神をほめたたえよ

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇150篇 タイトル:神をほめたたえよ みなさん。今日は今年最後の主日礼拝です。 みなさんにとって2020年はどんな年だったでしょうか。 それぞれに色々な出来事があったと思います。良いこともあれば、辛いこともあったはずです。 また世界的に大きな問題となった出来事も今年はありました。そして今も続いています。 そんな大変な時を通らされている私たちですが、今日この最後の主日の礼拝において覚えていただきたいことは、すべてが主の主権の中にあるということです。良いことも悪いこともすべて主の手の中で起こることです。 それを踏まえた上で私たちが共にすべきことは、どんな時でもただ主を崇め賛美するということではないでしょうか。 なぜならそれこそ私たちがこの世に存在する意味であり、主が私たちを造られた理由であり、その中で生きることこそ私たちの幸せだからです。 今日見る詩篇という書は、一篇一篇バラバラになっているわけではありません。 聖書はすべて神の霊感によって書かれたものですので、この順番と構成すらも主の手によるものだと見ることができます。 詩篇は1篇からみていきますと、いろいろな人間の感情がうずまいています。そこには、喜びもある一方で涙と落胆と慟哭があります。 しかしすべての詩がこの詩篇150篇に向かっていたものと見ることができます。150篇こそ詩篇全体の結論なのです。 涙も落胆も慟哭もすべて主への賛美に向かうためのもの、私たちの心を主への賛美に向かわせてくれるものだということです。 ですから私たちに今年起きた出来事、そしてそこで感じた思いも全て、この最後の詩篇である150篇へと導くものだったと見ることができるのです。 この詩篇という書簡全体に記されている人間の思いと、よく似た感情を私たちもこの一年持ったはずです。 決して良いことばかりだったという人はいないと思います。 日々悔しい思いの中で、涙を持って生きてきた方もおられるかもしれません。 しかし詩篇の最後も神への賛美で終わるように、私たちは、今日、主への賛美でこの最後の主日礼拝を終えていきたいと思います。 私たちの目的は神を賛美することです。 今日の聖書、詩篇150篇はそれを教えてくれています。 そしてその賛美をどこでするのか。なぜするのか。どのようにしてか。誰がするのか。ということを教えてくれている箇所です。 1 どこでするのか。 “ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。” 詩篇 150篇1節 ここで詩篇はどこで賛美するのかを語っています。 「神の聖所」と「御力の大空」で、神をほめたたえよとあります。 まず「神の聖所」とは何かを考えてみます。 ここでこの詩篇の著者が神殿とは言わず聖所と語るところに意味が込められています。 神殿と言ってしまうとエルサレム神殿だけを指すことになりますが、聖所であれば神様を崇める場所全てという意味になります。 私たちはどこで神を崇めているでしょうか。 当然その中にはこの教会が含まれていることと思いますが、それだけではありません。 私たちが神を崇める場所はどこでも聖所です。 それが職場であろうと、通勤通学の電車の中であろうと、台所であろうとどこであろうとそこが聖所です。 皆さんにとっての聖所はどこでしょうか。 特にご自身がお祈りをする場所や聖書を開く場所も聖所に含まれるでしょう。 また過去を振り返ってみてここで私は神様と出会ったというところがあるのではないでしょうか。 そこもまたお一人お一人にとって聖所です。 創世記に登場するヤコブという人が兄と父を騙したことで、兄に命を狙われて逃げました。 そしてその途中で神様と出会いました。 ヤコブはその場所を油を注いで聖別し名前をベテルと名付けました。 ベテルとは神の家という意味です。 ヤコブにとってはこの場所こそ聖所でした。 またこれは物理的な場所に限定されるものではありません。 要は神様との出会いの記憶そのものが大事なのです。 この記憶の一つ一つが神と出会う人生の聖所なのです。 ですから神様と出会った思い出深い場所がなくなったとしても永遠に残り続けるものです。 今年は特に試みが多い年だったと思いますが、その中で神に祈られたこと、また聖書を開き今ご自身が置かれている問題の答えを探されたこともあったのではないでしょうか。 そういう神様との交わりの記憶がまた聖所なのです。 そういうところを思い出して神を崇めることをこの詩篇は歌うのです。 では「御力の大空」とはどういう意味でしょうか。 これは主の力で造られた空のことです。 空はこの世のもっとも高い場所ですが、そこで賛美されるべきだとこの歌は歌います。 もっとも高いところですら主を賛美するわけですから、それよりも低いこの地上ではもちろんのことです。…

キリストとの新たな出会い

クリスマス礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書2章1〜20節 タイトル:キリストとの新たな出会い みなさんにとって、今年はどんな一年だったでしょうか。 先週より一気に冷え込んで、いよいよ冬本番といった感じですが、もう今年も残すところあと10日となりました。 喜びの出来事もあったかもしれませんが、起きてほしくなかったと思うようなこともあったのではないでしょうか。 そして人は、どちらかというと、この起きてほしくなかった、本当はそうあって欲しくなかったということに気を取られ心痛めるものなのかもしれません。 今日はクリスマス礼拝です。 実はクリスマスにもまたこの本当はそうあってほしくないという出来事がたくさん記されています。 1 “そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。” ルカの福音書 2章1~2節 ここに登場するのはローマ皇帝の名前や、ローマ帝国の中のシリア地方を管轄していた総督の名前です。 当時イスラエルは、ローマ帝国に支配され多額の税金を課せられ苦しんでいました。 住民登録が行われたのも税金の徴収を徹底するためです。 町のいたるところにローマの軍人が駐屯している状態でした。 イスラエルの人々は当時非常に暗い時代を生きていました。 この国に聖霊によって身ごもったマリアとその夫のヨセフがいました。 二人はこの時ナザレという田舎町に住んでいました。この町はイスラエルの中でもさらに人々から無視されていた地域でした。 マリアとヨセフは、ローマの命令のために、このナザレからヨセフの家系のルーツであるベツレヘムという町に行かなければいけませんでした。 ナザレからベツレヘムまではだいたい115キロから120キロ、高低差が400メートルあります。 身重のマリアはおそらくロバか何かに乗せての移動だったと思います。 夫のヨセフは細心の注意を払いながらゆっくり歩いたでしょう。そうすると少なくとも一週間はかかる距離です。 直線距離で大阪から岐阜に入ったあたりまでの距離です。 ヨセフとマリアはこの距離を移動しなくてはいけませんでした。 自分たちの国を支配しているローマ帝国の皇帝の命令のためでした。 一週間二人は大変な思いをしたことでしょう。そしてやっとのことでベツレヘムに到着します。 しかし住民登録のために多くの人たちが集まっていたのか、宿屋がどこも満室でした。 それで仕方なく家畜小屋に向かいます。 家畜小屋といっても私たちが想像する木で出来た小さな小屋ではなく、洞窟のようなところだったと言われています。 そこでマリアは出産することになりました。 そして出産した後は子どもを寝かせるベッドも布団もないので、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。 飼い葉桶も木でできたものではなく、石でできたとても冷たいものでした。家畜が餌を食べるお皿のようなものなので、ヨダレも染み込んだ大変汚いものでした。 マリアは出産というただでさえ大変な出来事を洞窟の中で行わなければいけませんでした。彼らには居場所がなかったからのです。 このストーリーには本当はそうで無ければよかったという出来事があります。 彼らの国が支配されていなければ良かった。 出産のタイミングと住民登録が重ならなければよかった。 そもそも住民登録などなければ良かった。 宿屋が満室でなければよかった。彼らに居場所がないなんてことはなければよかった。 生まれたばかりの子が家畜小屋の飼い葉桶に寝かされるなんてことはない方が良いのです。 クリスマスストーリーには、この本当はそうで無ければよかったが満ちています。 しかしそういうところに神は人となって生まれて下さったのです。 イエスキリストがうまれられたのは、なんの不自由もなく、不安もなく、毎日の暮らしに満足している、そんな順風満帆なところではありません。 本当はそうでないほうが良いのにと私たちが思ってしまうような状況の中に主は生まれられました。 これは言い換えれば、こういうところにこそイエスキリストとの出会いがあるということです。 2 御使いの知らせを受けてイエスのもとにやって来た羊飼いにもそうでなければ良かったという出来事がありました。 寒空の下、何の光もない夜の闇を羊を連れて彼らは野宿をしていました。 現在は羊飼いという仕事に偏見を持つことはないと思いますが、当時羊飼いという仕事は大変卑しい仕事として知られていました。 彼らは羊を守るためにいつやってくるかもわからない狼や野犬を警戒しながら番をしなくてはいけませんでした。それは昼夜を問わず続けられます。 日が沈むと冷え込むので、温まるために羊に体を寄せて寝ていたようですが、そうすると羊の毛についた汚れや匂いや虫が体についてしまいます。ですから彼らの服は動物の匂いが染み込み虫もついた大変汚い服だったようです。 さらに彼らは野宿のため神殿儀式などに参加できず、ユダヤ教から破門されており、裁判の証人にもなれませんでした。 彼らは、経済的にも宗教的にも差別され、証人としての資格もない人たちだったのです。 多くの人たちが人口調査のために集うなか、彼らはベツレヘムの町の外で野宿していました。…

祝福された人

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書 1章39~45節 タイトル:祝福された人 今日の聖書は、マリアが聖霊によって身篭り男の子を産むと天使に告げられた後の出来事を記しています。 親類のエリサベツが老年であるにもかかわらず妊娠したということも告げられたので、マリアは立って急いでエリサベツのもとに向かいました。 するとすでに胎内で聖霊に満たされていたバプテスマのヨハネはエリサベツのお腹の中でおどり、さらにエリサベツ自身も聖霊に満たされて大声をあげて言いました。 「あなたは女の中の祝福された方。」と 今日はこの祝福という言葉の意味について考えていきたいと思います。 マリアが「私は聖霊によって身篭りました」と言った時、周囲の人々はどんな反応をしたでしょうか。 いいなずけであったヨセフにこのことが伝わると、彼は密かに離縁しようとしたと聖書には記されています。 ヨセフも信じられなかったのです。 マリアはヨセフの反応に苦しんだはずです。 村人たちはお腹が大きくなっていくマリアを見てどのように思ったのでしょうか。田舎町です。マリアのことは生まれた時から知っていたはずです。 周囲の視線にマリアは何を感じたのでしょう。過去に石打ちにされた人を思いだして恐怖したかもしれません。 最終的にヨセフは夢の中で天使から真実を告げられて、マリアのお腹にいる子どもが聖霊によるということを信じて迎え入れるのですが、それまでのマリアの苦しみは想像を絶するものです。 その後マリアは出産しますが、イエスの命が狙われていることを天使に告げられてエジプトにまで下ってしばらく暮らさなくてはいけませんでいた。 そして時は流れて30年後、イエスがいよいよこの地上に公に現れてその働きを始められるわけですが、その時はもう夫のヨセフの姿がありません。おそらくそれまでに死んでしまったのだろうと言われています。 さらにその数年後には大切に育てた子どもであるイエスが十字架にかけられて死にます。 そして三日目によみがえったと思ったら、今度は天に昇って行ってしまうのです。 イエスを生み育てた母として彼女はこの時何を思ったのでしょうか。 これが祝福された方と言われた人の人生なのでしょうか。 彼女の人生を客観的に見た時に苦しみ多き人生に見えます。 聖書が語る祝福とは一体なんなのでしょうか。   1 祝福の源泉 「祝福がありますように」という言葉を聞いたことはおありでしょう。皆さんはその時どのような意味で受け取っていらっしゃいますか。祝福という言葉を聖書で見る度にこれはどういう意味なのだろうかと思います。 今日は少し聖書から祝福はどういう意味で使われている言葉なのかを探りたいと思います。 ただそうは言っても、祝福と書かれている部分に全て触れることはできませんので、いくつかをピックアップしてみていきたいと思います。 まず最初にこの聖書の中で最も昔のことについてかかれているところ、その一つを見ます。 “私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。” エペソ人への手紙 1章3~5節 この手紙はパウロがエペソの教会の人々に書き送った物ですので、書かれた時代は今から約2000年前です。しかしこの箇所の内容ははるか昔この世界ができる前のことが書かれています。 4節を見ますと、「神は私たちを世界の基の置かれる前から‥選び」と書かれていますように、この世界が造られる前のことを言っているのです。 続いて3節を見てください。 ここに祝福という言葉があります。 神様が私たちを祝福してくれたというわけです。 その内容が先ほどの4節の内容です。 世界の基の置かれる前から彼にあって、つまりはイエスキリストにあって選ばれました。 「あって」とは結び合わされてということですの、イエスキリストに結び合わされて選ばれていたということです。 そして選ばれただけではなくて、神様の前できよく、傷のないものにしようとされました。 神様はこの世界を造る前から私たちをイエスキリストに結び合わせてくれていたとここでは語られているのです。結びあわされるというのは一つとなるということです。 そして神の前できよく、傷のない者にして、ご自分の子にしようと定めておられました。 これが祝福の源泉です。 祝福を辿っていくとここに行き着くのです。 この世界が造られる前からすでに私たちは神に覚えられていました。イエスキリストの犠牲によって救われることがこの時すでに計画されていたのです。 2 契約 そしてこの後、世界が造られます。 それが創世記の1章です。 第一日、第二日、第三日と夕があり朝がありました。 私たちの先祖アダムはこの第六日に造られました。 この後、人類にとって素晴らしい日々を過ごすことができたのですが、罪に落ちた私たち人類はその時から神に背を向けて生きるようになってしまいます。 しかし神はアブラハムを通して、神の民を救う計画を本格的に進め始めます。 アブラハムと神との契約の中にも、祝福という言葉が登場します。…

単純な心

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:詩篇27篇1〜5節 タイトル:単純な心 今日の詩篇で、ダビデは問題を見つめ続けるのではなく、そこから視線を主に向け、主を見上げています。 彼はこの詩篇で戦争をイメージさせる言葉を使って、自分が今どれほど厳しい立場にあるのかを表現しています。 彼は命を狙われていたのだと思います。 しかしその中でダビデは、自分に迫る命の危機だけを見つめ続けるのではなく、主を見あげました。 そういう中で彼が言った言葉が、この1節から3節の言葉です。 1 現状を把握し主に向かう “主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 悪を行う者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。” 詩篇 27篇1~3節 1節に「砦」とありますが、これは外敵の侵入を防ぐための建物です。 主は自分の命を守ってくれる砦だと彼は信仰告白しています。 そしてその砦があるから、どんな敵も恐れることはないと続けます。 ここでまず注目すべき点は、ダビデがしっかりと現状を理解しているということです。 周りは敵だらけで、しかもその敵は自分の命を狙っている。 自分は命の危険にされされているということを彼はよく知っていました。 戦うためにはまず現状を把握しないといけませんが、ダビデはそれができていました。 そしてその上で、彼は先へと進んだのです。 辛い状況が目の前にあり、それが長期化すると、その状況に目を閉じて、それがないかのように思ってやり過ごそうとするということが人にはあります。 ある種の防衛本能なのかもしれませんが、現実逃避とも言えると思います。 ダビデはそうではありませんでした。 自分が今大変なのだということ、砦が必要なのだということをちゃんと認めていました。 ただこの現状把握でとまってしまうと、今度はそのことばかりグルグル頭の中を回り始めます。 神の言葉を黙想しなくてはいけないのですが、状況や周囲の人たちの言葉ばかり黙想してしまうようになります。これは思い煩いです。 思い煩いは、わたしやみなさんにはどうにもできないことを囁きます。 「あなたがあんなことをしたから、今こんな事態になっているのでしょう。」 「あなたがもう少し頑張ればなんとかなったんではないの?」 色々な言葉を連想させて私たちの心を引きずっていきます。 この詩篇を書いたダビデはどうでしょうか。 現状把握をした上で、神様に視線を向けました。 私たちもこのように、現状をしっかり把握した上でどういうところが問題なのかを分かった上で、究極的にこの問題の解決は神様にしかないのだと委ねていくことが大切です。 それは自分自身の力で必死に握ろうとしている何かを離すこととも言えます。 わたしたちは握るのは得意ですが、離すのが苦手です。 離したと思っても気づくとまた一生懸命握っています。 だから毎日手放さなくてはいけません。 そうして神様の前に委ねていくのです。 ダビデはそのように生きた人でした。 彼は主を心から信頼していました。 彼にとって主は「光」でした。 光が闇を追い退けてしまうように、主が敵をおい退けてくださるというダビデの信仰告白です。 だからこそ誰を恐れようと言えるのです。 続いて2節を見ますと、ここには「私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた」と記されています。 おそらく過去のダビデの戦いの勝利をうたっているのだろうと思います。 彼はこれまでの主の助けを振り返り、だからこそ今回もということで3節を歌うわけです。 3節で、ダビデは言います。 たとい私に向かって陣営がはられても、私の心は恐れない。 陣営がはられるということは、敵が戦闘態勢を整えて今にも飛びかかってくる状況です。 そうあっても私は恐れない、動じないとダビデは言うのです。 彼の心には平安がありました。 私たちが何かの出来事に心を奪われ、イライラしたり、心を落ち込ませている時、それは心の平安を奪われている時です。 敵を恐れ、もうすでに敗北しているのです。 ダビデはその戦いに勝利していました。…