大切な記憶
主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き13章13~41節 タイトル:大切な記憶 今日の聖書はピシデヤのアンテオケの会堂でパウロが語った説教です。 15節で律法と預言者が読み上げられたとありますが、これは旧約聖書全体を指す言葉だと考えていただいて構いません。 会堂での礼拝で旧約聖書が読み上げられて後パウロが指名されたので立ち上がって語り始めたということです。 その内容は先程読んでいただいた通りです。 まず彼はそこにいる人々に呼びかけました。 「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。」(15節) 「イスラエルの人たち」とは、ユダヤ人や、改宗してユダヤ人となった外国人たちのことです。 「神を恐れかしこむ方々」とは、改宗までには至っていないがユダヤ教に関心を持ちこうして礼拝に参加する外国人たちのことです。 ここからわかるのは、パウロがこれから語ろうとすることに関してある程度の予備知識を持っている人たちだということです。 ですから、彼は前置きせず出エジプト記のお話から始めていきます。 イスラエルは過去にエジプトで奴隷生活を強いられていました。 しかし神がその御腕を高く挙げて、彼らをその地から導き出しました。 そして40年間荒野で彼らを耐え忍び、カナンの地に彼らを導きその地を与えました。 その後さばき人とここでは記されている士師たちを立て、サムエルを遣わしました。 そして民が王を欲しがったのでサウロ をあたえ、のちに神の御心を行う正しい王であるダビデを立てました。 ここまではユダヤ人たちがよく知っている内容であったはずです。 そしてここからいよいよイエスキリストのお話に突入していきます。 “神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。”使徒の働き 13章23節 あのダビデの子孫としてイエスキリストが生まれたことを語ります。 この方はユダヤ人たちが長きにわたって待ち望んでいた方でした。 これこそ救いでした。 しかしエルサレムのユダヤ人たちはこれを受け入れずイエスキリストを罪に定めて十字架で殺してしまうわけです。 しかし神はイエスを死者の中から蘇らせて、その復活の姿でイエスは弟子たちに現れました。 これは良い知らせです。福音です。 この福音によってわたしたちは救われるのです。 この説教の特徴はイスラエルの失敗に焦点を当てていないところです。 荒野で40年間彷徨ったのは彼らの罪のためでしたが、それらには触れず、その後の士師の時代も神ではなく自分たちの考えに従って生きていたのですが、そのことも記されず、サウル王を立てた理由も他の国に王がいることをうらやましがったからであり、結果的に失敗するわけですが、そこにも触れていません。 この説教は自分たちの失敗を悔いることを促すというより、神からの招きに焦点を当てているように見えます。 そしてそのためにイスラエルの歴史をどれだけ神が導いてくださってきたのかを語っているのではないでしょうか。 歴史はとても大切です。 歴史を言い換えるなら過去の記憶の連続ということもできます。 過去の記憶は、その人を形作ります。 過去の記憶の連続がその人のアイデンティティーになります。 過去の記憶の連続によって自分が誰かということが出来ていきます。 裏を返せば記憶を失うとアイデンティティーを失うということです。 自分が誰なのかがわからなくなります。 これは自分の名前を忘れるという意味ではなく、たとえ名前を覚えていても、自分の歩んできた道のりを忘れてしまっては正確な自己認識ができなくなるということです。 パウロが語っているのはイスラエルの歴史ですが、これはイスラエルの記憶と言ってもよいものです。 神との歩みの記憶なのです。 神がどれほど良くしてくださったのか、どれほど愛してくださったのか。 そしてどれほど忠実に約束を守ってくださるのか。 その約束を果たすためにこの世に来られた神イエスキリスト。 この方が我々のために十字架にかかり死なれたこと。 我々の身代わりとなって呪われたものとなったこと。 そして三日目に蘇られたこと。 これらすべては神とイスラエルの歴史であり記憶なのです。 そして今わたしたちもその記憶に触れています。 わたしたちはイスラエル人ではありませんが、イスラエルの歴史はわたしたちと繋がっています。 彼らの歴史を知ることは、私たち教会の歴史を知ることです。 それはすなわちわたしたちが持つべき記憶なのです。 この記憶がなくてはわたしたち教会が一体何なのか、わたしは一体誰なのかがわからなくなります。…