感謝の祈り
以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/L22uKiMsbgQ 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ピリピ人への手紙4章6、7節 タイトル:感謝の祈り “何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。” ピリピ人への手紙 4章6~7節
Whoever drinks the water I give them will never thirst.
私たちの教会は伝統的なプロテスタント教会です。エホバの証人、旧統一教会、モルモン教などとは関係がありません。
以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/L22uKiMsbgQ 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ピリピ人への手紙4章6、7節 タイトル:感謝の祈り “何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。” ピリピ人への手紙 4章6~7節
以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/kPz9QI9e1hc 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:マルコの福音書2章23節〜3章6節 タイトル:まことのしるし “ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。」 イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家に入って、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。」 また言われた。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。 人の子は安息日にも主です。」” マルコの福音書 2章23~28節 “イエスはまた会堂に入られた。そこに片手のなえた人がいた。 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。 イエスは手のなえたその人に「立って真ん中に出なさい」と言われた。 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。 そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどのようにして葬り去ろうかと相談を始めた。” マルコの福音書 3章1~6節
以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/_gqGDT3rfoM 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇40篇4〜8節 タイトル:聖書が語る幸い “幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」” 詩篇 40篇4~8節
以下のリンクをクリックすると礼拝メッセージを視聴できます。 https://youtu.be/b0sy33QI2l4 主日礼拝メッセージ 聖書箇所:詩篇121篇 タイトル:主はあなたを守る方
第11問 神の摂理の御業 問: 神の摂理の御業とは、何ですか。 答: 神の摂理の御業とは、神が、最もきよく 、賢く 、力強く、保ち 、すべての被造物とそのあらゆる動きを治めておられることです。 第7問で聖定(神のご計画)について学びました。 この聖定の実行が創造と摂理です。 第11問では摂理について学びます。 摂理とは神のお導きのことです。神はすべてを導いて、やがて世界の歴史が完成するとき「万事が益であった」と信仰者が告白できるようにしておられます。 摂理は「保持」と「統治」にわかれます。 ① 保持:世界も私たちも無から造られました。私たちは、神の絶えざる支えがなければ無に帰す存在であり、神の御手に依存している者たちです。神は万物を支え、万物は神の積極的かつ継続的な力なくして存在できません。 人は自分の力で生きているように考える傾向を持っていますが、常に神のお働きによって人の生命は保たれています。 ヘブル人への手紙1章3節には「御子は…その力ある御言葉によって万物を保っておられます。」とあります。「保」つと翻訳されていますが、原語のギリシャ語(ペロウ)には「動かす」と「支える」という2つの意味が含まれています。この単語は新約聖書の中でほかにも使われています。 “すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。” ルカの福音書 5章18節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 “イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。” ヨハネの福音書 2章8節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 “あなたが来るとき、トロアスでカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください。” テモテへの手紙 第二 4章13節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 この単語には単に維持するという意味だけでなく、活動的な意味があります。ある場所から他の場所へと物を移すという意味があります。 ヘブル人への手紙1章3節では現在分詞形が使われていますが、この理由はイエス様が御言葉によって今現在も宇宙の全てのものを継続的に動かしていること意味しています。イエス様は摂理の御業に能動的に関与されているということです。 ② 統治:神は世界に起こるすべての出来事を支配し、治めておられます。幸せも試練も、父なる神のもとから来ます。万物は神が決めた目標に向かって導かれていくのです。 ③ 協力: 神がすべての行動において被造物の特徴をいかして働かれるということです。 これは単純な役割分担ではありません。ある部分まで神が担当し、ある部分は人間の担当だという理解するところではありません。全てが神の役割であり人の役割です。 万物に対する神の統制に関して二次的原因(人や動物や自然)が結ばれているのだともいいます。 「協力」はウエストミンスター小教理問答には記述がありません。 「協力」は①の保持に含まれるものとジャンカルヴァンによって主張されています。 Question 神が人を通して御心を成し遂げていくとするならば、罪の行いを通して御心が成された時をどのように理解するべきなのでしょうか? ○ダビデの姦淫の話 ダビデは部下の妻に王の権力を使って姦淫という罪を犯しました。そしてその発覚を恐れて部下を戦地の最前線に送って殺しました。しかしこの出来事を通してダビデと部下の妻との間に後にソロモンが誕生しました。このソロモンの子孫がイエスキリストです。ダビデの姦淫と殺人の原因が神にあるかのように思えるところだと言えます。 ○ヨセフが人買いに売られる話 ヨセフの父ヤコブは、息子たちのなかでもっともヨセフを愛していました。それはヨセフが年をとってからの子であったということと、自分が最も愛した人の息子だったからです。これに対してヨセフの兄弟たちは嫉妬の炎を燃やして、自分たちの弟であるヨセフを人買いに売り飛ばしてしまいました。これによってヨセフはエジプトで奴隷として過ごすことになリマス。しかしここで王の夢を解き明かすことによって、エジプトの飢饉を予知し、この危機を乗り切りました。これにより彼はエジプトのナンバー2になりました。ヨセフはエジプトで出会った女性と結婚し、子供をもうけました。長子をマナセといい、二番目をヱフライムと名づけました。マナセとはメナシュ「忘れる」の派生語。赦しの意味を持ちます。そして二番目のヱフライムはファラ「実り多い」の派生語。マナセは過去の痛みを忘れるという意味。そしてヱフライムはこれからの未来の実りを望み見るという意味。 その頃ヨセフの故郷のカナンも飢饉のために食料がありませんでした。そこで父のヤコブが息子たちをエジプトに遣わして、食料を得てくるようにいいました。これによってヨセフを売った兄弟たちはエジプトのナンバー2にヨセフがなっているとも知らずに、食料を分けてもらいたいと願い出ることとなります。こうしてヨセフと兄弟たちは再会します。以前の事は忘れ未来へと目を向けていたヨセフでしたが、それでも実際兄弟たちを見たときに葛藤がなかったかは疑問です。でもヨセフは兄弟たちを赦して最後にこう言いました。「この2年の間、国中にききんがあったが、まだあと5年はたがやすこともかりいれることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それはあなたがたのために残りのこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたでは、実に、神なのです。」(創世記45章7-8節)「あなたがたは私に悪をはかりましたが、神はそれをよいことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50章20節) Answer 神は罪を許容されますが、罪の原因ではない方です。罪を抑制し遠ざける聖い方です。この聖書の内容をそのまま信じることが大切です。神は人間の悪い行いをも用いて益とする力のある方です。 “神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。” ローマ人への手紙 8章28~29節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
第10問 人間の創造 問: 神は人をどのように創造されましたか。 答: 神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造し、被造物の支配を託されました。 ①聖書は人間の創造を非常に重要視しています。他のものの創造に関する部分よりも人の創造に関する部分がはるかに比重が大きいです。 ②この世界で「神のかたちにしたがって」つくられたのは人間しかいません。 上の①と②から言えること。 人の創造こそ創造全体の焦点。 この世は人のためにつくられている。 人は他の被造物を治める存在となるためにつくられました。 人は他の被造物を統治するものであり、被造物のなかの王だと言えます。 1.〈神のかたちとはなにか:知識、義、聖〉 第4問で神は霊であるから見えないということを学んだように、「神のかたち」も外形的なことを言っているのではありません。神の知識と義と聖にしたがい、つくられたということです。 しかし現在の人間はこの「神のかたち」を有しているとは、とても言える状態ではありません。人は罪に堕ちたことにより神のかたちを失ってしまいました。 ですから現在の人は神の完全なかたちを有していません。 しかし聖書はこの神のかたちを回復するようにと言います。 “真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。”(エペソ人への手紙 4章24節) 2.<被造物の支配:統治権> 神は人にすべての被造物を管理し治める統治権を与えられました。人はその使命を全うする必要があります。これは私たち人間の責任です。 人が最初つくられた時は、この統治権をしっかりと行使していました。創世記2章19節のアダムの様子からもよくわかると思います。 “神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。”(創世記 2章19節) ここで名付けるとは、ただ思いつきや感覚で名前つけることではありません。そのものの特性を完全に理解して名付けを行なっているということです。 しかし現代の私たちはアダムほどの能力を持っていません。 なぜなら罪に堕ち、神に与えられた力を失ってしまったからです。 ここでは人が最初どれほどすばらしい形でつくられていたのかを知っておきたいと思います。人が本来、完全な「神のかたち」としてつくられた大変尊い存在なのだということを知り、今の状態が正常ではないことをしっかり認識したいところです。