「わたしは渇く」

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書19章28節、7章37〜39節 タイトル: 「わたしは渇く」 1 命の水と渇きについて 今日の聖書箇所は二箇所 ヨハネ19章28節と7章37〜39節です。 1)二つ目の聖書箇所をまず確認します。 “さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。” ヨハネの福音書 7章37~39節 ①「祭り」とだけ記されていますが、これはユダヤの三大祭りの一つである仮庵の祭りのことです。 仮庵の祭りとは、イスラエルの民のエジプトからの脱出に関連し,荒野における放浪と仮小屋での生活を記念する意味合いがあります(レビ23:43)。 仮庵の祭りは、7日間続きますが、その後の一日を大いなる一日として盛大に祝います。37節にある「祭りの終わりの大いなる日」とはこのことです。 ユダヤ人たちはこの仮庵の祭りの期間にシロアムの池で水を汲み、大いなる日にそれは祭壇にそそがれました。 祭壇に水を注ぐのは、先祖たちが荒野で生活している時に、神が岩から水を出してイスラエルを生かしたことを記念するためです。 しかしイエスさまはこの儀式に関連して目に見える水ではなく霊的な水について話しています。 霊的な水とは39節にあるように、御霊のこと。聖霊のこと。 そしてこれが命の水なのです。 イエスさまは誰でも渇いているならわたしのもとに来て飲みなさいと言われました。 ② 続いてこの渇きについて考えます。 渇きとは何でしょうか。 人間の体の60〜65%は水分だと言われるように人は水なしで生きてはいけません。 わたしたちは1日に何度も渇きをおぼえます。 しかしイエスさまの言っている渇きとはこの渇きのことではありません。いわば霊的な渇きのことです。 人の心には神にしか潤せない部分があります。 その部分を人は色々なもので潤そうとしますが、何をしても潤すことができません。 つまりずっと渇きを覚えている状態なのです。 そんなユダヤの人々に対し、そして我々に対して、イエスさまが言っておられる言葉が、「だれでも渇いているなら、わたしのもとにきなさい」という言葉なのです。 2)ではどのようにしてイエスさまがこの命の水である聖霊を与えるのでしょうか。 そもそもわたしたちの心が渇いているのは、わたしたち人類自らが神から離れたからに他なりません。 神はエデンの園でアダムに善悪の知識の木から取って食べてはいけないと言われました。 しかしアダムはこの法を破りました。 この時から人は本当の命である神との関係が絶たれたのです。命の水を失ったのです。 この状態から自力で回復する力がわたしたちにはありません。 だからイエスさまが来られました。 本来私たちの先祖アダムこそ神に従うべきでした。しかし神の御子が身代わりとなり神に完全に従われ、身代わりとして十字架にかかるという罰を受けられたのです。 このことを踏まえた上で19章28節を読みます。 “この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。” ヨハネの福音書 19章28節 7章ではわたしが命の水を飲ませようと言われたイエスさまがここでは渇くと言っておられます。 イエスさまは十字架上で神との交わりを完全に絶たれることを通してわたしたちに命の水を与えられたのです。聖霊を送るための管となられたのです。 彼の渇きによってわたしたちは潤されました。 彼の打傷によってわたしたちは癒されました。 彼が捨てられることによって、わたしたちは拾われたのです。 コリント人への手紙第一10章には、荒野の水は聖霊のことであり、岩がキリストであると記されています。 岩がさけて水が流れ出たように、キリストが打ち叩かれることで、聖霊がわたしたちにも与えられたのです。 3)結び 今日は命の水とそれに対する渇きについて話しました。 わたしたちはキリストを信じる者です。 神との関係が回復された者です。 一人一人のうちに聖霊がおられ、現在の災禍にあっても、それは変わりません。…

十字架による家族の回復

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書 19章25~30節 タイトル: 十字架による家族の回復 現在は受難節、主の受難をおぼえる時です。 今日はキリストの十字架上の第3の言葉を見ます。 “兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。” ヨハネの福音書 19章25~27節 今日はこの言葉を「家族」の回復という視点で考えてみようと思います。 そもそも家族とはいつからあるものなのでしょうか。 “神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」” 創世記 2章18節 主はこう言ってアダムにエバを与えました。 これがこの世界の最初の家族です。 神を中心とした素晴らしい家族だったはずです。 神が見た時それは本当に良かったと創世記1章31節には記されています。 しかしここに罪が入ります。 神に食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べたことにより、人は神を見て生きるものではなくなり、お互いを見てその欠点をみて、指摘しあうものとなりました。 神を中心としていた家族が壊れた瞬間でした。 アダムとエバのこの失敗は、息子たちにも影響を与えており、生まれた時から息子たちも罪を持っていました。 彼らの名前はカインとアベルといいます。 彼らはある日神に捧げ物をしました。 カインは自分が育てた穀物を、アベルは自分が飼育していた羊の最もよいものを選び捧げました。 すると神はアベルを良しとされました。 カインはアベルに嫉妬し自分の弟であるアベルを殺してしまいました。 これ以降多くの家族が聖書には登場しますが、問題のない家族は一つもありませんでした。 神との関係が切れた家族には命がありません。 良く似た血液を持ち、性格や姿形や仕草も似ていますが、本当の意味での繋がりがないのです。 それが罪の影響下にあるこの世界の家族です。 いうまでもないことですが、それでも家族は大切です。 聖書には父母を敬えとあります。 主にあって両親に従えともあります。 子どもを怒らせてはいけないとも記されています。 “子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。” エペソ人への手紙 6章1~4節 家族は尊いものだと聖書も認めているのです。 しかしとても不安定なものなのです。 その関係にはヒビが入っているのです。 お互いを愛し合い助け合い支え合うべきはずの家族です。そのように神はアダムにエバを与えたのです。 しかし罪が入り、神との関係が切れた家族は逆に足を引っ張り合い押さえつけあう関係になってしまいました。本当はそんな関係になりたくないのに気づいたら間違いを犯している自分がいる。そんな状態になってしまったのです。 今現在、どれほど多くの家庭が問題を抱えているでしょうか。 虐待は2018年度相談件数16万件、DVは2019年度9042件確認されています。 たとえ虐待やDVがなくても、夫婦の葛藤や親子の葛藤は、どんな家庭にもあるのではないでしょうか。 しかし聖書に照らし合わせるとこれは全く自然なことです。 最も重要なパーツが抜けているのだから当然です。 神との関係を失った人は、神との関係が切れた家族は、最も大切なつながりを失ったのです。 それは基礎工事のあまい家と同じでとても不安定なものです。 イエスの目的は家族を新しく作り変えることでした。 わたしたち人と神との関係を回復し作り変えることを通して、人と人との繋がりを回復し、家族を回復させることがイエスがしようとしたことです。 そしてその家族は血のつながりを超えていくものです。…

第3問 聖書の内容

第3問聖書の内容 問: 聖書はおもに何を教えていますか。 答: 聖書がおもに教えていることは、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです。(テモテの第二の手紙1:13、3:16) 第一問では人生の目的を扱い、第二問ではその目的が成されるための唯一の基準となるのは聖書だとお伝えしました。それではその聖書の内容は一体どのようなものなのでしょうか。 それに対する答えが第三問に記されています。 「聖書ってどんな本ですか?」という質問にはいくつか答えが考えられますが、小教理問答の構造にならって答えるなら、人が神に関して信じるべきこと(知識)と、神が人に求めておられること(実践)が記されている本であると言えます。 小教理問答は下記のような構造をしています。 小教理問答 第一部  4-38問    人が神様に関して信じるべきこと 知識 小教理問答 第二部  39-107問  神様が人に求めていること    実践 神に関して何を信じるのか? 小教理問答は私たちが信じる対象に関する「知識」を強調しています。信仰には知識が必要です。何を信じているのか知らないで信じるならそれは「盲信」です。 神様は私に何を要求しているのか? 信仰は、その対象が求めるものを聞いて、その言葉のとおりに行動することです。 信仰と行動は別個のものではありません。 信仰は行動の根っこ(根拠)であり、行動は信仰から出る実です。 私たちは自分自身が従っている対象、愛する対象を知らなければいけません、そしてその対象が神であると知ったならば、神が何を好んでいるのか知る必要があります。 それを知れば従っていくことができます。 そしてそのように神に従い生きていく過程、それこそが私たちの人生なのです。 小教理問答第1問で学んだように「人の主な目的」は「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」ですが、これに向かうために必要なことが聖書には記されているのです。 第3問の回答は2つで構成されていますが、この2つは密接な関係にあります。回答の前半は「人が神について信じることは何か」ということですが、それは第4問から38問に記されています。そして主に三位一体の神とそのおはたらきとその結果に関する内容が扱われています。これが小教理問答の第一部です。 そして第3問の回答の後半は「神が人に対してどのような義務を求めているか」というものですが、これは第39問~107問にかけて扱われています。ここでは第1部で学んだ神様が私たちに対して守り従って欲しいと思っていることが何なのかを扱います。これが小教理問答の第二部です。 神様をしっかり知った上で信じることは、神様が私たちに求めていることをしっかり知って従順することを意味します。 私たちが聖書を通して学ぶこれらのことは、全て神様に栄光をささげ神様を永遠に、完全な形で喜ぶ人生のためのものです。わたしたちの人生のあらゆる場面で神様にフォーカスを当てて生きること。これこそ小教理問答が教える人生の目的にあった生き方です。

新しい命に生きる者を見たキリスト

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:イザヤ書52章13節〜53章12節 タイトル: 新しい命に生きる者を見たキリスト 今日旧約聖書からイエス様のことが書かれてあるところ、その中でも代表格と言って良いイザヤ書52章53章を共に見ます。 この箇所はイエスキリストを預言した箇所として有名です。 “見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。” イザヤ書 52章13節 このように今日の聖書は勝利の歌から始まります。 ここで「上げられ」と翻訳されている言葉は、神にのみ使われる言葉(6:1、57:15)です。 この52章13節と今日の聖書箇所の最後の節である53章12節はどちらも勝利者をイメージさせる言葉がならんでいます。 しかしこの間にある52章14節から53章11節には勝利者をイメージさせる言葉はありません。 一見すると敗者の歌に見えます。 しかしイザヤはここで一見敗者のように見える出来事を勝利の言葉で挟み込むことによって究極的にこれらの出来事は全て勝利に結びつくものであることを示しているようです。 “私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。” イザヤ書 53章1~3節 1節でイザヤはこのしもべが主の御腕であると言います。 しかしこのことを誰も信じることができませんでした。 人々はこの方から顔を背けました。 人々はこのしもべを認めようとはしませんでした。 “彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。” イザヤ書 53章7~9節 旧約時代イスラエルは罪をあがなうために羊を用いました。 しかしこれは羊に罪をあらいきよめる力があるのではなく、イエスキリストの予表、影として用いられていたものでした。 バプテスマのヨハネはイエスキリストを指して「見よ、人の罪を取り除く神の子羊」と言っています。 キリストは捕らえられても鞭打たれても死刑判決を受けても口を開き自分を弁護しませんでした。 だれも自分たちの罪のためにキリストが死にわたされることを理解できず信じませんでした。 ☆「自分のいのちの激しい苦しみを見て、満足する。」(53章11節) 苦しみそのものを見て満足するのではありません。 イエス様は自分が激しい苦しみを受けたことによって実ったその実を見て満足したのです。 多くの人がこれにより神の前に義とされるからです。 ただイエスキリストの血によりその犠牲によって義とされるものたちのことを思って満足したのです。 人はキリストの血に覆われ彼の命に覆われ、ただ恵みによって義とされるのです。 激しい苦しみと翻訳された言葉を出産の苦しみに例えて語る人がいます。 私は男性なので出産の苦しみはわかりませんが、妻の出産の時の表情とその時の様子からとてつもなく辛いものなのだという想像はします。 そしてとても印象的だったのが、その苦しみの表情が瞬時にして変わった時です。 それは子どもが生まれた瞬間ではありません。 生まれた赤ん坊を抱いた時です。 その瞬間突如穏やかになったことを私はよく知っています。 出産というとてつもない苦しみを経験した母親は、その苦しみを通して生まれてきた子どもを見た時、満足するのではないでしょうか。 キリストはご自身の苦しみを見て、その苦しみから新しく生まれるクリスチャンたちをみて満足されました。 その人々が自分の罪を罪と認識し、ただキリストによってしか生きられないことを知ることを喜んだのです。 それが本当の意味で生きるということだからです。 その人は永遠の命を得た人だからです。 キリストが満足され喜ばれるのはこういう人のためです。 しかしキリストが満足されず喜ばれないことがあります。 それは新しい命に生きない人を見た時です。 彼は悲しまれます。 十字架の死がまったく無意味であるかのように訴えるような人生を見るとキリストは決して喜ばれません。 強烈な悲しみと痛みをおぼえるはずです。 それは母親が病に陥った子を見るような心境かも知れません。…

ただ一人の王を見上げて

主日礼拝メッセージ   聖書箇所:使徒の働き17章1〜9節  タイトル: ただ一人の王を見上げて 教会にはこの世で常に試練があります。悩みがあります。 しかしどんな状況になっても私たちは信仰を捨てず、どんな形であっても礼拝を守る教会でありたいです。 かつて、パウロが伝えた福音を受け取り信じた人々の群れも大変な試練にあいました。 しかしそれでも彼らは信仰を放棄せず御言葉に立ち続けました。 彼らは本当の王が一体誰なのかを知っていたからです。 彼らはただその王を見上げて生きていました。 今日は使徒の働き17章から見ます。 1節に”彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。‥”と記されていますが、ピリピの次にアンピポリス、それからアポロニヤ、さらにテサロニケとパウロたちの旅路が続いていることがわかります。 当時これらの町々を結ぶエグナチアという道がありました。ローマが作った道です。 この道をパウロ一行は通ってテサロニケへとやって来ました。 テサロニケ(現在のギリシャのサロニカ)には、ユダヤ人の会堂がありました。会堂を作るにはユダヤ人男性が10人必要ですので、テサロニケにはユダヤ人が男性だけでも10人以上いたということになります。 ピリピと違い多くのユダヤ人がいたのは、テサロニケがこの地方(マケドニア)の首都だったことが影響しているのでしょう。 パウロたちは会堂に入って三つの安息日にわたりユダヤ人やユダヤの教えを信じる異邦人たちと旧約聖書に基づいて論じ合いました。 何について論じあったのでしょうか。 3節にそのことが記されています。 “そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。” 使徒の働き 17章3節 「キリストが苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないこと」と「そのキリストがイエスであること」について論じ合ったのです。 「論証」と翻訳されている言葉は、ギリシャ語聖書では「前に並べる」となっています。 聖書の御言葉を一つ一つ証拠として、聞き手に提示していく姿をイメージさせる言葉です。 キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないこと。 そしてこのキリストこそ他でもないイエスであったこと。 この根拠となる聖句を旧約聖書から引用しそれらを人々に提示して説明していったのでしょう。 旧約聖書にはイエスキリストの預言が数多く記されています。 これらを提示してその意味を理解できるようにしたということでしょう。 どの箇所からなのかはわかりませんが、とにかくパウロの話を聞いた人々の中から救われる人が出ました。 “彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。” 使徒の働き 17章4節 パウロとシラスに従ったと記されていますが、従ったという言葉も原文のギリシャ語を見ると大きく印象が変わります。ギリシャ語では「割り当てられる」という言葉が使われています。 幾人かの人たちは、ユダヤ教の群れからパウロとシラスが伝えるキリストの群れに割り当てられました。 神が彼らを割り当ててキリストの群れの人としたということです。 しかしこれによりユダヤ人たちの妬みをかうことになります。 “ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。” 使徒の働き 17章5節 この世界においてキリストの業だけが進むことはありません。 サタンはそれを阻止しようとします。 サタンを恐れてはいけませんが、無視してもいけません。 悪魔の格言という本が最近出版されました。 悪魔の視点で教会やクリスチャンを見せてくれる本です。 これを書いたのは水谷潔という牧師さんなのですが、この先生が最近インターネットであげていた記事が興味深いので紹介させてください。 悪魔の雑談特別編 https://wlpm.xsrv.jp/media/《緊急特集》悪魔の雑談特別編-~悪霊係長、新型/ 荒野教会でも一人一人がいろいろな試練の中にあって信仰をつかんで生きています。 これは神の業です。 しかしここへ来て教会が自由に使えず限定的になったことで色々不都合が生じています。 どんな災害も病も神のゆるしなしでは起きません。全て神の手のうちにあることです。 しかしその状況を利用しようとする目に見えない勢力があることも忘れないでいたいと思います。 悪霊係長が言うような事態にならないように、私たちはただ一人の王を見上げましょう。 今こそ福音に立ち返りましょう。 イエスはわたしたちに何をしてくださった方か、そして今わたしたちにどうあってほしいと願っておられるのか、この唯一の王に目を向けて今週も歩みましょう。

神はわれらの避け所

主日礼拝メッセージ  聖書箇所:詩篇46篇 タイトル: 神はわれらの避け所 わたしたちは何の上に立っているのでしょうか。 何を避け所としているのでしょうか。 ネットやテレビのニュース、近所のうわさ話ではないでしょうか。 大阪の感染者が増えるたびに「また増えた。。。いつ自分の近所にやってくるかわからない。ひょっとしたら近所の人がもう感染しているのかもしれない。」職場の同僚が咳をしているのを見て、「この人もひょっとしたらコロナかもしれない。」「大切な人が感染するかもしれない。」「次は自分の番かもしれない。」 こんな風に考え恐れているならば、神を避け所とはしていません。 神を避け所とする人は、恐れなくてもよいのです。 “神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。” 詩篇 46篇1節 “それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。” 詩篇 46篇2節 この聖句は世界の混乱した状況をあらわしています。 まさに今の状況に当てはまる詩です。 今、世界中がコロナを恐れ騒いでいます。 しかし我らクリスチャンは神は我らの避けどころ。。。それゆえ恐れないと宣言できるのです。 これは特権です。 最大限の感染対策は必要です。 しかし神はどんな状況にあっても避けどころなのです。 今から約450年前、ドイツでハイデルベルク信仰問答という書物が作られました。これは若者たちに聖書を教えるために、聖書を整理して作成されたものです。本書はキリスト教信仰を最も美しく書き表したものの一つとして多くの人々から愛され続けていますが、今日はこの信仰問答の第一問を引用したいと思います。 ハイデルベルク信仰問答(1563年) 問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。  答 わたしがわたし自身のものではなく、 身も魂も、生きるにも死ぬにも、 わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。 慰めと翻訳されている言葉はドイツ語では「避け所」や「拠り所」という意味があります。 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も生きるにも死ぬにもイエスキリストのものであることが避け所であり拠り所だとこの信仰問答は言うのです。 わたしがわたし自身のものではないとは、自由がないという意味ではなく、全ての責任をイエスキリストが負ってくださるということです。最高責任者がイエスキリストだという意味です。  それは生きるにも死ぬにも永遠に変わることがありません。 クリスチャンは伝染病患者のために祈る特権があります。 自分や家族や教会の仲間や友人が感染しないように祈ることもできます。 しかし何よりも、生きるにも死ぬにもキリストはわたしたちの避けどころであるという信仰に今立つべきです。 今回コロナに感染しなかったとしても、あるいは感染し回復したとしても、いつの日かわたしたちもこの世界を離れる時が来るのです。 しかしその時も私たちに対して責任を負って下さる方がいるのです。それがイエスキリストなのです。 ここにこそ本当の慰めがあるのです。本当の避けどころ、拠り所はここにしかありません。 イエスキリストは私たちの罪のために十字架で死なれた方です。しかし3日後によみがられ、私たちを新しい命で生かしてくださった方です。 この方が今日の聖書の10節で言っておられます。 “「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」” 詩篇 46篇10節 口語訳聖書では「やめよ」ではなく「静まれ」と翻訳されています。新共同訳聖書には「力を捨てよ」と記されています。 わたしたちは予期せぬ事態に見舞われると神に頼るよりも自分の力でなんとかしようとしてしまいます。そんなわたしたちに神は静まれ、力を捨てよといわれるのです。 イエス様は弟子たちと共に湖の上で嵐に見舞われたときその嵐を沈められました。 だからこの事態も神は収めることができます。 しかしまずわたしたちの心こそ収められるべきではないでしょうか。わたしたちの心に向けて主は言っておられるのです。 「やめよ」「静まれ」「力を捨てよ」 今こそこの言葉をつかみましょう。 こういう時こそ真の信仰が発揮されます。 “何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。” ピリピ人への手紙 4章6~7節 思い煩うのではなく、知っていただきなさいとあります。…