきましたが、これは被造物あるいはこの世界を象徴する数字です。 このことから地と海とはこの世界のことだと言えます。 この世界ですので、私たち人間もこの中に含まれています。 今この世界があるのは、御使いがその裁きの風を押さえているからというわけです。 これが目に見えない世界で起きていることなのです。 では続いて2節3節を読みます。 “また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」” ヨハネの黙示録 7章2~3節 他の御使いがこの審判を行う四人の御使いに大きな声で命令します。 「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」 この御言葉から、神の最後の審判がまだ執行されないのは、神の主権によるところであることがわかります。 まだ神のご計画された人たちが救われていないので、その数が満ちるまで神は最後の審判を執行されないということを示しています。 印とは印鑑のことです。 古代の中東の印鑑、特に王様の印鑑は指輪と一体でした。 ヨハネが見た印鑑もそのようなものではなかったででしょうか。 印鑑は①所有権と②保護を意味します。 手紙などの封に判を押すことがありますね。 映画なので見たこともある方もいるのではないでしょうか。 封筒の封の部分にとけたロウを垂らして、その上から印をつくことで厳重に封がされます。 また③事実の証明のためにも印は用います。書類の最後にハンコをおすことをイメージしていただけたら良いと思います。 神に印をおしてもらうということは、これら三つの意味があります。 神の所有であることと、神の守りを受けるということと、そのことの証明のしるしなのです。 エゼキエル9章4~6節には、神様がバビロンを使ってエルサレムを審判された時に、額に印のついた者だけがその審判から逃れられるという記述があります。 そのことを背景にして黙示録でも最後の審判について語られているのです。 続いて4~8節を読みます。 “それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、 アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、 シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、 ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。” ヨハネの黙示録 7章4~8節 4節には印を押されたものの数が記されています。 この数は黙示録14章と合わせて見ると意味がわかるところです。 “彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。” ヨハネの黙示録 14章3節 ここには地上から贖われた14万4千人と記されています。…

第1問 人の主な目的

第1問 人の主な目的問: 人の主な目的は何ですか。答: 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。 Q. 1. What is the chief end of man? A. Man’s chief end is to glorify God, and to enjoy him forever.   これはウェストミンスター小教理問答の最初の問いです。人の「主な」目的が何かを問うています。どうして最初にこの問いがおかれたのでしょうか。それは本格的な内容に入る前に前提をしっかりさせるためです。 これから歩いていく道があるとして、この問いと答えはその歩いていく方向を示してくれるものです。どれほど必死になって道を歩いたとしても逆方向へと歩けば、歩いた分だけ無駄になってしまいます。それを防ぐための問いなのです。 「人の主な目的は何か?」という問いを別の言葉で言いかえるなら「あなたはどうして生きるのか?」となります。この問いは人の存在価値とアイデンティティを見出すことができるようにする重要なものと言えるのでしょう。   <問について> ではこれから問いを詳しくみていきます。この問いには人には「目的」というものがあるという「前提」が隠れています。「本当に人には目的が必要なのか?」「ただなんとなく生きたらいいだろ?」このような疑問をもつ人もいることでしょう。しかし「人には目的がある」という前提を受け入れないと次の段階へ歩を進めることはできません。小教理問答は、目的があればこそ存在する意味があるという前提の上に立っているのです。 ✩以下に相反する2つの見解があります。 ① 聖書a見解 絶対的真理は存在する。b目的 神によってつくられた他の被造物よりも特別な目的と理由があってつくられた。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道の書12:13)c特徴 絶対的な人生の目的があればその人生には価値がある。 →生きる目的があればこそ、その人生には意味があるといえます。目的がなければ今日を生き生きと生きる根拠もなく、結局虚無感に落ちていくしかありません。人は神によってつくられたときに他の被造物とは違う特別な目的と理由が与えられたとするのが聖書の教えです。私たちはその目的に合わせて、真理を追求して生きていくのです。旧約聖書の伝道者の書には「人の本分」と表現されています。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道の書12:13)。この目的がわからないと、「空の空、空の空、いっさいは空である」(伝道の書1:2)というように、すべての事が一時的で虚しいものになってしまいます。 ② 無神論・唯物論a見解 絶対的真理はない。世はただ存在しているだけ。b目的人生の目的は誰かがくれるものではなく、自分が探すものだ。自分の立場からもっともよいものを探すことが目的だ。自分の人生は自分のもの。自分の幸せと満足のためのもの。c特徴 自分と他の人が違うように存在の目的もちがう。 →この見解は神などいないと考え存在自体に意味があると主張するものです。つまり人には与えられた目的などないという見解です。この立場の人にとって人生の目的とは誰かがくれるものではなく、自分が探すものです。彼らは自分の幸福と満足を追求します。彼らにとっては自分が一番良いと思うものを探し出すことこそ人生の目的なのです。この考えはどのような結果をもたらすでしょうか。自分にとって良いものだけを探すのだから、自分が好きなものと他の人が好きなものが違うように、存在の目的も人によって違うという相対主義へとつながっていきます。相対主義の人からすれば絶対的な真理など存在しません。自分が考える最善こそが真理となるのです。すなわち世の人々が各々自分だけの真理を持っているということになります。   問には「人の主な目的は何ですか」と記されていますが、どうして「主な(chief )」という言葉が含まれているのでしょうか?人が生きていく上で持つべき最も重要な目的、人生で追求すべき最善で最高のものを意味する言葉として「主な」という言葉が記されています。わたしたちが得ることのできる他の目的よりも優先され、究極的で、主要な目的があるということを表現するための言葉です。   <答について> 第一問の答えには「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあります。 これは①神の栄光をあらわすことと、②神を永遠に喜ぶことの二つに分けることができます。   ①神の栄光をあらわすこと(コリントⅠ10:31、ローマ書11:36) 「神の栄光をあらわす」とは自分の人生の全領域において神を証ししあらわしていくことです。 私という存在、命、思考、言動など、すべてにおいてその根拠を神におき、神をみとめることです。 また神が喜ばれることは何なのかを最優先にすることです。 これは神が自分の創造主だということを万物をとおして認識し、被造物として自分の創造主である神をみとめ、ただその御名だけを呼び、賛美し、感謝し、その方だけを愛し、その御心に従うことです。 これは何をするにしても神をみとめ恐れ敬うことを意味します。 息をすること、食べること、寝ること、仕事をすること。 それら全ては神の恵みがあってこそ可能なのだと認めることです。   この答の特徴は関心事の中心が神だということです。  …

小教理問答について

 ウェストミンスター小教理問答は、17世紀のイギリスの清教徒たちによって作られた信仰問答です。「契約」という言葉を手がかりに聖書全体を教えようとした信仰問答といえます。信仰問答の中でも聖書を体系的に説明することに重点をおいたものです。したがって時代が変わっても聖書を学ぶ助けとなってくれるはずです。  数年前まで荒野教会では主日の午後礼拝でこのウェストミンスター小教理問答の学びをしていました。今回その時の原稿を整理しホームページにあげることにしました。韓国の出版社から出ている「特講小教理問答(특강 소요리문답)」という本を翻訳しながら少しずつ講義をしました。読みづらい点もあるかと思いますが何かの参考になれば幸いです。

主は私の羊飼い

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇23篇1~4節 タイトル:主は私の羊飼い  今日は詩篇23篇を共に見ます。  詩篇23篇といえば、羊飼いの詩篇だとわかる人も多い非常に有名な詩篇です。 これをもとにした賛美もあります。 クリスチャンにとって非常に馴染み深い詩篇です。 今日はこの詩篇23篇を見ていきます。 “主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。” 詩篇 23篇1節 まず1節において、この詩篇の記者であるダビデはいいます。 「主はわたしの羊飼い」 いわゆる隠喩法というものを使って主とはどういう方なのかを表現している箇所です。 隠喩とは「~のようだ」という言葉を使わずに、別のものに置き換えて表現する方法です。 主がわたしの羊飼い「のようだ」ではなく、主はわたしの羊飼い「だ」ということです。 ダビデはこの詩の最初で強いインパクトを与えています。 ただこの呼び方はダビデが最初にしたわけではありません。 “彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。” 創世記 48章15節 このように創世記で既にヤコブが語っています。 これ以降イスラエルの民にとって主は「私たちの」羊飼いでした。 イスラエルの共同体にとっての羊飼いということです。 しかし今日の詩篇23篇においては、主は「私の」羊飼いとダビデはいいます。 これまでは共同体の公的な羊飼いでしたが、ダビデは個人的な関係を強調する書き方をして主との親密さを表現しているようです。 ダビデはもともと羊飼いでした。 羊飼いが羊のことをどれほど心にかけ守り導くのかを彼は体験としてよく知っていました。 羊飼いと羊がどれほど親密な関係なのかもわかっていたのです。 自分が以前羊飼いだったころに、羊を守り導いたように、主はわたしを守り導いてくださっているという告白なのです。 羊飼いは多くの羊を飼いますが、1匹1匹の顔と性格を把握しているのでしょう。 そんな羊飼いはそれぞれの羊たちにとってわたしたちの羊飼いであると同時にわたしの羊飼いなのです。 羊飼いと1匹1匹の羊が親密なように、神と自分も親密なのだとダビデは言いたいのだと思います。 また、自分が羊だという告白は、自分が羊のように守り導かれないといけない弱い存在だということの告白でもありました。 神なしで自分は生きてはいけない存在だということです。 ここには自分の弱さ足りなさへの気づきが土台にあります。 自分自身の中に何かまだ可能性を探していると、自分が羊などとはとても言えません。 しかしダビデはそれに気づかされてこのような詩篇を書くに至りました。 このような信仰を持つ人は幸いです。 つづいて1節の後半部分を見ます。 ここでは「わたしは乏しいことがありません。」と語ります。 自分が羊であるという告白は、同時に自分が乏しい存在だという告白でもあります。 ではなぜダビデは乏しいことがないと言えたのでしょうか。 それは主がわたしの羊飼いだからです。 自分は乏しい者かもしれません。 しかし主が共におられるから乏しくないという信仰告白なのです。 “事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」” 申命記 2章7節 申命記では荒野の40年間を、主が全て満たしてくださり、何も足りないものはなかったといいます。 彼らが何一つかけたものはなかったと言えたのは、主が40年間ともにおられたことによります。 乏しいことがないというのは、わたしたちが欲しいものを全部くれるという意味ではありません。 わたしたちの願い通りになるという意味ではありません。 時に「どうして」と思うようなことや、なんと情けなく弱く乏しい存在なのかといたたまれなくなることすらあるかもしれません。 しかしその乏しさすらも主が共におられることで、満たされていくのです。 乏しいことがないとは、主が共におられることなのです。 主が共におられること以上の満足はありません。 その満たしはこの世のどんなものも与えることのできないものです。…

私の望む神と真実の神

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き14章8~22節 タイトル:私の望む神と真実の神 パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケを去った後、イコニオムへ行き、そこからルステラという町に来ました。 そこの住民は特にある神々を信じていました。 それはギリシャ神話に登場するゼウスとヘルメスです。 ゼウスは、神々の王であり、天候、特に雷を司る天空神です。 ヘルメスは神々の伝令役で、ことばの指導者、雄弁の神とも言われていました。ゼウスの子で忠実な部下とされています。 ルステラの人たちはこれらの神々に大変関心を持ち崇拝していました。 そのきっかけとなったと考えられるのが、昔この地にいた農夫に起こった出来事だと言われています。 ピレモン・バウキスというこの農夫は、ある日ゼウスとヘルメスがルステラを訪れた際にそれとは知らずに二人をもてなし、その親切の報いを受けたそうです。(もちろんこれはただの伝説、作り話です。) この話を伝え聞いていたルステラの人々は、いつかまたゼウスとヘルメスがやって来るのではないかと思って暮らしていたのかもしれません。 そんな町にパウロとバルナバがやってきたのです。 彼らはいつも通り福音を語って聞かせました。 その話を聞いている人の中にすでに信仰を持つものが現れたのを見てとったパウロは、足の不自由なその者に言いました。 「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」 この言葉を聞くと生まれて一度も立ったことがないにもかかわらず、その足で立ち上がりました。 彼はパウロの語る言葉によって信仰を与えられ、その信仰によって救われました。 彼はおそらくこの後パウロの弟子となったのではないでしょうか。 しかしこの出来事は、この後起きる事件の大きな引き金となっていきます。 その事件とは、癒しの奇跡を見た人がパウロとバルナバをヘルメスとゼウスが人間となった姿と誤解したことです。 町の人々は奇跡を見て大変驚きました。 そして以前この町の農夫に起きた出来事が今自分たちにも起きているのだと信じ興奮したのかもしれません。 11節に彼らが声を張り上げて「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ」と言ったとありますが、その言葉が公用語であるギリシャ語ではなく、地元の言葉であるルカオニヤ語であったと記されていることからも、彼らが非常に驚き興奮している様子がうかがえます。 感情が高ぶると本来の自分の国の言葉が出るものです。 ギリシャ語ではないためパウロもバルナバも彼らが何を言っているのかわからなかったはずです。 きっと奇跡に驚いているだけだと思ったことでしょう。 まさか自分たちがギリシャ神話に登場するゼウスとヘルメスに祭り上げられているとは思いもよらなかったことでしょう。 しかし騒ぎはおさまるどころかどんどん大きくなっていきます。 そして誰が言いつけたのか、ゼウス神殿の祭司にまでこのことが知れ渡り、なんと雄牛数頭と花飾りを持ってきてパウロとバルナバに捧げようとしたのです。 起きている事態をようやく把握したバルナバとパウロは衣を裂いて群衆の中に駆け込み叫びました。 衣をさくのはユダヤ人たちの憤りや神への恐れを表現するものです。 そして衣を裂いた状態のまま語り出します。 15節以下に彼らの言葉が記されていますのでそれをともに確認したいのですが、その前に一つ質問です。 この町の人々やゼウス神殿の祭司たちは、自分たちが雄牛や花飾りを準備することでパウロやバルナバがどういう反応をすると思っていたでしょう。 彼らはバルナバとパウロのことをゼウスとヘルメスだと思っているので、当然喜ぶと思っているはずなのです。 「よく気づいたな人間たちよ。そうだ私こそゼウスである。私はヘルメスである。」 という具合に自分の正体を現して、人間たちはひざまずいて崇めることになるのだろうと。 それなのにバルナバとパウロは自分の服を破りながら群衆に突っ込んで来るわけです。 ユダヤ人たちにとって服を破ることは、憤りと神への恐れを表す行動ですが、この地域の人々にもそのような文化があったかわかりません。 もしなかったとするとさらに彼らは驚いたことでしょう。 「喜んでもらえると思ったのに、一体なぜこの方達は自分の服を裂いているのか。」 そう思ったのではないでしょうか。 そういうかなり無茶苦茶な状況なのだということを押さえた上で、15節から18節まで読みます。 “言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」 こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。” 使徒の働き 14章15~18節 パウロとバルナバはここでまず二つのことを伝えています。 一つは、自分たちのことをゼウスとヘルメスだと思っている人々に対して自分たちが人間であると伝えたことです。 そしてもう一つは「このようなむなしいことを捨てて」と言っているように、ゼウスやヘルメスのような偽物の神々を崇めることが虚しいことだといったことです。 さらに彼らは続けざまに語ります。 「天と地と海とその中にある全てのものをおつくりになった生ける神に立ち返るように」 聖書では偽物の神と対比される文脈でよく出て来る言葉に「生ける神」という言葉があります。…

神の国と自分の国

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き13章42~52節 タイトル:神の国と自分の国 パウロたちは、ピシデヤのアンテオケの会堂で福音を語りました。 すると13章42節に記されているようにパウロの話を聞いた人々が次の安息日にも同じことについて語って欲しいと頼みました。 そこでパウロは次の安息日にも会堂へ足を運びました。 するとそこには町中の人たちが集まっていました。 前回パウロの話を聞いた人々が、その後の一週間で自分たちの家族や親戚や友人そして近所の人々に伝えたのでしょう。 しかしここで問題が起こります。 “次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。 しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。” 使徒の働き 13章44~45節 パウロは前回と同じ内容を語ってくれと言われたので今回も同じように語ったはずです。 前回はこれで多くの人が驚き喜びました。 今回も新たにやってきた人たちの中に同じ反応を示した人たちがいたことでしょう。 しかし全く逆の反応をした人もいました。 45節に登場するユダヤ人たちです。 彼らはパウロの話に反対して、口汚くののしりました。 今日はここから神の国に生きる人と自分の国に生きる人に分けてお話ししたいと思います。 1 まず神の国に生きる人についてです。 今日の箇所で神の国に生きているのはパウロとバルナバです。 彼らはただ神のご命令に従い、神の御言葉の通りに行動しています。 神の国の王様である神さまの言葉を受け取りその通りに行動する神の国の民として生きているのです。 福音を伝える命を受け取りアンテオケ教会を出た彼らは神の国の王様の言われる通りにピシデヤのアンテオケでも福音を伝えました。 これに対して喜んで福音を受け取る人もいればそれに反対する人たちもいました。 しかしそれでもパウロとバルナバは怯むことなく福音を宣べ伝え続け、自分たちはこれから異邦人のための宣教師としてたつと言いました。 これも自分の思いではなく神の思いでした。 13章47節でパウロとバルナバはこう語っています。 “‥主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」” 彼らが引用している箇所は旧約聖書のイザヤ書49章6節です。 彼らはこの箇所をただ単に何かを説明するためだけに用いているのではありません。 彼らはこの言葉を自分たちへの神様からの命令であると言っています。 彼らは神様が言われた通りに語っているのです。 神様の御言葉の通りに行動しているのです。 さらに51節には、”ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。”と記されてありますが、これもイエスさまがルカの福音書で命じられた通りです。 イエスさまはルカの福音書9章5節で、”人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。”とおっしゃいましたが、その通りにしています。 イエスさまの言葉を聞き、その通りに彼らが行動していることが良くわかる場面です。 彼らは神の国に生きる人でした。 神の国には本当の王であられる神様と、その言葉に従う国民が必要ですが、まさにパウロとバルナバは神の言葉に忠実に従う神の国の民として生きていました。 イエスさまはヨハネの福音書14章10節でこういわれました。 “わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。” イエスさまもご自身の言葉を語っていたのではないと言われました。 イエスさまは父の言葉を語っておられたのです。 そして父の御心の通りに、十字架の死に至り葬られました。 そして父の御力で復活し弟子たちの前にあらわれ天にのぼられました。 これこそ神の国に生きる究極の形です。 パウロたちはこのイエス様と一体である聖霊を受け取ったので、イエスさまのように自分の思いではなく神さまの思いイエスさまの思いに従い生きることができました。 そしてそれこそ神の国に生きることです。 わたしとみなさんも神の国に生きる人となりますように。 2 一方、神の国ではなく自分の国に生きる人たちも登場しました。 それはパウロたちに反対したユダヤ人たちです。 彼らは口では「神様、神様」と言っていたかもしれませんが、実のところ自分たちの国を求め自分たちの国の中で生きていた人たちでした。 自分たちの国とは、自分自身が王様の国です。…