この世で神の国に生きる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き 22章22-30節 タイトル:この世で神の国に生きる 1 ストーリー 前回、パウロがユダヤ人たちに誤解され殺されかけていたところ、ローマ兵たちが助けに入ったところまでを共に見ました。 あの後パウロはヘブル語でユダヤ人たちに語りかけました。 自分がどのようにしてイエスキリストに出会い宣教師になったかということでした。 しかしイエスキリストによって異邦人へと派遣されたという話になるとユダヤ人たちが再び怒り出しました。 今日の聖書のストーリはこの後の場面です。 ユダヤ人たちは怒り狂い声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言いました。 そして、わめきたて、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らす有様でした。 これに危険を感じた千人隊長はパウロを兵営に引き入れるように命じました。 そしてどうしてこのような騒ぎになっているのかを突き止めるべく、パウロを鞭打って取り調べるようにと兵士たちに命じました。 そこで兵士たちがパウロを鞭打つ準備をしていたところ、そばにいた百人隊長にパウロが言いました。 「ローマ市民であるものを裁判にもかけずに鞭打って良いのですか。」 ローマにとってローマの市民権は絶対的な力を持ちます。 百人隊長は驚いて千人隊長にこの事実を伝えました。 すると千人隊長本人がパウロに確認しました。 「あなたはローマ市民なのか。私は大金を出してローマの市民権を買ったのだ。」 するとパウロは言いました。 「私は生まれながらのローマ市民です。」 それで千人隊長は、正式な手続きも踏まずにローマ市民を縛ってしまったことを恐れ、他の人たちもパウロから一斉に身を引きました。 この辺りに当時のローマの市民権の威力を感じます。 ローマ帝国というのは力で他の国々を制圧していった帝国ですが、同時にルールというものにも厳格であり、この両方を兼ね備えた国だったようです。 だからローマの市民権を持っている千人隊長といえど、そのルールを破ってしまったことに動揺したのだろうと思います。 3  さて、今日のこのお話の中から注目したいのは、まず登場人物たちがそれぞれ何を宝としているかということです。 このお話のために、登場人物を3つのグループに分けてみます。 まず一つ目はユダヤ人グループです。 二つ目はローマの兵士たちのグループです。 三つ目はクリスチャン、つまりはパウロです。 ⑴ ではまずユダヤ人たちからお話しします。 ユダヤ人たちはこの時一体何を宝として動いていたのでしょうか。彼らが一番にしていたものは何でしょうか。 彼らが最初パウロを神殿から引きずり出した時、ある誤解をしていましたが、それはパウロが外国人を神殿に引き入れているという誤解でした。 実際にはそんなことはしていなかったのですが、彼らはそのように勘違いしてパウロを神殿から引きずり出してあのような暴動へと発展したのです。 伝統、慣習、ルールこそ彼らが第一にしているものでした。そして彼らのルールの中にユダヤ人第一主義がありました。 ですから外国人を連れて神殿に入っているという勘違いをした時も、パウロをひきずり出しましたし、パウロが証をした時も、自分は外国人に救いを伝えるものとして派遣されたという話になると彼らは聴いていられなくなったのです。彼らの宝は、ユダヤであり、そのルールでした。 ⑵ ではローマ兵たちはどうでしょうか。 彼らは、一体何を大切にして、何を宝として生きているのでしょうか。 まずお話しておきたいのは、彼らが、暴動の中に入ってパウロを助けた理由は、パウロのためではないということです。 彼らはローマによってユダヤのエルサレムに派遣された人たちです。この地方の治安を守るためにいる存在です。だから暴動が起きたら止めるのです。そしてあのようにリンチによって誰かが殴り殺されるような事態は避けなくてはいけません。彼らの責任問題になるからです。 また彼らはパウロがローマ市民であることを知ったときに、ローマのルールを破ってローマ市民を適正な裁判にかけずに縛ってしまったことを恐れました。 以上の理由から、彼らが大切にしていたのは、ローマの法であり、ローマ皇帝であり、またローマという国そのものだということができます。 ⑶ ではパウロはどうでしょうか。 彼はエルサレムに来るまでに、何人もの人たちにそれを止められていました。なぜなら捕まってしまうかも知れなかったからです。そのことを聖霊によって教えられた兄弟たちがなんとしてもパウロを行かせないようにと思って説得しました。しかしパウロはそれでも心を折れずただ神の導きに従うことを選んだのです。 エルサレムに到着してからは、ユダヤ人クリスチャンたちのつまずきになってはいけないということで、わざわざユダヤのルールに乗っ取って神殿まで行きました。さらにそこで誤解され袋叩きに合い殺されそうになっても、神の福音を伝えることを忘れない人でした。 自分がどのようにしてキリストと出会ったのか。アナニヤの話、ステパノの話、異邦人への派遣の話。 このようなことを彼は自分を殺そうとした人たちにも語ったのです。 彼が大切にしているものは何でしょうか。 それはイエスキリストでした。 福音を一番の宝として、神の国に生きいている人だったのです。…

自分で自分を救うことからの解放

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き21章17〜40節 タイトル:自分で自分を救うことからの解放 1 序 今日の聖書箇所からパウロの受難について記されています。 パウロはイエスキリストと出会いイエスキリストに従う人でした。 イエスキリストを信じるとは、こういうことを言うのだと思います。 イエスキリストを信じ従って生きていくとイエスキリストに似たものになっていきます。 それは生き方そのものの変化であり生きる道の変化です。 パウロは自分の道ではなくイエスキリストの道をもうすでに歩んでいました。 パウロがこれだけ迫害を受けて受難の道を生きるのは、彼がイエスキリストを信じ従って生きていたからです。 パウロの中でイエスキリストが生きておられたからです。 今日はそんなパウロが誤解され汚名を着せられて打ち叩かれる場面をともに見ていきます。 2 ストーリー パウロたち一行はエルサレムに着きました。 すると教会は彼らを歓迎しました。 おそらくリーダーであったと思われるヤコブにも会いに行き、これまで異邦人世界で神がしてくださったことを報告しました。 するとエルサレム教会の人々は大変喜び神をほめたたえました。 しかしユダヤ人クリスチャンの中に広まるある噂のためにパウロが攻撃されるのではないかという不安が教会にはありました。 その噂というのは、パウロが子どもの割礼を施すなと言ったりして、ユダヤ人の慣習に逆らうような主張をしているということでした。 確かにパウロはクリスチャンとなりこれらの慣習によって救われるのではなく、恵みにより信仰によって救われることを信じていました。 しかし彼はユダヤ人の慣習を軽視していません。 コリント人への手紙第一にはこのように書いています。 “ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。 律法を持たない人々に対しては、--私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが--律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。” コリント人への手紙 第一 9章20~22節 彼はイエスキリストの福音を伝えるために相手のつまずきになるようなことを避けた人でした。 信仰の本質に関わることでないかぎり、彼は相手に合わせることで宣教を成功させてきたのです。 そんなパウロが割礼を受けるなとか、ユダヤ人の慣習を守るなとか、ましてやモーセに逆らえなどと言うはずがありません。 この噂はおそらくパウロをよく思わない人たちによって流されたものなのでしょう。 しかしそれをエルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちが信じてしまっていて、パウロに危害が及ぶのではないかという危惧がエルサレム教会にはあったようです。 それでパウロに対して提案をしました。 教会にいるユダヤ人の中に、慣習に従ってナジル人の誓願をたてている4人がいるので、その人たちが身をきよめて頭を剃る費用を出すことでした。 このことを公にすることによって、誤解を解くことができるだろうと考えたからです。 パウロはこれを良しとして、4人と一緒に身をきよめて宮に入りました。 そしてきよめの期間の7日後に供物をしてその代金を出す予定になっていました。 1日、2日、3日と過ぎて行き、7日がほとんど終わろうとしていた時に事件が起きました。 アジア州からやってきたユダヤ人たちがパウロが宮にいるのを発見すると群衆を煽りたてて手をかけたのです。 以前パウロが宮の外で外国人と一緒にいたところを見ていたので、てっきりその人を連れて本来外国人が入れないところまで入ってきていると思ったようです。 パウロはユダヤ人たちが大切にしている慣習を何とも思っておらず、かえってそれに逆らうように言う人だという先入観が彼らにもあったのかもしれません。 これによってパウロは群衆にとらえられてしまい宮の外に引きずり出されてしまいました。 31節には「パウロを彼らが殺そうとしていた時」と記されているので、この時点でもうすでに相当殴られたり蹴られたりしていたのだと思います。 そしていよいよ殺してしまおうという時にローマの千人隊長が百人隊長たちを率いて駆けつけ、パウロは命拾いしました。 しかしそれでも騒ぎがやまず、一体なぜこんな暴動が起きているのかを隊長たちは理解することができませんでした。 それでとにかく渦中にあるパウロを救い出さなくてはいけないということで、ローマ兵たちがパウロを担ぎ上げて運びました。 パウロはこうして護られながらローマの兵営の中に連れ込まれようとしていました。 するとその時、彼はギリシャ語でこう言いました。一言お話ししてもよろしいですか。 千人隊長はパウロがギリシャ語を話せることに驚いてこう言いました。 あなたは、ギリシャ語を話せるのか、するとあなたは、以前暴動を起こして四千人の刺客を荒野に引き連れて逃げた、あのエジプト人ではないのか。 するとパウロはこう答えました。 私はキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人々に話をさせてください。 千人隊長はこれをゆるし、パウロはヘブル語で群衆に話し始めました。 これが今日の聖書のストーリーです。…

信仰シリーズ⑦ 信仰は世に打ち勝つ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの手紙第一5章1〜5節 タイトル:信仰シリーズ⑦ 信仰は世に打ち勝つ 1 序 今朝は久しぶりに信仰について分かち合いたいと思います。 信仰とは神を知る知識です。 知識といっても、頭だけで知るのではなく、それに信頼して人生を委ねて生きることまでを含んだ言葉です。  今日はこの信仰によってこそ、この世に打ち勝つことができるというタイトルでお話します。 2     今日はまず4節と5節を先に読みます。 “なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。” ヨハネの手紙 第一 5章4~5節 今読んでいただいた中に「世」という言葉が登場しましたが、これは一体どういう意味でしょうか。 世とは、神がつくられたこの世界のことではありません。 世というのは、神と敵対する力のことです。 神の言葉を聞かず、神を神とも思わず、ただ自分の思い通りに生きる人々、あるいはクリスチャンであっても、神にどうしても明け渡せない領域もこの世に入るかもしれません。 これに私たちは打ち勝つことができると、この聖句は言っています。 どのようにしてでしょうか。 それは4節が言うように、私たちの信仰によってなのです。 さてこれはどういう意味なのでしょうか。 そのことを1節から見ていきます。 3 “イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。” ヨハネの手紙 第一 5章1節 ここには「イエスがキリストであると信じる者」について書かれています。 「イエスがキリストであると信じる者」すなわち信仰を持つものは、神によって生まれたものだというのです。 では神によって生まれるとはどういうことでしょうか。 新しい命が神に与えられて新しい命に生きる者となったということです。 “だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” コリント人への手紙 第二 5章17節 これは新しい命に生きるとはどういうことなのかを教えてくれる聖句です。 私たちはもともと古い人として生きていました。古い人とはアダムに属する者として罪の中に生きているものです。 しかしその古い人は、イエスキリストの十字架によって死にました。 イエスキリストが十字架にかかったときに、一緒に十字架にかけられたからです。 これは客観的歴史的事実です。これにより私たちは罪の支配から解放されました。 さらにその後、キリストは三日目によみがえられたのですが、この時に私たちは、すでにキリストの中にいて共によみがえりました。つまりこの時に新しい人とされたのです。 だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者だと言いますが、すでに私たちはキリストのうちにあったのです。 そしてこのことを聖霊の働きによって信仰を与えられて信じ受け入れさせてくださったのです。 この信仰がイエスキリストの十字架の出来事と私たちをつなげてくれたのです。 聖霊の働きによる信仰がなくては、いくらキリストと共に死んで甦ったことが事実であろうと、それが自分のこととはなりません。 信仰は人とキリストをつなぐ管なのです。 この信仰という管によって十字架につけられよみがえった事実が私のものとなるのです。 信仰によってこの世に勝つことができる理由は、信仰が私とキリストをつないでくれるからです。 私が私自身の力でこの世に勝つのではなく、キリストの力で私はこの世に勝つことができるのです。 ではキリストにつなぎ合わされた私たちが世に勝つとは一体どういうことなのでしょうか。 それはローマ帝国やヘロデ王がしたような力によっての勝利ではありません。 キリストの力は剣ではないからです。 では一体どのようにしてでしょうか。 この答えを得るには4章20節から見ていく必要があります。 4 …

召命を受け取り生きる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:エレミヤ書1章1〜10節 タイトル:召命を受け取り生きる “ベニヤミンの地アナトテにいた祭司のひとり、ヒルキヤの子エレミヤのことば。 アモンの子、ユダの王ヨシヤの時代、その治世の第十三年に、エレミヤに主のことばがあった。 それはさらに、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚の時まであった。 次のような主のことばが私にあった。 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。--主の御告げ--」 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」” この書は今から2500年以上前エルサレム周辺で活躍したエレミヤという人が書いたものです。 彼が生きた時代は激動の時代でした。 今日読んでいただいた1章2節にもありますとおり、ユダの王がヨシヤという非常に敬虔で優れた王がおさめていた時代から、エホヤキム、ゼデキヤという王までの時代を彼は生きました。そしてこのゼデキヤがユダの国の最後の王となりました。この時代にユダの国は滅ぼされ民はバビロンで捕囚生活を送ることになります。 今日はそんな大変な時代に主に立てられた預言者エレミヤが神に召し出された時のみことば、召命の言葉を見ていきます。 1 召命とは 「召命」は神から呼ばれることで、英語ではコーリングと言われます。 クリスチャンであれば皆、召命を受けて、クリスチャンとされ神の子とされています。 召命は、キリストを信じる者へと召され、キリストを証しする人生へと呼び出されることです。 これには定年はありません。引退もありません。 全生涯を貫く信仰の人生を生きる者としての召しなのです。 2 エレミヤへの召命 ⑴今日登場したエレミヤという人はアナトテの祭司ヒルキヤの子として生まれました。 召命を受けた時のエレミヤは、まだ若く一人前の祭司とは言えなかったと思われます。 そんなエレミヤにある時、神の言葉が臨みました。  “「わたしは‥あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」”(エレミヤ書 1章5節) 召命はどこに生まれたかではなく、神の語りかけから来ます。 エレミヤが召命を受けとった時代は紀元前7世紀、2節にはユダの王、ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことと書かれています。 この時ちょうど大国アッシリアの王が死に、翌年、新バビロニアが独立して、さらにその翌年にはメディアが独立するというオリエント世界の大きな変化の時期でした。 どの国もイスラエルにとっては大きな脅威となる強国です。 さらに3節を読むと神からの語りかけがこの後の時代にも続いたことがわかります。 「ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代にもあり、ヨシヤの子、ユダの王ゼデキヤの第十一年の終わり、すなわち、その年の第五の月に、エルサレムの民の捕囚の時まで続いた」。 イスラエルはこの大変動の中で最後には国を失い、その民のおもだった人々がバビロンに捕囚となって身柄を移されました。奴隷として連れていかれてしまったのです。 この大きな変動時代にエレミヤは「諸国の民の預言者」として召されました。 自分の同胞に対し神の言葉を語り、さらにそれを越えて、大変動に巻き込まれた他国の人々すべてに神の言葉を告げました。 しかしこの素晴らしい神からの呼びかけに対するエレミヤの最初の応答は決して良いものではありませんでした。 彼の最初の言葉は、「ああ、神、主よ。」でした。 ここから彼が苦闘しているのがわかります。 この時エレミヤは苦悶の中で戸惑い憂いていました。 「わたしはどう語っていいかわかりません。」 エレミヤはこう言うしかありませんでした。 召命は一生を覆うものですが、その召命には「わたしには」できませんという領域が含まれています。 エレミヤはまだ祭司としての実績もありませんでした。さらにイザヤのようにエルサレムの神殿付きの祭司でもなく、アナトテという片田舎に追いやられてしまった祭司の家系でしかなかったのです。 条件だけを見ればこのエレミヤの反応にも納得がいきます。 だから彼はこういったのです。 「見てください。わたしにはできない。」と。 ⑵ 主イエス・キリストのものとされ、クリスチャンとして生きることには、この「私にはできない」というところが必ずあります。 召された者として生きることの内には不可能が含まれています。 「神様あなたがいうところでわたしは到底生きられません。その使命に耐えられるとは到底思えません。そんな道をわたしは歩きたくないのです。」 神様の召命の中にはこういうところがあるのです。…

主のみこころのままに

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き21章1〜15節 タイトル:主のみこころのままに 1 ストーリー バウロは、第三回伝道旅行から帰る途中のミレトでエペソ教会から長老たちを呼んで別れの説教をしました。 それから、バウロは、ロドス、パタラを経由して、ツロに立ち寄りました。そこで7日を過ごしていると、この土地の弟子たちが、御霊に示されてエルサレムに上らぬようにとパウロに忠告しました。 しかしパウロはこれを聞き入れず、弟子たちとともに海岸にひざまづいて祈って出発しました。 その後カイザリヤに上陸して数日を過ごしました。 しかしここでもパウロがエルサレムへ行くのを引き止める人たちがいました。 中でも預言者アガボの預言は印象的で、パウロの帯を持ち出して自分自身を縛り、この帯の持ち主はエルサレムでこのようになると預言しました。 この動きにパウロと同行していたルカたちも加わりパウロをエルサレムへ行かないようにと懇願します。 しかし、これらの忠告や引き止めの手を振り切って、パウロはエルサレムへと入っていくのです。 2 主のみこころのままに このお話で今日注目した箇所は14節です。 “彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに」と言って、黙ってしまった。” 使徒の働き 21章14節 主のみこころのままに。 この言葉はとても重たい言葉です。 主の御心をなさってください。 主の最善をなさってください。 という祈りをしたことがある方も多いのではないかと思います。私もその一人です。 ただ今日のこの箇所から見える主のみこころがなることを望むというのはとても重く難しいことです。 しかしこれを知ることは私たちにとって有益であると思いますので、今日はこのことについてシャアさせていただきます。 ⑴ わたしのおこころ まず今日使用する言葉の紹介と意味について触れておきます。 今日は「みこころ」と「おこころ」という言葉を反意語として使います。 みこころとは神様の心という意味です。 一方おこころというのは、私の心という意味で使います。 さてその上でまずお話ししたいのは、今日登場したパウロをエルサレムへ行かせまいとした人たちのおこころについてです。 彼らにとって間違いなくパウロは重要な存在でした。今や異邦人教会の開拓者としてどんどんその勢力を拡大していくその最前線を担っていた偉大な宣教師です。そんな彼が捕まり自由を奪われることを誰も望んではいなかったはずです。ですからここで彼らのおこころというのは、パウロが捕まることなく、今まで通り各地を旅しながら福音を宣教し続けることでした。 しかしツロで説得しようとした弟子たちの言葉をパウロは聞きませんでした。 その結果彼らは説得を諦めてひざまづいて祈って送り出すことになりました。 カイザリヤでは、アガポという預言者がきて、パウロが捕まることを実演してみせました。この町の弟子たちはもちろんパウロに同行していたルカたちもエルサレムにはいってほしくないと思いました。 これがこの時の彼らのおこころでした。 しかしパウロは「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えて、彼らの手を振り解きました。 そんな彼らの口から出た言葉が今日取り上げた「主のみこころのままに」という言葉でした。 人は誰しも自分のおこころの通りになることを望んでいます。 しかしその通りにならないことの方がこの世界は多いです。 ツロの人々もカイザリヤの人々もパウロと同行していた人々も同じでした。 自分のおこころとは違う方へと進む現実がありました。 その時ツロの人々はただひざまずいて祈り、カイザリヤの人々とパウロの同行者は、ただ主のみこころがなるようにと祈ったのです。 自分のおこころから神のみこころへと思いが移され始めた瞬間でした。 ⑵ おこころから、みこころへ ツロの人々はただひざまづいて祈りました。 これはただ主の前に主こそ王であり、自分はその民であるということ、そして主の声を聞いてそれに従おうとする姿と言えます。 また自分の考えを貫くためにぐっと力を入れて握っていた拳を開く、そんな瞬間だったと言えるかもしれません。 カイザリヤの人たちやパウロの同行者たちは、パウロの言葉を聞いて「主のみこころがなるように」と言い、黙ってしまったとありました。 自分のおこころを下に置いて、神の御心を求めることの一つの要素は黙るということです。 パウロの反論を聞いていると、この時周囲にいた人たちは相当強い言葉でパウロを説得しようとしたようです。 しかしパウロの言葉を聞いて彼らは黙りました。 これもまたなんとか自分のおこころが守られるようにと握りしめた拳を開いて、主に委ねることを意味します。 彼らにとってこの決断はとても苦しいものだったはずです。 自分のおこころでは、絶対にこうだろうと思うようなことがあったとして、それとは真逆に動いていく現実にあらがわないことを決めなくてはいけないのです。 ⑶ みこころを求める祈り…