墓は開かれた

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マタイの福音書28章1〜10節 タイトル: 墓は開かれた 私たちは平和な時代を過ごしてきました。 特に戦後、日本が復興し、大きく成長した後に生まれた私や私と同世代の方々にとって平和そのものだったと言えると思います。 大きな地震などはありましたが、それでも世界中がこれほどボロボロになるような出来事はありませんでした。 世界は大きく変わり始めているのかも知れません。 みなさんは現在の状況をどのように見ておられますか。 「もうすぐ終わる。言うてる間や。」と楽観的に考えておられるでしょうか。 それともこの状態がこれから何年も続くように感じていますか。 この災禍の中、さらに地震や食糧不足、そして戦争も起きるかも知れないと考え始めた方もおられるかもしれません。 この世界は今とても混乱しています。 こういう時にネットやテレビなどから安易に安心を得ようと思っても得ることはできません。 この世界の情報(下からの情報)はわたしたちに平安を与えることはできません。 上から来る情報、つまり御言葉からわたしたちは平安を得るものでありたいと思います。 今日も共にイエスキリストが復活された出来事を見ていきます。 ① ストーリー マグダラのマリヤと他のマリヤの二人はイエスさまが納められているはずの墓へとやって来ました。 27章の後半部分を見ると、この人たちはイエスさまが十字架から取りおろされ墓に運ばれた時ついていったようです。 しかしもうすぐ安息日が始まるということで、しっかりとした葬りができなかったのでしょう。 安息日が明けて週の初めの明け方、すなわち日曜日になって、手厚く葬るためにやってきました。 彼女たちは死んだイエスを世話するためにやってきた人たちでした。 しかしそこで大地震が起こります。 それは天使が墓の石をわきへやりその上に座ったからでした。 番兵たちはこれを見て恐れ死んだようになりました。 マリヤたちも恐れていたようですが、天使は彼女たちにイエスがよみがえられたことと、このことを弟子たちに伝えるように言います。 彼女たちは恐れつつも喜んで弟子たちに伝えに走りますが、その途中で復活されたイエスさまと出会います。 そしてさらに弟子たちに伝えるべき言葉を与えられます。 それはガリラヤで会おうという言葉でした。 ② 死んだイエスのもとに(1節) 今日のお話の最初の場面で、二人のマリヤがイエスさまのお墓にやってきます。 この時彼女たちは一体どんな思いだったのでしょうか。 死んだ人のために足を運ぶことがどういうことなのか私たちはそれぞれの経験で知っていると思います。 ある人は亡くなってすぐの姿を想像されるかも知れません。 ある人はお葬式を想像されるかも知れません。 ある人は火葬場を想像されるかも知れません。 あるいは骨壺でしょうか。 日本で暮らしている私たちは火葬をして埋葬するのでそのようなイメージかも知れません。 どんな場面を想像したにせよ、それは命とは遠く離れたものです。 死というものを強く感じさせられるところです。 そこに二人のマリヤはやってきたのです。 ユダヤの埋葬の仕方にしたがって香油を塗るためだったと思います。 ③ 主の使いの言葉(2〜7節) マリヤたちはここで主の使いからイエスさまが復活したという知らせを受けました。 死に打ち勝たれたことを宣言するかのように目の前で墓が開いています。 以前彼女たちはイエスさまの遺体が入れられた墓が石で閉じられるのを座って見ていました(27章61節)。 しかし今はその石が取り除けられていました。 彼女たちは確かにイエスキリストの復活の知らせをこの時受け取りました。 ④ 復活のイエスと出会うマリヤたち(8〜10節) 知らせを受け取ったマリアたちは、その知らせを主の使いに言われた通りに弟子たちに伝えに走りました。 するとその途中で復活されたイエスさまと出会うのです。 この後ガリラヤで待っていると言われたイエスさまの言葉を弟子たちは伝え聞き、弟子たちもガリラヤで復活のイエスさまと出会います。…

エマオへ向かう弟子たちと共に

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書24章13〜35節 タイトル: エマオへ向かう弟子たちと共に 今日もイエスさまの復活に関する聖書箇所を共に見ます。 イエスさまは十字架で捨てられ死なれましたが、3日目によみがえられました。 そしてその復活の命に生きるものとして、わたしたちを呼び出されその命を与えてくださいました。 今日はそんな復活の命に生きるものとされた弟子たちが、どのようにその命を受け取るように導かれたのかを見ていきたいと思います。 ⑴イスラエルは当時ローマ帝国という超巨大な国に植民地支配を受けていました。 イスラエルの民の希望はそのローマの支配からの脱脚でした。 しかし彼ら自身にはそんな力はありません。 だから彼らは救い主を待っていました。 いつの日かローマ帝国を倒しイスラエルを独立国として復興させることのできる救い主を待っていたのです。 そしてとうとうその救い主がやってきたと彼らは思いました。 それがイエスさまでした。 彼の言葉には力があり、人々は彼の言葉や彼に触れられることにより病気が癒されました。 ほんの少しの食べ物を彼が祝福すると何千人もの人が満腹になりました。 彼らはこのイエスキリストを先頭にしてローマから独立しようとしていたのです。 それは今日登場したイエスキリストの弟子たちも同じです。 彼らはルカの福音書24章21節において、”しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。‥”と記されています。 贖いと聞くと、罪の贖いという言葉をクリスチャンは思い出すと思うのですが、もともと贖いという言葉には、奴隷からの解放という意味があります。 つまり、ここは罪の贖いという意味というよりもローマの支配からの解放を望んでいたという意味なのです。 同じくルカが書いた使徒の働きにも、弟子たちが復活したイエスさまに言った言葉の中にこんなものがあります。 “‥「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」” 使徒の働き 1章6節 使徒たちを始め、イエスキリストの弟子たちは、自分たちの罪の贖いではなく、イスラエルの復興を願って、イスラエルが植民地支配から開放されることを願ってイエスキリストに付き従っていたという事が言えるのではないでしょうか。 マルコの福音書においては、ヤコブとヨハネはイエスさまにこう言いました。 あなたが御国の座につかれる時には、一人を右に一人を左においてください。 この御国とは、天国のことではありません。 ローマを追い出した後の、イスラエルの国のことです。 その時にイエスさまの右と左につきたいというのは、ナンバー2とナンバー3にしてくださいということなのです。 つまり弟子たちは、イスラエルの復興を望むと同時に、復興した後の自分の位の保証を目論んでいたという事が言えるのです。 イエスさまに付き従っていた理由の1つがそれだったということでしょう。 ではなぜ彼らはそれを望んだのでしょうか。 それこそ自分の幸せだと思っていたからではないでしょうか。 それこそ成功だと思っていたからでしょう。 彼らにとってイエスさまは自分たちが生きる上で必要な存在だったのです。 彼らは自分の目的に合致すると思ったから、自分が行こうとしている人生の目的地にイエスさまが連れて行ってくれると思ったから弟子となったと言えるのです。 しかし見事にそれは打ち砕かれました。 救い主イエスが倒すはずだったローマ帝国、そのローマの死刑道具である十字架にかかりイエスさまは殺されてしまったのです。こうして彼らの夢もやぶれました。 ⑵以上のことを押さえた上で19〜24節を見てください。 “イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」” ルカの福音書 24章19~24節 彼らはこの話を暗い顔つきで話していました。 落胆しながらエマオへの道を歩いていた途中だったのです。 イエスさまにつき従えば、自分の目的が達成できると思っていたのに、そうはならなかったからです。 彼らは暗く重い心で歩いていたのでしょう。 みなさんには同じ経験はないですか。 健康、友人、家族、学歴、仕事、収入、愛情などを欲しいと思い、手に入れたいと思い、それを手にいれたら幸せになれると考え、イエスさまについていけば得られるのではないかと思って従おうとしたことはないですか。 こういう時、わたしたちにとってイエスさまは、人生をまっとうするために必要なものの一つとなっているのかもしれません。…

復活の命に生きる者

イースター礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書21章1〜17節 タイトル:復活の命に生きる者 今日はイースター礼拝です。 本当は共に集い礼拝を捧げたかったです。 しかしこのような状況の中でもイエスさまはわたしたちと共におられます。 イエスさまの復活の命が今日もわたしたちを生かしてくれています。 1 十字架にかかる前の日 イエスキリストは十字架にかかる前の日、弟子たちに向かっていわれました。 「あなたたちはわたしにつまずく」 これに対してペテロは言いました。 「たとえほかの者がつまずいてもわたしはつまずきません。」 イエスさまは言われました。 「今夜鶏がなく前にあなたは3度わたしを知らないというだろう。」 ペテロはこのとき本気で「自分はイエスを裏切らない」と思っていたと思います。 彼の行動はたしかにほかの弟子たちとは違っていたからです。 イエスをとらえようとして来た人々を前にしても、ペテロだけは剣をもって立ち向かい相手の耳を切り落としました。 また、大祭司のところに連れていかれたイエスさまを追いかけて大祭司の家の中庭にまで行きました。 しかしそこで彼は挫折を経験し心に大きな傷を負うことになります。 その日は寒くて炭火が焚かれていました。 ペテロはその火にあたっていました。 そこで門番をしていた召使いの女性が「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言うと、ペテロは「そんな者ではない」と否定しました。 次に、彼の近くにいた人々に、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言われたペテロはまた打ち消してそんな者ではないといってしまいました。 さらに次に大祭司のしもべの一人(ペテロに耳を切り落とされた者の親戚)がやってきて、「私が見なかったとでもいうのですが、あなたは園であの人と一緒にいました。」というと、ぺテロは「そんな人はわたしは知らない」と言って打ち消しました。 するとその時鶏がなきました。 彼はイエスさまのいう通り、鶏がなく前に3度イエスさまを知らないと言いました。 「ほかの弟子たちが裏切ったとしても、わたしは裏切らない」とあれほど強く言っていたぺテロでしたが、彼もほかの弟子と同様イエスさまを裏切ったのです。 この時ペテロは大きな大きな挫折を経験したと言えるでしょう。 そして心に大きな傷を負いました。 わたしがもしこの時のペテロならこう思ったはずです。 「わたしはもうイエスさまの弟子ではない。」 この後イエスさまは神のご計画どおりに十字架にかけられ死なれ完全に葬られました。 しかし3日目によみがえり、弟子たちにその復活した姿を現されはじめます。 2 漁に出たペテロのもとに 今日の聖書はその3度目のことでした。 しかしペテロはまだ罪悪感と挫折の中にいました。 イエスさまが復活したと聞いても、墓が空っぽであることを確認しても、直接イエスさまと会っても彼は立ち直ることができなかったようです。 だから今日の聖書では、昔の仕事に戻ろうとしている彼の姿が記されています。 彼はイエスキリストの弟子となる前、漁師をしていました。 イエスキリストに召し出される時、彼はこのように言われました。 「人間をとる漁師にしてあげよう」 この言葉を信じ受け入れた彼は網を置いてイエスに付き従いました。 ペテロはイエスさまを裏切って以降挫折感をもって暮らしていました。 弟子失格というレッテルを自分で自分につけたまま、下をむいてため息ばかりの日々だったことでしょう。 空の墓を見ても、目の前にイエス様が現れても、彼の心は変わることはありませんでした。 自分はできない。自分はダメだ。と思っている時の人間の姿というのはこのようなものではないでしょうか。 自分を責めることでしか自分を保てないのです。 不思議とそれでバランスを保てていると思っています。 そういう中で人間をとる漁師を諦めたペテロは、魚をとる漁師に戻ろうとしているように見えます。 彼はわたしは漁に出ると言って、小舟に乗り込みました。 しかしその夜は得意なはずの漁で何も成果をあげられませんでした。 “シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。” ヨハネの福音書 21章3~4節 この時の彼の気持ちはどんなものだったでしょう。…

罪と死の解決は成し遂げられた

主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書19章29、30節 タイトル: 罪と死の解決は成し遂げられた 今日の聖書箇所、ヨハネの福音書19章30節にはイエスキリストが十字架上で語られた7つの言葉の中の6つ目の言葉が記されています。 “イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。” ヨハネの福音書 19章30節 「完了した」 この言葉は死の問題の解決を完了したと見てもよいところですが、そうだとするとイエスキリストはどのようにしてこの死の問題を解決されたのでしょうか。 ローマ人への手紙 6章23節には “罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。”とあるように死の問題の解決は罪の問題を解決することにあります。 イエスキリストはこの罪の問題を解決してわたしたちを永遠に生きるものとされたのです。 1 ヨハネの福音書について ヨハネの福音書は最初にイエスが神であることを明確にしている福音書です。 1章1節から始まる神のことば(ロゴス)これがイエスキリストのことですが、このロゴスが神であると宣言して始まります。 そしてもう一つの特徴はヨハネの福音書は旧約のイメージをふんだんに使っていることです。 何層にも旧約のイメージが重ね合わさっています。 今日はその中のいくつかをご紹介して、「完了した」の意味を探ってみたいと思います。 “ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。” ヨハネの福音書 2章13~22節 この中でユダヤ人たちは神殿の建物そのものの話をしています。 しかしイエスさまはご自身が本当の神殿であることを言い表しています。 神殿とはそもそもなんでしょうか。 これは神の国というものを考える時にはっきりします。 神の国と聞いてまずみなさんは何を思い浮かべられるでしょうか。 神が王であられそこに民がいて王の言葉に100%したがっていること。これが神の国です。 最初に思い出していただきたいのは、最初の人アダムがいたエデンの園です。 そこでは神が王であられ、アダムとエバが民であり、また神が「良かった」と言っておられるように、彼らは100%神に従って生きていました。 これが神の国です。 しかし善悪の知識の木の実の事件によって、アダムとエバは自分たちが王となれる国を作ったのです。これが人間の国です。 神の国と人間の国には大きな断絶ができました。 罪によってできた断絶でした。 このまま人を見捨てることもできたわけですが、神はわたしたちがまだ罪人であった時にわたしたちを愛され救うことをよしとされました。 神はまずアブラハム という人を選び人を救う準備を始められました。 彼の子孫を大きくし大きな国にすることを考えられたのです。 その国からモーセという人を選びました。 そしてこの国を導く道中でモーセに神と対面する方法を教えてくださったのです。 それが幕屋でした。民は移動しなくてはいけなかったので、幕屋という形をとりましたが、後にこれが頑丈な建物にかわって神殿と呼ばれるようになります。 幕屋や神殿の役割というのは、神と人間の中保的役割です。間を取り持つためのものです。 神との交わりが可能となるところなので、人間の国に現れた神の国とも呼べるものでした。 これが旧約で記されている幕屋であり神殿なのです。 先程読んでいただいた聖書にありましたように、イエスさまはご自身こそ神殿だと言っておられます。 つまりご自身が神と人間の間を取り持つ存在だということです。 そしてご自身が神の国そのものだということなのです。 “ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。”…