第5問 ただひとりの神

第5問 ただひとりの神 問: ひとりより多くの神々がいますか。  答: ただひとりしかおられません。生きた、まことの神です。  Q. 5. Are there more Gods than one? A. There is but one only, the living and true God. 世の中にはたくさんの神々があります。第4問では神様の驚くべき属性と被造物との違いについてふれましたが、このような神様(God)が、他にもいるのかというのが第5問の問いです。 この質問の背景には、これまで人類が多くの神々(gods)を自らの手で作り出して来たことがあります。 そして第5問の答えですが、生きたまことの神様は一人しかおられないと書かれています。これは「死んだ神々、偽物の神々はたくさんいる。」とも言い換えることができます。 この世の多くの宗教は各々自分たちの神々を持っています。しかし小教理問答第5問は「生きたまことの神はただ一人しかおられません。」と言うのです。 人間は心から神様を消しさることはできません。なぜなら、神様がすべての人の心に「神についての意識」を植えつけられたからです。これは神様が人に神様を発見できる力を与えたということですが、わたしたちの先祖アダムが神に従わないことを決意し堕落したことで、間違ったものを本当の神のように信じ追求するようになっていきました。このため人間は何か神秘的な力を求め続けて来ました。これが人類の歴史において繰り返されてきたことです。 小教理問答は第5問で神が一人だと断言し、続く第6問で真の神の位格についてのお話へとうつっていきます。

第4問 神とはどんな方か

問: 神とは、どんなかたですか。 答: 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、真実において、無限、永遠、不変のかたです。 Q. 4. What is God? A. God is a Spirit, infinite, eternal, and unchangeable,  in his being, wisdom, power, holiness, justice, goodness, and truth.  第4問は神様が一体どんな方なのかという問いです。とても基本的な問いといえるかもしれませんが、答えは簡単ではありません。 英語の原文を見ると、特徴的なところがあります。それは質問がWhoではなくWhatと記されていることです。 神様が誰(Who) なのかということは、私たち人間には知ることができませんが、その属性が何(What)であるかについては、知ることができるからです。 「What is God?」  この質問に対して正しい回答をするにはどうすれば良いでしょうか。 それは第2問の核心部分である「神様が私たちに教えて下さればわかる。」というのが答えです。 一般的な科学や哲学でもって、ある存在を探求する知識とは根本的に種類が違うものなのです。 神様は私たち人間が分析して把握することのできる方ではありません。 私たちは有限の存在ですが、神様は無限です。有限は無限を知ることはできません。 今まで学んできた小教理問答第2~3問の流れをおさえた上で、これから見ていく第4~6問を見ていってください。 この知識は私たちの側から知ることはできず、神様が教えて下さるとき、その分だけ知ることができるものです。 そのような知識だということをまずおさえた上で続きを見ていきましょう。 第3問では聖書は神様のことについて語っているということを学びました。 つまり聖書を見れば神様が一体どんな方なのかがわかるということです。 したがって第4問の質問「神とはどんなかたですか。」の答えは聖書に記されているのです。 人は聖書を通して神様を知るのです。 聖書はその冒頭部分から神様を紹介しています。「 はじめに神は天と地とを創造された。 」 このように聖書は始まります。 「神様は霊であられ‥無限、永遠、不変の方です。」 何が無限で、永遠で、不変なのでしょうか?  神様の存在、知恵、権能、聖、義、慈愛、真実が無限、永遠、不変なのです。 この属性は人が持っているような簡単に変化してしまう軟弱な属性とは違います。 神様の属性は変わりません。これは後に学ぶ「神の聖定」と深くつながっているところです。 <神様についての多様な観念> 神様についての多様な観念はここでは大きく二つに分けてお話しします。 1つ目は神様をとても遠い方だと考えることで、2つ目は度を超えてとても親密なものと考えることです。…

第3問 聖書の内容

第3問聖書の内容 問: 聖書はおもに何を教えていますか。 答: 聖書がおもに教えていることは、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです。(テモテの第二の手紙1:13、3:16) 第一問では人生の目的を扱い、第二問ではその目的が成されるための唯一の基準となるのは聖書だとお伝えしました。それではその聖書の内容は一体どのようなものなのでしょうか。 それに対する答えが第三問に記されています。 「聖書ってどんな本ですか?」という質問にはいくつか答えが考えられますが、小教理問答の構造にならって答えるなら、人が神に関して信じるべきこと(知識)と、神が人に求めておられること(実践)が記されている本であると言えます。 小教理問答は下記のような構造をしています。 小教理問答 第一部  4-38問    人が神様に関して信じるべきこと 知識 小教理問答 第二部  39-107問  神様が人に求めていること    実践 神に関して何を信じるのか? 小教理問答は私たちが信じる対象に関する「知識」を強調しています。信仰には知識が必要です。何を信じているのか知らないで信じるならそれは「盲信」です。 神様は私に何を要求しているのか? 信仰は、その対象が求めるものを聞いて、その言葉のとおりに行動することです。 信仰と行動は別個のものではありません。 信仰は行動の根っこ(根拠)であり、行動は信仰から出る実です。 私たちは自分自身が従っている対象、愛する対象を知らなければいけません、そしてその対象が神であると知ったならば、神が何を好んでいるのか知る必要があります。 それを知れば従っていくことができます。 そしてそのように神に従い生きていく過程、それこそが私たちの人生なのです。 小教理問答第1問で学んだように「人の主な目的」は「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」ですが、これに向かうために必要なことが聖書には記されているのです。 第3問の回答は2つで構成されていますが、この2つは密接な関係にあります。回答の前半は「人が神について信じることは何か」ということですが、それは第4問から38問に記されています。そして主に三位一体の神とそのおはたらきとその結果に関する内容が扱われています。これが小教理問答の第一部です。 そして第3問の回答の後半は「神が人に対してどのような義務を求めているか」というものですが、これは第39問~107問にかけて扱われています。ここでは第1部で学んだ神様が私たちに対して守り従って欲しいと思っていることが何なのかを扱います。これが小教理問答の第二部です。 神様をしっかり知った上で信じることは、神様が私たちに求めていることをしっかり知って従順することを意味します。 私たちが聖書を通して学ぶこれらのことは、全て神様に栄光をささげ神様を永遠に、完全な形で喜ぶ人生のためのものです。わたしたちの人生のあらゆる場面で神様にフォーカスを当てて生きること。これこそ小教理問答が教える人生の目的にあった生き方です。

第2問 唯一の基準である聖書

第2問 唯一の基準である聖書 問: 神は、私たちに神の栄光をあらわし、神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けてくださいますか。 答: 旧新約聖書にある神の御言葉だけが、わたしたちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。 (テモテⅡ3:16、黙示録22:18、19) <神がくださった唯一の基準> 第1問では人の主な目的は神の栄光をあらわし喜ぶことだと学びましたが、第2問は神の栄光をあらわし喜ぶためにはどうすればいいかという質問です。 第1問は目的が「何」なのかを問うものでしたが、第2問は目的に向かうための「方法」を問うものです。 この問いには「神に栄光をささげ、神を喜ぶことについて人は自ら知ることはできない。」という前提がかくれています。 私たちが神のことを知るには、神の側から私たちに教えてくれなければいけません。有限の私たちはその限界のために無限の存在である神を理解し把握することはできません。私たちの方から神を探求する仕方では不可能なのです。 あくまで私たちは神が教えてくれた分だけ神を知ることができるのです。 <神がくれた「基準」> 神がくれた基準があることはすでに話しましたが、その基準が何なのかというのがこの第2問の問いです。 答えは「神の御言葉」です。啓示ともいいます。この御言葉は旧約聖書と新約聖書におさめられています。そしてこれこそ私たちの唯一の基準です。 では基準とはなんでしょうか?それは守らなければいけない法です。「このようにして私を知りなさい。」「このようにして私に栄光をささげ、私を喜びなさい。」と指示されたということです。他の方法はありません。 さて、どうでしょうか?素直に同意できるでしょうか? 「どうして聖書をわたしの唯一の基準として守らないといけないのか?」「この広い世界でその方法だけしかないというのは、あまりに極端な話ではないか?」このような考えを持つのが自然ではないかと思います。聖書よりもすばらしく、知恵がたくさん含まれているように見えるものはこの世界にはたくさんあります。 しかし聖書は世の知恵とは全く違います。それどころか世がもっている知恵と基準も神がくださった普遍的な恵みの内に含まれるものなのです。しかしこれには限界があります。生きていく上で多少の益にはなりますが、小教理問答1問の答のように「人生の主な(最高の)目的」のための基準には成り得ません。 ではここから啓示(神の御言葉)についてお話します。 啓示には一般啓示と特別啓示があります。 <一般啓示> 一般啓示とは自然法則と万物によって私たちが知ることのできる啓示です。これは聖書を見なくても受け取ることのできるものです。自然や歴史、人間の内的有り様を通した神の自己顕現のことです。 これはあらゆる時代のあらゆる人々が受け取ることができるものです。しかしこれだけでは不十分です。 世の中には多くの学者たちがいます。しかし彼らが私たちよりも知能が高く研究を多くしてきたからといって神をその分多く知ることができるわけではありません。彼らは私たちが知っていることを知ることはできません。なぜなら彼らは特別啓示を研究せずに一般啓示しか研究していないからです。 <特別啓示> 特別啓示は神についての正しい知識を教えてくれます。神がしてくださったことと、それがどれほど私たちに祝福をもたらしたのかを完全で十分なかたちで教えてくれます。そして、それが聖書に記録されているのです。 神を正しく知るためには聖書しかありません。神の栄光をあらわし、神を喜ぶための基準を教えてくれる啓示は聖書のみです。 <結論> 神が教えてくださればその分私たちは知ることができます。 神に栄光をささげ神を喜ぶための基準が聖書の中にあります。私たちが聖書を有益な基準として扱うときにはじめて私たちは神にまっすぐに栄光を捧げることができ喜ぶことができるのです。 聖書を学ばなければ、どれほど世の中からたくさん学んで、道徳水準が上がり、マナーを身につけても人の主な目的に向かっては生きてはいけません。私たちが聖書をしっかり読み、学べば学ぶほど神にもっと栄光をささげることができ喜ぶことができるのです。 私たちは本来自分がどう生きるべきかわからないまま死をむかえるだけの者でした。しかしそんな私たちに神様は基準をくださいました。それが聖書です。 1問と2問は小教理問答全体の前提です。3問からは聖書の中身に入ります。

第1問 人の主な目的

第1問 人の主な目的問: 人の主な目的は何ですか。答: 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。 Q. 1. What is the chief end of man? A. Man’s chief end is to glorify God, and to enjoy him forever.   これはウェストミンスター小教理問答の最初の問いです。人の「主な」目的が何かを問うています。どうして最初にこの問いがおかれたのでしょうか。それは本格的な内容に入る前に前提をしっかりさせるためです。 これから歩いていく道があるとして、この問いと答えはその歩いていく方向を示してくれるものです。どれほど必死になって道を歩いたとしても逆方向へと歩けば、歩いた分だけ無駄になってしまいます。それを防ぐための問いなのです。 「人の主な目的は何か?」という問いを別の言葉で言いかえるなら「あなたはどうして生きるのか?」となります。この問いは人の存在価値とアイデンティティを見出すことができるようにする重要なものと言えるのでしょう。   <問について> ではこれから問いを詳しくみていきます。この問いには人には「目的」というものがあるという「前提」が隠れています。「本当に人には目的が必要なのか?」「ただなんとなく生きたらいいだろ?」このような疑問をもつ人もいることでしょう。しかし「人には目的がある」という前提を受け入れないと次の段階へ歩を進めることはできません。小教理問答は、目的があればこそ存在する意味があるという前提の上に立っているのです。 ✩以下に相反する2つの見解があります。 ① 聖書a見解 絶対的真理は存在する。b目的 神によってつくられた他の被造物よりも特別な目的と理由があってつくられた。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道の書12:13)c特徴 絶対的な人生の目的があればその人生には価値がある。 →生きる目的があればこそ、その人生には意味があるといえます。目的がなければ今日を生き生きと生きる根拠もなく、結局虚無感に落ちていくしかありません。人は神によってつくられたときに他の被造物とは違う特別な目的と理由が与えられたとするのが聖書の教えです。私たちはその目的に合わせて、真理を追求して生きていくのです。旧約聖書の伝道者の書には「人の本分」と表現されています。「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。」(伝道の書12:13)。この目的がわからないと、「空の空、空の空、いっさいは空である」(伝道の書1:2)というように、すべての事が一時的で虚しいものになってしまいます。 ② 無神論・唯物論a見解 絶対的真理はない。世はただ存在しているだけ。b目的人生の目的は誰かがくれるものではなく、自分が探すものだ。自分の立場からもっともよいものを探すことが目的だ。自分の人生は自分のもの。自分の幸せと満足のためのもの。c特徴 自分と他の人が違うように存在の目的もちがう。 →この見解は神などいないと考え存在自体に意味があると主張するものです。つまり人には与えられた目的などないという見解です。この立場の人にとって人生の目的とは誰かがくれるものではなく、自分が探すものです。彼らは自分の幸福と満足を追求します。彼らにとっては自分が一番良いと思うものを探し出すことこそ人生の目的なのです。この考えはどのような結果をもたらすでしょうか。自分にとって良いものだけを探すのだから、自分が好きなものと他の人が好きなものが違うように、存在の目的も人によって違うという相対主義へとつながっていきます。相対主義の人からすれば絶対的な真理など存在しません。自分が考える最善こそが真理となるのです。すなわち世の人々が各々自分だけの真理を持っているということになります。   問には「人の主な目的は何ですか」と記されていますが、どうして「主な(chief )」という言葉が含まれているのでしょうか?人が生きていく上で持つべき最も重要な目的、人生で追求すべき最善で最高のものを意味する言葉として「主な」という言葉が記されています。わたしたちが得ることのできる他の目的よりも優先され、究極的で、主要な目的があるということを表現するための言葉です。   <答について> 第一問の答えには「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあります。 これは①神の栄光をあらわすことと、②神を永遠に喜ぶことの二つに分けることができます。   ①神の栄光をあらわすこと(コリントⅠ10:31、ローマ書11:36) 「神の栄光をあらわす」とは自分の人生の全領域において神を証ししあらわしていくことです。 私という存在、命、思考、言動など、すべてにおいてその根拠を神におき、神をみとめることです。 また神が喜ばれることは何なのかを最優先にすることです。 これは神が自分の創造主だということを万物をとおして認識し、被造物として自分の創造主である神をみとめ、ただその御名だけを呼び、賛美し、感謝し、その方だけを愛し、その御心に従うことです。 これは何をするにしても神をみとめ恐れ敬うことを意味します。 息をすること、食べること、寝ること、仕事をすること。 それら全ては神の恵みがあってこそ可能なのだと認めることです。   この答の特徴は関心事の中心が神だということです。  …

小教理問答について

 ウェストミンスター小教理問答は、17世紀のイギリスの清教徒たちによって作られた信仰問答です。「契約」という言葉を手がかりに聖書全体を教えようとした信仰問答といえます。信仰問答の中でも聖書を体系的に説明することに重点をおいたものです。したがって時代が変わっても聖書を学ぶ助けとなってくれるはずです。  数年前まで荒野教会では主日の午後礼拝でこのウェストミンスター小教理問答の学びをしていました。今回その時の原稿を整理しホームページにあげることにしました。韓国の出版社から出ている「特講小教理問答(특강 소요리문답)」という本を翻訳しながら少しずつ講義をしました。読みづらい点もあるかと思いますが何かの参考になれば幸いです。