キリストの心で一致し主に従う教会

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き13章1~3節 タイトル:キリストの心で一致し主に従う教会 今日は教会の一致と従順について共に考えてみたいと思います。 教会が一致する秘訣は何でしょうか。 また主に従うとはどういうことなのでしょうか。 今日の聖書に登場するアンテオケ教会やピリピの教会にならっていこうと思います。 今日の聖書である使徒の働き13章は大きな転換点とよべる章です。 ここまではエルサレム教会を中心として福音宣教がなされてきました。 使徒の働き1章8節でイエスさまがこう言われました。 “しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” エルサレム教会はこの働きの中心的役割を担ってきたのです。 それによりエルサレム、ユダヤ全土、そしてサマリヤにまで福音が伝えられて行きました。 しかしここから福音宣教の中心地はエルサレムからアンテオケへとうつり、中心人物もペテロからパウロへとうつります。 これはユダヤ人中心だった働きがいよいよ本格的に異邦人へと向けられていくことを示しています。 当時アンテオケという町はローマ、アレキサンドリアに次ぐ第三の都市でした。 エルサレムとは比較にならない大都会です。 ローマ全土から集まった様々な人々がそこで暮らしていました。 こういった場所は陸路も航路も発達していきます。 まさに世界宣教にはうってつけの場所でした。 ではそんなアンテオケ教会はどんな教会だったのでしょうか。 1節を見ますと、彼らのリーダーだった人たちの名前が書かれています。 “さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。” 使徒の働き 13章1節 わたしたちのよく知るバルナバが最初に記され、最後にサウロの名前が書かれています。 彼らのことはわたしたちは何度も見てきました。 彼らによってアンテオケ教会は安定し大きく成長しました。 彼らこそこの教会のリーダーだったと言えるでしょう。 現代に置き換えるなら主任牧師です。 しかしその間に記されている3人のことはよく知りません。 いったいこの人たちはどういう人たちだったのでしょうか。 ここからアンテオケ教会がどういう教会だったのかがわかります。 まずニゲルと呼ばれるシメオンについてです。 ニゲルとはラテン語由来のギリシャ語で「黒い」という意味があります。 つまりシメオンは黒人だったということでしょう。 当時ローマ帝国の領土は北アフリカにまで及んでいましたので、この地域出身の人だったと想像できます。 アンテオケ教会にはシメオンのほかにもアフリカ出身の人々が多く集っていたのではないでしょうか。 次に登場するクレネ人ルキオですが、クレネもアフリカの北の端で地中海に面した町のことです。 そこの出身者のルキオという人もリーダーの一人だったようです。 さらにマナエンに注目しますと、 この人はなんとあのヘロデの乳兄弟であったと書かれています。 ただしこのヘロデは前回出てきたヘロデアグリッパではなく、ヘロデアンティパスという人のことです。彼はバプテスマのヨハネを殺し、イエスさまを裁判にかけた人でした。 おそらくマナエンの母親がヘロデの乳母として仕えていたということではないかと思います。 マナエンとヘロデは同じ乳を飲んでそだちました。 ギリシャ語聖書では同じ教育を受けたという意味になるディダスカロスという言葉が使われています。 彼らは同じ乳を飲み、同じ教育を受けて育ちました。 しかしそれにも関わらず、一人はイエスキリストを裁判にかけるものとなり、一人はイエスキリストの十字架の死と復活を信じ受け取ってクリスチャンとなり教会のリーダー格にまで成長していました。 一方は神と敵対し一方は神と共に歩む人となりました。 アンテオケ教会のリーダーたちは肌の色も出身地もおそらく受けてきた教育も全くバラバラの人たちでした。 これを見ただけでもアンテオケ教会には非常に多様な人が集まっていたことがうかがえます。 そんなアンテオケ教会を通してこれから世界へ向けて福音が伝えられていくのです。 彼らには以前のエルサレム教会にあったような固定観念や偏見はありません。 ただ一つの心を持って福音を伝えることだけに邁進する人たちでした。 ピリピ人への手紙にこの一つの心について詳しく記されています。 “しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。…

本当に求めているもの

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き12章18~24節 タイトル:本当に求めているもの 人は何をもって成功というのでしょうか。 みなさんの成功のイメージはどんなものですか。 お金を手に入れれば成功でしょうか。 地位があれば成功でしょうか。 これらのものを手に入れると人は自分の思いのままに生きることができるようになります。 しかし人は本当にお金や地位を求めて生きているのでしょうか。 これらのものを求めて手にいれた人生を生きたら成功したと思えるのでしょうか。 <ヘロデ王> ここに地位もお金も手に入れた人がいました。 彼はヘロデ大王と呼ばれた残虐な王の孫でした。 彼自身も王様になり地位もお金も手に入れました。 しかし彼の行動を見ているとまだ何かを欲しているようです。 彼は自分の領地内のある勢力に注目しました。 それはユダヤの宗教家たちでした。 彼らは宗教家ですが、国民への強い影響力をもった集団でした。 彼らの心をつかめば領地内の指示はさらに強くなりヘロデの政治体制は確固たるものになるでしょう。 そこで彼らの心を掴むためにこの宗教家たちが嫌っていたキリスト教徒たちに目をつけます。 そしてキリスト教徒のリーダー格であったヤコブという人を捕らえ剣で殺しました。 するとユダヤ人たちの気に入ったようです。 それならとヘロデはさらにペテロを捕まえて牢屋に閉じ込めてしまいました。 ユダヤの祭りが終わったら引き出して処刑するためでした。 ここまでは彼の予定通りでした。 しかしいよいよ処刑の日がやってきた時、捕まえたはずのペテロはいなくなっていました。 兵士を4人1組にして、それを4組も準備し交代で見張らせていたにもかかわらず、逃げられてしまったのです。 ヘロデは兵士たちを取り調べました。 兵士たちはいつの間にかいなくなったと答えたでしょう。 当然です。 ペテロは自分の力で逃げたのではなく、神から御使いが送られてその御使いに導かれて逃げたからです。 兵士たちはその事実を知ることができません。 彼らからすると本当にわけがわからない状況でした。 いつの間にかいなくなっていたと答えるしかありませんでした。 それを聞いたヘロデはどのように思ったでしょうか。 キリスト教徒たちとグルになってペテロを逃がしたと思ったことでしょう。 ペテロを捕まえて牢獄にいれる時ヘロデは国民に大々的にアナウンスしていたはずです。 今度はペテロを殺すと息巻いていたはずです。 それなのに処刑直前に肝心のペテロに逃げられてしまったのです。 これはヘロデにとって大きな失敗であり恥でした。 現代でも失敗をしたら誰かが責任を取るものです。 ニュースでも誰々が辞めさせられたなんて話はよく聞きます。 失敗したら誰かが責任を取らなくてはいけません。 当時は囚人に逃げられた場合、逃がしてしまった番兵が逃げた囚人が受けるはずだった刑を代わりに受けなくてはいけませんでした。 ヘロデは兵士たちを処刑して責任を取らせました。 そして自分はというとさっさとユダヤ地域から離れるわけです。 失敗した場所、恥をかいた場所には長くとどまりたくないものです。 こうしてヘロデは今度はカイザリヤに行きそこに滞在しました。 <ヘロデとツロとシドンの人々> “さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。” 使徒の働き 12章20節 ここでツロとシドンの人々が登場します。 彼らはヘロデに嫌われていたようです。 何があったかは定かではありませんが、ヘロデは彼らに敵意を抱いていました。 ツロとシドンの人々にとってこれは非常にまずいことでした。…

わたしの思いよりも神の御心を

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き12章1~17節 タイトル:わたしの思いよりも神の御心を   先週は使徒の働き11章の後半部分を見ました。 そこには異邦人教会のアンテオケ教会が誕生したことと、そのアンテオケ教会がユダヤにある教会を支援した姿が描かれていました。 ユダヤはこの頃大変な飢饉に見舞われていたようですが、そこにまだ生まれたばかりのアンテオケ教会から支援が届けられました。 ユダヤの教会の人々は大変喜んだと思います。 イエスキリストにある一致というものを彼らは実感したはずです。   しかしこの恵みあふれる様子とは対照的に12章ではとても大変な出来事が起こりました。 それが今日共にみる内容です。    <ヘロデの攻撃>  “そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。”  使徒の働き 12章1~2節   最初、イエスの弟子達を迫害していたのは、ユダヤ教徒たちでした。 しかしそれでも教会は勢いを弱めるどころかどんどん大きくなっていきました。 そしてユダヤ人だけではなくギリシャ人にも福音が伝わりアンテオケやカイザリヤで異邦人を中心とした教会が誕生し、いくつもの教会が共に立ち上がり一つとなって福音を宣教する体制が出来上がっていきました。   ところがその様子を見ていたヘロデが動き出します。 正確にはヘロデ・アグリッパ1世といって、イエス様が生まれた時にその地方の2歳以下の赤子を殺したヘロ デ大王の孫にあたる人です。 彼が動いたのは、ユダヤの人々の心をつかむためです。 アグリッパは人の心を掴むことが巧みな人物で、あのパリサイ派からも慕われていたと言います。   アグリッパにはこんな逸話があります。 「アグリッパ王が立って律法の巻物を受け取り立ったまま読んだので、博士達はこのゆえに彼をほめた。彼が申命記に記されている「同胞でない外国人をあなたの上にたててはならない」というところまで進んだ時、その目は涙を流したが、彼らはアグリッパに呼びかけた「あなたはわれらの同胞です。あなたはわれらの同胞です。あなたはわれらの同胞です。」と‥。」   このようにアグリッパは人の心を掴むことに長けた人だったようです。 おそらくその一貫でユダヤ教徒たちが嫌っているキリスト教徒を攻撃したのでしょう。 こうして教会は宗教指導者たちから攻撃を受けると同時に政治的な力からも攻撃されるようになりました。   そしてヤコブが殺されてしまいます。 このヤコブはゼベダイの息子ヤコブです。 イエス様に連れられていつもペテロとヨハネと共にいたヤコブです。 間違いなく教会の中心人物であったことでしょう。 飢饉で苦しい状況の中アンテオケ教会から支援が届き心温まる瞬間を迎えていたエルサレム教会でしたが、一気に心が凍りつくような出来事が起きたのです。 しかしこれで迫害の手が止まったわけではありません。 ヘロデはヤコブを殺したことがユダヤ人たちの気に入ったのを見て、ペテロをも捕まえます。   <ヘロデの武力と教会の力>  “それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。”  使徒の働き 12章3節 “ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。”  使徒の働き 12章4節   この日は種なしパンの祝いの時期でした。 この祭りは過越しの祭りの次の日から始まるお祭りで、過越しの祭り同様エジプトでの奴隷生活からの解放を祝う重要なものです。 もともと過ぎ越しの祭りが1日で、その後続けて7日間種無しパンの祭りがありましたが、のちにこの二つを合わせて過ぎ越しの祭りといったり種なしパンの祝いとも呼ぶようになりました。   この期間にヘロデはペテロを捕らえました。すぐに殺さなかったのは祭りの期間はユダヤ人たちが処刑を禁止していたからです ヘロデはペテロを絶対に逃がすまいとして兵士4人を一組にして、それを4組準備し見張らせました。 こうして合計16人が交代で夜通し見張れるようにしました。 さらに外に出るには2つの衛所を通り、鉄の門を通過しなくてはいけません。…

わたしたちはクリスチャンです

2019年9月8日主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き11章19~30節 タイトル:わたしたちはクリスチャンです みなさんは最近「クリスチャン」という言葉や「キリスト者」という言葉をいつ使いましたか。 これらの言葉は何気なく普段使っているものだと思いますが、一体どのようにして生まれたのでしょうか。 私たちがクリスチャンとして、キリスト者として生きる上で、このことを知っておくのは良いことだと思います。 今日はクリスチャンあるいはキリスト者と呼ばれるようになった弟子たちの姿からこの言葉の意味を探りたいと思います。 <アンテオケに散らされた弟子たち> 先週までペテロとコルネリオの出会い、そしてそれに対するエルサレム教会の反応を見てきましたが、この11章19節から場面が大きく変わります。 「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。」(11章19節) ここから始まるお話のヒントになる言葉が8章4節にあります。 そこには11章19節とよく似た言葉が記されています。 「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(8章4節) この御言葉の後、迫害によって散らされた者たちの一人であるピリポのサマリヤへの宣教が記されていました。 そして今日見ます箇所ではサマリヤではなく違う地方にまで散らされた人々がそこでどういう働きをしたのかについて記されています。 ですから流れとしては8章4節に続く流れだと言えます。 サウロを中心とする人々の迫害から逃げるためにある人はピリポのように比較的エルサレムから近い地方に逃げましたが、ある人はアンテオケのように遠い地方へと逃げる人もいたようです。 迫害でアンテオケ、フェニキア、キプロスに散らされた人々も異邦人に福音を語ることなくユダヤ人にのみ語りました。 この時点での彼らもまだペテロの話を聞く前のエルサレム教会のように異邦人に福音を語ることを敬遠していました。 しかし20節を見ますと、一気に状況を変える働きをする人たちが現れます。 “ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。” 使徒の働き 11章20節 キプロス人とクレネ人と書かれているので、異邦人のように思われるかもしれませんが、この人たちもキプロスとクレネ地方出身のユダヤ人であるとご理解くだされば良いと思います。 彼らはヘブライ語よりもギリシャ語を使ってコミュニケーションをとった人たちでした。 だから同じくギリシャ語を使うギリシャ人たちとも問題なくコミュニケーションがとれましたし、何より彼らは幼い頃よりギリシャ人たちと多く接することができるキプロスやクレネで暮らしていました。 そういう人たちにとってギリシャ人は非常に身近であり、エルサレムで生まれ育ったユダヤ人に比べると抵抗感が少なかったのかもしれません。 よく知った雰囲気、文化に身をおく彼らはエルサレム出身者に比べてたくましく見えたに違いありません。 異邦人文化に精通し言葉も巧みな彼らの振る舞いは自然なものであったはずです。 そういう人々の言葉を現地の人々も聞こうとするのではないでしょうか。 もちろんエルサレム出身者にも彼らにしかできない仕事があったでしょう。 まだ異邦人に対する偏見が残るユダヤ人へはギリシャ語を使うユダヤ人よりもエルサレム出身者がヘブライ語で語る方が良いはずです。 それぞれに良さがあり弱さがあります。 このような多様性を持ってキリストの元に集められた者たちを通して宣教は進められました。 人を通して神は働かれ新しい人が起こされていきます。 しかし聖書は誰かの努力でそうなったとは語りません。 ここでも主の御手が共にあったのでおおぜいの人が主に立ちかえったと語っています。 ただ主の御力でもって彼らは伝道しそれによって救われた人たちが大勢いたと聖書は伝えています。 “そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。” 使徒の働き 11章21節 主の御手が共にあるという表現は、旧約の時代から多く見られました。 “見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。” 出エジプト記 9章3節 “さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。” サムエル記第一 5章6節 “カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。” エゼキエル書 1章3節 主の敵に対して御手が臨む時は、敵は打ち倒され、主の民に対して臨む時は、力を与えられました。 主の御手とは主の力を象徴する表現です。 アンテオケで福音を伝えた人々を突き動かしていたのはこの主の御手でありました。 主の御手、すなわち主の力によって彼らは自分たちの特徴を存分にいかし福音を大胆に語ったのです。 するとこの知らせが遠くエルサレムにまで及びます。 <バルナバを派遣するエルサレム教会> “この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。 “彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。”…

固定観念の柵を壊して

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き11章1~18節 タイトル:固定観念の柵を壊して わたしたちはある種の柵のようなもので自分自身を囲い、他の人々を囲って生きています。 その柵は「こうあるべき」とか「普通はこうだ」という固定観念で出来ています。 そしてその柵から自分自身が出ることを嫌ったり恐れたりします。 なぜなら本人にとってそれが常識であり理解できる範疇だからです。 またほかの人々を、その柵で囲い「あなたはこうあるべき」とか「普通はこう考えるはずだ」という自分の考えを押し付け、そこから相手が出ることを嫌います。 <柵の外に出たペテロ> コルネリオとペテロの出会いを共に見ていますが、彼らも自分自身を柵で囲っていた人たちでした。 しかし神様にそれを壊されて以前の柵の外に出て二人は出会い、コルネリオは福音を受け取りました。 コルネリオとペテロの出会いは、それぞれの常識を超えていった出会いと言えるでしょう。 ペテロはユダヤ人です。 彼にとって異邦人の家に行くことや共に食事をすることなどありえないことでした。 律法できよい動物と汚れた動物の区別が定められていたので、その区別のない異邦人が作った料理を食べることは律法をおかす危険があることでした。 そんなユダヤ人にとって異邦人が福音を受け取って救われることなど受け入れがたいことでした。 しかしペテロは神様から与えられた幻に促されて異邦人であるコルネリオのもとに行くことになるのです。 そして行ってみると自分が見た幻と対になる言葉を御使いから与えられたコルネリオがいました。 こうしてペテロは異邦人にも福音を伝えたのです。 ペテロが福音を語ると彼らに聖霊がくだり異言で語り出し賛美をしました。 これを見てペテロは異邦人にも聖霊がくだり救いがもたらされることを受け入れました。 彼が完全に自分の常識の柵の外へと出た瞬間でした。 <いまだ柵の中にいるクリスチャンたち> これに対して今日の聖書で登場したエルサレムのクリスチャンたちは依然として自分たちの柵の中にいます。 彼らからすると、なぜあんなところにペテロはいるのかと思ったでしょう。 彼らにはペテロが異様に見えたのです。 本来いるべき場所にいない人。 仲間だったはずなのに仲間ではないかのように行動する人。 異分子のように見えたはずです。 彼らは11章2節でペテロを非難したと記されています。 “さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、” 使徒の働き 11章1~2節 この非難という言葉は単なる叱責とか注意とかとは違い非常に厳しい言葉です。 ギリシャ語では「ディアクリオウ」といって、区別するとか分離するという意味がある言葉です。 さらにここでは自分に向けられる形で書かれていますので、自分たちを相手から区別するとか分離するという意味です。 ペテロ。あなたがしたことは私たちの側からは全く理解できないことだ。 あなたはわたしたちとは違う。 こういうニュアンスがある言葉です。 かなり強烈な言葉だと言えます。 コルネリオへの伝道は福音宣教が異邦人にまで広がった大きな出来事であり、クリスチャンとして喜ぶべきことであったと私たちは知っています。 しかし当時の人々はまだ理解できていませんでした。 ここから当時のエルサレム教会は福音の拡大の障害になっていたと言えます。 福音の拡大の障害と聞くと教会の外の出来事を想像すると思います。 ノンクリスチャンからの迫害をイメージするでしょう。 しかし福音の拡大の障害になっていたのは、皮肉なことにすでにイエスキリストを信じている人々でした。しかも福音の拡大を望んでいた人々でした。 そんな彼らが福音宣教の妨げになっているという事実を私たちはこの聖書を通して直視させられます。 現代の私たちにとってはユダヤ人なのか異邦人なのかは関係ありません。人種や国籍で差別することもないでしょう。 しかし先ほどから申し上げているように自分で作り上げた柵の外にいる人に対して私たちは寛容でいられません。 そしてそれこそ福音宣教の妨げになっているのです。 この箇所はそんな問題意識を私たちに与えてくれるところです。 <相手に理解を示し説明するペテロ> では続いてペテロのこの時の思いに目を向けて見たいと思います。 ペテロは教会から非難された時どんな思いになったでしょうか。 ペテロにとってコルネリオたちが聖霊を受けてイエス様を信じ生きるようになったことはとても嬉しいことだったはずです。…

福音を語ること

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き10章34~43節 タイトル:福音を語ること <導入> 昨年の末から長老さんの息子さんに勉強を教えています。 高校受験のために始めたことでしたが、今も続けて同じ時間を過ごせていることは感謝なことです。 特に高校生になってからの方が成績も良くなり私も嬉しく思っています。 私が教えているのは英語の文法だけなのですが、それ以外の成績も私に伝えてくれます。 私のことを信頼してくれているからというのもあるかもしれませんが、それだけではなく、やはり成績が全体的に良いから伝えやすいのではないかと思います。 良い知らせというのは誰しも伝えたくなるものです。 先日教会の高校生3人と一緒に釣りに行きました。 3時間ほどしかしていませんが全部で82匹釣れました。 これも私が今お伝えするのは良い知らせだからです。 良い知らせは人に伝えたいものです。 その知らせが良ければ良いほど私たちは話さずにおれなくなるでしょう。 では私たちが持つ良い知らせの中で最も素晴らしい良い知らせは一体なんでしょうか。 もちろんそれは福音です。 福音はギリシャ語ではユーアンゲリオンというのですが、直訳すると「良い知らせ」となります。 最近いつ良い知らせ(福音)を伝えられましたか。 良い知らせであればあるほど伝えたいと思うなら、わたしたちは事あるごとにこの福音を語っていないといけないのではないでしょうか。 しかしそうはなっていない現実があります。 特に伝道の賜物があると言われる人たちを除いて大抵のクリスチャンはなかなか伝道することができません。ためらいをおぼえてしまうものです。 イエスキリストが死んでよみがえられ、わたしに新しい命を与えてくれたことは他の何ものにも代え難い良い知らせです。 それなのに言いたくて仕方ないという心でいられないわたしたちがいるのです。 なぜでしょうか。 <本論> 今日の聖書からこのことについて共に学んでいきたいとおもいます。 今日はペテロの伝道説教の箇所です。 “そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、” 使徒の働き 10章34節 口を開いて語るのは当たり前のことですが、これは特に荘厳な演説の語り出しを表す慣用句です。 ペテロが大勢集まった人を前にして正式に説教を始めたことを示しています。 これは歴史的な出来事でした。 現代の私たちからすれば異邦人であれユダヤ人であれ関係がありませんが、当時は重大な問題でした。 クリスチャンであってもまだユダヤ人にしか伝えられていなかったこの福音がいよいよ公に異邦人へと伝えられる瞬間がきたのです。 “あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。” 使徒の働き 10章37~38節 ここにはイエスキリストの公生涯について書かれてあります。 バプテスマのヨハネから洗礼を受けて後、表舞台に立たれたイエスキリストはガリラヤから福音宣教を開始し、ユダヤ全土にまでその働きを広げられました。 その働きは聖霊の力によるものでした。 悪魔に押さえつけられている人々を解放する働きをされました。 “私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。” 使徒の働き 10章39~40節 ここには福音の一番中心的なことが書かれています。 すなわち十字架の死と復活についてです。 彼はこの世界で多くの人々を救い解放し福音を伝えました。 彼には責められるところは何一つありませんでした。 神様の目からみて全くの無罪でした。 それなのに、彼は木にかけられて殺されてしまうのです。 申命記21章22~23節にはこう記されています。 “もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。” つまりイエスが死んだのは神に呪われたものとなったということです。 本人には全く罪がなく呪われる理由も何一つありません。…

神の言葉を聴く事と、伝える事

 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き10章23~33節 タイトル:神の言葉を聴く事と、伝える事 みなさんは神様の言葉を聴くとはどういうことだと思われますか。 また神様の言葉を伝えるとはどういうことなのでしょうか。 今日はこのことについて考えてみたいと思います。 今日の聖書箇所は以前お話したペテロとコルネリオの出会い場面の続きです。 彼らはそれぞれ常識を持っていました。 ペテロの常識はユダヤ人としてのそれです。 彼は異邦人と親しく交わることを忌み嫌っていました。 だからコルネリオという異邦人からの使いが来て一緒に来て欲しいと言われてもわかったと言うはずがない人でした。 またコルネリオもローマのイタリア隊というエリート集団で100人を束ねる100人隊長でしたので、自国の植民地であるユダヤに人にをやって来て欲しいと頼むことなどあり得ないことでした。 しかしペテロもコルネリオもその常識を超える決断をします。 なぜなら神がそれぞれにその常識から脱することを求められたからです。 コルネリオはペテロに使いを送り、ペテロは異邦人から送られた使いを受け入れ共に寝泊まりして明くる日コルネリオが待つカイザリアへと出発しました。 [神の言葉を聴くことについて] ここから神の言葉を聴くことについてお話ししていきます。 まず少し時間の流れを整理してみましょう。 “するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、” 使徒の働き 10章30節 この言葉はペテロと出会ったコルネリオが言った言葉です。 この言葉からわかることがあります。 それはコルネリオが御使いを見て言葉を受け取ってから今日まで4日が経っているということです。 1日目 コルネリオが御使いから言葉を受け取る。 この時点ですでに午後3時なので、この日は出発できない。 2日目 コルネリオが部下と僕を遣わす。 3日目 ヨッパまで丸1日歩いた後ペテロと出会う。 この日はペテロと共にかわなめしシモンの家に泊まる。 4日目 カイザリアに向けて出発 5日目 到着 部下と僕を遣わしてから丸三日経っています。 この間にコルネリオは親族や親しい友人達を呼び集めてペテロの到着を共に待っていました。 “その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。” 使徒の働き 10章24節 ヨッパにいたペテロから「行きます」という返事があったわけではありません。 現代であれば電話やLINEで来るか来ないかがはっきりわかりますが、当時はそんなものは当然ありません。 ということはこの三日間来るか来ないか分からない人をコルネリオは待っていたということになります。 しかも親族や親しい友人まで呼んで待っていたのです。 どんな思いで彼は待っていたのでしょうか。 待っていたと翻訳されている言葉はギリシャ語でプロスドカオウといって、「待つ」という意味の他に「期待する」という意味もあります。 使徒の働き27章でも同じ単語が使われていますがそこでは「待ちに待った」と翻訳されています。 つまりコルネリオが待っていたという時、それは期待して待っていたことを意味します。ほかの言葉で言い換えるなら待ち望んでいたというべきでしょう。 今か今かと期待しながら自分が送った部下と僕に連れられてペテロという人がやってくるのを待っていたのです。 その間コルネリオはどのように過ごしていたのでしょうか。 彼は午後の3時の祈りを守っていた人なので、部下を遣わした日もこのことに関して祈り、部下たちがペテロと会った日も祈り、彼らがヨッパを出発した日も祈ったことでしょう。そしてこの日ペテロがカイザリアに着いた日も祈りをしようとおもっていたころに、ペテロがやってきたという報告をうけてコルネリオは家を飛び出しペテロの前に跪いたのです。 “ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。” 使徒の働き 10章25節 コルネリオのペテロに対する態度を見ますと、神から送られてきた使いとして受け入れていることがわかります。 コルネリオはペテロを通して神の言葉がはっきり与えられると信じてそれを待ち望んでいました。 祈り求めつつ、親戚や友人達にも知らせて、できうる限りのことをして待っていたのです。…

良い時も悪い時も

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇9篇1~10節 タイトル: 良い時も悪い時も この詩篇はダビデが記録した詩篇です。 ここでダビデは、以前勝ち取った勝利について語ったのち、それはすべて神さまの力であったことを大いに誉めたたえています。 そして今あらたに敵が目の前に迫っており、かつて自分を救い出したと同じ助けを神に乞い求めている詩篇です。 今日見るところは、ダビデが以前神さまの力で勝利を勝ち取ったことについてです。 ここから良い時も悪い時も主をおぼえて生きる生活について分かち合いたいと思います。 ⑴ “私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。” 詩篇 9篇1節 「心を尽くして主に感謝する」とは一体どういうことなのでしょうか。 ある言葉の意味を深く探るのに良いのは正反対の言葉を考えてみることです。 聖書には正反対の意味をもつ言葉として「二心」という言葉が登場します。 “人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。” 詩篇 12篇2節 宗教改革者のジャンカルヴァンは二心についてこう言っています。 「彼らは一言二言神の助けについて語ったのちは、巧みに自分を誇り、自分の勇敢さを歌い上げる。あたかも彼らは何一つ神によって助けられなかったかのごとくである。‥彼らは神に犠牲をささげた後に、自分の思慮深さ、器用さ、能力、武力、兵力に捧げ物をするのである。」 一言二言神の助けを語ったのちに、自分がいかに優れているかを語る。 結局のところ自分がどれだけ優れているかということを言いたいということでしょう。 しかしそれでは不敬虔なものに見えてしまうので、それを覆い隠すために表向きは神の助けを語るということです。 今までに数人の人からこういう話を聞いたことがあります。 教会にイエスさまのことを全く知らない人がやってきた時にあまりにも多くの人が自分を飾るというお話です。 どういう意味かというと、イエスさまを信じて明らかに人生が変えられて今の自分になったにもかかわらず、それを伝えないということです。 あたかも自分は以前からこうでしたと言っているように見えるというのです。 少し極端な言葉かもしれませんが、わたしは一理あるなと思いました。 実際にどこまで話すのかというのは微妙な問題を含みます。 あまりに正直に話しすぎて聞いた人がつまずくこともあるからです。 ただそういうところも慎重に考えながらイエス様を信じる前と後の違いというのをハッキリ話すことは大切なことです。 もしこのことをためらわれるなら、それは一体何が原因なのかを探ってみないといけないと思います。 ひょっとするとカルヴァンが言うような思いなのかもしれないからです。 「今の自分がいるのは、神さまの恵みによるのです。」と口で告白しつつも、そこに自分の功績を付加したい誘惑にあっているのかもしれないのです。 わたしたちは二心の者ではなく、心をつくして主に感謝し、全ての栄光を主が受け取られるようにしたいと思います。 ダビデはこの時、心を尽くして主に感謝しています。 すべての功績、すべての成功が主のものであるというのです。 サウルは千を打ち、ダビデは万を打ったと言われるほどに、ダビデは戦争で負けしらずでしたが、それらはすべて神さまの力によるのだと語ります。 わたしたちはどうでしょうか。 すべて神様がしてくださったと信じて生きているでしょうか。 みなさんの人生においてすべての栄光を神様が受けておられるでしょうか。 どこかに自分の功績を付加したいというおもいはないでしょうか。 そんな問いを投げかけてくれる聖句だと思います。 次にダビデは「あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げ」ると言います。奇しい業なので、通常では考えられない明らかに神さまの介入だとわかる出来事がダビデの前に起こったのでしょう。しかも余すことなく語るということは、一度限りのことではなく、何度もあってそれによりダビデは勝利をおさめていたのです。 神がダビデのためにこれまで果たしてくださったあらゆる奇跡を広く想起して、すべて神さまあなたのおかげですと言ってこの詩篇は始まっています。 ⑵ 続いて2節です。 “私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。” 日本語の聖書では「誇ります」と訳されていますが、ヘブライ語聖書には大きな喜びという言葉が記されています。 ですからここは本来、喜びという言葉が二回続いているということです。 ダビデが喜びという言葉を強調したかったからでしょう。 彼はこの時おおいに喜びました。 ではその対象となっているのは何でしょうか。 ダビデはこう言っています。 「わたしはあなたを喜」ぶと。 これは神の存在そのものを喜ぶということです。…

苦難を通して神様を知る

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇27篇1~5節 タイトル:苦難を通して神様を知る 最近「主がしてくださいました。感謝します。」と言ったこと、あるいは思ったことはありますか。 私たちは普段生活する中で何か良いことがあれば、「主がしてくださいました。感謝します。」と抵抗なく言えると思います。 今日の詩篇のダビデのように「主は私の光、私の救いです。」という言葉に同意することもできるはずです。 しかし周囲の状況があまり良くないときに、今日のダビデのように、「主は私の光です。救いです。」と心から言うことはなかなか難しいのではないでしょうか。 どうしても、その悪い状況に心が向いてしまいます。どうしたらこの問題を解決できるだろうかと思い巡らし、その状況が長く続くと、思い煩い、心が沈んでいきます。その時わたしたちはすでに問題に囚われてしまっているのです。 しかし今日の詩篇を記したダビデは問題を見つめ続けるのではなく、そこから視線を主に向け、主を見上げました。 彼はこの詩篇で戦争をイメージさせる言葉を使って、自分が今どれほど厳しい立場にあるのかを表現しています。彼は命を狙われていたのだと思います。 しかしその中でダビデは、自分に迫る命の危機だけを見つめ続けるのではなく、主を見ました。そういう中で彼が言った言葉が、この1節から3節の言葉です。 “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。” 詩篇 27篇1~3節 1節に「砦」とありますが、これは外敵の侵入を防ぐための建物です。 主は自分の命を守ってくれる砦だと彼は信仰告白しているのです。 そしてその砦があるから、どんな敵も恐れることはないと続けます。 ここでまず注目すべき点は、ダビデがしっかりと現状を理解しているということです。 周りは敵だらけで、しかもその敵は自分の命を狙っている。 自分は命の危険にされされているということを彼はよく知っていました。 戦うためにはまず現状がどうかということを知らなくてはいけませんが、ダビデはそれができていました。 そしてその上で、彼は先へと進んだのです。 私たちも彼のようでありたいと思います。 周囲の状況に目をつむっていては、問題が解決するはずもありませんが、逆にいつまでも周囲を見渡して、それを自分で解決しようとしていてもその状況は変わりません。 ダビデのように正確な現状認識の後に、その先へと進むことが大切です。 私たちは何か問題が起きるとそのことばかり考えてしまいます。 大きな音が突然聞こえると驚いてそちらの方を見て、しばらく固まってしまう状態と似ています。 そんなわたしたちに今日の聖書が教えてくれているのは、問題をしっかり把握することは大切だけど、そこにとどまるのではなく、主を見上げ、主に信頼することがもっと大切だということです。 現状把握でとまってしまうと、そのことばかりグルグル頭の中を回り始めます。 これは思い煩いです。 思い煩いは、わたしやみなさんにはどうにもできないことも、どうにかできるとささやきます。 「あなたがこうしたらこうなるんじゃないの?」「あなたがもう少し頑張ればなんとかなるんじゃないの?」 色々なパターンを想像させて私たちを下へ下へと引きずっていきます。 しかし私たちはこのように考えるのではなく、現状をしっかり把握した上でどうゆうところが問題なのかを分かった上でこの問題の解決は神様にしかないのだと委ねていくことが大切です。 それは自分自身の力で必死に握ろうとしている何かを離すこととも言えます。 わたしたちは握るのは得意ですが、離すのが苦手です。 これには練習が必要です。 最初はきっとうまくできないでしょう。 しかしその中でも神さまの語りかけに耳を傾けて手を離して神さまに委ねるのです。 ダビデはそれができていました。 彼は主を心から信頼していました。 2節に、「私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた」と記されています。 これがダビデの信頼が特に強くあらわれた部分です。ヘブライ語の聖書もここは完了形で「倒れた」とすでに終わったこととして書かれています。 実際の状況は本当に変わったわけではありません。 相変わらず敵はダビデの周囲にいます。 でもそんな状況であるにもかかわらず、彼は主に信頼しているので、もうすでに神に聞かれたこととして祈っているのです。 イエス様は言われました。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11章23節)。 ダビデはこの時点ですでに勝利していました。 彼はすでに祈りが聞かれたと信じていたからです。 そうして彼はまず守るべき「心」を守りました。 3節で、ダビデは言っています。 「私の心は恐れない。」 彼は心から平安を奪われないことに成功しているのです。 私たちが何かの出来事に心を奪われ、イライラしたり、心を落ち込ませている時、それは心の平安を奪われている時です。…

終末を望み見て生きる

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ヨハネの黙示録22章1~5節 タイトル:終末を望み見て生きる。 車の運転をしていると、時折危なっかしい運転をしている人を見かけます。 一体どんな人が運転しているのかと気になって信号待ちの合間に見てみると、前かがみになりながら必死にハンドルを握っています。おそらく初心者ドライバーなのでしょう。 普段運転をされる方はよくお分かりになると思いますが、前かがみになると視界が狭くなり、視線も近くの方に向かいます。運転においてこれはあまり良くありません。運転する時はできるだけ広く視野を保ちつつ、先の方を見ながらその視界の中に手前も一緒に捉えていくことが大切です。 これは人生においても言えることです。 今この瞬間だけ見て生きていては、歩む方向を見失います。 遠くを見つめながらもその視界の中に今を捉えて歩くのです。 ただしこれは老後のことを考えてという意味ではありません。 老後も大切かもしれませんが、私たちが見るべきはさらにその先のこと、すなわち終末です。 <終末とは> 終末は二種類に分けられます。 一つは、個人的終末です。 これは自分が死んでこの世界を去ることに関することです。 もう一つは一般的終末です。 これはイエスキリストが再臨して、この世界が終わること、その後やってくる完璧な世界に関することです。 今日はこの一般的終末がやってきた後のことについて触れている聖書箇所です。 私たちはクリスチャンとして今だけを見て生きるのではなく、遠くを見つめつつもその視界に今を捉えながら生きる者でありたいと思います。 さて今日ともに読みました御言葉ですが、これは聖書の中でも最後の書簡であるヨハネの黙示録であり、その中でも最後の章22章にある内容でした。 この世界が終わった後におとずれる世界についてです。 では、この新しい世界とはどんな世界なのでしょうか。 ローマ人への手紙 8章11節にはこうあります。 “もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。” 天国に入るとか救いと聞くと霊魂の話をイメージする人が多いと思います。 しかし聖書が語るこの世界の終わりにおとずれる世界は霊魂だけの話ではなく、肉体も共に生かされて入れられていく世界だというのです。 人というのはそもそも肉体と霊魂が合わさった総体のことです。 霊魂だけでは人ではなく、肉体だけでも人ではないのです。 それにもし霊魂だけの世界で終わらせるなら、最初からアダムとエバに肉体など与えなくても良いのではないでしょうか。 ピリピ人への手紙 3章20~21節にはさらに踏み込んで書かれています。 “けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。” 「ご自身の栄光の体」とは、キリストの復活の体のことです。このキリストの復活の体と同じ姿に変えてくださるというのです。 キリストの復活の体と聞いてどんな体をイメージされますか。 あるときは壁をすり抜けたことがありました。 しかしあるときは弟子たちが触れることができました。 つまり地上の物理的制約に縛られない体だということです。 いたと思ったら、いなくなり、また突然あらわれという具合に、私たちが今持っている体とは全く違う存在の仕方をしている様でした。 この世界が終わる頃私たちもあの様な体に変えられるのだと聖書は語っているのです。 “聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。” コリント人への手紙 第一 15章51~52節 どうですか。信じられますか。 死んで霊魂だけ天国に入る方が、信じるのが簡単な気がするでしょう。 それはわたしたちの常識に近いからです。 あるテレビ番組で死後の世界があると思うかというアンケートをとっていたのですが、実に70%の人があると答えていました。 この70パーセントの人たちも、霊魂だけでどこか違う世界に入ることを肯定しているようでした。 このことに関してだけ言えばクリスチャンもノンクリスチャンも同じような感覚を持っているようです。 しかし聖書はさらにその先のことまで記しているのです。 私たちは聖書を信じるクリスチャンですので、聖書が語ることに耳を傾け、その世界観をしっかり明確に持って生きていきたいと思います。 それが遠くを見ることになるからです。 遠くをしっかり見つめたらそこから光が差し込んでいることがわかります。 それは完成された神の国からの光です。 その光をしっかり見つめるために、完成された神の国について今日はみていきます。…