ただ聖書のみ

宗教改革記念礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き8章26〜31節 タイトル:ただ聖書のみ “ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。) そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と言った。 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。” 使徒の働き 8章26~31節 一年に一度、プロテスタントの多くの教会では宗教改革記念礼拝がもたれています。 これは宗教改革が始まったとされる10月31日の前の主日に持たれる特別な礼拝です。 宗教改革とは、マルチンルターをはじめ、多くの改革者たちが、当時のカトリック教会の間違いを指摘して始まった運動のことです。 そしてこの出来事を知ることは私たちプロテスタント教会とは一体何なのか、またプロテスタント教会の信仰とは何なのかを知ることにつながります。 今日はこの宗教改革について共に学んでいきたいと思います。 宗教改革の信仰を表す標語は5つあります。 ただ信仰のみ、ただ聖書のみ、ただ恩恵のみ、ただキリストのみ、ただ神の栄光のみです。 今日はこの中の「ただ聖書のみ」に絞ってお話しして、宗教改革とはどういうものだったのか、そしてそれが私たちにどういう関係があるのかをお話ししたいと思います。 1 聖書は解釈する必要がある 今日お話しする「ただ聖書のみ」という標語を説明するにあたって、まず誤解が生まれる恐れがあるところからお話しします。 それはこの「ただ聖書のみ」という標語が、これまでのキリスト教会の伝統全てを否定して、ただ聖書だけ読んでいれば良いという意味ではないということです。 聖書は書物です。 神が書かれたと同時に人が書いた書物です。 ですから必ずここには解釈が伴います。 そしてその解釈にも正しい解釈と間違った解釈が存在します。 キリスト教会はこれまで2000年間正しい解釈をすることもあれば間違うこともありました。 そういう中でこれが聖書が語る真理だと言って積み重ねてきた解釈の蓄積が現在伝統となっているものです。 これは具体的には信仰問答、教理などに表されています。 これらは全て聖書をしっかりと土台として聖書には何が書いているのかをまとめたものということができます。 今日ともにお読みした使徒の働きに出てくる言葉の中に、導く人がいなければどうしてわかるでしょうというものがありましたが、まさにこの導くものとなってくれるのが、これらのキリスト教の伝統ということができます。 先人たちが悪戦苦闘しながら蓄積した聖書解釈の成果なのです。 ただこの伝統が有効なのは、聖書を土台とする限りにおいてです。 聖書に書かれていないことを勝手に創作して付け足してしまうと、それは正しい導き手にはなり得ません。 逆に人を混乱させるものになってしまいます。 2 聖書を土台としない解釈 ルターは人々を混乱させ本当の神の言葉から遠ざける伝統に気づきそれに異論を唱えた人でした。 今から500年前に生きた人ですが、当時の教会はカトリック教会しかありませんでした。ルター自身もカトリックの修道士としてアウグスティヌス修道院に入ってそこで修行した人でした。 しかし聖書を深く読み進めていったときに、カトリック教会が持つ間違った教理に気づいたのです。 中でも今日紹介したいのは、煉獄の教理と贖宥(いわゆる免罪符)です。 ①煉獄について 煉獄とは、死んだ人のほとんどがいく所とされています。 死んだらそのまま天国に行ける人は殉教した人や聖人と呼ばれる完全に聖められた人たちだけです。 ほとんどの人は煉獄に行き、自分の内に残る罪が完全になくなるまで天国にはいけないという教えなのです。 しかしこれは聖書には記されていません。 ②贖宥状(免罪符)について この起源は7世紀ごろのアイルランドにあると言われています。 ゲルマン世界に広く見られた損害と賠償と代理という考え方が出発点になっています。 彼らの考え方では、人間が罪を犯すということは神に対して損害を与えるということです。したがって人間は神に対してその損害を賠償する必要があり、罪を犯した当人は断食や施しや徹夜の祈りをする必要があると考えました。 この考え方が広まった当初は、修道士たちが民衆の代理となって果たしていた真剣な行動だったようです。 ところが、この償いの行いが民衆の間にも広まって一般化されていき、そこからどんどん変容していきました。 この後、人間は日頃の良い行いを業績として積み立てておけるとみなされるようになり、その積み立てを償いに当てることもできると考えられるようになっていきます。 そしてこの業績を自分のために積み立てられるなら、他の人のためにも積み立てられるだろうということになりました。 生前に良い行いが多く、業績を積み残したまま死んだ人のものは、教会の宝として教会が管理して積み立てておくことができることにし、時に応じてこれを引き出して用いようということになったのです。 しかもそれはローマ教皇の裁量で民衆に分け与えられることにしました。 この証明書として発行されたのが贖宥状(免罪符)だったのです。…

聖霊のバプテスマ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き18章24〜28節 タイトル:聖霊のバプテスマ イエスキリストは十字架につけられ殺され三日目によみがえられた後、天に昇られました。 その後弟子たちはエルサレムで待つようにというイエスキリストの言葉の通りに待っていますと、聖霊が臨みました。 聖霊は三位一体の神の第三位格です。 イエスキリストの霊とか、助け手とも呼ばれるこの聖霊によって弟子たちは大きく変えられて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで福音を宣べ伝えるものになりました。 “しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」” 使徒の働き 1章8節 彼らが福音を宣べ伝える中で大変な迫害にあいました。 中でもサウロという人は、彼らに大変反対し、多くのキリスト教徒を捕まえて、牢屋に入れてしまうほどでした。 しかしこのサウロにイエスキリストは直接出会われ、彼は回心し、キリスト教徒となったばかりか、福音を広く宣べ伝えるものとなりました。 使徒の働きの中でも、彼の名前はユダヤ人の発音であるサウロではなく、途中でギリシャ語の発音であるパウロに変わりました。 これはおそらくユダヤ人たちだけではなく、異邦人たちへと福音を伝える者となっていくことを示したものだろうと思います。 使徒の働きの後半部分は主にこのパウロが中心となって話が展開していきます。 1 伝道者アポロ しかし今日の箇所はそんなパウロがエペソで伝道して去った後、他の伝道者がやってきたところを描いています。 その人の名前はアポロと言います。 彼はエジプトの北にあるアレキサンドリヤ出身のユダヤ人でした。 アレキサンドリヤとは紀元前332年にアレキサンドロス大王によって建てられた都市です。 イエスキリストの弟子たちの時代にもエジプトの中心的な都市で、ローマ帝国においても第二の都市でした。 40万から90万巻の蔵書を有する図書館を持つ博物館もありました。 さらに大学もあり、当初はアテネの学校をまねて作られましたが、すぐにアテネを追い越してしまう程の急成長を遂げました。 数学,天文学,医学,作詩法の学問で名高く、文学と芸術も盛んでした。 人口は60―70万ほどで,ユダヤ人,ギリシヤ人,エジプト人によって構成され、 ユダヤ人はギリシヤ人と同等の特権を与えられたため多くの者が定住しました。 イエスキリストの一番弟子とされるペテロはガリラヤの田舎出身で、あまり学問には縁がありませんでした。 それに対してパウロは、ユダヤ教の教育をきっちり受けた人でした。 しかしこのアポロはそれにも増して、学問的な蓄積が相当あったものと思われます。 アレキサンドリヤにおいては学ぶことに事欠きません。 良い環境で生まれ育ち教育水準も高い人だったのでしょう。 そういう人がイエスキリストのことを伝え聞いて、聖書に記されている出来事と照らし合わせたところ、まさにイエスこそメシアであること、救い主であることを知ったのです。 それで、いても立ってもいられず、伝道者の道を歩み、とうとうエペソにまでやってきました。 アレキサンドリヤからエペソまでは直線距離にして2700キロあります。 北海道から沖縄よりも離れています。 “さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。” 使徒の働き 18章24節 ここには聖書に通じていたと記されていますが、この聖書は今私たちが持っている新旧約聖書が記された完全なものではありません。 当時はまだ、新約聖書はあれませんので、アポロが通じていたのは旧約聖書です。 旧約聖書、おそらくその中でも預言書に書かれていた内容と、イエスキリストのことを照らし合わせたときに、この方が救い主だと悟ったのでしょう。 アポロは学問的素養があり、話の上手な人でした。 ただ彼にはまだ知らなければいけないことがあったようです。 2 ヨハネのバプテスマ “この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。” 使徒の働き 18章25節 主の道の教え、つまりイエスキリストを知っていたということです。 そして霊に燃えて、イエスのことを正確に語ることもできました。 しかし彼はヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。 ヨハネのバプテスマとは何でしょうか。 まずバプテスマについて説明します。 バプテスマの本来の意味は、「一体化」です。 布を染料液に浸けると、その色に染まります。 それがバプテスマのイメージです。 ではヨハネとは誰でしょうか。 この人はイエスキリストよりも少し前にユダヤで神の働きをしていた人でした。…

イエスキリストは道です

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書14章6節 タイトル:イエスキリストは道です 大切な人のために、一生懸命何か準備をしたのに、その人の思いとはかけ離れていたなんてことはないですか。 誰かのために、一生懸命になることはとても大切なことだと思います。 でもそれが相手の好みと合わなかったり、タイミングがずれていたりして、失敗することがあります。 大切な誰かに対して何かをする前に、その人について正しく知ること、正確に理解することが重要です。 さて、では私たちにとって最も大切な存在は一体誰でしょうか。 私たちクリスチャンにとって一番大切な方は、イエスキリストです。 彼を信じ、彼に祈り求め、彼の言葉であるこの聖書を読んで学び日々生かされています。 ですから私たちにとって、この方のことを正確に知ることは何より大切なことだと言えると思います。 彼がどういう方であり、私たちのために何をしてくださったのかについて正しく知ることなくして、神に喜ばれる者として生きて行くことはできないからです。 1  イエスキリストは神 今日は彼が一体どういう方なのかを共に考えてみたいと思います。 “イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。” ヨハネの福音書 14章6節 この言葉はイエス様ご自身が言われた言葉です。 この聖書の中でまず注目していただきたいのは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と記されている一文の最初と最後の部分です。 「私は〜です。」という言葉です。 これは新約聖書の本来の言語であるギリシャ語ではエゴーエイミーとなっています。 エゴーエイミーとは、自分の存在を支えているのが自分自身だという意味がある言葉です。 自分の存在を支えているのが自分自身だと言える人間はいません。 この世界に自分自身で生まれようとして生まれてきた人はいません。 自分の計画通りに、自分の思い通りに、この世界を生きた人はいません。 つまりこのエゴーエイミーという言葉を使える人はいないということです。 この言葉が使えるのは神様だけです。 日本語の聖書だけでは見えないのですが、実はここでイエス様がはっきりご自身のことを神様だといっているのです。 その上で自分が道であり、真理であり、いのちなのだと伝えてくれている言葉だとご理解ください。 神であるイエスキリストがご自身を指して道であり、真理であり、いのちだというのです。 2 イエスキリストは道 イエス様を通してでなければ、誰ひとりとして父なる神様のもとにはいけません。 つまりイエスキリストなしでは誰ひとりとして天国へは入れないということです。 今日はこの中のイエス様が道だということについて考えてみたいと思います。 想像してみてください。 私たちの前には道が二つあります。 その道は真逆に伸びています。 一方はあちら側、一方はこちら側に伸びています。 一方は滅びの道、一方は永遠の命の道です。 一方は人間の道、一方はイエスキリストです。 人はこの二つの道のどちらかを歩いていきます。 そして例外なく、人は最初人間の道を進んでいきます。 つまり滅びの道を進むということです。 その道には命がありません。 その道には心からの平安がありません。 その道には本当の喜びがありません。 その道には寛容がありません。 その道には死があります。 その道には不安があります。 その道には怒りがあります。 その道には人を裁く思いがあります。 その道を人は歩いていきます。 そしてその先は永遠の滅びという崖です。 その方向へと人は歩いて行くのです。 聖書に登場する2000年前の人々も同じでした。…

第6問 三位一体の神

第6問 三位一体の神 問: その神には、いくつの位格がありますか。 答: 神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。  1 三位一体の教理 人であるという事と父親であるという事は別物です。しかし同時に人であることも父親であることも事実です。本質的に見れば人、息子や娘との関係で見ると父親と言うことができます。 同じように神様であると同時に、三位の互いの関係として、父、子、聖霊なのです。 第5問を通して私たちは神様がただお一人だということを学びました。第6問では父、子、聖霊が各々区別される位格であることを学びます。父、子、聖霊は一人の神様でありながら、三つの位格をもっています。これは区別されていながら同一です。 聖書全体を通して見た時、私たちはこのことを知ることができます。 <注意> 次のように誤解することが多いので示しておきます。 父→私たちをつくり、律法をあたえ、この世を治めておられる方。 子→私たちを救ってくださり、憐んでくださり、命を賭して愛してくださる方。 聖霊→私たちを新しくして下さり、御国まで導いてくださる方。 このように役割でもって三人が別々に働くのではなく、私たち人間からそのように見えるに過ぎません。父、子、聖霊はいつも共に働いておられます。 2 聖書に聴く すでに学んだように人が神様について理解しようとするなら聖書から聴かなくてはいけません。聖書をみれば神様を三位一体としてしか理解できないことがわかります。一人の神様でありながら三人のように表現されていますが、一人なのです。 これを完全に理解することは不可能です。私たちよりも大きな存在である神様を完全に理解することはできないのです。しかし完全には理解できなくても、聖書で語られているところまでは知ることができます。そしてこれが重要です。人間には理解できない神秘の領域があるのは確かですが、聖書に記されている範囲までは理解できるのです。これが三位一体の教理です。三位一体は歴代の数多くの教会が聖書の記録を総合的に理解し、教理として整理したものです。 子どもが親のこころを全て理解できないように、人間は神様のことを全て理解する事はできません。しかしそのような私たちが聖書を通して思い描ける神の姿が、三位一体なのです。 <三位一体の間違った理解> ①三神論 元々三人の神がいると主張します。この三人の神が一つの意思で一致して、まるで一人のように私たちに現れると説明します。 ②単一神論 神は一人ですが、三人のようにただ見えているだけに過ぎないという主張です。旧約でヤハウェの神として、新約ではイエスキリストとして、五旬節以降は聖霊として一人三役のように姿をかえて現れたという主張です。 この考え方は、家では父親、会社では部長、教会では執事のように例えることができます。あるいは私たちが一つの事物を多様な観点で見るように、神様は実際は1人だが、私たちが見る観点によって変わるというのです。 ほかにもこんな例えがあります。 りんごは芯と種と果肉三種類からなっています。一つのりんごであることは確かですが、私たちの観点によって芯であり種であり果肉として見ることができます。 太陽もそれ自体とそこから出る光と熱があります。このように3つの観点から見ることができるというわけです。 3 三位一体の意義 ここまで三位一体について見てきましたが、実のところ三位一体という言葉は聖書にはありません。しかしこの教理は私たちが神様を理解する上で大きな助けとなります。実際この教理は教会の歴史の初期にあらわれた間違いを正してきました。そしてその後も三位一体は大原則であり現代まで数々の異端から本当の知識を守り、真実と嘘とを区別するパラメーターとなってきたのです。三位一体の教理から外れてしまうと、キリスト教とは言えません。それほどに三位一体の教理は核心的なものだと言えます。 神様が私たちの水準まで下ってきて、教えてくださった御自身の姿、それが三位一体です。 この神様の愛と配慮に感謝し、もっと神様をたたえる者とされたいと思います。

イエス様との出会いは人を変える

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書4章16~29節 タイトル:イエス様との出会いは人を変える 前回からサマリヤの女がイエス様と出会う場面を見ています。 この人は、過去に5回結婚し、5回離婚した人でした。 また、この人は現在夫がいませんが、一緒に住んでいる男の人がいました。 こういう背景が彼女にはあって、周りの人たちとはあまりうまくいっていなかったようです。 だからわざわざ井戸に人がいない時間帯を選んで来ていたのではないでしょうか。 この日も太陽が一番高く昇る昼の12時頃にやってきました。 この人の最初の目的は水を汲むことでした。 目に見える水、実際に自分の肉体に水分を供給することができる水を求めてやってきました。 しかしそこで思いがけない方と出会います。 それがイエス様でした。 彼女は最初イエス様と対話しても何を言っているのか、わからなかったようです。 イエス様が生ける水、永遠の命の水のお話をしても、ただ水と言われたから目に見える水のことだと思ったようです。 だから彼女はイエス様の話を聞いて言いました。 「もうこの井戸に汲みにこなくて良いように、その生ける水を下さい。」 言葉そのままに受け取っていました。 ① 命の水とは何か? ではこの命の水とは一体何のことなのでしょうか。 “さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。” ヨハネの福音書 7章37~39節 イエス様はこの箇所で、サマリヤの女性に言われた言葉と同じような言葉を語られた後に、ご自身が与えられる水のことを説明しています。 この水の正体は何なのでしょうか。 39節に記されています。 「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」 御霊のこと、すなわち聖霊のことです。 聖霊は物質ではありません。 聖霊は目に見えません。 聖霊はイエスキリストの霊とも言われます。 聖霊は神様ご自身です。 この世界をつくり今も治めておられる神様は三位一体の神様です。 父なる神、御子イエスキリスト、そして聖霊です。 父と御子と聖霊がそれぞれ別々の位格を持っておられますが、それと同時に一体の方、同一の方です。 この真理は人には全て理解することはできません。 それは私たちが神に造られた存在であり、神が私たちの造り主だからです。 造られた者は、造った方を全て理解することができません。 より小さいものがより大きなものを理解する事はできません。 しかし神様の側から教えてくださった分だけ私たちは知ることができます。 この神様の側から教えてくださった分とは何か。 それが聖書です。 そして聖書に記されている神様のことを総合的に整理して言い表すと三位一体となるのです。 この三位一体の神がこの世界に降って来てくださいました。 それが御子イエスキリストです。 そしてこのイエスキリストが命の水すなわち聖霊を与えてくれるのです。 コリント人への手紙 第一 12章3節には”‥聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。”とあります。 私たちのうちに聖霊がのぞみ、私たちの内に内住してくださる時に初めてイエスは主ですということができるのです。 聖霊は私たちに信仰をくれます。 聖書の言葉を神の言葉と信じる信仰。 2000年前に生まれ30歳前半で当時最も恐れられた十字架刑に処せられたユダヤ人を救世主と信じる信仰。 殺されたにも関わらず三日目によみがえられ、今も生きておられる方だと信じる信仰。…