福音を語ること

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き10章34~43節 タイトル:福音を語ること <導入> 昨年の末から長老さんの息子さんに勉強を教えています。 高校受験のために始めたことでしたが、今も続けて同じ時間を過ごせていることは感謝なことです。 特に高校生になってからの方が成績も良くなり私も嬉しく思っています。 私が教えているのは英語の文法だけなのですが、それ以外の成績も私に伝えてくれます。 私のことを信頼してくれているからというのもあるかもしれませんが、それだけではなく、やはり成績が全体的に良いから伝えやすいのではないかと思います。 良い知らせというのは誰しも伝えたくなるものです。 先日教会の高校生3人と一緒に釣りに行きました。 3時間ほどしかしていませんが全部で82匹釣れました。 これも私が今お伝えするのは良い知らせだからです。 良い知らせは人に伝えたいものです。 その知らせが良ければ良いほど私たちは話さずにおれなくなるでしょう。 では私たちが持つ良い知らせの中で最も素晴らしい良い知らせは一体なんでしょうか。 もちろんそれは福音です。 福音はギリシャ語ではユーアンゲリオンというのですが、直訳すると「良い知らせ」となります。 最近いつ良い知らせ(福音)を伝えられましたか。 良い知らせであればあるほど伝えたいと思うなら、わたしたちは事あるごとにこの福音を語っていないといけないのではないでしょうか。 しかしそうはなっていない現実があります。 特に伝道の賜物があると言われる人たちを除いて大抵のクリスチャンはなかなか伝道することができません。ためらいをおぼえてしまうものです。 イエスキリストが死んでよみがえられ、わたしに新しい命を与えてくれたことは他の何ものにも代え難い良い知らせです。 それなのに言いたくて仕方ないという心でいられないわたしたちがいるのです。 なぜでしょうか。 <本論> 今日の聖書からこのことについて共に学んでいきたいとおもいます。 今日はペテロの伝道説教の箇所です。 “そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、” 使徒の働き 10章34節 口を開いて語るのは当たり前のことですが、これは特に荘厳な演説の語り出しを表す慣用句です。 ペテロが大勢集まった人を前にして正式に説教を始めたことを示しています。 これは歴史的な出来事でした。 現代の私たちからすれば異邦人であれユダヤ人であれ関係がありませんが、当時は重大な問題でした。 クリスチャンであってもまだユダヤ人にしか伝えられていなかったこの福音がいよいよ公に異邦人へと伝えられる瞬間がきたのです。 “あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。 それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。” 使徒の働き 10章37~38節 ここにはイエスキリストの公生涯について書かれてあります。 バプテスマのヨハネから洗礼を受けて後、表舞台に立たれたイエスキリストはガリラヤから福音宣教を開始し、ユダヤ全土にまでその働きを広げられました。 その働きは聖霊の力によるものでした。 悪魔に押さえつけられている人々を解放する働きをされました。 “私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。 しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。” 使徒の働き 10章39~40節 ここには福音の一番中心的なことが書かれています。 すなわち十字架の死と復活についてです。 彼はこの世界で多くの人々を救い解放し福音を伝えました。 彼には責められるところは何一つありませんでした。 神様の目からみて全くの無罪でした。 それなのに、彼は木にかけられて殺されてしまうのです。 申命記21章22~23節にはこう記されています。 “もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。” つまりイエスが死んだのは神に呪われたものとなったということです。 本人には全く罪がなく呪われる理由も何一つありません。…

神の言葉を聴く事と、伝える事

 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:使徒の働き10章23~33節 タイトル:神の言葉を聴く事と、伝える事 みなさんは神様の言葉を聴くとはどういうことだと思われますか。 また神様の言葉を伝えるとはどういうことなのでしょうか。 今日はこのことについて考えてみたいと思います。 今日の聖書箇所は以前お話したペテロとコルネリオの出会い場面の続きです。 彼らはそれぞれ常識を持っていました。 ペテロの常識はユダヤ人としてのそれです。 彼は異邦人と親しく交わることを忌み嫌っていました。 だからコルネリオという異邦人からの使いが来て一緒に来て欲しいと言われてもわかったと言うはずがない人でした。 またコルネリオもローマのイタリア隊というエリート集団で100人を束ねる100人隊長でしたので、自国の植民地であるユダヤに人にをやって来て欲しいと頼むことなどあり得ないことでした。 しかしペテロもコルネリオもその常識を超える決断をします。 なぜなら神がそれぞれにその常識から脱することを求められたからです。 コルネリオはペテロに使いを送り、ペテロは異邦人から送られた使いを受け入れ共に寝泊まりして明くる日コルネリオが待つカイザリアへと出発しました。 [神の言葉を聴くことについて] ここから神の言葉を聴くことについてお話ししていきます。 まず少し時間の流れを整理してみましょう。 “するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、” 使徒の働き 10章30節 この言葉はペテロと出会ったコルネリオが言った言葉です。 この言葉からわかることがあります。 それはコルネリオが御使いを見て言葉を受け取ってから今日まで4日が経っているということです。 1日目 コルネリオが御使いから言葉を受け取る。 この時点ですでに午後3時なので、この日は出発できない。 2日目 コルネリオが部下と僕を遣わす。 3日目 ヨッパまで丸1日歩いた後ペテロと出会う。 この日はペテロと共にかわなめしシモンの家に泊まる。 4日目 カイザリアに向けて出発 5日目 到着 部下と僕を遣わしてから丸三日経っています。 この間にコルネリオは親族や親しい友人達を呼び集めてペテロの到着を共に待っていました。 “その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。” 使徒の働き 10章24節 ヨッパにいたペテロから「行きます」という返事があったわけではありません。 現代であれば電話やLINEで来るか来ないかがはっきりわかりますが、当時はそんなものは当然ありません。 ということはこの三日間来るか来ないか分からない人をコルネリオは待っていたということになります。 しかも親族や親しい友人まで呼んで待っていたのです。 どんな思いで彼は待っていたのでしょうか。 待っていたと翻訳されている言葉はギリシャ語でプロスドカオウといって、「待つ」という意味の他に「期待する」という意味もあります。 使徒の働き27章でも同じ単語が使われていますがそこでは「待ちに待った」と翻訳されています。 つまりコルネリオが待っていたという時、それは期待して待っていたことを意味します。ほかの言葉で言い換えるなら待ち望んでいたというべきでしょう。 今か今かと期待しながら自分が送った部下と僕に連れられてペテロという人がやってくるのを待っていたのです。 その間コルネリオはどのように過ごしていたのでしょうか。 彼は午後の3時の祈りを守っていた人なので、部下を遣わした日もこのことに関して祈り、部下たちがペテロと会った日も祈り、彼らがヨッパを出発した日も祈ったことでしょう。そしてこの日ペテロがカイザリアに着いた日も祈りをしようとおもっていたころに、ペテロがやってきたという報告をうけてコルネリオは家を飛び出しペテロの前に跪いたのです。 “ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。” 使徒の働き 10章25節 コルネリオのペテロに対する態度を見ますと、神から送られてきた使いとして受け入れていることがわかります。 コルネリオはペテロを通して神の言葉がはっきり与えられると信じてそれを待ち望んでいました。 祈り求めつつ、親戚や友人達にも知らせて、できうる限りのことをして待っていたのです。…

良い時も悪い時も

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇9篇1~10節 タイトル: 良い時も悪い時も この詩篇はダビデが記録した詩篇です。 ここでダビデは、以前勝ち取った勝利について語ったのち、それはすべて神さまの力であったことを大いに誉めたたえています。 そして今あらたに敵が目の前に迫っており、かつて自分を救い出したと同じ助けを神に乞い求めている詩篇です。 今日見るところは、ダビデが以前神さまの力で勝利を勝ち取ったことについてです。 ここから良い時も悪い時も主をおぼえて生きる生活について分かち合いたいと思います。 ⑴ “私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。” 詩篇 9篇1節 「心を尽くして主に感謝する」とは一体どういうことなのでしょうか。 ある言葉の意味を深く探るのに良いのは正反対の言葉を考えてみることです。 聖書には正反対の意味をもつ言葉として「二心」という言葉が登場します。 “人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。” 詩篇 12篇2節 宗教改革者のジャンカルヴァンは二心についてこう言っています。 「彼らは一言二言神の助けについて語ったのちは、巧みに自分を誇り、自分の勇敢さを歌い上げる。あたかも彼らは何一つ神によって助けられなかったかのごとくである。‥彼らは神に犠牲をささげた後に、自分の思慮深さ、器用さ、能力、武力、兵力に捧げ物をするのである。」 一言二言神の助けを語ったのちに、自分がいかに優れているかを語る。 結局のところ自分がどれだけ優れているかということを言いたいということでしょう。 しかしそれでは不敬虔なものに見えてしまうので、それを覆い隠すために表向きは神の助けを語るということです。 今までに数人の人からこういう話を聞いたことがあります。 教会にイエスさまのことを全く知らない人がやってきた時にあまりにも多くの人が自分を飾るというお話です。 どういう意味かというと、イエスさまを信じて明らかに人生が変えられて今の自分になったにもかかわらず、それを伝えないということです。 あたかも自分は以前からこうでしたと言っているように見えるというのです。 少し極端な言葉かもしれませんが、わたしは一理あるなと思いました。 実際にどこまで話すのかというのは微妙な問題を含みます。 あまりに正直に話しすぎて聞いた人がつまずくこともあるからです。 ただそういうところも慎重に考えながらイエス様を信じる前と後の違いというのをハッキリ話すことは大切なことです。 もしこのことをためらわれるなら、それは一体何が原因なのかを探ってみないといけないと思います。 ひょっとするとカルヴァンが言うような思いなのかもしれないからです。 「今の自分がいるのは、神さまの恵みによるのです。」と口で告白しつつも、そこに自分の功績を付加したい誘惑にあっているのかもしれないのです。 わたしたちは二心の者ではなく、心をつくして主に感謝し、全ての栄光を主が受け取られるようにしたいと思います。 ダビデはこの時、心を尽くして主に感謝しています。 すべての功績、すべての成功が主のものであるというのです。 サウルは千を打ち、ダビデは万を打ったと言われるほどに、ダビデは戦争で負けしらずでしたが、それらはすべて神さまの力によるのだと語ります。 わたしたちはどうでしょうか。 すべて神様がしてくださったと信じて生きているでしょうか。 みなさんの人生においてすべての栄光を神様が受けておられるでしょうか。 どこかに自分の功績を付加したいというおもいはないでしょうか。 そんな問いを投げかけてくれる聖句だと思います。 次にダビデは「あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げ」ると言います。奇しい業なので、通常では考えられない明らかに神さまの介入だとわかる出来事がダビデの前に起こったのでしょう。しかも余すことなく語るということは、一度限りのことではなく、何度もあってそれによりダビデは勝利をおさめていたのです。 神がダビデのためにこれまで果たしてくださったあらゆる奇跡を広く想起して、すべて神さまあなたのおかげですと言ってこの詩篇は始まっています。 ⑵ 続いて2節です。 “私は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。” 日本語の聖書では「誇ります」と訳されていますが、ヘブライ語聖書には大きな喜びという言葉が記されています。 ですからここは本来、喜びという言葉が二回続いているということです。 ダビデが喜びという言葉を強調したかったからでしょう。 彼はこの時おおいに喜びました。 ではその対象となっているのは何でしょうか。 ダビデはこう言っています。 「わたしはあなたを喜」ぶと。 これは神の存在そのものを喜ぶということです。…

苦難を通して神様を知る

主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇27篇1~5節 タイトル:苦難を通して神様を知る 最近「主がしてくださいました。感謝します。」と言ったこと、あるいは思ったことはありますか。 私たちは普段生活する中で何か良いことがあれば、「主がしてくださいました。感謝します。」と抵抗なく言えると思います。 今日の詩篇のダビデのように「主は私の光、私の救いです。」という言葉に同意することもできるはずです。 しかし周囲の状況があまり良くないときに、今日のダビデのように、「主は私の光です。救いです。」と心から言うことはなかなか難しいのではないでしょうか。 どうしても、その悪い状況に心が向いてしまいます。どうしたらこの問題を解決できるだろうかと思い巡らし、その状況が長く続くと、思い煩い、心が沈んでいきます。その時わたしたちはすでに問題に囚われてしまっているのです。 しかし今日の詩篇を記したダビデは問題を見つめ続けるのではなく、そこから視線を主に向け、主を見上げました。 彼はこの詩篇で戦争をイメージさせる言葉を使って、自分が今どれほど厳しい立場にあるのかを表現しています。彼は命を狙われていたのだと思います。 しかしその中でダビデは、自分に迫る命の危機だけを見つめ続けるのではなく、主を見ました。そういう中で彼が言った言葉が、この1節から3節の言葉です。 “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。” 詩篇 27篇1~3節 1節に「砦」とありますが、これは外敵の侵入を防ぐための建物です。 主は自分の命を守ってくれる砦だと彼は信仰告白しているのです。 そしてその砦があるから、どんな敵も恐れることはないと続けます。 ここでまず注目すべき点は、ダビデがしっかりと現状を理解しているということです。 周りは敵だらけで、しかもその敵は自分の命を狙っている。 自分は命の危険にされされているということを彼はよく知っていました。 戦うためにはまず現状がどうかということを知らなくてはいけませんが、ダビデはそれができていました。 そしてその上で、彼は先へと進んだのです。 私たちも彼のようでありたいと思います。 周囲の状況に目をつむっていては、問題が解決するはずもありませんが、逆にいつまでも周囲を見渡して、それを自分で解決しようとしていてもその状況は変わりません。 ダビデのように正確な現状認識の後に、その先へと進むことが大切です。 私たちは何か問題が起きるとそのことばかり考えてしまいます。 大きな音が突然聞こえると驚いてそちらの方を見て、しばらく固まってしまう状態と似ています。 そんなわたしたちに今日の聖書が教えてくれているのは、問題をしっかり把握することは大切だけど、そこにとどまるのではなく、主を見上げ、主に信頼することがもっと大切だということです。 現状把握でとまってしまうと、そのことばかりグルグル頭の中を回り始めます。 これは思い煩いです。 思い煩いは、わたしやみなさんにはどうにもできないことも、どうにかできるとささやきます。 「あなたがこうしたらこうなるんじゃないの?」「あなたがもう少し頑張ればなんとかなるんじゃないの?」 色々なパターンを想像させて私たちを下へ下へと引きずっていきます。 しかし私たちはこのように考えるのではなく、現状をしっかり把握した上でどうゆうところが問題なのかを分かった上でこの問題の解決は神様にしかないのだと委ねていくことが大切です。 それは自分自身の力で必死に握ろうとしている何かを離すこととも言えます。 わたしたちは握るのは得意ですが、離すのが苦手です。 これには練習が必要です。 最初はきっとうまくできないでしょう。 しかしその中でも神さまの語りかけに耳を傾けて手を離して神さまに委ねるのです。 ダビデはそれができていました。 彼は主を心から信頼していました。 2節に、「私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた」と記されています。 これがダビデの信頼が特に強くあらわれた部分です。ヘブライ語の聖書もここは完了形で「倒れた」とすでに終わったこととして書かれています。 実際の状況は本当に変わったわけではありません。 相変わらず敵はダビデの周囲にいます。 でもそんな状況であるにもかかわらず、彼は主に信頼しているので、もうすでに神に聞かれたこととして祈っているのです。 イエス様は言われました。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11章23節)。 ダビデはこの時点ですでに勝利していました。 彼はすでに祈りが聞かれたと信じていたからです。 そうして彼はまず守るべき「心」を守りました。 3節で、ダビデは言っています。 「私の心は恐れない。」 彼は心から平安を奪われないことに成功しているのです。 私たちが何かの出来事に心を奪われ、イライラしたり、心を落ち込ませている時、それは心の平安を奪われている時です。…