渇きを潤す命の水

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書4章3〜19節 タイトル:渇きを潤す命の水 3,主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 4,しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。 5,それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。 6,そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。 7,ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 8,弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 9,そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」--ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである-- 10,イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 11,彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 12,あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 13,イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 14,しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 15,女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 16,イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17,女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 18,あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」 19,女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。 今日はヨハネの福音書を共に見ていきます。 3、4節を見るとわかりますように、イエスキリストがガリラヤへと行く途中のお話です。 イエス様がおられたユダヤ地方は南の方にありガリラヤは北にあります。 サマリヤはこの二つの地方の間に位置していました。 だからユダヤからガリラヤに行くにしても、ガリラヤからユダに行くにしても、サマリヤを通っていくのが近道でした。 しかしユダヤ人はサマリヤを通って行きませんでした。 なぜならユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったからです。 ユダヤ人はガリラヤへ行く時、サマリヤを迂回して行っていました。 仲が悪かったのは、ユダの人々は外国人と血が混ざっていない純粋なユダヤ人で、サマリヤ人は混血の人たちが暮らす地域だったからです。サマリヤの地域は昔アッシリヤ帝国に攻め落とされた時から多くの外国人が暮らしイスラエルの民との混血が多く生まれました。 ユダヤ人は他の民族の血が混ざることを非常に嫌います。 それでこの時からユダとサマリヤの関係は悪くなっていきました。 そしてさらにこの悪化した関係に拍車をかけたのが、神殿の問題でした。 ユダヤ人たちにとって神殿はエルサレムにあるものが唯一でした。 しかしサマリヤの人びとは、ゲリジム山も先祖にゆかりがある山だからという理由でそこに神殿を作ってしまいました。 これ以降さらにユダとサマリヤの関係は悪くなってしまいました。 だからユダヤ人としてこの世に来られたイエス様がサマリヤを通ることは他のユダヤ人から見ると非常に奇妙なことでした。 きっとイエス様の弟子たちも大変驚いたことでしょう。 そのことを前提にして今日は共に見ていただければと思います。 1   6節に「第6時」とありますが、これは私たちの時間に直すと昼の12時ごろを指します。 昼12時ごろといえば一番太陽が高く昇る時間帯です。 そんな時間帯にサマリヤの女性が一人やってきました。 この地方の人々は井戸で水を汲むのに普通こんな暑い時間帯にはやってきません。 もっと涼しい時間帯を選んで来ます。 しかしこの女性は暑い時間帯にやって来ました。 どうしてこの女性はこの時間帯にやって来たのでしょうか。 それには理由がありました。 “女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」” ヨハネの福音書 4章17~18節 この女性が言っている言葉とイエスさまの言葉を合わせて考えると、この女性は過去に5回結婚したことがあるということです。しかし5回とも別れてしまい、今一緒に暮らしている男の人とは結婚もしていない状況だということがわかります。 現代では再婚はめずらしくありませんが、この当時は珍しいことでしたし、あまり良いようには見られませんでした。それが5回ともなればなおさらです。しかも今一緒に住んでいる人とは結婚すらしていないのです。周りの人たちからは後ろ指をさされながら生きていたのではないでしょうか。だからこの女性は人と顔を合わせるのが嫌だったのだろうと思います。 彼女には一番暑い時間帯に井戸にこなくてはいけない理由があったのです。 彼女は一人でこの井戸までやってきました。…

隣人とは誰のことですか

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書10章25~37節 タイトル:隣人とは誰のことですか 今日の聖書箇所は律法の専門家がイエスを試そうとして立ち上がり質問をぶつける場面からです。 “すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」” ルカの福音書 10章25節 ここで律法の専門家は永遠のいのちを受けるには何をしたら良いですかとたずねています。これは「神の国に入る」にはどうしたら良いですかという意味ですが、彼らの「律法を行うことによる救い」という思想から出た問いです。 イエス様はこれに対して律法には何と書いてありますかと尋ねます。 すると律法学者は『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と書いてありますと答えました。 イエス様はそれを聞いて「それを実行しなさい」と言われました。 律法学者はイエス様が「それを実行しなさい」と言われると、自分の正しさを証明しようとして、隣人とは誰のことですかと質問します。 「自分の正しさを証明しようとして」と記されていますので、彼は自分で自分のことを正しいものだと思っていたということです。 神を愛し、隣人を愛する人間だと思っていたということです。 しかしそんな彼に対して、それを実行しなさいとイエス様が言われたことで、自分はそれが出来ていないと判断されたと思ったわけです。 だから彼はまた質問を重ねます。では私の隣人とは誰のことですかと。 私が思う隣人には愛を注いでいます。 神を愛し、隣人を自分自身のように愛することを私はしていますと言いたいのです。 そこでイエス様が例えで話されたのが、良いサマリヤ人のお話です。 “イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」” ルカの福音書 10章30~37節 この例え話を解釈する一つの方法として、律法の専門家と祭司やレビ人の関係に着目する方法があります。 律法の専門家の代表的な群はパリサイ派です。 彼らは律法を日々研究してそれを実行することに重きをおいて暮らしていました。 一方祭司というのはサドカイ派から選ばれます。 サドカイ派とは神殿管理をしていた人たちで、イスラエルを植民地支配していたローマにすり寄って信仰よりも政治的なことに心を向けていた人たちのことです。 律法の専門家にしてみると、サドカイ派は同じ神を信じてはいますが、自分たちとは違う群れという認識です。 そんなサドカイ派の祭司が、倒れていた人のもとに最初にやってくるという設定なのです。 だからこの時、祭司が何もせずに通り過ぎたとしても何の不思議も感じなかったはずです。むしろ当然だとおもったことでしょう。律法を守ることよりも政治的なことに心を向けている人たちには到底出来ないことだと判断したかもしれません。 その次にやってきたレビ人も神殿に仕える人なので、サドカイ派の側につく人たちです。だから倒れている人の横を通り過ぎても何ら不思議に思うことはありません。 そして彼は最後に登場する人こそ倒れた人を助けてやるだろうと思いつつ、そしてそれは律法の専門家であろうと思いながら、3番目の人の登場を待ちました。 律法の専門家はきっとこう思ったでしょう。 「サドカイ派はダメだったけど、パリサイ派は大丈夫だ。最後に出てくるのはパリサイ派で、その人が倒れた人を助けてあげるはずだ。」 しかし出てきたのはパリサイ派ではありませんでした。 ユダヤ人ですらありませんでした。 なんとユダヤ人が忌み嫌っていたサマリヤ人でした。 彼らは外国人との混血で、エルサレムで礼拝も守らずゲリジム山というところで勝手に礼拝し、聖書もモーセ5書しか信じていない人たちでした。 ユダヤ人から見ると、サマリヤ人は異端の人たちです。 パリサイ派が来て助けると思ったのに、異端のサマリヤ人が来るのかと驚いたことでしょう。しかもそのサマリヤ人はとても手厚い介抱をしました。旅の途中なのにお互いに忌み嫌っているはずのユダヤ人を助けたのです。 そうしてイエス様と律法の専門家は最後に次のようなやりとりをします。 “この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」” ルカの福音書 10章36~37節 イエスさまはこの律法の専門家が、自分は神を愛し人を愛することができていると思って話していることがわかったのでしょう。 だから本当に神を愛し隣人を愛するということがどういうことなのかを教えました。 この律法の専門家はある種の柵を作ってその柵の中にいる人だけを愛せば良いと考えていました。そして間違いなくその柵の中にサマリヤ人はいませんでした。彼にとって愛すべき人ではない存在、それがサマリヤ人だったのです。そして同時にサマリヤ人にとっても自分たちは愛すべき存在ではないと思っていたのではないでしょうか。 それなのに、そう思っているはずのサマリヤ人がやってきて、ユダヤ人を手厚く看病して最後まで責任を取ろうとするのです。そうしてイエス様に「あなたも同じようにしなさい」と言われてしまうのです。 彼は思ったことでしょう。「そんなこと到底無理だ」と。 そしてそれこそイエス様が知って欲しいことだったのではないでしょうか。…

この町にはわたしの民がたくさんいる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き18章1〜17節 タイトル:この町にはわたしの民がたくさんいる 本日は久しぶりに使徒の働きに戻ってメッセージをしたいと思います。 前回使徒の働きを共に開いたときは、17章の後半を見ました。 そこにはアテネでの宣教について記されていました。 パウロはアテネを離れると、今度はコリントへとやってきました。 コリント人への手紙というのが新約聖書に二つ納められています。 今日の聖書は、将来これらの手紙を受け取る人たちとの出会いの場面を扱っているところです。 まず今日の聖書の使徒の働き18章1節を見ますと、そこにはこう書いてありました。 「パウロはアテネを去って、コリントへ行った。」 さらっとここには書いてありますが、コリントという町は非常に特徴のある町でした。 文化、建築、芸術などの中心地と言っても良いところで、アカヤ州の首都でした。 東西の海路、そして南北の陸路をつなぐ重要都市です。 非常に商業に有利な町でした。 またこの町の近くではイストミアという競技が3年ごとに行われていたようで、若者が美しさと力を競い合っていました。 裏山にはアフロディーテ神殿があり、そこには神殿娼婦が千人もいたと言われています。 ですからコリントといえば性的腐敗の町だという常識がありました。 古典ギリシャ語において「コリントの娘」という言葉は売春婦を意味したほどです。 このようにアテネとは違う難しさがこのコリントにはあったようです。 コリントは性的堕落と偶像崇拝、物質主義に満たされた町でした。 そんな町にパウロはなんと一年半もの間留まり続けることになるのです。 さて彼はどうしてそんなに長期の間コリントにとどまることになったのでしょうか。 1 アクラとプリスキラとの出会い 2節を読みます。 “ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、” 使徒の働き 18章2節 ⑴アクラとプリスキラという人は、もともとローマで暮らしていたようです。 しかし皇帝クラウデオが全てのユダヤ人はローマから出ろと命じ、彼らはそこからローマにいられなくなりました。 それでコリントまでやってきたわけです。 そんな彼らとパウロはここで出会います。 アクラとプリスキラはローマから追い出されてコリントまでやってきたました。 そしてパウロもマケドニア州では多くの町で弾かれて迫害から逃れてここまでやってきました。 いわば自分の意志に反して、居場所を追われた者たち同士がここで出会ったのです。 この出会いは神さまのご計画によるものでした。 人には偶然に見えるかもしれません。 何でもない、ありふれた出会いのように見えるのかもしれません。 しかしそこには明確に神の御手が働いています。 この出会いを出発点にして後のコリントの教会が建てられていくのです。 ⑵初めて出会った日から少し時間を置いてでしょうけども、パウロの方から彼らに近づき、そして一緒に仕事をしたいと申し出たようです。 “自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。” 使徒の働き 18章3節 パウロはユダヤ教のラビ学を修めるかたわらで、天幕づくりの技術も身につけていたようです。 それでちょうどアクラたちも天幕づくりをしているということで、彼らと同居して同じ仕事に従事しました。 平日は天幕づくりをし、当時の安息日の土曜日には会堂に行ってユダヤ人とギリシャ人に福音を説き聞かせたようです。 これは4節に記されている通りです。 “パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。” 使徒の働き 18章4節 2 シラスとテモテとの合流 ただこのダブルワークとも言える生活をずっとしていたわけではなくて、5節にありますように、マケドニアからシラスとテモテがやってくると、御言葉を教えることに専念するようになります。 シラスとテモテが来るとなぜパウロはみことばだけに専念できるのか、他の仕事をしなくて良いのかに対する答えとして、シラスとテモテが代わりに労働に従事して生活を支えたからだと考えることもできますが、第二コリント11章8〜9節を根拠として他教会(おそらくピリピ教会)からの献金が届けられたからではないかと考えることもできます。 “私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。” コリント人への手紙 第二 11章8~9節…

信仰シリーズ⑤ 主に従うとは

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マルコの福音書 8章27~38節 タイトル:信仰シリーズ⑤  主に従うとは 先週のメッセージの中で、信仰とは信じるという一時的な感情のことではなく、福音に関する知識とそれに対する同意と、信頼であり、それは主に従う生き方として現れるものだというお話をしました。 今日はこの従うとはどういうことなのかを御言葉を通して考えてみたいと思います。 1  あなたは、キリストです 今日のお話は、イエスさまが弟子たちとともにピリポ・カイザリヤへ行く道の途中の出来事です。 イエスさまは弟子たちにたずねました。 「人々は私を誰だと言っていますか。」 すると彼らは「バプテスマのヨハネという人や、エリヤだという人、それから預言者の一人だという人がいます」と答えました。 人々は、イエスさまの働きと御言葉を通して普通の人ではないと思っていたようです。 しかしそうは言っても、救いをもたらす存在とまでは思っていなかったようです。 次にイエスさまは言われました。 「あなた方は私を誰だと言うか。」 この箇所をギリシャ語聖書で見ると、「あなた方は」という言葉が強調されていますので、人々はそう言っているのはわかったけど、あなた方は違うだろうというニュアンスでたずねておられることが分かります。 この質問は弟子たちに向けられたものでしたが、ペテロが代表して答えました。 「あなたは、キリストです。」 キリストとは、ヘブライ語でメシアのことです。 メシアとは、油注がれた者という意味で、神からの特別な任務と、その任務のための力を与えられたことを意味します。 旧約聖書では、王や祭司や預言者に油が注がれました。 ペテロがイエスさまをキリストと告白したということは、神が特別に送られた方だと信じたということを意味します。 また、原文のギリシャ語聖書を見ると、キリストという単語の前に「その」を意味する冠詞がついていますので、神がわたしたちを救うためにメシアを送るという旧約で預言された、「その」メシアがイエスさまだという意味になります。 わたしたちの先祖の代からずっと待っていた救世主、それこそあなたですというペテロの信仰告白なのです。 しかしこのキリストだという告白はまだ不完全なものでした。 なぜならキリストがどのように救ってくれるかというところまではペテロたちが知らなかったからです。 だからイエス様はここで誰にも言わないようにしなさいと言われました。 そしてペテロたちに不足していたキリストに関する理解を与えようとされています。 それが31節の内容です。 2 苦しみ、殺され、三日後によみがえる “それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。” マルコの福音書 8章31節 ここではイエスさまが苦難を受け、殺され、三日目によみがえることが語られています。 しかしペテロをはじめ弟子たちには、苦難を受けて殺されるというところしか聞こえていないように見えます。あまりにも衝撃的な発言だったのでしょう。 それでペテロはイエスさまをわざわざわきまでお連れして、いさめました。 彼がここまでした理由は、当時の弟子と師匠の関係にあります。 当時弟子は師匠がいくところどこにでもついて回りました。教えられる内容もそのまま暗記し、生活の仕方、行動、それら全てに習って同じようにしたのです 師匠が苦難を受けて死ぬということは、その師匠に従っていく弟子も死ななければいけないということを意味します。 ペテロたちは、キリストが苦難を受けて死ななければいけない存在だということまでは知りません。 当時のメシア観というのは、世の力を持った王であり、ローマからイスラエルを救う存在でした。 ペテロたちはそのメシアとしてイエスさまを見ており、だからこそ弟子となったのです。 しかし彼らの思惑とは大きく異なり、イエスさまは苦しめられて死ななくてはいけないというのです。 それでペテロはイエスさまをいさめたのです。 しかしイエスさまはそんなペテロを逆に叱って言われました。 「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 イエスさまをいさめるなんて、よくこんなことをするなとクリスチャンは思うのかもしれません。自分だったらきっとしないと。 ただ考えてみると、この叱責の言葉は、現代を生きるわたしたちにも向けられているのかもしれません。 イエスさまを信じていると言いながらも、神のことではなく人のこと、自分のことを考えて生きているなら、私たちにも向けられた言葉と言えるのではないでしょうか。 わたしたちは何を思って生きているでしょうか。どれだけ神のことを思って生きているでしょうか。どれだけ人のことに縛られて生きているでしょうか。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」という声が聞こえてこないでしょうか。 3 自分をすて、十字架を負う さらにイエスさまはこれらの言葉に加えて語られます。 “それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。”…

信仰シリーズ④ 主に信頼し従う

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書 5章1~11節 タイトル:信仰シリーズ④ 主に信頼し従う “群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。” ルカの福音書 5章1~11節 今回で信仰シリーズは第4回目になります。 タイトルは、「主に信頼し従う」です。 先週は信仰の要素についてお話ししました。 これまでキリスト教会は信仰を三つの要素からなると考えてきました。 一つ目は知識、二つ目は同意、三つ目は信頼です。 信仰は「信じます」という感情のことではありません。 信仰は福音に関する知識、すなわち聖書の御言葉と、それに対する心からの同意と、それに信頼して人生全てを主に委ねることです。 今日共に読んだ聖書には全てを捨てて主に従った人が登場しました。 私たちがよく知るペテロです。ここではシモンとなっています。 今日は彼がイエスキリストに召し出された時のお話なのですが、ここに信仰とは何かを考えさてくれることがあります。 1  ストーリーの確認 イエスさまはガリラヤ湖とも呼ばれるゲネサレ湖の岸辺に立っていました。 するとイエスさまのもとに群衆が押し寄せてきました。 イエスさまは神様の教えを語っていたのですが、どんどん人が集まって押し寄せてくるので岸辺で語ることが難かしくなったようです。 湖のほうに二そうの舟をみつけ、その内の一方の舟に乗り込み持ち主のシモンに声をかけました。そして陸から少し漕ぎ出すように頼みました。 イエスさまは舟にすわって陸に向かって話の続きを語りはじめます。 イエスさまと群衆との間には水があるので、群衆と少し距離をとって話すことができるようになりました。 こうしてイエス様は神の教えを語り終えます。 すると、今度は一緒に舟に乗っているシモンに語りはじめました。 「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚をとりなさい。」 するとシモンが言いました。 「先生。わたしたちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり網をおろしてみます。」 彼はそういうとイエスさまの言葉どおりに沖に漕ぎ出して網を下ろしました。 すると、たくさんの魚が入って、網がやぶれそうになるほどでした。 シモンはこの後、「主よ。わたしから離れてください。わたしは罪深い人間です。」と言います。 イエスが何者であるかについて変化が起こっていますが、それと同時に自分の罪深い姿をシモンは思い知らされています。 彼はここでイエスに出会っているのです。 人は自分の罪の深さを知ってそこでイエスと出会います。 イエスの御言葉とその御業を目の当たりにしたシモンに対して、イエスはさらに語りかけました。 「あなたは人間をとるものとなるのです。」 こうしてシモンもその仲間も、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従いました。 2  このストーリーからわかる信仰とは このシモンの召命の場面はイエスを主と信じること、救い主と信じることがどういうことなのかを見せてくれるところです。 シモンが捨てた「なにもかも」の中には、シモンがこれまで使っていた舟や網などの漁の道具や、その道具で稼いで養っていたであろう人たちなど、すべてのものが含まれると思います。 それらはこれまでのシモンの人生そのものでした。 またこれからのシモンの人生の計画のもとになるものでした。 しかしこれら全てを捨てて、イエスキリストに従ったのです。 私たちに置き換えるなら、私たち自身の人生、私たちの人生に対する計画のこととも言えるのではないでしょうか。…

信仰シリーズ③ 信仰の三要素

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙4章16~22節  タイトル:信仰シリーズ③ 信仰の三要素 今朝も信仰について共に聖書から聴いていきます。 今回は信仰シリーズ第3回目です。 これまで信仰について共に考えてきましたが、今日もまた繰り返しお話したいのが、信仰がキリストとわたしたちをつなぐ管の役割を果たしているということです。 聖書の中で「キリストにあって」とか「キリストの中で」という時には、キリストとの結合を思い出してください。そしてその結合の役割を担っているのが信仰です。 キリストとみなさんの間に信仰という管があるイメージを持っていただけたら良いと思います。 この管があることによりキリストのものが全て私たちのものになるのです。 この管を通ってキリストの義は私たちのものになりました。 これが信仰によって義と認められるということです。 1 アブラハム 今日の聖書は信仰によって義と認められること、つまり義認の具体例の箇所です。 旧約聖書に登場したアブラハムの話をしながら、義と認められるとは一体どういうことなのかをパウロは説明していきます。 “そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。” ローマ人への手紙 4章16節 この御言葉を読むと信仰というものが恵みと密接不可分であることがわかります。 信仰は私たちの熱心や努力で得られるものではありません。 ただ神の恵みによって与えられるものです。 無償の贈り物として与えられるものです。 アブラハムは決して他の人たちとは違う何か特別な人だったわけではありません。 私たちと全く同じように、罪人でした。 自分自身を救う力のないものでした。 律法の行いでは救われないものでした。 しかしながら憐み豊かな神が恵みを注ぎ彼に信仰を与えました。 律法の行いとは全く違う方法として与えられた信仰によって救われました。 それで彼は神を信じ神はご自身が与えた信仰によってアブラハムを義と認めたのです。 2 信仰とは ではここで信仰とは一体何なのか、もう一度考えてみましょう。 別の言葉で表現するなら、信仰を構成している要素は一体何かということです。 教会はこれまで信仰には次のような要素があると考えてきました。 知識と同意と信頼です。 ⑴まず知識についてお話しします。 “そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。” ローマ人への手紙 10章17節 このように、信仰は聖書の言葉を基礎にしています。 信仰と知識すなわち聖書の御言葉は斬っても切り離せません。 そしてこの聖書は福音について書かれた本です。 ですから信仰の構成要素には、福音に関する知識が含まれるということです。 福音とは何だったでしょうか。 神がわたしたち人間とこの世界全てをつくられ、永遠に治められる方だということ。 わたしたちが神との約束を破って罪に堕ちたこと。 罪人となったわたしたちの身代わりになるためにイエスキリストがこの世界に下ってきてくださったこと。 わたしたちの代わりに神に完全に従う歩みをされたこと。 その絶頂として十字架にかかられ死なれたこと。 これによってわたしたちの罪はゆるされたこと。 しかしイエスキリストは三日目によみがえられたこと。 彼のよみがえりの命によってわたしたちは新しい命に生かされるものになったこと。 その後天にのぼられたが、いつの日か神が決められた時に、もう一度イエスキリストが来られること。 その時こそ神の国が完成しわたしたちクリスチャンは栄光の体にかえられてその国へと導き入れられていくこと。 概略を申し上げるとこのようなことですが、この福音を聞いて、福音が記されている聖書を読んで、福音に関する知識を得ること、これが三要素のうちの一つ目です。 ⑵二つ目は、福音を聞いたならば、その内容に同意し確信することです。 どれだけ知識を得て頭で理解しても、その内容に同意し確信しなければ信仰とは言えません。…

主を知らぬ人々の心

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き17章16〜34節 タイトル:主を知らぬ人々の心 今朝は久しぶりに使徒の働きを共に見ていきます。 使徒の働き1章8節にはこう記されています。 “‥聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” これはイエスキリストの言葉です。 この言葉の通り、イエスキリストの弟子たちは聖霊を受けてイエスキリストの証人となりました。 すなわちイエスキリストの十字架と復活による義と新しい命によって生かされることこそ真の道であることを知らせてまわったのです。 はじめはエルサレム、その後ユダヤ、さらにサマリヤ全土、そして小アジア地域にまで広がり、マケドニヤへと渡った福音はさらにアテネにまで及びました。 この地への宣教師として立てられたのはパウロです。 16節にあります通り、ふたりの人すなわちテモテとシラスを待つ為にアテネに滞在していたパウロでした。 “さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。” 使徒の働き 17章16~17節 パウロは町が偶像で溢れているのを見て憤りを感じました。 それで会堂や広場に出向き人々と論じ合いました。 会堂にはユダヤ人たちや異邦人でありながらイスラエルの神を信じる「神を敬う人たち」がいました。 また広場にはアテネに住む異邦人たちがいましたが、その中にはエピクロス派とストア派の学者たちもいました。 エピクロス派とはアテネのエピクロスという人によって始まった多神教の哲学学派でした。彼らが信じる神々は世界には無関心の神々でした。 ストア派はアテネでゼノンが起こした哲学学派で、この世の全てが神の一部と考える汎神論的哲学でした。 世界と神とは同一であり、神に人格があるとは考えませんでした。 この学者たちの中のある者たちはパウロを指して「おしゃべり」と言ってけなしました。 おしゃべりと訳された言葉は、「種をついばむ鳥」を表す言葉で、そこから広場で物を拾う「拾い屋」、ついにはあちこちから知識を受け売りする「受け売り屋」を意味するようになった言葉です。 パウロはこれらの哲学者たちから相当軽く見られていたようです。 また「外国の神々を伝えているらしい」という風にも言われました。 多神教のアテネの学者たちらしい言い方です。 多くの神々がいる中の一つの神を伝えていると考えていたようです。 これらの言葉からもアテネの人々が全くパウロの言葉に心を開いていないのがわかります。 パウロは命をかけてその人生をかけて福音を述べ伝えているのですが、それを聴いているアテネの人々は全くそのようには受け取らないのです。 おそらくエピクロス派やストア派よりも下位に属する学派か何かだとでも思っていたのでしょう。 ただそれでも彼らはパウロをアレオパゴスへと連れて行きました。 21節にある通り、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」からです。 アレオパゴスとは、「アレス神の丘」という意味です。 戦神アレスがこの丘で審判を受けたという伝説からそう呼ばれるようになったようです。 この法廷は,アテネの長老たちによって構成され,宗教や道徳の監督にも当たっていました。アレオパゴスは,アテネの最も重要な制度であり、道徳と宗教に関して特別の裁判権を持っていました。 この評議会の中心に立たされたパウロは、福音について語り始めます。 異邦人相手ということで、ユダヤ人が相手の時のように旧約聖書から引用するのではなく、この町の中にある祭壇に記されていた言葉を引用して語り始めます。 こうして復活のところにさしかかった時にある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「またいつか聞くことにしよう」と言いました。 つまり相手にされなかったということです。 しかしそんな中、パウロが語る福音をきいて、信じた人たちもいました。 これが今日のストーリーの概略です。 1 神の国とこの世との衝突 使徒の働き1章8節にあった通り、パウロはキリストの証人としてアテネに立ち福音を語りました。 1章8節にはエルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまでと言って、どんどん福音が伝えられる範囲が広がっていく様子がうかがえるのですが、この範囲が広げられるたびに起こることがありました。 それはこの福音を握って生きる神の国と、それを信じようとしないこの世との衝突です。 今日の箇所もこの衝突が起きています。 2 偶像を作る理由 ⑴ここで一つ考えてみたいことがあります。 それはなぜアテネの人々は偶像を作っていたのかということです。 それも町に溢れるほどに作って何がしたかったのでしょうか。 ここに世界中の人々に通じるものがあります。 この世で生きている人々全てが、アテネの人々のように石や木で何かを作るわけではないかもしれませんが、全ての人が偶像を持って生きています。 それはお金なのかもしれませんし、地位や名誉なのかもしれません。 人によってその種類は様々ですが、地上の何かでもって、この世界で生きる時に生じる不安や恐れを消そうとしているのです。…

信仰シリーズ② 信仰と律法の行い

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙 3章19~28節 タイトル:信仰シリーズ②  信仰と律法の行い “さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。” ローマ人への手紙 3章19~28節 今日も信仰について聖書から共に聴いていきたいと思います。 今日のお話もみなさん何度も聞いてこられたお話かと思います。 しかしこの不安定な状況の中では、変わることのないものをつかまなくてはいけません。福音そして信仰はどんな状況下でも変わることのない真理です。 今日もまた一度信仰について聴いていきたいと思います。 イエスキリストはわたしたちの身代わりとなって十字架で死なれ葬られ三日目によみがえられました。 わたしたちは彼につながることによって、彼の義と新しい命を得ることができます。 この時にイエスキリストとわたしたちの間をつなぐ管のような働きをするのが信仰なのです。 今日もこのイメージをまず持っていただいてはじめていきたいと思います。 1  神の律法について ローマ人への手紙3章10節と23節を見てください。 “それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。” ローマ人への手紙 3章10節 “すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、” ローマ人への手紙 3章23節 このように聖書は誰一人として神の前に正しい人はいない、全ての人が罪を犯したといいます。 何をもって罪と判断しているのかというと、それは神が与えた律法によってです。 この律法を全うできれば、人は罪なしとされ神の前で正しいもの、義人と認められるのですが、誰一人としてこの律法を守れる人はいないと聖書は言うのです。 律法というとみなさん何をイメージされるでしょうか。 おそらく出エジプト記に記されている十戒をイメージされるのではないでしょうか。 十戒ももちろん律法なのですが、もっとわかりやすくイエスキリストが教えてくださっている箇所が聖書にありますのでそちらを一緒に開いてみましょう。 “「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」” マタイの福音書 22章36~40節 イエスキリストはここで律法を要約して答えています。 神の教えを煎じ詰めると、結局この二つの愛に尽きるということです。 神への愛と隣人への愛です。 これは一時的な態度のことでも形式的なものでもありません。 「神の律法」は、個々の決まりをその都度守っているかどうかを問うのではなく、私たちの心そのものを問うものです。 もし神様にかなう心を持っているなら当然できることが記されていると言っても良いと思います。 この世のすべてを造られた神への愛と、隣人への愛。 自分自身を犠牲にしてでも神と隣人に尽くす心の人でなくてはいけないのです。 しかしそんな人がこの世にいるでしょうか。 自分自身はどうか一度考えて見てください。 イエスキリストが言われたこの神への愛と隣人を愛する愛に貫かれた心を持ち生きているでしょうか。 ハイデルベルク信仰問答という教理問答の第5問にこのような問答があります。 問5 あなたはこれらすべてのこと(律法)を完全に行うことができますか。…

信仰シリーズ① 信仰の定義とその成長

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き2章36節 タイトル:信仰シリーズ①  信仰の定義とその成長 人は神の前にアダムかキリストのうち、どちらに属しているかによってのみ判断されるというお話を以前しました。 私たちはアダムの子孫として生まれてくるので、生まれた時からアダムに属する者です。 アダムは神を裏切り神から離れた者なので、私たちも神を裏切り神から離れた存在として生きて行かなくてはいけません。 しかし御言葉と聖霊によって信仰が与えられるとそれによってアダムにつながる者からキリストにつながる者へと変えられます。 これまで福音について続けて見てきましたが、今日から「信仰」について見ていきます。 正確には福音のお話の中の信仰といった位置づけなのですが、信仰シリーズとしてお話しさせていただきます。 信仰にフォーカスを当てる理由は、それだけ信仰が大切だからです。 どうして大切かというと、イエスキリストと私たちをつなぐ管こそ信仰だからです。 先ほど私たちはアダムに属する者として生まれるという話をしました。 これは神の前に罪を犯したアダムが、彼がまさに善悪の知識の木の実を食べるという決断をしたときに、私たちも彼と共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見ているということを意味します。 だから私たちは罪人として生まれてくるのです。 しかしこれと同じ原理で、私たちはキリストにつながる者となります。 つまりキリストがこの世界で完全に神に従う人生を歩まれ、その絶頂としての十字架での死、そして葬り、三日目のよみがえり、これら全ての過程に私たちも共にいた、あるいは彼の内にいたと神が見てくださるということです。 神がそのように言われるのですから、実際にいたということなのです。 そしてこれはイエスキリストと私たちがつながったということなのですが、このつなぎ役になっているのが信仰なのです。 御言葉と聖霊によってこの信仰があたえられたわけですが、今日はこの信仰とは一体何かを共に考えていきたいと思います。 1 信仰とは 信仰とは一体なんでしょうか。 二つに分けて考えることができます。 ⑴ 一つはイエスキリストが私たちのためにしてくださったことを知りそれを信じることです。 これは先ほど申し上げたように、この世界に人となって来てくださったこと、そして神に完全に従う人生を歩まれたこと、そして十字架で私たちの身代わりとなって死なれたこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと。 このことを知り信じることです。 ⑵そしてもう一つがイエスが一体誰なのか、どのような方なのかを知り信じることです。 “ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」” 使徒の働き 2章36節 この箇所からイエスが一体誰なのかがわかります。 イエスは主であり、キリストであるということです。 ①イエスが主であるということは,彼がすべての権威を持っているということであり(マタ28:18)、天地のすべてのものを彼が治めていることを意味します(ピリ2:10)。 新約聖書の時代には「主」ということばは,異邦世界において王とか偶像の神々を意味した言葉でした。 だから「イエスは主である」ということは,イエスこそ真の神であり支配者であるという信仰の告白だったわけです。 当時のローマ皇帝は自らを神格化しようとしていましたが、このようにしてイエスは主であるということで本当の神が一体誰なのかを表しているわけです。 ②またキリストであるとも書いていますが、キリストとはヘブライ語で油を注ぐことを意味するマーシャフから派生しているマーシーアハのギリシャ語訳です。 旧約では、王や預言者や祭司がその職務に任命されるときに油注がれ、またイスラエル自体も油注がれた人々として登場します(ハバクク3:13)。したがって油注がれた者、メシアとは民を救うために選ばれた神の道具を意味する言葉と言えます。 つまりイエスがメシア、キリストであるというのは、まことの王であり預言者であり祭司であり、神の救いをもたらす存在だという意味なのです。 以上のことを知ること、これがイエスキリストを信じるということです。 そしてこのことについて聖書は私たちに語ってくれるのです。 イエスキリストが私たちのために何をしてくださったのか、そしてイエスキリストが一体どんな方なのかを教えてくれるのです。 2 信仰の成長 聖書を読むことが大切なのは聖書にイエスキリストのことが書いてあるからです。 イエスキリストのことを知るには聖書を読まなくてはいけません。 聖書を読んでイエスキリストのことを知ればさらに信仰は成長していきます。 イエスキリストを知ると言っても、これは単純な知識のことではありません。 イエスに信頼し彼に頼って生きていくときに、体験的な生きた知識になっていくのです。 聖書を読んでイエスのことを知ってそれを持って生きていくときに、体験的にわかるということもあれば、逆に先に体験したあとで聖書から発見するということもあると思いますが、とにかくイエスキリストを知るというのは、私たちの生活と密接不可分なことなのです。 こうして生きていくと自分とイエスキリストとの関係がはっきりしていきます。 するとこの真の知識に自分の生活そして人生を委ねていくことができるようになっていきます。 客観的事実としてイエスは私たちの主であり、キリストなのですが、それが自分自身の体験を通して主観的なものにもなっていき心からイエスは主でありキリストですと言えるようになるのです。 そうすると生活が変わり始め、人生が変わり始めます。 “兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。” テサロニケ人への手紙…

福音シリーズ⑨ キリストの復活

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:コリント人への手紙 第一 15章12~19節 タイトル:福音シリーズ⑨  キリストの復活 不安定な社会情勢が続いていますが、だからこそ今日も聖書の言葉に聴きたいと思います。 特に続けて見ております福音についてですが、今日は福音シリーズの第9回目になります。 タイトルはキリストの復活です。 キリストの復活は、彼の十字架と贖罪と同じように歴史的客観的事実です。聖書は復活の出来事について色々な角度から証ししています。 “女たちはイエスのみことばを思い出した。 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。 この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。 ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。 〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕” ルカの福音書 24章8~12節 “十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」” ヨハネの福音書 20章24~29節 これらの御言葉からも分かる通り、イエス様と一番長く共にいた弟子たちも復活は信じられませんでした。 女性たちがイエス様の復活を伝えても彼らは信じませんでした。 イエス様はそんな弟子たちのもとに現れました。 またその時いなかったトマスのためにも現れました。 第一コリント15章6節には”‥キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。‥”とあるように、イエス様は復活された後そのことを多くの弟子たちに現れて知らせました。 そしてご自身をあらわされた様子から、私たちはイエスさまが十字架刑までの肉体を持っておられたことと、同時にその肉体が全く同じではないことを知ることができます。 先ほどお読みしましたペテロが墓に行って中を確認する場面を見てもおわかりの通り、そこにはイエス様の死体がありませんでした。イエス様の肉体を包んでいたはずの亜麻布だけがあったのです。 つまり以前の肉体を持って復活されたということです。 イエス様は復活された後40日間弟子たちの前に現れました。 その時彼は釘に打たれて穴があいた手や、槍に貫かれた脇腹を見せました。これは十字架刑までの体であることの証明と言えます。 しかし一方で違う部分もありました。 弟子たちがイエス様のことをイエス様と認識できなかったり、突然現れたかと思えば見えなくなったりしました。 このように十字架刑までの体であることと同時に全く同じ体ではないことを示していかれたわけです。 とても不思議な姿に変えられてよみがえられたイエス様ですが、今日はこの復活の意味をもう少し考えてみたいと思います。 1  イエスキリストの復活の意味 イエスキリストの復活には独特な意味があります。 どのあたりが独特かを説明するには聖書に記されている他の人の復活と比較するとよくわかります。 新約聖書で復活した人というとラザロやヤイロの娘がいますがこの二人は復活はしましたが、この地上の生を全うすれば死ぬ体のままでした。 しかしキリストは復活して再び死ぬことはありませんでした。 彼は復活し弟子たちの前に現れ、その後そのまま天に昇られました。 そして今も生きておられ、永遠に生きておられる方です。 “キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。” ローマ人への手紙 6章9~10節 ラザロやヤイロの娘の復活はただこの地上での命を伸ばすだけのものとも言うこともできます。 彼らはいずれも以前の生活領域に帰っただけであり、いずれはもう一度死んだはずだからです。 しかしキリストの復活はただ命を伸ばす程度のものではなく、逆戻りしているわけではありません。 昇天に至る道に前進しているのです。 これまで誰も進めなかったところに道を作り進んでいかれたのです。 彼は罪と死の権勢に完全に打ち勝ちました。 ここが大きく違うところです。 これがイエスキリストの復活の意味です。…