第2問 唯一の基準である聖書

第2問 唯一の基準である聖書 問: 神は、私たちに神の栄光をあらわし、神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けてくださいますか。 答: 旧新約聖書にある神の御言葉だけが、わたしたちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。 (テモテⅡ3:16、黙示録22:18、19) <神がくださった唯一の基準> 第1問では人の主な目的は神の栄光をあらわし喜ぶことだと学びましたが、第2問は神の栄光をあらわし喜ぶためにはどうすればいいかという質問です。 第1問は目的が「何」なのかを問うものでしたが、第2問は目的に向かうための「方法」を問うものです。 この問いには「神に栄光をささげ、神を喜ぶことについて人は自ら知ることはできない。」という前提がかくれています。 私たちが神のことを知るには、神の側から私たちに教えてくれなければいけません。有限の私たちはその限界のために無限の存在である神を理解し把握することはできません。私たちの方から神を探求する仕方では不可能なのです。 あくまで私たちは神が教えてくれた分だけ神を知ることができるのです。 <神がくれた「基準」> 神がくれた基準があることはすでに話しましたが、その基準が何なのかというのがこの第2問の問いです。 答えは「神の御言葉」です。啓示ともいいます。この御言葉は旧約聖書と新約聖書におさめられています。そしてこれこそ私たちの唯一の基準です。 では基準とはなんでしょうか?それは守らなければいけない法です。「このようにして私を知りなさい。」「このようにして私に栄光をささげ、私を喜びなさい。」と指示されたということです。他の方法はありません。 さて、どうでしょうか?素直に同意できるでしょうか? 「どうして聖書をわたしの唯一の基準として守らないといけないのか?」「この広い世界でその方法だけしかないというのは、あまりに極端な話ではないか?」このような考えを持つのが自然ではないかと思います。聖書よりもすばらしく、知恵がたくさん含まれているように見えるものはこの世界にはたくさんあります。 しかし聖書は世の知恵とは全く違います。それどころか世がもっている知恵と基準も神がくださった普遍的な恵みの内に含まれるものなのです。しかしこれには限界があります。生きていく上で多少の益にはなりますが、小教理問答1問の答のように「人生の主な(最高の)目的」のための基準には成り得ません。 ではここから啓示(神の御言葉)についてお話します。 啓示には一般啓示と特別啓示があります。 <一般啓示> 一般啓示とは自然法則と万物によって私たちが知ることのできる啓示です。これは聖書を見なくても受け取ることのできるものです。自然や歴史、人間の内的有り様を通した神の自己顕現のことです。 これはあらゆる時代のあらゆる人々が受け取ることができるものです。しかしこれだけでは不十分です。 世の中には多くの学者たちがいます。しかし彼らが私たちよりも知能が高く研究を多くしてきたからといって神をその分多く知ることができるわけではありません。彼らは私たちが知っていることを知ることはできません。なぜなら彼らは特別啓示を研究せずに一般啓示しか研究していないからです。 <特別啓示> 特別啓示は神についての正しい知識を教えてくれます。神がしてくださったことと、それがどれほど私たちに祝福をもたらしたのかを完全で十分なかたちで教えてくれます。そして、それが聖書に記録されているのです。 神を正しく知るためには聖書しかありません。神の栄光をあらわし、神を喜ぶための基準を教えてくれる啓示は聖書のみです。 <結論> 神が教えてくださればその分私たちは知ることができます。 神に栄光をささげ神を喜ぶための基準が聖書の中にあります。私たちが聖書を有益な基準として扱うときにはじめて私たちは神にまっすぐに栄光を捧げることができ喜ぶことができるのです。 聖書を学ばなければ、どれほど世の中からたくさん学んで、道徳水準が上がり、マナーを身につけても人の主な目的に向かっては生きてはいけません。私たちが聖書をしっかり読み、学べば学ぶほど神にもっと栄光をささげることができ喜ぶことができるのです。 私たちは本来自分がどう生きるべきかわからないまま死をむかえるだけの者でした。しかしそんな私たちに神様は基準をくださいました。それが聖書です。 1問と2問は小教理問答全体の前提です。3問からは聖書の中身に入ります。