わたしたちはクリスチャンです

2019年9月8日主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き11章19~30節 タイトル:わたしたちはクリスチャンです みなさんは最近「クリスチャン」という言葉や「キリスト者」という言葉をいつ使いましたか。 これらの言葉は何気なく普段使っているものだと思いますが、一体どのようにして生まれたのでしょうか。 私たちがクリスチャンとして、キリスト者として生きる上で、このことを知っておくのは良いことだと思います。 今日はクリスチャンあるいはキリスト者と呼ばれるようになった弟子たちの姿からこの言葉の意味を探りたいと思います。 <アンテオケに散らされた弟子たち> 先週までペテロとコルネリオの出会い、そしてそれに対するエルサレム教会の反応を見てきましたが、この11章19節から場面が大きく変わります。 「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。」(11章19節) ここから始まるお話のヒントになる言葉が8章4節にあります。 そこには11章19節とよく似た言葉が記されています。 「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(8章4節) この御言葉の後、迫害によって散らされた者たちの一人であるピリポのサマリヤへの宣教が記されていました。 そして今日見ます箇所ではサマリヤではなく違う地方にまで散らされた人々がそこでどういう働きをしたのかについて記されています。 ですから流れとしては8章4節に続く流れだと言えます。 サウロを中心とする人々の迫害から逃げるためにある人はピリポのように比較的エルサレムから近い地方に逃げましたが、ある人はアンテオケのように遠い地方へと逃げる人もいたようです。 迫害でアンテオケ、フェニキア、キプロスに散らされた人々も異邦人に福音を語ることなくユダヤ人にのみ語りました。 この時点での彼らもまだペテロの話を聞く前のエルサレム教会のように異邦人に福音を語ることを敬遠していました。 しかし20節を見ますと、一気に状況を変える働きをする人たちが現れます。 “ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。” 使徒の働き 11章20節 キプロス人とクレネ人と書かれているので、異邦人のように思われるかもしれませんが、この人たちもキプロスとクレネ地方出身のユダヤ人であるとご理解くだされば良いと思います。 彼らはヘブライ語よりもギリシャ語を使ってコミュニケーションをとった人たちでした。 だから同じくギリシャ語を使うギリシャ人たちとも問題なくコミュニケーションがとれましたし、何より彼らは幼い頃よりギリシャ人たちと多く接することができるキプロスやクレネで暮らしていました。 そういう人たちにとってギリシャ人は非常に身近であり、エルサレムで生まれ育ったユダヤ人に比べると抵抗感が少なかったのかもしれません。 よく知った雰囲気、文化に身をおく彼らはエルサレム出身者に比べてたくましく見えたに違いありません。 異邦人文化に精通し言葉も巧みな彼らの振る舞いは自然なものであったはずです。 そういう人々の言葉を現地の人々も聞こうとするのではないでしょうか。 もちろんエルサレム出身者にも彼らにしかできない仕事があったでしょう。 まだ異邦人に対する偏見が残るユダヤ人へはギリシャ語を使うユダヤ人よりもエルサレム出身者がヘブライ語で語る方が良いはずです。 それぞれに良さがあり弱さがあります。 このような多様性を持ってキリストの元に集められた者たちを通して宣教は進められました。 人を通して神は働かれ新しい人が起こされていきます。 しかし聖書は誰かの努力でそうなったとは語りません。 ここでも主の御手が共にあったのでおおぜいの人が主に立ちかえったと語っています。 ただ主の御力でもって彼らは伝道しそれによって救われた人たちが大勢いたと聖書は伝えています。 “そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。” 使徒の働き 11章21節 主の御手が共にあるという表現は、旧約の時代から多く見られました。 “見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。” 出エジプト記 9章3節 “さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。” サムエル記第一 5章6節 “カルデヤ人の地のケバル川のほとりで、ブジの子、祭司エゼキエルにはっきりと主のことばがあり、主の御手が彼の上にあった。” エゼキエル書 1章3節 主の敵に対して御手が臨む時は、敵は打ち倒され、主の民に対して臨む時は、力を与えられました。 主の御手とは主の力を象徴する表現です。 アンテオケで福音を伝えた人々を突き動かしていたのはこの主の御手でありました。 主の御手、すなわち主の力によって彼らは自分たちの特徴を存分にいかし福音を大胆に語ったのです。 するとこの知らせが遠くエルサレムにまで及びます。 <バルナバを派遣するエルサレム教会> “この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。 “彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。”…