主の眼差しを受けて待ち望む

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの黙示録 14章14~20節 タイトル:主の眼差しを受けて待ち望む 今日からアドベントが始まります。 アドベントとは到来、来臨を意味し、クリスマスの4週前の日曜日からクリスマスの日まで続きます。アドベントの期間は主の到来を待ち望む期間です。 主の到来を待ち望むという言葉には二つの意味があります。 一つは、2000年前にイエスキリストがお生まれになったことを覚えて、そのお生まれを待ち望むこと。 そしてもう一つは、天におられるイエスキリストが再びこの地に来られる再臨を待ち望むことです。 今日はこの二つ目について触れたいと思います。 今日の聖書はヨハネの黙示録14章です。 この箇所の前のところには、悪魔を表す竜と、それに力を与えられた獣がこの世界で暴れ回る様子が記されています。 しかしその後この幻を神に見せていただいたヨハネはさらに希望の幻を見ました。 それはイエスキリストがシオンの山の上に立っておられる姿でした。 そしてその側には過去現在未来すべての救われたクリスチャンを意味する14万4千人の人たちがいました。 イエスキリストの十字架による贖いによって罪赦され神の民とされた人々がそこにはいたのです。 当時キリスト教会は、大変な迫害の最中にありました。 この幻を見たヨハネ自身もバトモス島という島に流されていました。仲間達もたくさん捕まり殺された人たちも多くいたことと思います。 そういう状況下にある彼にとってこの幻は大きな希望になったはずです。 おそらく彼はあの14万4千人の中にすでに死んだ仲間たちの姿も見ただろうと思います。 さらにこの後彼は天からの声を聞きました。 “また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」” ヨハネの黙示録 14章13節 今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。 つまり主に結び合わされて死んだ人たちは幸いな人だということです。 ローマ帝国に捕まり死刑にあった人であろうとも、それでも主を信じて死んだならそれは幸せなことなのだというのです。 どうしてそれが言えるのかというと、それが先程の幻にあらわれています。 イエスキリストと共にいるものとされたからです。 彼らは決して孤独に死んだのはありません。 主にあって死んだ、主に結び合わされて、主の中で死んだのです。 生の終わりは死ではなく、 その先に新たな生があります。 主イエスキリストにあるあらたな命に生きる生です。 その中にいる人は幸いなのだという声をヨハネは聞いたのです。 1 収穫の時 今日の聖書はさらにその続きとしてみた幻です。 ヨハネの黙示録 14章14~16節 “また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。“ ヨハネはここで雲に乗っている人の子のような方、つまりイエスキリストを見ました。 この方は金の冠を被っています。つまり真の王であることを示しています。 世の中は当時ローマ皇帝こそ王でした。 しかし真の王はこの金の冠をかぶり雲の王座に座っておられるイエスキリストであることをあらわす幻です。 この真なる王が手に鋭いかまを持っていました。 この真の王こそ、この世を裁く審判者であることを描写しています。 彼は一人の御使いの合図を受けて、地に鎌を入れて、穀物を刈り取りました。 穀物は完全に熟してすでに刈り取るべき時が来ていたからです。 これはすなわち終わりの時がやってきて、神の民が御国に導き入れられることを示しています。 その日その時が来ると、このようにイエスキリストが神の民である私たちを刈り取って神の国へと連れて行ってくださるということを教えてくれる箇所です。 この刈り取りについて、収穫について語っている言葉がマタイの福音書13章にありますが、39節には「収穫とはこの世の終わりのことです。」と書かれています。 この世の終わりというと、この世界の破滅をイメージされる方が多いと思うのですが、クリスチャンにとっては新しい世界の始まりであり、神の国の完成を意味します。それは本当に苦しみも痛みも涙もない世界の始まりの時なのです。その時にイエスキリストにつながっている人は、農夫が収穫の時に穀物を刈り取るように、神の国に導き入れられるのです。 その続きの43節には「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。」とあります。 だからイエスキリストにあって死んだ者は幸せだと言えるのです。 ではこれがこの世界の終わりの時だとするなら、今はどのような状況と言えるでしょうか。 それは王冠を被ったイエスキリストが鎌を持ってこの世界を見ておられる時と言えると思います。…

主に感謝せよ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇136篇 タイトル:主に感謝せよ 今日の聖書は詩篇136篇です。 この詩篇はとても特徴的な詩篇です。 それぞれの節が前半後半に分かれていて、後半部分は「その恵みはとこしえまで」という言葉を繰り返しています。 これはおそらく先ほど私たちが共に読んだ交読文のように、礼拝の司式をする人が前半を歌い、後半は会衆が歌うという形でなされていたのだろうと思います。 ですからこれは個人で歌う歌というよりも、共同体で共に歌う賛美だったということができます。 共に歌うことはそれ自体が共同体をおぼえる行いです。 現代の私たちと同じように、当時のイスラエルの人々の中にもいろいろな人たちがいました。 しかしこの共同体の賛美はさまざまな人たちを主にあって一つにしたのです。 神の恵みを思い巡らし感謝することは、一人でももちろんできますが、共同体として共に行うこともまた必要なことなのでしょう。 今日もこの詩篇によって私たちが一つの思いとなり共に神に感謝を捧げる時となりますように祈ります。 この詩篇の冒頭を見ますと「感謝せよ」という言葉が繰り返されていることに気づかれることと思います。 この世は絶えず私たちを苦しめ、感謝などできないと思えるような時も多々あります。疲れ果ててしまうこともあると思います。 しかし今日の詩篇は、そんなわたしたちにも感謝を教えてくれます 詩篇136篇が教える感謝は条件ではありません。 今置かれている環境、その状況によって左右されてしまうものではありません。 環境や状況によって左右される人は、それが好転しても結局感謝はできません。 瞬間的に喜んで感謝しますと言ったとしても、次の瞬間には感謝はどこかへ飛んでいってしまいます。 感謝は条件ではありません。 感謝を知っている人だけが感謝をします。 では感謝を知っているとはどういうことなのでしょうか。 それは自分が既に神から多くのものを受け取っていることを知っているということです。 そして神によって生かされているということを知っているということです。 今日の御言葉である詩篇136篇はまさにそのことを教えてくれる詩篇になっています。 はるか昔、イスラエルの人々が神を見上げつつ共に歌った歌を、今日私たちも共に読み今現在の事として受け取り直す。 そのような時間となることを祈ります。 1  神がおられることへの感謝 “主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。 主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。” 詩篇 136篇1~3節 この世には神と信じられている存在がたくさんあります。 この詩篇の作者の周囲にも、この詩篇を歌った人々の周りにも多くの神々がありました。 私たちの周囲にも神の名のつくものがたくさんありますが、どれも人が勝手に作り出したものです。 しかしこの多神教の世界にあっても、私たちは神がお一人であることを知っています。 「光あれ」と言ってこの世界を造られ、また人を造り愛し導いてくださる神はお一人だけです。 神の神、主の主という表現は、最上を意味する言葉です。 申命記10章17節にもこのような言葉があります。 “あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり‥” 神の神、主の主というのは、神の素晴らしさ、その偉大さを表現するための言葉です。 この世界のあらゆるものに優先する大いなる方、それが真の神です。 そんな神に感謝せよと詩篇記者はここで歌うのです。 その方はかつてモーセに「私はある」と言われた方です。 どんなものにも依存することなく神として存在し続ける方。 この方が存在することに感謝せよとこの詩篇は歌うのです。 そしてそれは恵みであり、その恵みはとこしえまで、つまり永遠に続きます。 この世界は神なき世界です。 実際には神はおられるのですが、それを受け入れ信じようとしない世界です。 そしてかつてのイスラエルの周囲の人々がそうだったように、勝手に自分に都合の良い神々を作りあげてそれを拝む世界です。 そんな希望のない光のない世界ですが、それでも永遠から永遠まで神は神として存在し続けてくださることを私たちは知っています。 だから感謝することができるのです。 1〜3節は、神の存在への感謝を歌っている箇所です。…

神から与えられた使命に生きる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き20章13〜38節  タイトル:神から与えられた使命に生きる 1 ミレトでエペソの長老たちと会う パウロ一行がトロアスから出発する時となりました。 そこでパウロ以外の人たちは先に船に乗ってアソスという町に向かいました。 パウロはおそらくこのトロアスの町に可能な限り残って福音を伝えようと思ったのでしょう。 一人陸路をとってアソスへと向かいました。 その後パウロと他のメンバーたちは無事アソスで落ち合って、一緒に船に乗りミテレネ、サモスへと寄港し、ミレトという町に着きました。 船はミレトの町で大体3日ほど停泊していたようです。 それでその間にエペソの教会の長老たちを呼び寄せることにしました。 ここで長老と記されていますが、今よりも意味の広い言葉です。 現在は長老といえば信徒を代表する立場であり、牧師とはまた違うものですが、もともとは長老というのは、現在の牧師と長老を合わせたような存在でした。 ですからこの時呼び寄せた人たちというのはエペソ教会を任されたリーダーたちです。 このリーダーたちと会うために、遣いをエペソへと遣わし呼び寄せました。 ミレトからエペソまでは大体50キロ程度の距離です。 遣いはこの距離を往復したわけですので、約100キロになります。 この距離をできるだけ早く歩かなくてはいけません。 船が出発するまでに連れてこなくてはいけないからです。 現代のように舗装されていない道を100キロ歩くのは大変なことです。 おそらくパウロの遣いは、エペソで一晩休んで、さらにどこかでもう一晩という具合に、早くても丸2日から3日ほどの時間がかかったと思われます。 船が出てしまうまでのギリギリの時間でした。 こうしてエペソの教会のリーダーたちが無事に到着しパウロのもとにやってきました。 パウロは彼らに伝えなければいけないことをここで語り始めました。 “彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。” 使徒の働き 20章18~21節 この箇所は以前パウロがエペソにいた時についてのお話です。 パウロは「どんなふうにあなたがたと過ごして来たか。あなた方はご存知です」と言って話し始めました。 そしてどんなふうに過ごしたか、その内容についても話します。 それは謙遜の限りを尽くして、主に仕える過ごし方でした。 原文のギリシャ語では、主の僕として仕えたと記されています。 パウロはまさに主の僕としてエペソで生きました。 ではこの主の僕として仕える生き方とはどのようなものだったのでしょうか。 整理しますと、 働きの場所は、「人々の前」つまりユダヤ公会堂やツラノの講堂のような公の場や、家々という私的な場でも仕えました。 また、働きの時間はというと、18節「アジヤに足を踏み入れた最初の日から」、31節「三年の間、夜も昼も」ぶっ通しの働きでした。 では働きの相手は誰でしょうか。 21節「ユダヤ人にもギリシヤ人にも」すべての人です。 そして31節「あなたがたひとりひとり」という個人個人へきめ細かく配慮して行われたものでした。 2 苦難が待ち受けていても聖霊に従うパウロ 3年もの間、パウロは夜も昼もエペソの人々のために仕え続けました。これも聖霊によってでした。 しかし今はまたその聖霊の導きでエルサレムへと行かなくてはいけません。 “いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。” 使徒の働き 20章22~23節 いま私は、心を縛られて、エルサレムへ上るとありますが、別訳では聖霊によって縛られてとなっています。 聖霊によって彼はエルサレムへ導かれて行かなくてはいけません。 そして行った先ではなわ目と苦しみが待っています。 またエペソの教会もこれから大変なことが起こります。 “私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。” 使徒の働き 20章29~30節…

神の慰め

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き20章1〜12節 タイトル:神の慰め 「慰め」と聞いてみなさんは何を思い浮かべますか。 新約聖書において「慰め」と訳されている言葉は、本来ギリシャ語でパラカレオウといいます。 これは「そばに呼び出す」という意味がある言葉です。 弱っている人の横で呼びかけはげますイメージを与えてくれる言葉です。 みなさんは誰に呼び出されたのでしょうか。 誰に引き寄せられているのでしょうか。 人は苦難や悲しみに陥る時、慰められることを必要とするものです。 しかしそれを必要としている人に対して、人間は適切で十分な慰めを与えることはできません。 人が本当の意味で慰められるのは神の慰めにのみです。 1節2節には「はげます」と訳されている言葉が登場します。 “騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。 そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。” 使徒の働き 20章1~2節 この「はげます」という言葉も、実はギリシャ語ではパラカレオウという言葉が使われています。 つまり慰めとも訳すことができた言葉でした。 今日は1節から12節まで見ますが、この中に慰めと訳せる言葉は1節に一回、2節に一回、そして12節に一回の計三回登場します。 慰めは今日の聖書のストーリーを貫いている大きなテーマです。 イエスキリストが弱っている人を横に置いて呼びかけはげます、そんな姿をイメージしながら聴いていただければと思います。 1 銀細工人デメテリオが起こした暴動の後のお話です。 パウロはこの騒ぎがおさまると弟子たちを呼び集め励まし別れを告げました。 そしてマケドニヤへと出発しました。 マケドニヤは、ピリピ、ベレヤ、テサラロニケがある地方の名称です。 これらの町々でもパウロは人々を励まして回りました。 そしてギリシャ地方へとやって来ます。 この地方にはコリントがあります。 パウロはここで三ヶ月ほど過ごしてからシリヤに向けて船出しようとしました。 しかし問題が起きます。 “パウロはここで三か月を過ごしたが、そこからシリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったため、彼はマケドニヤを経て帰ることにした。” 使徒の働き 20章3節 どのような陰謀だったかはわかりませんが、パウロに反感を抱くユダヤ人たちが彼を殺そうとしていたのだと思います。 それでパウロはやって来た道を引き返す形でマケドニヤを回ってエルサレムへ戻ることにしました。 4節には共に行動していた人たちの名前が記されています。 “プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、” 使徒の働き 20章4節 この人たちは、パウロがこれまで福音を伝えて回った町の教会の代表たちです。 おそらくマケドニヤ地方をぐるっと回る間、またいくつかの町を巡り歩きながら励ましたのだと思います。 それでかなりの時間がかかったのでしょう。 そこでこれらの人々は先にトロアスという町に行きパウロを待っていました。 ところで5節を見ると突然「私たち」という一人称が登場します。 これまでは「パウロが」と書かれていたのですが、ここから突然出てくるのです。 これはこの書簡、使徒の働きの著者が合流したことを示すものです。 著者として最も有力なのはルカです。 ルカの福音書を書き、使徒の働きを書いた彼がこのマケドニヤのある町で合流したのでしょう。 そしてそれはおそらくピリピの町です。 なぜなら以前も「私たち」という言葉が登場したことがありましたけど、それはトロアスからピリピの町の間までだったからです。(参考:16章) ルカはトロアス、あるいはそれより少し前に合流したのだと思います。 そしてそこからパウロたちと一緒に行動してピリピまでやって来て、そこで新しい教会ができたからその教会を支えるために残ったのではないかと考えられるのです。 そして再びパウロが戻って来た時に、またピリピから合流したと見ることができるのです。 こうしてパウロはルカと共にトロアスに渡りそこで4節に登場した7人の異邦人教会の代表たちと落ち合いました。 ここに来るまでに立ち寄ったギリシャ地方のコリントで書かれたとされるローマ人への手紙には、こうして代表者たちを引き連れて行く理由が記されています。 “ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。…

キリストの栄光と神々の威光

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き19章23〜41節 タイトル:キリストの栄光と神々の威光 パウロがエペソに戻ってきて福音宣教を再開し、それが2年もの間続きました。 アジアに住む人たちは皆福音を聞いたと聖書に記されているほどに多くの人々がパウロからイエスキリストのことを聞きました。 この地域での宣教は大いに成功したと言って良いと思います。 しかしこのように救われる人たちがたくさん起こされると、その反対勢力も起こってくることがあります。 1  お話の流れ 今日最初に登場したのはデメテリオという人でした。 この人は銀細工人です。 “それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、” 使徒の働き 19章24節 こちらに記されているように、この人は銀でアルテミス神殿の模型を作っていました。そして職人たちにかなりの収入を得させていたというわけです。 アルテミス神殿で崇められていたアルテミスという女神は、エペソの町の守護神、および肥沃な土地の象徴でした。 毎年3月から4月には、参拝者や観光客がエペソの町を訪れて富をもたらしていました。 アルテミス神殿の模型もこれらの人々に売られていたものです。 しかしキリスト教が伝えられたことによって、このアルテミス神殿の模型の売り上げが下がったようです。 それが26節を見ると分かります。 “ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。” 使徒の働き 19章26節 パウロが手で作ったものは神ではないとはっきり伝えていたのでアルテミス神殿への参拝客が減り、またその模型の売れ行きも下がったということなのでしょう。 彼らの思いの中心にあるのは、キリスト教のせいで、パウロのせいで、私たちの収入が減り生活がおびやかされている。早く追い出さないといけないということでした。 しかし実際にデメテリオが言った言葉はそれだけではありません。 どのような言葉を言っているでしょうか。 “これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」” 使徒の働き 19章27節 ここでデメテリオは三つのことを言っています。 一つ目は、自分たちの仕事の信用が失われるということ。 二つ目は、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなるということ。 三つ目は、全アジア、全世界の拝むこの大女神の威光も地に落ちてしまうということ。 この三つでした。 ただ彼の思いの中心は一つ目にあります。 自分の商売が成り立たなくなることです。 しかし2つ目と3つ目も付け加えて語る必要が彼にはありました。 なぜなら自分たちの仕事のことだけを言えば、その仕事に関係している人たちの賛同しか得ることができないからです。 そこでエペソの町のアルテミスという女神がないがしろにされていると言うことによって、より多くの人々の指示を取り付けようとしたのです。 そしてこの方策はまんまと成功しました。 “そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。 そして、町中が大騒ぎになり、人々はパウロの同行者であるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場へなだれ込んだ。” 使徒の働き 19章28~29節 デメテリオの言葉を聞いて、まず職人や同業者たちがこのように叫び始めました。 するとこの騒ぎはさらに大きく広がり始め町中が大騒ぎになってしまいます。 デメテリオ、職人たち、同業者たち、と増えていき、さらにその周囲の人々を巻き込む渦があっという間に町中に広がってしまったのです。 この間にパウロの同行者であったガイオとアリスタルコがその渦に巻き込まれて捕らえられてしまいました。 そしてそのまま劇場へとなだれ込んでいったのです。 パウロはこれに巻き込まれずに済んだのですが、それでも自分の同行者が危険だと言うことを知ると、その劇場へなんとか入って行こうとしました。 “パウロは、その集団の中に入って行こうとしたが、弟子たちがそうさせなかった。 アジヤ州の高官で、パウロの友人である人たちも、彼に使いを送って、劇場に入らないように頼んだ。” 使徒の働き 19章30~31節 なんとか入って行こうとしたパウロでしたが、弟子たちがそれを留めました。 そしてパウロの友人でもあったアジア州の高官が使いを送って劇場に入らないように頼んだのです。 この場面でパウロは何もできない状況に追いやられていました。 せっかくエペソでの伝道が成功したと思ったら、思いがけず大変な暴動が起きてしまい、その中に同行者が二人も巻き込まれ命の危機に瀕してしまったのです。 どれだけの人たちが集まっていたのかは分かりませんが、大変な混乱だったようです。…

ただ聖書のみ

宗教改革記念礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き8章26〜31節 タイトル:ただ聖書のみ “ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。) そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。” 使徒の働き 8章26~31節 一年に一度、プロテスタントの多くの教会では宗教改革記念礼拝がもたれています。 これは宗教改革が始まったとされる10月31日の前の主日に持たれる特別な礼拝です。 宗教改革とは、マルチンルターをはじめ、多くの改革者たちが、当時のカトリック教会の間違いを指摘して始まった運動のことです。 そしてこの出来事を知ることは私たちプロテスタント教会とは一体何なのか、またプロテスタント教会の信仰とは何なのかを知ることにつながります。 今日はこの宗教改革について共に学んでいきたいと思います。 宗教改革の信仰を表す標語は5つあります。 ただ信仰のみ、ただ聖書のみ、ただ恩恵のみ、ただキリストのみ、ただ神の栄光のみです。 今日はこの中の「ただ聖書のみ」に絞ってお話しして、宗教改革とはどういうものだったのか、そしてそれが私たちにどういう関係があるのかをお話ししたいと思います。 1 聖書は解釈する必要がある 今日お話しする「ただ聖書のみ」という標語を説明するにあたって、まず誤解が生まれる恐れがあるところからお話しします。 それはこの「ただ聖書のみ」という標語が、これまでのキリスト教会の伝統全てを否定して、ただ聖書だけ読んでいれば良いという意味ではないということです。 聖書は書物です。 神が書かれたと同時に人が書いた書物です。 ですから必ずここには解釈が伴います。 そしてその解釈にも正しい解釈と間違った解釈が存在します。 キリスト教会はこれまで2000年間正しい解釈をすることもあれば間違うこともありました。 そういう中でこれが聖書が語る真理だと言って積み重ねてきた解釈の蓄積が現在伝統となっているものです。 これは具体的には信仰問答、教理などに表されています。 これらは全て聖書をしっかりと土台として聖書には何が書いているのかをまとめたものということができます。 今日ともにお読みした使徒の働きに出てくる言葉の中に、導く人がいなければどうしてわかるでしょうというものがありましたが、まさにこの導くものとなってくれるのが、これらのキリスト教の伝統ということができます。 先人たちが悪戦苦闘しながら蓄積した聖書解釈の成果なのです。 ただこの伝統が有効なのは、聖書を土台とする限りにおいてです。 聖書に書かれていないことを勝手に創作して付け足してしまうと、それは正しい導き手にはなり得ません。 逆に人を混乱させるものになってしまいます。 2 聖書を土台としない解釈 ルターは人々を混乱させ本当の神の言葉から遠ざける伝統に気づきそれに異論を唱えた人でした。 今から500年前に生きた人ですが、当時の教会はカトリック教会しかありませんでした。ルター自身もカトリックの修道士としてアウグスティヌス修道院に入ってそこで修行した人でした。 しかし聖書を深く読み進めていったときに、カトリック教会が持つ間違った教理に気づいたのです。 中でも今日紹介したいのは、煉獄の教理と贖宥(いわゆる免罪符)です。 ①煉獄について 煉獄とは、死んだ人のほとんどがいく所とされています。 死んだらそのまま天国に行ける人は殉教した人や聖人と呼ばれる完全に聖められた人たちだけです。 ほとんどの人は煉獄に行き、自分の内に残る罪が完全になくなるまで天国にはいけないという教えなのです。 しかしこれは聖書には記されていません。 ②贖宥状(免罪符)について この起源は7世紀ごろのアイルランドにあると言われています。 ゲルマン世界に広く見られた損害と賠償と代理という考え方が出発点になっています。 彼らの考え方では、人間が罪を犯すということは神に対して損害を与えるということです。したがって人間は神に対してその損害を賠償する必要があり、罪を犯した当人は断食や施しや徹夜の祈りをする必要があると考えました。 この考え方が広まった当初は、修道士たちが民衆の代理となって果たしていた真剣な行動だったようです。 ところが、この償いの行いが民衆の間にも広まって一般化されていき、そこからどんどん変容していきました。 この後、人間は日頃の良い行いを業績として積み立てておけるとみなされるようになり、その積み立てを償いに当てることもできると考えられるようになっていきます。 そしてこの業績を自分のために積み立てられるなら、他の人のためにも積み立てられるだろうということになりました。 生前に良い行いが多く、業績を積み残したまま死んだ人のものは、教会の宝として教会が管理して積み立てておくことができることにし、時に応じてこれを引き出して用いようということになったのです。 しかもそれはローマ教皇の裁量で民衆に分け与えられることにしました。 この証明書として発行されたのが贖宥状(免罪符)だったのです。…

聖霊のバプテスマ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き18章24〜28節 タイトル:聖霊のバプテスマ イエスキリストは十字架につけられ殺され三日目によみがえられた後、天に昇られました。 その後弟子たちはエルサレムで待つようにというイエスキリストの言葉の通りに待っていますと、聖霊が臨みました。 聖霊は三位一体の神の第三位格です。 イエスキリストの霊とか、助け手とも呼ばれるこの聖霊によって弟子たちは大きく変えられて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで福音を宣べ伝えるものになりました。 “しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” 使徒の働き 1章8節 彼らが福音を宣べ伝える中で大変な迫害にあいました。 中でもサウロという人は、彼らに大変反対し、多くのキリスト教徒を捕まえて、牢屋に入れてしまうほどでした。 しかしこのサウロにイエスキリストは直接出会われ、彼は回心し、キリスト教徒となったばかりか、福音を広く宣べ伝えるものとなりました。 使徒の働きの中でも、彼の名前はユダヤ人の発音であるサウロではなく、途中でギリシャ語の発音であるパウロに変わりました。 これはおそらくユダヤ人たちだけではなく、異邦人たちへと福音を伝える者となっていくことを示したものだろうと思います。 使徒の働きの後半部分は主にこのパウロが中心となって話が展開していきます。 1 伝道者アポロ しかし今日の箇所はそんなパウロがエペソで伝道して去った後、他の伝道者がやってきたところを描いています。 その人の名前はアポロと言います。 彼はエジプトの北にあるアレキサンドリヤ出身のユダヤ人でした。 アレキサンドリヤとは紀元前332年にアレキサンドロス大王によって建てられた都市です。 イエスキリストの弟子たちの時代にもエジプトの中心的な都市で、ローマ帝国においても第二の都市でした。 40万から90万巻の蔵書を有する図書館を持つ博物館もありました。 さらに大学もあり、当初はアテネの学校をまねて作られましたが、すぐにアテネを追い越してしまう程の急成長を遂げました。 数学,天文学,医学,作詩法の学問で名高く、文学と芸術も盛んでした。 人口は60―70万ほどで,ユダヤ人,ギリシヤ人,エジプト人によって構成され、 ユダヤ人はギリシヤ人と同等の特権を与えられたため多くの者が定住しました。 イエスキリストの一番弟子とされるペテロはガリラヤの田舎出身で、あまり学問には縁がありませんでした。 それに対してパウロは、ユダヤ教の教育をきっちり受けた人でした。 しかしこのアポロはそれにも増して、学問的な蓄積が相当あったものと思われます。 アレキサンドリヤにおいては学ぶことに事欠きません。 良い環境で生まれ育ち教育水準も高い人だったのでしょう。 そういう人がイエスキリストのことを伝え聞いて、聖書に記されている出来事と照らし合わせたところ、まさにイエスこそメシアであること、救い主であることを知ったのです。 それで、いても立ってもいられず、伝道者の道を歩み、とうとうエペソにまでやってきました。 アレキサンドリヤからエペソまでは直線距離にして2700キロあります。 北海道から沖縄よりも離れています。 “さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。” 使徒の働き 18章24節 ここには聖書に通じていたと記されていますが、この聖書は今私たちが持っている新旧約聖書が記された完全なものではありません。 当時はまだ、新約聖書はあれませんので、アポロが通じていたのは旧約聖書です。 旧約聖書、おそらくその中でも預言書に書かれていた内容と、イエスキリストのことを照らし合わせたときに、この方が救い主だと悟ったのでしょう。 アポロは学問的素養があり、話の上手な人でした。 ただ彼にはまだ知らなければいけないことがあったようです。 2 ヨハネのバプテスマ “この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。” 使徒の働き 18章25節 主の道の教え、つまりイエスキリストを知っていたということです。 そして霊に燃えて、イエスのことを正確に語ることもできました。 しかし彼はヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。 ヨハネのバプテスマとは何でしょうか。 まずバプテスマについて説明します。 バプテスマの本来の意味は、「一体化」です。 布を染料液に浸けると、その色に染まります。 それがバプテスマのイメージです。 ではヨハネとは誰でしょうか。 この人はイエスキリストよりも少し前にユダヤで神の働きをしていた人でした。…

イエスキリストは道です

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書14章6節 タイトル:イエスキリストは道です 大切な人のために、一生懸命何か準備をしたのに、その人の思いとはかけ離れていたなんてことはないですか。 誰かのために、一生懸命になることはとても大切なことだと思います。 でもそれが相手の好みと合わなかったり、タイミングがずれていたりして、失敗することがあります。 大切な誰かに対して何かをする前に、その人について正しく知ること、正確に理解することが重要です。 さて、では私たちにとって最も大切な存在は一体誰でしょうか。 私たちクリスチャンにとって一番大切な方は、イエスキリストです。 彼を信じ、彼に祈り求め、彼の言葉であるこの聖書を読んで学び日々生かされています。 ですから私たちにとって、この方のことを正確に知ることは何より大切なことだと言えると思います。 彼がどういう方であり、私たちのために何をしてくださったのかについて正しく知ることなくして、神に喜ばれる者として生きて行くことはできないからです。 1  イエスキリストは神 今日は彼が一体どういう方なのかを共に考えてみたいと思います。 “イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。” ヨハネの福音書 14章6節 この言葉はイエス様ご自身が言われた言葉です。 この聖書の中でまず注目していただきたいのは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と記されている一文の最初と最後の部分です。 「私は〜です。」という言葉です。 これは新約聖書の本来の言語であるギリシャ語ではエゴーエイミーとなっています。 エゴーエイミーとは、自分の存在を支えているのが自分自身だという意味がある言葉です。 自分の存在を支えているのが自分自身だと言える人間はいません。 この世界に自分自身で生まれようとして生まれてきた人はいません。 自分の計画通りに、自分の思い通りに、この世界を生きた人はいません。 つまりこのエゴーエイミーという言葉を使える人はいないということです。 この言葉が使えるのは神様だけです。 日本語の聖書だけでは見えないのですが、実はここでイエス様がはっきりご自身のことを神様だといっているのです。 その上で自分が道であり、真理であり、いのちなのだと伝えてくれている言葉だとご理解ください。 神であるイエスキリストがご自身を指して道であり、真理であり、いのちだというのです。 2 イエスキリストは道 イエス様を通してでなければ、誰ひとりとして父なる神様のもとにはいけません。 つまりイエスキリストなしでは誰ひとりとして天国へは入れないということです。 今日はこの中のイエス様が道だということについて考えてみたいと思います。 想像してみてください。 私たちの前には道が二つあります。 その道は真逆に伸びています。 一方はあちら側、一方はこちら側に伸びています。 一方は滅びの道、一方は永遠の命の道です。 一方は人間の道、一方はイエスキリストです。 人はこの二つの道のどちらかを歩いていきます。 そして例外なく、人は最初人間の道を進んでいきます。 つまり滅びの道を進むということです。 その道には命がありません。 その道には心からの平安がありません。 その道には本当の喜びがありません。 その道には寛容がありません。 その道には死があります。 その道には不安があります。 その道には怒りがあります。 その道には人を裁く思いがあります。 その道を人は歩いていきます。 そしてその先は永遠の滅びという崖です。 その方向へと人は歩いて行くのです。 聖書に登場する2000年前の人々も同じでした。…

第6問 三位一体の神

第6問 三位一体の神 問: その神には、いくつの位格がありますか。 答: 神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。  1 三位一体の教理 人であるという事と父親であるという事は別物です。しかし同時に人であることも父親であることも事実です。本質的に見れば人、息子や娘との関係で見ると父親と言うことができます。 同じように神様であると同時に、三位の互いの関係として、父、子、聖霊なのです。 第5問を通して私たちは神様がただお一人だということを学びました。第6問では父、子、聖霊が各々区別される位格であることを学びます。父、子、聖霊は一人の神様でありながら、三つの位格をもっています。これは区別されていながら同一です。 聖書全体を通して見た時、私たちはこのことを知ることができます。 <注意> 次のように誤解することが多いので示しておきます。 父→私たちをつくり、律法をあたえ、この世を治めておられる方。 子→私たちを救ってくださり、憐んでくださり、命を賭して愛してくださる方。 聖霊→私たちを新しくして下さり、御国まで導いてくださる方。 このように役割でもって三人が別々に働くのではなく、私たち人間からそのように見えるに過ぎません。父、子、聖霊はいつも共に働いておられます。 2 聖書に聴く すでに学んだように人が神様について理解しようとするなら聖書から聴かなくてはいけません。聖書をみれば神様を三位一体としてしか理解できないことがわかります。一人の神様でありながら三人のように表現されていますが、一人なのです。 これを完全に理解することは不可能です。私たちよりも大きな存在である神様を完全に理解することはできないのです。しかし完全には理解できなくても、聖書で語られているところまでは知ることができます。そしてこれが重要です。人間には理解できない神秘の領域があるのは確かですが、聖書に記されている範囲までは理解できるのです。これが三位一体の教理です。三位一体は歴代の数多くの教会が聖書の記録を総合的に理解し、教理として整理したものです。 子どもが親のこころを全て理解できないように、人間は神様のことを全て理解する事はできません。しかしそのような私たちが聖書を通して思い描ける神の姿が、三位一体なのです。 <三位一体の間違った理解> ①三神論 元々三人の神がいると主張します。この三人の神が一つの意思で一致して、まるで一人のように私たちに現れると説明します。 ②単一神論 神は一人ですが、三人のようにただ見えているだけに過ぎないという主張です。旧約でヤハウェの神として、新約ではイエスキリストとして、五旬節以降は聖霊として一人三役のように姿をかえて現れたという主張です。 この考え方は、家では父親、会社では部長、教会では執事のように例えることができます。あるいは私たちが一つの事物を多様な観点で見るように、神様は実際は1人だが、私たちが見る観点によって変わるというのです。 ほかにもこんな例えがあります。 りんごは芯と種と果肉三種類からなっています。一つのりんごであることは確かですが、私たちの観点によって芯であり種であり果肉として見ることができます。 太陽もそれ自体とそこから出る光と熱があります。このように3つの観点から見ることができるというわけです。 3 三位一体の意義 ここまで三位一体について見てきましたが、実のところ三位一体という言葉は聖書にはありません。しかしこの教理は私たちが神様を理解する上で大きな助けとなります。実際この教理は教会の歴史の初期にあらわれた間違いを正してきました。そしてその後も三位一体は大原則であり現代まで数々の異端から本当の知識を守り、真実と嘘とを区別するパラメーターとなってきたのです。三位一体の教理から外れてしまうと、キリスト教とは言えません。それほどに三位一体の教理は核心的なものだと言えます。 神様が私たちの水準まで下ってきて、教えてくださった御自身の姿、それが三位一体です。 この神様の愛と配慮に感謝し、もっと神様をたたえる者とされたいと思います。

イエス様との出会いは人を変える

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書4章16~29節 タイトル:イエス様との出会いは人を変える 前回からサマリヤの女がイエス様と出会う場面を見ています。 この人は、過去に5回結婚し、5回離婚した人でした。 また、この人は現在夫がいませんが、一緒に住んでいる男の人がいました。 こういう背景が彼女にはあって、周りの人たちとはあまりうまくいっていなかったようです。 だからわざわざ井戸に人がいない時間帯を選んで来ていたのではないでしょうか。 この日も太陽が一番高く昇る昼の12時頃にやってきました。 この人の最初の目的は水を汲むことでした。 目に見える水、実際に自分の肉体に水分を供給することができる水を求めてやってきました。 しかしそこで思いがけない方と出会います。 それがイエス様でした。 彼女は最初イエス様と対話しても何を言っているのか、わからなかったようです。 イエス様が生ける水、永遠の命の水のお話をしても、ただ水と言われたから目に見える水のことだと思ったようです。 だから彼女はイエス様の話を聞いて言いました。 「もうこの井戸に汲みにこなくて良いように、その生ける水を下さい。」 言葉そのままに受け取っていました。 ① 命の水とは何か? ではこの命の水とは一体何のことなのでしょうか。 “さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。” ヨハネの福音書 7章37~39節 イエス様はこの箇所で、サマリヤの女性に言われた言葉と同じような言葉を語られた後に、ご自身が与えられる水のことを説明しています。 この水の正体は何なのでしょうか。 39節に記されています。 「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」 御霊のこと、すなわち聖霊のことです。 聖霊は物質ではありません。 聖霊は目に見えません。 聖霊はイエスキリストの霊とも言われます。 聖霊は神様ご自身です。 この世界をつくり今も治めておられる神様は三位一体の神様です。 父なる神、御子イエスキリスト、そして聖霊です。 父と御子と聖霊がそれぞれ別々の位格を持っておられますが、それと同時に一体の方、同一の方です。 この真理は人には全て理解することはできません。 それは私たちが神に造られた存在であり、神が私たちの造り主だからです。 造られた者は、造った方を全て理解することができません。 より小さいものがより大きなものを理解する事はできません。 しかし神様の側から教えてくださった分だけ私たちは知ることができます。 この神様の側から教えてくださった分とは何か。 それが聖書です。 そして聖書に記されている神様のことを総合的に整理して言い表すと三位一体となるのです。 この三位一体の神がこの世界に降って来てくださいました。 それが御子イエスキリストです。 そしてこのイエスキリストが命の水すなわち聖霊を与えてくれるのです。 コリント人への手紙 第一 12章3節には”‥聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”とあります。 私たちのうちに聖霊がのぞみ、私たちの内に内住してくださる時に初めてイエスは主ですということができるのです。 聖霊は私たちに信仰をくれます。 聖書の言葉を神の言葉と信じる信仰。 2000年前に生まれ30歳前半で当時最も恐れられた十字架刑に処せられたユダヤ人を救世主と信じる信仰。 殺されたにも関わらず三日目によみがえられ、今も生きておられる方だと信じる信仰。…