第4問 神とはどんな方か

問: 神とは、どんなかたですか。 答: 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、真実において、無限、永遠、不変のかたです。 Q. 4. What is God? A. God is a Spirit, infinite, eternal, and unchangeable,  in his being, wisdom, power, holiness, justice, goodness, and truth.  第4問は神様が一体どんな方なのかという問いです。とても基本的な問いといえるかもしれませんが、答えは簡単ではありません。 英語の原文を見ると、特徴的なところがあります。それは質問がWhoではなくWhatと記されていることです。 神様が誰(Who) なのかということは、私たち人間には知ることができませんが、その属性が何(What)であるかについては、知ることができるからです。 「What is God?」  この質問に対して正しい回答をするにはどうすれば良いでしょうか。 それは第2問の核心部分である「神様が私たちに教えて下さればわかる。」というのが答えです。 一般的な科学や哲学でもって、ある存在を探求する知識とは根本的に種類が違うものなのです。 神様は私たち人間が分析して把握することのできる方ではありません。 私たちは有限の存在ですが、神様は無限です。有限は無限を知ることはできません。 今まで学んできた小教理問答第2~3問の流れをおさえた上で、これから見ていく第4~6問を見ていってください。 この知識は私たちの側から知ることはできず、神様が教えて下さるとき、その分だけ知ることができるものです。 そのような知識だということをまずおさえた上で続きを見ていきましょう。 第3問では聖書は神様のことについて語っているということを学びました。 つまり聖書を見れば神様が一体どんな方なのかがわかるということです。 したがって第4問の質問「神とはどんなかたですか。」の答えは聖書に記されているのです。 人は聖書を通して神様を知るのです。 聖書はその冒頭部分から神様を紹介しています。「 はじめに神は天と地とを創造された。 」 このように聖書は始まります。 「神様は霊であられ‥無限、永遠、不変の方です。」 何が無限で、永遠で、不変なのでしょうか?  神様の存在、知恵、権能、聖、義、慈愛、真実が無限、永遠、不変なのです。 この属性は人が持っているような簡単に変化してしまう軟弱な属性とは違います。 神様の属性は変わりません。これは後に学ぶ「神の聖定」と深くつながっているところです。 <神様についての多様な観念> 神様についての多様な観念はここでは大きく二つに分けてお話しします。 1つ目は神様をとても遠い方だと考えることで、2つ目は度を超えてとても親密なものと考えることです。…

毎日聖書を調べる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き17章10〜15節 タイトル: 毎日聖書を調べる 本日は久しぶりに使徒の働きを共に見ます。 前回どこまで進んだかといいますと、パウロ一行はテサロニケという町で宣教をしていました。 彼らは旧約聖書からイエスキリストの福音を説明し論証して教えました。 これにより幾人かはわかって信仰にはいりましたが、多くの人はこれに反発しパウロたちは大変激しい迫害を受けることとなりました。 おそらくこの町でキリストの弟子となったと思われるヤソンとほかの兄弟たちが捕まり保証金を払ってやっと解放されるような状況でした。 そこでテサロニケの兄弟たちはパウロとシラスを送り出します。 1 ベレヤでの宣教 “兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に入って行った。” 使徒の働き 17章10節 祈りの中で行き先を示されて行ったというよりも、迫害が起こりその町の兄弟たちにも被害が及ぶという状況に押し出されるような形でベレヤへとやってきました。 テサロニケから西へ80キロのところにある町でした。 ここでもテサロニケの時と同様に旧約聖書の御言葉でもって宣教します。 するとこの町の人たちは非常に熱心に御言葉を聞き、毎日聖書を調べました。 “ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。” 使徒の働き 17章11節 「良い人たち」と記されていますが、素直な人たちとした方がよいところかもしれません。 新改訳聖書2017や口語訳聖書では素直な人たちとなっています。 しかし素直といっても、なんでも聞いて受け入れるという意味ではありません。 彼らはパウロから熱心に話を聞いて、その通りかどうか毎日聖書を調べていました。 最初から批判的な思いで聞くことも良くありませんが、全部鵜呑みにしてアーメンを連呼していてもいけません。 ここでいう素直さというのは、熱心に心を開いて聞くことと、その話が聖書とあっているかどうかを確認することの両方が備わっていることです。 こうしてベレヤの人々はイエスキリストのことを信じ受け入れました。(使徒の働き 17章12節) 2 苦難のマケドニア宣教 しかしこれで終わらないのが、パウロのマケドニア宣教です。 トロアスで一人のマケドニア人が「渡ってきて私たちを助けてください」と言っている幻を主の導きと信じてやってきたパウロでした。 しかしピリピでは鞭打たれて投獄され、テサロニケでも迫害にあい、今度はこのテサロニケの人たちが、わざわざベレヤまでやってきて騒ぎを起こすのです。 “ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。” 使徒の働き 17章13節 3 ベレヤからアテネへ “そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。” 使徒の働き 17章14~15節 ベレヤにシラスとテモテを残しパウロはアテネへと向かいました。 この時ベレヤから案内のために一緒にやってきた兄弟たちがいました。 ベレヤからアテネは約320キロあります。 だいたい大阪から広島までの距離です。 そんな距離をわざわざ一緒にやってきたのです。 そして到着するとシラスとテモテへの言付けをうけとって帰って行きました。 4  御言葉による宣教 テサロニケにおいても、ベレヤにおいても、パウロは一貫して聖書から語りました。 この聖書というのは旧約聖書のことですが、この旧約聖書に記されているメシアに関する言葉を引用し一つ一つ説明していったのだろうと思います。 結果テサロニケではあまり多くのクリスチャンは生まれませんでしたが、ベレヤでは多くのクリスチャンが生まれました。遠くアテネまでわざわざ案内してくれるほどのキリストの弟子となっていました。 今日特に注目したいのが、この御言葉によって宣教したというところです。 御言葉には命があります。力があります。 一見テサロニケの宣教は失敗してベレヤはまずまずだったように見えますが、そうではありません。 それが使徒の働きの続きを見ていくとわかります。 “プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、”…

福音シリーズ① 福音を聞き受け入れる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:コリント人への手紙15章1〜8節 タイトル:福音シリーズ① 福音を聞き受け入れる 緊急事態宣言が延長され礼拝もしばらくはこの形で捧げることになりそうです。 これから日本は、そして世界はどうなっていくのでしょうか。 こういう先の見えない状況の中、わたしたちは何を頼りにすれば良いのでしょうか。 数多くの情報がネットを飛び交っています。 自粛期間中スマフォを見る時間が増えたという方も多いのではないでしょうか。 こういう中でわたしたちは何を掴んで生きていけばよいのでしょうか。 エレミヤ書 2章13節にはこのような御言葉があります。 “わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。” 当時ユダの民は自分たちの先祖をエジプトから導き出しカナンに住まわせてくださった真実なる神を捨て、代わりに自分たちの願う偶像をたくさん作り拝んでいました。 真実なる神は命の水が湧き出る泉ですが、偶像は水を貯めることもできない、水が湧くことなんてありえないこわれた水ためです。 今の状況下でわたしたちは命の水が湧き出る泉を選んでいるでしょうか。 それとも自分たちの思うままこわれた水ためを作っているでしょうか。 これは神を頼りにしているか、それともそれ以外のものを頼りにしているかという問いです。 わたしたちは神を頼り生きるものでありたいです。 特にいつも心に留めていただきたいことは福音です。 これが今日の主題ですが、みなさんは福音と言われてどんなことをイメージされるでしょうか。 福音とは、全て信じる人々に救いを得させる神の力であり(ローマ1:16)、イエスキリストの十字架によって得られた結果が信じる人にすべて臨むことです(ローマ3:22)。 聖書には福音について書かれてある箇所がたくさんあります。 聖書の中心主題は福音だということができます。 福音はとてつもなく広い範囲を覆う主題だということができます。 今日はその中の一部を共に見ていきます。 1  福音をもう一度きく必要(1、2節) 今日の聖書のコリント人への手紙15章の背景として、復活はないという人々の存在があったことを知る必要があります。 彼らの主張の根拠は定かではありませんが、とにかく福音にとって欠かすことのできないはずの復活はないと言っていたのです。 それでパウロはもう一度ここで福音を語っています。 “兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。” コリント人への手紙 第一 15章1節 コリントの人々はすでに福音を受け取っていました。 しかしそんな彼らの信仰が揺れたのです。 それでパウロは「福音を知らせましょう」とここで言っています。 すでに福音を受け取った人もまた福音を聞く必要があるということです。 わたしたちはこの世界で生きている限り色々な言葉に惑わされる可能性のある存在です。時には信仰が揺らぐこともあります。 この世界は多くの選択肢をわたしたちに提供します。それがさも正しいことであるかのように振る舞いながら近づいてきます。 あれも良いしこれも良い。あなたの生活を豊かにするものはこんなに溢れていると私たちに迫ってきます。 しかしこれらはすべて下からの言葉だということを思いだしてください。 この世からの言葉(下からの言葉)によってわたしたちは平安を得ることはできません。 命の水はそこから湧くことはないのです。 少しの間の安心は手に入れられるかもしれませんが、そこには本当の平安はありません。 本当の平安は上からの言葉を受け取ってこそ得られるものです。 上からの言葉、神の御言葉、福音はクリスチャンになってからも何度も受け取るべきものです。 パウロはここで言っています。 「兄弟たち、私は今、あなた方に福音を告げ知らせましょう」 コリントの人々がそうであったように、私たちも何度も福音を聞く必要があります。 どのようにしてでしょうか。 それは聖書を通してです。 聖書は福音について書かれている本です。 この聖書によって福音を何度も聞くのです。 そうして再度福音を受け取り直していく。 これがわたしたちの信仰を成長させてくれます。…

墓は開かれた

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マタイの福音書28章1〜10節 タイトル: 墓は開かれた 私たちは平和な時代を過ごしてきました。 特に戦後、日本が復興し、大きく成長した後に生まれた私や私と同世代の方々にとって平和そのものだったと言えると思います。 大きな地震などはありましたが、それでも世界中がこれほどボロボロになるような出来事はありませんでした。 世界は大きく変わり始めているのかも知れません。 みなさんは現在の状況をどのように見ておられますか。 「もうすぐ終わる。言うてる間や。」と楽観的に考えておられるでしょうか。 それともこの状態がこれから何年も続くように感じていますか。 この災禍の中、さらに地震や食糧不足、そして戦争も起きるかも知れないと考え始めた方もおられるかもしれません。 この世界は今とても混乱しています。 こういう時にネットやテレビなどから安易に安心を得ようと思っても得ることはできません。 この世界の情報(下からの情報)はわたしたちに平安を与えることはできません。 上から来る情報、つまり御言葉からわたしたちは平安を得るものでありたいと思います。 今日も共にイエスキリストが復活された出来事を見ていきます。 ① ストーリー マグダラのマリヤと他のマリヤの二人はイエスさまが納められているはずの墓へとやって来ました。 27章の後半部分を見ると、この人たちはイエスさまが十字架から取りおろされ墓に運ばれた時ついていったようです。 しかしもうすぐ安息日が始まるということで、しっかりとした葬りができなかったのでしょう。 安息日が明けて週の初めの明け方、すなわち日曜日になって、手厚く葬るためにやってきました。 彼女たちは死んだイエスを世話するためにやってきた人たちでした。 しかしそこで大地震が起こります。 それは天使が墓の石をわきへやりその上に座ったからでした。 番兵たちはこれを見て恐れ死んだようになりました。 マリヤたちも恐れていたようですが、天使は彼女たちにイエスがよみがえられたことと、このことを弟子たちに伝えるように言います。 彼女たちは恐れつつも喜んで弟子たちに伝えに走りますが、その途中で復活されたイエスさまと出会います。 そしてさらに弟子たちに伝えるべき言葉を与えられます。 それはガリラヤで会おうという言葉でした。 ② 死んだイエスのもとに(1節) 今日のお話の最初の場面で、二人のマリヤがイエスさまのお墓にやってきます。 この時彼女たちは一体どんな思いだったのでしょうか。 死んだ人のために足を運ぶことがどういうことなのか私たちはそれぞれの経験で知っていると思います。 ある人は亡くなってすぐの姿を想像されるかも知れません。 ある人はお葬式を想像されるかも知れません。 ある人は火葬場を想像されるかも知れません。 あるいは骨壺でしょうか。 日本で暮らしている私たちは火葬をして埋葬するのでそのようなイメージかも知れません。 どんな場面を想像したにせよ、それは命とは遠く離れたものです。 死というものを強く感じさせられるところです。 そこに二人のマリヤはやってきたのです。 ユダヤの埋葬の仕方にしたがって香油を塗るためだったと思います。 ③ 主の使いの言葉(2〜7節) マリヤたちはここで主の使いからイエスさまが復活したという知らせを受けました。 死に打ち勝たれたことを宣言するかのように目の前で墓が開いています。 以前彼女たちはイエスさまの遺体が入れられた墓が石で閉じられるのを座って見ていました(27章61節)。 しかし今はその石が取り除けられていました。 彼女たちは確かにイエスキリストの復活の知らせをこの時受け取りました。 ④ 復活のイエスと出会うマリヤたち(8〜10節) 知らせを受け取ったマリアたちは、その知らせを主の使いに言われた通りに弟子たちに伝えに走りました。 するとその途中で復活されたイエスさまと出会うのです。 この後ガリラヤで待っていると言われたイエスさまの言葉を弟子たちは伝え聞き、弟子たちもガリラヤで復活のイエスさまと出会います。…

エマオへ向かう弟子たちと共に

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書24章13〜35節 タイトル: エマオへ向かう弟子たちと共に 今日もイエスさまの復活に関する聖書箇所を共に見ます。 イエスさまは十字架で捨てられ死なれましたが、3日目によみがえられました。 そしてその復活の命に生きるものとして、わたしたちを呼び出されその命を与えてくださいました。 今日はそんな復活の命に生きるものとされた弟子たちが、どのようにその命を受け取るように導かれたのかを見ていきたいと思います。 ⑴イスラエルは当時ローマ帝国という超巨大な国に植民地支配を受けていました。 イスラエルの民の希望はそのローマの支配からの脱脚でした。 しかし彼ら自身にはそんな力はありません。 だから彼らは救い主を待っていました。 いつの日かローマ帝国を倒しイスラエルを独立国として復興させることのできる救い主を待っていたのです。 そしてとうとうその救い主がやってきたと彼らは思いました。 それがイエスさまでした。 彼の言葉には力があり、人々は彼の言葉や彼に触れられることにより病気が癒されました。 ほんの少しの食べ物を彼が祝福すると何千人もの人が満腹になりました。 彼らはこのイエスキリストを先頭にしてローマから独立しようとしていたのです。 それは今日登場したイエスキリストの弟子たちも同じです。 彼らはルカの福音書24章21節において、”しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。‥”と記されています。 贖いと聞くと、罪の贖いという言葉をクリスチャンは思い出すと思うのですが、もともと贖いという言葉には、奴隷からの解放という意味があります。 つまり、ここは罪の贖いという意味というよりもローマの支配からの解放を望んでいたという意味なのです。 同じくルカが書いた使徒の働きにも、弟子たちが復活したイエスさまに言った言葉の中にこんなものがあります。 “‥「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」” 使徒の働き 1章6節 使徒たちを始め、イエスキリストの弟子たちは、自分たちの罪の贖いではなく、イスラエルの復興を願って、イスラエルが植民地支配から開放されることを願ってイエスキリストに付き従っていたという事が言えるのではないでしょうか。 マルコの福音書においては、ヤコブとヨハネはイエスさまにこう言いました。 あなたが御国の座につかれる時には、一人を右に一人を左においてください。 この御国とは、天国のことではありません。 ローマを追い出した後の、イスラエルの国のことです。 その時にイエスさまの右と左につきたいというのは、ナンバー2とナンバー3にしてくださいということなのです。 つまり弟子たちは、イスラエルの復興を望むと同時に、復興した後の自分の位の保証を目論んでいたという事が言えるのです。 イエスさまに付き従っていた理由の1つがそれだったということでしょう。 ではなぜ彼らはそれを望んだのでしょうか。 それこそ自分の幸せだと思っていたからではないでしょうか。 それこそ成功だと思っていたからでしょう。 彼らにとってイエスさまは自分たちが生きる上で必要な存在だったのです。 彼らは自分の目的に合致すると思ったから、自分が行こうとしている人生の目的地にイエスさまが連れて行ってくれると思ったから弟子となったと言えるのです。 しかし見事にそれは打ち砕かれました。 救い主イエスが倒すはずだったローマ帝国、そのローマの死刑道具である十字架にかかりイエスさまは殺されてしまったのです。こうして彼らの夢もやぶれました。 ⑵以上のことを押さえた上で19〜24節を見てください。 “イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」” ルカの福音書 24章19~24節 彼らはこの話を暗い顔つきで話していました。 落胆しながらエマオへの道を歩いていた途中だったのです。 イエスさまにつき従えば、自分の目的が達成できると思っていたのに、そうはならなかったからです。 彼らは暗く重い心で歩いていたのでしょう。 みなさんには同じ経験はないですか。 健康、友人、家族、学歴、仕事、収入、愛情などを欲しいと思い、手に入れたいと思い、それを手にいれたら幸せになれると考え、イエスさまについていけば得られるのではないかと思って従おうとしたことはないですか。 こういう時、わたしたちにとってイエスさまは、人生をまっとうするために必要なものの一つとなっているのかもしれません。…

復活の命に生きる者

イースター礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書21章1〜17節 タイトル:復活の命に生きる者 今日はイースター礼拝です。 本当は共に集い礼拝を捧げたかったです。 しかしこのような状況の中でもイエスさまはわたしたちと共におられます。 イエスさまの復活の命が今日もわたしたちを生かしてくれています。 1 十字架にかかる前の日 イエスキリストは十字架にかかる前の日、弟子たちに向かっていわれました。 「あなたたちはわたしにつまずく」 これに対してペテロは言いました。 「たとえほかの者がつまずいてもわたしはつまずきません。」 イエスさまは言われました。 「今夜鶏がなく前にあなたは3度わたしを知らないというだろう。」 ペテロはこのとき本気で「自分はイエスを裏切らない」と思っていたと思います。 彼の行動はたしかにほかの弟子たちとは違っていたからです。 イエスをとらえようとして来た人々を前にしても、ペテロだけは剣をもって立ち向かい相手の耳を切り落としました。 また、大祭司のところに連れていかれたイエスさまを追いかけて大祭司の家の中庭にまで行きました。 しかしそこで彼は挫折を経験し心に大きな傷を負うことになります。 その日は寒くて炭火が焚かれていました。 ペテロはその火にあたっていました。 そこで門番をしていた召使いの女性が「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言うと、ペテロは「そんな者ではない」と否定しました。 次に、彼の近くにいた人々に、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言われたペテロはまた打ち消してそんな者ではないといってしまいました。 さらに次に大祭司のしもべの一人(ペテロに耳を切り落とされた者の親戚)がやってきて、「私が見なかったとでもいうのですが、あなたは園であの人と一緒にいました。」というと、ぺテロは「そんな人はわたしは知らない」と言って打ち消しました。 するとその時鶏がなきました。 彼はイエスさまのいう通り、鶏がなく前に3度イエスさまを知らないと言いました。 「ほかの弟子たちが裏切ったとしても、わたしは裏切らない」とあれほど強く言っていたぺテロでしたが、彼もほかの弟子と同様イエスさまを裏切ったのです。 この時ペテロは大きな大きな挫折を経験したと言えるでしょう。 そして心に大きな傷を負いました。 わたしがもしこの時のペテロならこう思ったはずです。 「わたしはもうイエスさまの弟子ではない。」 この後イエスさまは神のご計画どおりに十字架にかけられ死なれ完全に葬られました。 しかし3日目によみがえり、弟子たちにその復活した姿を現されはじめます。 2 漁に出たペテロのもとに 今日の聖書はその3度目のことでした。 しかしペテロはまだ罪悪感と挫折の中にいました。 イエスさまが復活したと聞いても、墓が空っぽであることを確認しても、直接イエスさまと会っても彼は立ち直ることができなかったようです。 だから今日の聖書では、昔の仕事に戻ろうとしている彼の姿が記されています。 彼はイエスキリストの弟子となる前、漁師をしていました。 イエスキリストに召し出される時、彼はこのように言われました。 「人間をとる漁師にしてあげよう」 この言葉を信じ受け入れた彼は網を置いてイエスに付き従いました。 ペテロはイエスさまを裏切って以降挫折感をもって暮らしていました。 弟子失格というレッテルを自分で自分につけたまま、下をむいてため息ばかりの日々だったことでしょう。 空の墓を見ても、目の前にイエス様が現れても、彼の心は変わることはありませんでした。 自分はできない。自分はダメだ。と思っている時の人間の姿というのはこのようなものではないでしょうか。 自分を責めることでしか自分を保てないのです。 不思議とそれでバランスを保てていると思っています。 そういう中で人間をとる漁師を諦めたペテロは、魚をとる漁師に戻ろうとしているように見えます。 彼はわたしは漁に出ると言って、小舟に乗り込みました。 しかしその夜は得意なはずの漁で何も成果をあげられませんでした。 “シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。” ヨハネの福音書 21章3~4節 この時の彼の気持ちはどんなものだったでしょう。…

罪と死の解決は成し遂げられた

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書19章29、30節 タイトル: 罪と死の解決は成し遂げられた 今日の聖書箇所、ヨハネの福音書19章30節にはイエスキリストが十字架上で語られた7つの言葉の中の6つ目の言葉が記されています。 “イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。” ヨハネの福音書 19章30節 「完了した」 この言葉は死の問題の解決を完了したと見てもよいところですが、そうだとするとイエスキリストはどのようにしてこの死の問題を解決されたのでしょうか。 ローマ人への手紙 6章23節には “罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”とあるように死の問題の解決は罪の問題を解決することにあります。 イエスキリストはこの罪の問題を解決してわたしたちを永遠に生きるものとされたのです。 1 ヨハネの福音書について ヨハネの福音書は最初にイエスが神であることを明確にしている福音書です。 1章1節から始まる神のことば(ロゴス)これがイエスキリストのことですが、このロゴスが神であると宣言して始まります。 そしてもう一つの特徴はヨハネの福音書は旧約のイメージをふんだんに使っていることです。 何層にも旧約のイメージが重ね合わさっています。 今日はその中のいくつかをご紹介して、「完了した」の意味を探ってみたいと思います。 “ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。” ヨハネの福音書 2章13~22節 この中でユダヤ人たちは神殿の建物そのものの話をしています。 しかしイエスさまはご自身が本当の神殿であることを言い表しています。 神殿とはそもそもなんでしょうか。 これは神の国というものを考える時にはっきりします。 神の国と聞いてまずみなさんは何を思い浮かべられるでしょうか。 神が王であられそこに民がいて王の言葉に100%したがっていること。これが神の国です。 最初に思い出していただきたいのは、最初の人アダムがいたエデンの園です。 そこでは神が王であられ、アダムとエバが民であり、また神が「良かった」と言っておられるように、彼らは100%神に従って生きていました。 これが神の国です。 しかし善悪の知識の木の実の事件によって、アダムとエバは自分たちが王となれる国を作ったのです。これが人間の国です。 神の国と人間の国には大きな断絶ができました。 罪によってできた断絶でした。 このまま人を見捨てることもできたわけですが、神はわたしたちがまだ罪人であった時にわたしたちを愛され救うことをよしとされました。 神はまずアブラハム という人を選び人を救う準備を始められました。 彼の子孫を大きくし大きな国にすることを考えられたのです。 その国からモーセという人を選びました。 そしてこの国を導く道中でモーセに神と対面する方法を教えてくださったのです。 それが幕屋でした。民は移動しなくてはいけなかったので、幕屋という形をとりましたが、後にこれが頑丈な建物にかわって神殿と呼ばれるようになります。 幕屋や神殿の役割というのは、神と人間の中保的役割です。間を取り持つためのものです。 神との交わりが可能となるところなので、人間の国に現れた神の国とも呼べるものでした。 これが旧約で記されている幕屋であり神殿なのです。 先程読んでいただいた聖書にありましたように、イエスさまはご自身こそ神殿だと言っておられます。 つまりご自身が神と人間の間を取り持つ存在だということです。 そしてご自身が神の国そのものだということなのです。 “ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”…

「わたしは渇く」

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書19章28節、7章37〜39節 タイトル: 「わたしは渇く」 1 命の水と渇きについて 今日の聖書箇所は二箇所 ヨハネ19章28節と7章37〜39節です。 1)二つ目の聖書箇所をまず確認します。 “さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。” ヨハネの福音書 7章37~39節 ①「祭り」とだけ記されていますが、これはユダヤの三大祭りの一つである仮庵の祭りのことです。 仮庵の祭りとは、イスラエルの民のエジプトからの脱出に関連し,荒野における放浪と仮小屋での生活を記念する意味合いがあります(レビ23:43)。 仮庵の祭りは、7日間続きますが、その後の一日を大いなる一日として盛大に祝います。37節にある「祭りの終わりの大いなる日」とはこのことです。 ユダヤ人たちはこの仮庵の祭りの期間にシロアムの池で水を汲み、大いなる日にそれは祭壇にそそがれました。 祭壇に水を注ぐのは、先祖たちが荒野で生活している時に、神が岩から水を出してイスラエルを生かしたことを記念するためです。 しかしイエスさまはこの儀式に関連して目に見える水ではなく霊的な水について話しています。 霊的な水とは39節にあるように、御霊のこと。聖霊のこと。 そしてこれが命の水なのです。 イエスさまは誰でも渇いているならわたしのもとに来て飲みなさいと言われました。 ② 続いてこの渇きについて考えます。 渇きとは何でしょうか。 人間の体の60〜65%は水分だと言われるように人は水なしで生きてはいけません。 わたしたちは1日に何度も渇きをおぼえます。 しかしイエスさまの言っている渇きとはこの渇きのことではありません。いわば霊的な渇きのことです。 人の心には神にしか潤せない部分があります。 その部分を人は色々なもので潤そうとしますが、何をしても潤すことができません。 つまりずっと渇きを覚えている状態なのです。 そんなユダヤの人々に対し、そして我々に対して、イエスさまが言っておられる言葉が、「だれでも渇いているなら、わたしのもとにきなさい」という言葉なのです。 2)ではどのようにしてイエスさまがこの命の水である聖霊を与えるのでしょうか。 そもそもわたしたちの心が渇いているのは、わたしたち人類自らが神から離れたからに他なりません。 神はエデンの園でアダムに善悪の知識の木から取って食べてはいけないと言われました。 しかしアダムはこの法を破りました。 この時から人は本当の命である神との関係が絶たれたのです。命の水を失ったのです。 この状態から自力で回復する力がわたしたちにはありません。 だからイエスさまが来られました。 本来私たちの先祖アダムこそ神に従うべきでした。しかし神の御子が身代わりとなり神に完全に従われ、身代わりとして十字架にかかるという罰を受けられたのです。 このことを踏まえた上で19章28節を読みます。 “この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。” ヨハネの福音書 19章28節 7章ではわたしが命の水を飲ませようと言われたイエスさまがここでは渇くと言っておられます。 イエスさまは十字架上で神との交わりを完全に絶たれることを通してわたしたちに命の水を与えられたのです。聖霊を送るための管となられたのです。 彼の渇きによってわたしたちは潤されました。 彼の打傷によってわたしたちは癒されました。 彼が捨てられることによって、わたしたちは拾われたのです。 コリント人への手紙第一10章には、荒野の水は聖霊のことであり、岩がキリストであると記されています。 岩がさけて水が流れ出たように、キリストが打ち叩かれることで、聖霊がわたしたちにも与えられたのです。 3)結び 今日は命の水とそれに対する渇きについて話しました。 わたしたちはキリストを信じる者です。 神との関係が回復された者です。 一人一人のうちに聖霊がおられ、現在の災禍にあっても、それは変わりません。…

十字架による家族の回復

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書 19章25~30節 タイトル: 十字架による家族の回復 現在は受難節、主の受難をおぼえる時です。 今日はキリストの十字架上の第3の言葉を見ます。 “兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。” ヨハネの福音書 19章25~27節 今日はこの言葉を「家族」の回復という視点で考えてみようと思います。 そもそも家族とはいつからあるものなのでしょうか。 “神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」” 創世記 2章18節 主はこう言ってアダムにエバを与えました。 これがこの世界の最初の家族です。 神を中心とした素晴らしい家族だったはずです。 神が見た時それは本当に良かったと創世記1章31節には記されています。 しかしここに罪が入ります。 神に食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べたことにより、人は神を見て生きるものではなくなり、お互いを見てその欠点をみて、指摘しあうものとなりました。 神を中心としていた家族が壊れた瞬間でした。 アダムとエバのこの失敗は、息子たちにも影響を与えており、生まれた時から息子たちも罪を持っていました。 彼らの名前はカインとアベルといいます。 彼らはある日神に捧げ物をしました。 カインは自分が育てた穀物を、アベルは自分が飼育していた羊の最もよいものを選び捧げました。 すると神はアベルを良しとされました。 カインはアベルに嫉妬し自分の弟であるアベルを殺してしまいました。 これ以降多くの家族が聖書には登場しますが、問題のない家族は一つもありませんでした。 神との関係が切れた家族には命がありません。 良く似た血液を持ち、性格や姿形や仕草も似ていますが、本当の意味での繋がりがないのです。 それが罪の影響下にあるこの世界の家族です。 いうまでもないことですが、それでも家族は大切です。 聖書には父母を敬えとあります。 主にあって両親に従えともあります。 子どもを怒らせてはいけないとも記されています。 “子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。” エペソ人への手紙 6章1~4節 家族は尊いものだと聖書も認めているのです。 しかしとても不安定なものなのです。 その関係にはヒビが入っているのです。 お互いを愛し合い助け合い支え合うべきはずの家族です。そのように神はアダムにエバを与えたのです。 しかし罪が入り、神との関係が切れた家族は逆に足を引っ張り合い押さえつけあう関係になってしまいました。本当はそんな関係になりたくないのに気づいたら間違いを犯している自分がいる。そんな状態になってしまったのです。 今現在、どれほど多くの家庭が問題を抱えているでしょうか。 虐待は2018年度相談件数16万件、DVは2019年度9042件確認されています。 たとえ虐待やDVがなくても、夫婦の葛藤や親子の葛藤は、どんな家庭にもあるのではないでしょうか。 しかし聖書に照らし合わせるとこれは全く自然なことです。 最も重要なパーツが抜けているのだから当然です。 神との関係を失った人は、神との関係が切れた家族は、最も大切なつながりを失ったのです。 それは基礎工事のあまい家と同じでとても不安定なものです。 イエスの目的は家族を新しく作り変えることでした。 わたしたち人と神との関係を回復し作り変えることを通して、人と人との繋がりを回復し、家族を回復させることがイエスがしようとしたことです。 そしてその家族は血のつながりを超えていくものです。…

第3問 聖書の内容

第3問聖書の内容 問: 聖書はおもに何を教えていますか。 答: 聖書がおもに教えていることは、人が神について何を信じなければならないか、また神は人にどんな義務を求めておられるか、ということです。(テモテの第二の手紙1:13、3:16) 第一問では人生の目的を扱い、第二問ではその目的が成されるための唯一の基準となるのは聖書だとお伝えしました。それではその聖書の内容は一体どのようなものなのでしょうか。 それに対する答えが第三問に記されています。 「聖書ってどんな本ですか?」という質問にはいくつか答えが考えられますが、小教理問答の構造にならって答えるなら、人が神に関して信じるべきこと(知識)と、神が人に求めておられること(実践)が記されている本であると言えます。 小教理問答は下記のような構造をしています。 小教理問答 第一部  4-38問    人が神様に関して信じるべきこと 知識 小教理問答 第二部  39-107問  神様が人に求めていること    実践 神に関して何を信じるのか? 小教理問答は私たちが信じる対象に関する「知識」を強調しています。信仰には知識が必要です。何を信じているのか知らないで信じるならそれは「盲信」です。 神様は私に何を要求しているのか? 信仰は、その対象が求めるものを聞いて、その言葉のとおりに行動することです。 信仰と行動は別個のものではありません。 信仰は行動の根っこ(根拠)であり、行動は信仰から出る実です。 私たちは自分自身が従っている対象、愛する対象を知らなければいけません、そしてその対象が神であると知ったならば、神が何を好んでいるのか知る必要があります。 それを知れば従っていくことができます。 そしてそのように神に従い生きていく過程、それこそが私たちの人生なのです。 小教理問答第1問で学んだように「人の主な目的」は「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」ですが、これに向かうために必要なことが聖書には記されているのです。 第3問の回答は2つで構成されていますが、この2つは密接な関係にあります。回答の前半は「人が神について信じることは何か」ということですが、それは第4問から38問に記されています。そして主に三位一体の神とそのおはたらきとその結果に関する内容が扱われています。これが小教理問答の第一部です。 そして第3問の回答の後半は「神が人に対してどのような義務を求めているか」というものですが、これは第39問~107問にかけて扱われています。ここでは第1部で学んだ神様が私たちに対して守り従って欲しいと思っていることが何なのかを扱います。これが小教理問答の第二部です。 神様をしっかり知った上で信じることは、神様が私たちに求めていることをしっかり知って従順することを意味します。 私たちが聖書を通して学ぶこれらのことは、全て神様に栄光をささげ神様を永遠に、完全な形で喜ぶ人生のためのものです。わたしたちの人生のあらゆる場面で神様にフォーカスを当てて生きること。これこそ小教理問答が教える人生の目的にあった生き方です。