渇きを潤す命の水

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書4章3〜19節 タイトル:渇きを潤す命の水 3,主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 4,しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。 5,それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。 6,そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。 7,ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 8,弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 9,そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」--ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである-- 10,イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 11,彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。 12,あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」 13,イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。 14,しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 15,女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 16,イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 17,女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 18,あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」 19,女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。 今日はヨハネの福音書を共に見ていきます。 3、4節を見るとわかりますように、イエスキリストがガリラヤへと行く途中のお話です。 イエス様がおられたユダヤ地方は南の方にありガリラヤは北にあります。 サマリヤはこの二つの地方の間に位置していました。 だからユダヤからガリラヤに行くにしても、ガリラヤからユダに行くにしても、サマリヤを通っていくのが近道でした。 しかしユダヤ人はサマリヤを通って行きませんでした。 なぜならユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったからです。 ユダヤ人はガリラヤへ行く時、サマリヤを迂回して行っていました。 仲が悪かったのは、ユダの人々は外国人と血が混ざっていない純粋なユダヤ人で、サマリヤ人は混血の人たちが暮らす地域だったからです。サマリヤの地域は昔アッシリヤ帝国に攻め落とされた時から多くの外国人が暮らしイスラエルの民との混血が多く生まれました。 ユダヤ人は他の民族の血が混ざることを非常に嫌います。 それでこの時からユダとサマリヤの関係は悪くなっていきました。 そしてさらにこの悪化した関係に拍車をかけたのが、神殿の問題でした。 ユダヤ人たちにとって神殿はエルサレムにあるものが唯一でした。 しかしサマリヤの人びとは、ゲリジム山も先祖にゆかりがある山だからという理由でそこに神殿を作ってしまいました。 これ以降さらにユダとサマリヤの関係は悪くなってしまいました。 だからユダヤ人としてこの世に来られたイエス様がサマリヤを通ることは他のユダヤ人から見ると非常に奇妙なことでした。 きっとイエス様の弟子たちも大変驚いたことでしょう。 そのことを前提にして今日は共に見ていただければと思います。 1   6節に「第6時」とありますが、これは私たちの時間に直すと昼の12時ごろを指します。 昼12時ごろといえば一番太陽が高く昇る時間帯です。 そんな時間帯にサマリヤの女性が一人やってきました。 この地方の人々は井戸で水を汲むのに普通こんな暑い時間帯にはやってきません。 もっと涼しい時間帯を選んで来ます。 しかしこの女性は暑い時間帯にやって来ました。 どうしてこの女性はこの時間帯にやって来たのでしょうか。 それには理由がありました。 “女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」” ヨハネの福音書 4章17~18節 この女性が言っている言葉とイエスさまの言葉を合わせて考えると、この女性は過去に5回結婚したことがあるということです。しかし5回とも別れてしまい、今一緒に暮らしている男の人とは結婚もしていない状況だということがわかります。 現代では再婚はめずらしくありませんが、この当時は珍しいことでしたし、あまり良いようには見られませんでした。それが5回ともなればなおさらです。しかも今一緒に住んでいる人とは結婚すらしていないのです。周りの人たちからは後ろ指をさされながら生きていたのではないでしょうか。だからこの女性は人と顔を合わせるのが嫌だったのだろうと思います。 彼女には一番暑い時間帯に井戸にこなくてはいけない理由があったのです。 彼女は一人でこの井戸までやってきました。…

隣人とは誰のことですか

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書10章25~37節 タイトル:隣人とは誰のことですか 今日の聖書箇所は律法の専門家がイエスを試そうとして立ち上がり質問をぶつける場面からです。 “すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」” ルカの福音書 10章25節 ここで律法の専門家は永遠のいのちを受けるには何をしたら良いですかとたずねています。これは「神の国に入る」にはどうしたら良いですかという意味ですが、彼らの「律法を行うことによる救い」という思想から出た問いです。 イエス様はこれに対して律法には何と書いてありますかと尋ねます。 すると律法学者は『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と書いてありますと答えました。 イエス様はそれを聞いて「それを実行しなさい」と言われました。 律法学者はイエス様が「それを実行しなさい」と言われると、自分の正しさを証明しようとして、隣人とは誰のことですかと質問します。 「自分の正しさを証明しようとして」と記されていますので、彼は自分で自分のことを正しいものだと思っていたということです。 神を愛し、隣人を愛する人間だと思っていたということです。 しかしそんな彼に対して、それを実行しなさいとイエス様が言われたことで、自分はそれが出来ていないと判断されたと思ったわけです。 だから彼はまた質問を重ねます。では私の隣人とは誰のことですかと。 私が思う隣人には愛を注いでいます。 神を愛し、隣人を自分自身のように愛することを私はしていますと言いたいのです。 そこでイエス様が例えで話されたのが、良いサマリヤ人のお話です。 “イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」” ルカの福音書 10章30~37節 この例え話を解釈する一つの方法として、律法の専門家と祭司やレビ人の関係に着目する方法があります。 律法の専門家の代表的な群はパリサイ派です。 彼らは律法を日々研究してそれを実行することに重きをおいて暮らしていました。 一方祭司というのはサドカイ派から選ばれます。 サドカイ派とは神殿管理をしていた人たちで、イスラエルを植民地支配していたローマにすり寄って信仰よりも政治的なことに心を向けていた人たちのことです。 律法の専門家にしてみると、サドカイ派は同じ神を信じてはいますが、自分たちとは違う群れという認識です。 そんなサドカイ派の祭司が、倒れていた人のもとに最初にやってくるという設定なのです。 だからこの時、祭司が何もせずに通り過ぎたとしても何の不思議も感じなかったはずです。むしろ当然だとおもったことでしょう。律法を守ることよりも政治的なことに心を向けている人たちには到底出来ないことだと判断したかもしれません。 その次にやってきたレビ人も神殿に仕える人なので、サドカイ派の側につく人たちです。だから倒れている人の横を通り過ぎても何ら不思議に思うことはありません。 そして彼は最後に登場する人こそ倒れた人を助けてやるだろうと思いつつ、そしてそれは律法の専門家であろうと思いながら、3番目の人の登場を待ちました。 律法の専門家はきっとこう思ったでしょう。 「サドカイ派はダメだったけど、パリサイ派は大丈夫だ。最後に出てくるのはパリサイ派で、その人が倒れた人を助けてあげるはずだ。」 しかし出てきたのはパリサイ派ではありませんでした。 ユダヤ人ですらありませんでした。 なんとユダヤ人が忌み嫌っていたサマリヤ人でした。 彼らは外国人との混血で、エルサレムで礼拝も守らずゲリジム山というところで勝手に礼拝し、聖書もモーセ5書しか信じていない人たちでした。 ユダヤ人から見ると、サマリヤ人は異端の人たちです。 パリサイ派が来て助けると思ったのに、異端のサマリヤ人が来るのかと驚いたことでしょう。しかもそのサマリヤ人はとても手厚い介抱をしました。旅の途中なのにお互いに忌み嫌っているはずのユダヤ人を助けたのです。 そうしてイエス様と律法の専門家は最後に次のようなやりとりをします。 “この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」” ルカの福音書 10章36~37節 イエスさまはこの律法の専門家が、自分は神を愛し人を愛することができていると思って話していることがわかったのでしょう。 だから本当に神を愛し隣人を愛するということがどういうことなのかを教えました。 この律法の専門家はある種の柵を作ってその柵の中にいる人だけを愛せば良いと考えていました。そして間違いなくその柵の中にサマリヤ人はいませんでした。彼にとって愛すべき人ではない存在、それがサマリヤ人だったのです。そして同時にサマリヤ人にとっても自分たちは愛すべき存在ではないと思っていたのではないでしょうか。 それなのに、そう思っているはずのサマリヤ人がやってきて、ユダヤ人を手厚く看病して最後まで責任を取ろうとするのです。そうしてイエス様に「あなたも同じようにしなさい」と言われてしまうのです。 彼は思ったことでしょう。「そんなこと到底無理だ」と。 そしてそれこそイエス様が知って欲しいことだったのではないでしょうか。…

この町にはわたしの民がたくさんいる

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き18章1〜17節 タイトル:この町にはわたしの民がたくさんいる 本日は久しぶりに使徒の働きに戻ってメッセージをしたいと思います。 前回使徒の働きを共に開いたときは、17章の後半を見ました。 そこにはアテネでの宣教について記されていました。 パウロはアテネを離れると、今度はコリントへとやってきました。 コリント人への手紙というのが新約聖書に二つ納められています。 今日の聖書は、将来これらの手紙を受け取る人たちとの出会いの場面を扱っているところです。 まず今日の聖書の使徒の働き18章1節を見ますと、そこにはこう書いてありました。 「パウロはアテネを去って、コリントへ行った。」 さらっとここには書いてありますが、コリントという町は非常に特徴のある町でした。 文化、建築、芸術などの中心地と言っても良いところで、アカヤ州の首都でした。 東西の海路、そして南北の陸路をつなぐ重要都市です。 非常に商業に有利な町でした。 またこの町の近くではイストミアという競技が3年ごとに行われていたようで、若者が美しさと力を競い合っていました。 裏山にはアフロディーテ神殿があり、そこには神殿娼婦が千人もいたと言われています。 ですからコリントといえば性的腐敗の町だという常識がありました。 古典ギリシャ語において「コリントの娘」という言葉は売春婦を意味したほどです。 このようにアテネとは違う難しさがこのコリントにはあったようです。 コリントは性的堕落と偶像崇拝、物質主義に満たされた町でした。 そんな町にパウロはなんと一年半もの間留まり続けることになるのです。 さて彼はどうしてそんなに長期の間コリントにとどまることになったのでしょうか。 1 アクラとプリスキラとの出会い 2節を読みます。 “ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。パウロはふたりのところに行き、” 使徒の働き 18章2節 ⑴アクラとプリスキラという人は、もともとローマで暮らしていたようです。 しかし皇帝クラウデオが全てのユダヤ人はローマから出ろと命じ、彼らはそこからローマにいられなくなりました。 それでコリントまでやってきたわけです。 そんな彼らとパウロはここで出会います。 アクラとプリスキラはローマから追い出されてコリントまでやってきたました。 そしてパウロもマケドニア州では多くの町で弾かれて迫害から逃れてここまでやってきました。 いわば自分の意志に反して、居場所を追われた者たち同士がここで出会ったのです。 この出会いは神さまのご計画によるものでした。 人には偶然に見えるかもしれません。 何でもない、ありふれた出会いのように見えるのかもしれません。 しかしそこには明確に神の御手が働いています。 この出会いを出発点にして後のコリントの教会が建てられていくのです。 ⑵初めて出会った日から少し時間を置いてでしょうけども、パウロの方から彼らに近づき、そして一緒に仕事をしたいと申し出たようです。 “自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。” 使徒の働き 18章3節 パウロはユダヤ教のラビ学を修めるかたわらで、天幕づくりの技術も身につけていたようです。 それでちょうどアクラたちも天幕づくりをしているということで、彼らと同居して同じ仕事に従事しました。 平日は天幕づくりをし、当時の安息日の土曜日には会堂に行ってユダヤ人とギリシャ人に福音を説き聞かせたようです。 これは4節に記されている通りです。 “パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。” 使徒の働き 18章4節 2 シラスとテモテとの合流 ただこのダブルワークとも言える生活をずっとしていたわけではなくて、5節にありますように、マケドニアからシラスとテモテがやってくると、御言葉を教えることに専念するようになります。 シラスとテモテが来るとなぜパウロはみことばだけに専念できるのか、他の仕事をしなくて良いのかに対する答えとして、シラスとテモテが代わりに労働に従事して生活を支えたからだと考えることもできますが、第二コリント11章8〜9節を根拠として他教会(おそらくピリピ教会)からの献金が届けられたからではないかと考えることもできます。 “私は他の諸教会から奪い取って、あなたがたに仕えるための給料を得たのです。 あなたがたのところにいて困窮していたときも、私はだれにも負担をかけませんでした。マケドニヤから来た兄弟たちが、私の欠乏を十分に補ってくれたのです。私は、万事につけあなたがたの重荷にならないようにしましたし、今後もそうするつもりです。” コリント人への手紙 第二 11章8~9節…

信仰シリーズ⑤ 主に従うとは

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マルコの福音書 8章27~38節 タイトル:信仰シリーズ⑤  主に従うとは 先週のメッセージの中で、信仰とは信じるという一時的な感情のことではなく、福音に関する知識とそれに対する同意と、信頼であり、それは主に従う生き方として現れるものだというお話をしました。 今日はこの従うとはどういうことなのかを御言葉を通して考えてみたいと思います。 1  あなたは、キリストです 今日のお話は、イエスさまが弟子たちとともにピリポ・カイザリヤへ行く道の途中の出来事です。 イエスさまは弟子たちにたずねました。 「人々は私を誰だと言っていますか。」 すると彼らは「バプテスマのヨハネという人や、エリヤだという人、それから預言者の一人だという人がいます」と答えました。 人々は、イエスさまの働きと御言葉を通して普通の人ではないと思っていたようです。 しかしそうは言っても、救いをもたらす存在とまでは思っていなかったようです。 次にイエスさまは言われました。 「あなた方は私を誰だと言うか。」 この箇所をギリシャ語聖書で見ると、「あなた方は」という言葉が強調されていますので、人々はそう言っているのはわかったけど、あなた方は違うだろうというニュアンスでたずねておられることが分かります。 この質問は弟子たちに向けられたものでしたが、ペテロが代表して答えました。 「あなたは、キリストです。」 キリストとは、ヘブライ語でメシアのことです。 メシアとは、油注がれた者という意味で、神からの特別な任務と、その任務のための力を与えられたことを意味します。 旧約聖書では、王や祭司や預言者に油が注がれました。 ペテロがイエスさまをキリストと告白したということは、神が特別に送られた方だと信じたということを意味します。 また、原文のギリシャ語聖書を見ると、キリストという単語の前に「その」を意味する冠詞がついていますので、神がわたしたちを救うためにメシアを送るという旧約で預言された、「その」メシアがイエスさまだという意味になります。 わたしたちの先祖の代からずっと待っていた救世主、それこそあなたですというペテロの信仰告白なのです。 しかしこのキリストだという告白はまだ不完全なものでした。 なぜならキリストがどのように救ってくれるかというところまではペテロたちが知らなかったからです。 だからイエス様はここで誰にも言わないようにしなさいと言われました。 そしてペテロたちに不足していたキリストに関する理解を与えようとされています。 それが31節の内容です。 2 苦しみ、殺され、三日後によみがえる “それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。” マルコの福音書 8章31節 ここではイエスさまが苦難を受け、殺され、三日目によみがえることが語られています。 しかしペテロをはじめ弟子たちには、苦難を受けて殺されるというところしか聞こえていないように見えます。あまりにも衝撃的な発言だったのでしょう。 それでペテロはイエスさまをわざわざわきまでお連れして、いさめました。 彼がここまでした理由は、当時の弟子と師匠の関係にあります。 当時弟子は師匠がいくところどこにでもついて回りました。教えられる内容もそのまま暗記し、生活の仕方、行動、それら全てに習って同じようにしたのです 師匠が苦難を受けて死ぬということは、その師匠に従っていく弟子も死ななければいけないということを意味します。 ペテロたちは、キリストが苦難を受けて死ななければいけない存在だということまでは知りません。 当時のメシア観というのは、世の力を持った王であり、ローマからイスラエルを救う存在でした。 ペテロたちはそのメシアとしてイエスさまを見ており、だからこそ弟子となったのです。 しかし彼らの思惑とは大きく異なり、イエスさまは苦しめられて死ななくてはいけないというのです。 それでペテロはイエスさまをいさめたのです。 しかしイエスさまはそんなペテロを逆に叱って言われました。 「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 イエスさまをいさめるなんて、よくこんなことをするなとクリスチャンは思うのかもしれません。自分だったらきっとしないと。 ただ考えてみると、この叱責の言葉は、現代を生きるわたしたちにも向けられているのかもしれません。 イエスさまを信じていると言いながらも、神のことではなく人のこと、自分のことを考えて生きているなら、私たちにも向けられた言葉と言えるのではないでしょうか。 わたしたちは何を思って生きているでしょうか。どれだけ神のことを思って生きているでしょうか。どれだけ人のことに縛られて生きているでしょうか。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」という声が聞こえてこないでしょうか。 3 自分をすて、十字架を負う さらにイエスさまはこれらの言葉に加えて語られます。 “それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。”…