第16問 全人類の堕落

問: アダムの最初の違反で、全人類が堕落したのですか。答: あの契約がアダムと結ばれたのは、彼自身のためだけでなく、子孫のためでもありました。それで、普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落したのです。前回学んだアダムの罪が、どうして全人類に関連するものなのかを説明しているのが、この第16問です。この箇所の核心部分は、アダムと結んだ命の契約が、アダム一人のものではなくすべての人のものだということです。だから全人類が、アダムの中で共に罪を犯し、アダムと共に堕落したと言えるわけです。エバがまず蛇の策略によって、善悪の知識の木の実を取って食べてしまいましたが、この罪も含めてアダムの罪と言うように、私達すべての罪についても代表してアダムの罪と言います。私たちは神様の法に違反した者となり、その代価として死を免れない者となりました。☆第16問はアダムが犯した罪が、自分と何の関係があるのかという質問の答えとなります。アダムの罪が私たち全人類の罪だということが、当然のことだと考える人もいる一方で、「私が食べたんじゃないのになぜ?」「アダムと約束しただけなのに、どうして私に責任をとれというの?」などと考えて、納得できていない人も多いようです。しかし小教理問答は12問で説明しています。神はアダム個人と約束したわけではなく、全人類と約束したのです。アダムはすべての人類の頭です。国の問題は、その国の代表者が出した結論に従って動いていき、その影響を全国民が受けます。それと同じように、人類の代表アダムが罪を犯したことにより、全人類は罪人となりました。しかし神は贖いの契約を御子イエスキリストとの間にすでに結んでおられました。アダム一人によって、全人類に罪が転嫁されたように、キリスト一人によって選ばれた人々が救いを受けることができるのです。キリスト一人が高くあげられることによって、キリストと結ばれ救われたすべての民が、キリストと共に高く挙げられ、その永遠の命を受けるのです。

第14~15問 罪の定義とアダムの罪

第14~15問 罪の定義とアダムの罪問14: 罪とは何ですか。
答:   罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは神の律法に背くことです。問15: 私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、何でしたか。
答:   私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、彼らが禁断の木の実を食べたことでした。問14では罪とは何なのか、神様の法とは何なのか、具体的に人がどのような罪を犯したのかを問います。罪の定義小教理問答が罪と定義するのは、神の律法の基準に少しでも違反することです。神の律法神の律法については小教理問答第3問で学んだことと深く関連しています。小教理問答第3問は「聖書がおもに教えていることは、①人が神について何を信じなければならないか、②神は人にどんな義務を求めておられるか」ということでした。2番についてここでも少し見ていくことにします。神の律法は聖書の全般で語られていますが、それらの法は十戒という形で要約されて示されています。十戒の内容を二分すると「神をどのように愛するか」と「隣人をどのように愛するのか」に分かれます。これが神様の法です。<アダムはいったいどんな罪を犯したのでしょうか?>アダムのどのような行動が罪と定められたのでしょうか。聖書ではその部分を詳細に示しており、小教理問答はそれを整理する形で書かれています。アダムが犯した罪の行動は「禁断の木の実を食べたこと」でした。ここで最も重要なことは、この行動がポイントではないということです。あくまでもここでのポイントは神様の御言葉を守らなかったことにあります。行動が問題ではなく不従順が問題なのです。アダムは神様の御言葉を意図的に守らなかったということです。これにより神様との関係が壊れてしまい、私たち人類の側からはそれを回復させることはできない状態でした。<最初から最後まで神様の計画です。>小教理問答には神様の聖定の中に堕落もあるのだと説明されています。すべての歴史はある意味で必然のものだということです。歴史に「もしも」はないとよく言いますが、実際に歴史は神様があらかじめ定めておられた計画ですので、「もしも」という単語が付くこと自体がおかしなことです。「善悪の知識の木の実をたべなかったら良かったのに。そうしたら今頃エデンの園で何の問題もなく暮らしていたのに」と思ったことはないでしょうか。しかしこれは神様の聖定の教理から考えると成り立たない話だということがわかります。神様の聖定は永遠であり、不変であり、完全です。聖定はすでに計画されています。堕落もその中に含まれています。ですからアダムが善悪の知識の実を食べたことも含まれているということです。人間の堕落により神様の計画が変わったわけではありません。これに対してある人は反論しました。「堕落も神様の計画に入っていたとするなら、罪をつくったのが神様ということではないか。」神様は全知全能の方であり、アダムが堕落することを知らなかったわけではないとすると、神様が罪をつくった様に見えてしまい、逆に罪をつくったわけでないとすると、アダムの堕落は計算外のことだったのではないかとうい考えにつながりやすくなってしまいます。相反する二つの真理(神様が全知全能で変わらない方だということと、罪の創始者ではないということ)があるということです。これを二律背反(antinomy)といいます。調和させることができない二つの真理のことを指す言葉です。聖書を読んだり、教理を学んでいると、必ずこのような問題に出くわします。しかしそれを調和させようとしないことです。信仰とは聖書が止まるところで一緒に止まり服従することです。信仰は聖書に啓示されていないことについて質問をなげかけないことです。聖定という偉大な真理を学ぶにはこのような姿勢が必要です。二律背反を調和させることはできません。わたしたちにはわからないことです。ただ聖書に記されていることをそのまま信じることが大切です。

第13問 アダムの堕落

第13問 アダムの堕落 問: 私たちの最初の先祖たちは、創造された状態で続きましたか。 答: 自分の意志の自由に任されていた私たちの最初の先祖たちは、神に罪を犯すことによって、創造された状態から堕落しました。 第12問では命の契約について学びました。 そこには「人を創造された時、神は人に、完全な服従を条件として命を契約されました。しかし、善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました。」とありましたが、人はこの契約を破ってしまいます。 善悪を知る木の実を食べることにはどのような意味があるのでしょうか。 神に自分をつくってもらったことに対する感謝や、この世の被造物を治めるようにしてくださった事実、全知全能の創造主が私たち人間に声をかけてくださり愛してくださっているという事実を忘れてしまったことを意味します。 そして人は堕落してしまいました。堕落とは死んだということです。 アダムとエバは肉体的にすぐに死んだわけではないのに、どうしてこの時死んだといえるのかという疑問もあるかもしれません。 たしかにアダムたちはこの後、畑を耕し子どもも与えられて900年以上いきました。 しかしここでいう死とは神との関係が断絶したことを意味します。 命とは神と共にいることであり、死とは神から離れることです。 私たちが堕落について学ぶ理由は、堕落というものが完全に人の非によってもたらされたものだということを知るためです。人には言い訳の余地がないことを知るためだとも言えます。人には逃げ場がなく、非常に深刻な状態にありました。希望がなく、一点の光もない状態にありました。 それを知れば知るほど、私たちはイエスキリストの犠牲の意味を深く理解できます。 明るい場所でライトをつけても目立ちませんが、暗い夜にライトをつければ、光がより強調されて良く見えます。 以前教会の前の電灯がきれたことがありました。電灯がきれている間、教会の前の道路はとても暗かったですが、暗いからこそ、その分教会の中の灯りがいつもよりはっきり見えました。 これと同じように、自分の罪の暗さを知ることは、キリストの犠牲による救いという光をよりはっきりと見えるようにしてくれます。 神は罪の中で身動き一つとれない私たちのもとに来てくださいました。 完全な暗闇の中の光としてこられました。 “実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。” ローマ人への手紙 5章6節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 「弱かったころ」は神との関係が断絶された状態のこと、罪の状態のことです。 そして「不敬虔」という言葉も神との関係が悪いことを意味します。 また「定められたとき」とは主がこの世にこられ十字架で死なれたときのことです。 「自分がアダムだったら善悪の知識の実を食べなかった」とか、「アダムが自分の奥さんの管理を失敗したせいだ」とか、「自分だったらもっとちゃんとできたはずだ」という考えを聞いたことがあるかもしれません。 しかしアダムという最初の人は神の似姿につくられた存在です。堕落以前のアダムは現代の人類では到底届かない存在だということです。つまり彼ができないなら私たちにもできないということです。 堕落について知ることは、キリスト者にとって有益です。 なぜなら堕落を知ることによって救いの必要性がわかるからです。それは私たちが本来どれだけ大変な状態だったかを教えてくれます。そしてそんな私たちをあわれみ一人子イエスキリストを送られた神の愛を知ることへと導かれていきます。

第12問 命の契約

第12問 命の契約 問: 神は、創造された状態の人に、どのような特別の摂理の行為をとられましたか。 答: 人を創造された時、神は人と、完全な従順を条件として命を契約されました。しかし、善悪を知る木の実を食べることは、死を制裁として禁じられました。 第12問からは小教理問答が新しい主題へと入っていきます。 第11問まではマクロ的な主題を扱ってきましたが、ここからは人に焦点を当てたお話になります。 問いにある「特別の摂理」とは神が私たちと命の契約(行いの契約)を結ばれたことを意味します。 この契約の条件は人が神に完全に従順することでした。そして人が完全に従うか否かを知る手段として善悪の知識の木の実を食べることを禁じられました。 従うことが核心であり、善悪の知識の木の実を食べるか否かはそれを判断する指標でした。 この約束を守らなければ死の結果を招きます。 今私たちは神の聖定の〈実行〉について学んでいます。 聖定の実行を創造と摂理に分け、さらにこの摂理には特別の摂理があるということを小教理問答12問を通して学んでいきます。 ①「人と」 他の被造物とは違い神は人に永遠の命を約束されました。 従順の契約というと神が人に何か重荷を与えるかのように感じるかもしれませんが、神が人に永遠の命を約束されたというところにポイントがあります。 そしてその条件として何か特別なことをしろということでもありませんでした。 神に造られた者として当然の従順を神は要求されただけです。 動物を統治する権威を与えただけではなく、永遠の命までも約束されたということです。 これは人に自発的な従順を求めるものであり、人格的な関係を結ぼうとされたということです。 これがとても重要なポイントです。 被造物に対して創造主である神がこのように約束されることが、そもそも驚くべきことであり栄光です。 ちりでしかなかった人を、神は人格的に扱おうとしておられるということができます。 これまでに神の聖定を学んで来ました。 そしてその中に私たち人間の存在もあるといいましたが、単にその中にあるという意味ではなく、特別な存在として置かれました。 第12問で学ぶことはこの事です。 人間について神の特別な摂理、私たちがまず最初に関心を持ちたいのは、神が人に対して特別な摂理をもっておられるということです。 ②「完全な従順」とは 従順を要求される理由はなんでしょうか。神は目的をもって被造物を創造し、特に人を特別な存在としてつくられました。 そしてつくれた人と特別の契約をむすばれたわけです。 この特別の契約が完全な従順を要求するわけですが、従順することは被造物である私たちにとって良いことです。 善であり祝福の根源であられる神に従順することは人にとって祝福となります。 反抗や独立や主観が人にとっての祝福ではありません。 人が神に従順すること、これは神にとっての栄光であることはもちろんですが、私たちにとっても祝福となります。 神は絶対的な善であり、道徳であり完全であられるので、その神に完全に従順すればするほど祝福となるのです。 また、神が望んでおられる従順は愛です。怖くて仕方なしに従順するのではなく、愛の対象として従う美しい従順です。 私たちの神が望んでおられることは私たち人とお互いを愛することです。 それで神はまず御自身が愛の手本を見せられて、その愛に私たちが感動して従順することを望まれたのです。 神が私を愛してくださっている。だからわたしも神を愛したいと思えるように。 神は私たちにとても素晴らしい贈り物をくださいました。 言葉では表現できないこの贈り物。これこそが特別の聖定であり、特別の摂理です。 ③「善悪を知る木の実」 神は人の従順のしるしとして善悪を知る木をエデンの園におかれました。 ここで生じる誤解としてあげられるものは、善悪を知る木という名前がついているものだから、まるで人が知ってはいけないパンドラの箱でもあけたように考えることです。 「人間が善と悪を判断できてはいけないから食べるなと言ったのではないか。」 「神は本当は悪いのではないか。」等がそれと関連する考え方です。 しかし善悪を知る木は人が神の言葉に従順するかどうかを試すための材料にすぎません。 善悪を知る木の実を食べないということでもって、神の言葉の通りに従順しますという信仰告白になるということです。 神は私たちを「完全に従順」する水準の存在としてつくろうとされました。ポイントはここにあります。 Q どうして神は善悪を知る木の実を植えたのでしょうか? 神とアダムの関係がどのようなものなのかを教えるためです。 神が王であり人はしもべであること、神が創造主であり、人は被造物であること、神が絶対的主権をもっていることを教えるためです。 私たちが生きることのできる方法は神が決められます。 神は最初の人アダムに従順することができる自由と能力を与えていました。 善悪を知る木の実を植えなかったらこんな風にならなかったという人がいますが、それは人をロボットのようにしてしまうことです。 善悪を知る木の実をつくり、命の契約(行いの契約)をしたということは、ロボットではない存在として人をつくったことを意味します。 人に人格を与えて尊重し、自由意思を与えることと、善悪を知る木の実を作らないことは両立しないことです。…

第11問 神の摂理の御業

第11問 神の摂理の御業 問: 神の摂理の御業とは、何ですか。 答: 神の摂理の御業とは、神が、最もきよく 、賢く 、力強く、保ち 、すべての被造物とそのあらゆる動きを治めておられることです。 第7問で聖定(神のご計画)について学びました。 この聖定の実行が創造と摂理です。 第11問では摂理について学びます。 摂理とは神のお導きのことです。神はすべてを導いて、やがて世界の歴史が完成するとき「万事が益であった」と信仰者が告白できるようにしておられます。 摂理は「保持」と「統治」にわかれます。 ① 保持:世界も私たちも無から造られました。私たちは、神の絶えざる支えがなければ無に帰す存在であり、神の御手に依存している者たちです。神は万物を支え、万物は神の積極的かつ継続的な力なくして存在できません。 人は自分の力で生きているように考える傾向を持っていますが、常に神のお働きによって人の生命は保たれています。 ヘブル人への手紙1章3節には「御子は…その力ある御言葉によって万物を保っておられます。」とあります。「保」つと翻訳されていますが、原語のギリシャ語(ペロウ)には「動かす」と「支える」という2つの意味が含まれています。この単語は新約聖書の中でほかにも使われています。 “すると見よ。男たちが、中風をわずらっている人を床に載せて運んで来た。そして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとした。” ルカの福音書 5章18節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 “イエスは彼らに言われた。「さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。” ヨハネの福音書 2章8節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 “あなたが来るとき、トロアスでカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙の物を持って来てください。” テモテへの手紙 第二 4章13節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 この単語には単に維持するという意味だけでなく、活動的な意味があります。ある場所から他の場所へと物を移すという意味があります。 ヘブル人への手紙1章3節では現在分詞形が使われていますが、この理由はイエス様が御言葉によって今現在も宇宙の全てのものを継続的に動かしていること意味しています。イエス様は摂理の御業に能動的に関与されているということです。 ② 統治:神は世界に起こるすべての出来事を支配し、治めておられます。幸せも試練も、父なる神のもとから来ます。万物は神が決めた目標に向かって導かれていくのです。 ③ 協力: 神がすべての行動において被造物の特徴をいかして働かれるということです。 これは単純な役割分担ではありません。ある部分まで神が担当し、ある部分は人間の担当だという理解するところではありません。全てが神の役割であり人の役割です。 万物に対する神の統制に関して二次的原因(人や動物や自然)が結ばれているのだともいいます。 「協力」はウエストミンスター小教理問答には記述がありません。 「協力」は①の保持に含まれるものとジャンカルヴァンによって主張されています。 Question 神が人を通して御心を成し遂げていくとするならば、罪の行いを通して御心が成された時をどのように理解するべきなのでしょうか?  ○ダビデの姦淫の話 ダビデは部下の妻に王の権力を使って姦淫という罪を犯しました。そしてその発覚を恐れて部下を戦地の最前線に送って殺しました。しかしこの出来事を通してダビデと部下の妻との間に後にソロモンが誕生しました。このソロモンの子孫がイエスキリストです。ダビデの姦淫と殺人の原因が神にあるかのように思えるところだと言えます。 ○ヨセフが人買いに売られる話 ヨセフの父ヤコブは、息子たちのなかでもっともヨセフを愛していました。それはヨセフが年をとってからの子であったということと、自分が最も愛した人の息子だったからです。これに対してヨセフの兄弟たちは嫉妬の炎を燃やして、自分たちの弟であるヨセフを人買いに売り飛ばしてしまいました。これによってヨセフはエジプトで奴隷として過ごすことになリマス。しかしここで王の夢を解き明かすことによって、エジプトの飢饉を予知し、この危機を乗り切りました。これにより彼はエジプトのナンバー2になりました。ヨセフはエジプトで出会った女性と結婚し、子供をもうけました。長子をマナセといい、二番目をヱフライムと名づけました。マナセとはメナシュ「忘れる」の派生語。赦しの意味を持ちます。そして二番目のヱフライムはファラ「実り多い」の派生語。マナセは過去の痛みを忘れるという意味。そしてヱフライムはこれからの未来の実りを望み見るという意味。 その頃ヨセフの故郷のカナンも飢饉のために食料がありませんでした。そこで父のヤコブが息子たちをエジプトに遣わして、食料を得てくるようにいいました。これによってヨセフを売った兄弟たちはエジプトのナンバー2にヨセフがなっているとも知らずに、食料を分けてもらいたいと願い出ることとなります。こうしてヨセフと兄弟たちは再会します。以前の事は忘れ未来へと目を向けていたヨセフでしたが、それでも実際兄弟たちを見たときに葛藤がなかったかは疑問です。でもヨセフは兄弟たちを赦して最後にこう言いました。「この2年の間、国中にききんがあったが、まだあと5年はたがやすこともかりいれることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それはあなたがたのために残りのこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたでは、実に、神なのです。」(創世記45章7-8節)「あなたがたは私に悪をはかりましたが、神はそれをよいことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50章20節) Answer 神は罪を許容されますが、罪の原因ではない方です。罪を抑制し遠ざける聖い方です。この聖書の内容をそのまま信じることが大切です。神は人間の悪い行いをも用いて益とする力のある方です。 “神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。” ローマ人への手紙 8章28~29節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

第10問 人間の創造

第10問 人間の創造 問: 神は人をどのように創造されましたか。 答: 神は人を、男性と女性とに、知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造し、被造物の支配を託されました。 ①聖書は人間の創造を非常に重要視しています。他のものの創造に関する部分よりも人の創造に関する部分がはるかに比重が大きいです。 ②この世界で「神のかたちにしたがって」つくられたのは人間しかいません。 上の①と②から言えること。 人の創造こそ創造全体の焦点。 この世は人のためにつくられている。 人は他の被造物を治める存在となるためにつくられました。 人は他の被造物を統治するものであり、被造物のなかの王だと言えます。 1.〈神のかたちとはなにか:知識、義、聖〉 第4問で神は霊であるから見えないということを学んだように、「神のかたち」も外形的なことを言っているのではありません。神の知識と義と聖にしたがい、つくられたということです。 しかし現在の人間はこの「神のかたち」を有しているとは、とても言える状態ではありません。人は罪に堕ちたことにより神のかたちを失ってしまいました。 ですから現在の人は神の完全なかたちを有していません。 しかし聖書はこの神のかたちを回復するようにと言います。 “真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。”(エペソ人への手紙 4章24節) 2.<被造物の支配:統治権> 神は人にすべての被造物を管理し治める統治権を与えられました。人はその使命を全うする必要があります。これは私たち人間の責任です。 人が最初つくられた時は、この統治権をしっかりと行使していました。創世記2章19節のアダムの様子からもよくわかると思います。 “神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。”(創世記 2章19節) ここで名付けるとは、ただ思いつきや感覚で名前つけることではありません。そのものの特性を完全に理解して名付けを行なっているということです。 しかし現代の私たちはアダムほどの能力を持っていません。 なぜなら罪に堕ち、神に与えられた力を失ってしまったからです。 ここでは人が最初どれほどすばらしい形でつくられていたのかを知っておきたいと思います。人が本来、完全な「神のかたち」としてつくられた大変尊い存在なのだということを知り、今の状態が正常ではないことをしっかり認識したいところです。

第9問 世界の創造

第9問 世界の創造 問: 創造の御業とは、何ですか。 答: 創造の御業とは、神が、すべてのものを無から、力ある御言葉により、六つの日にわたって、万事はなはだよく造られたことです。 創造とは、聖定の実行の二つの内の一つです。 聖定の実行→創造と摂理 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」(ヨハネの黙示録4:11)すなわち、創造は神様の「聖定」の中のお働きだということです。創造は徹底的に計画され、その計画にしたがって実行されました。偶然に、あるいは何の意味もなく、この世界が存在することになったのではありません。目的があり方向性があるのです。 そして第9問の回答を通して創造というものをみていくと、そのすごさがわかります。神は全世界を無から存在するものとされました。 さらにその手段として技術者の助けを得たり時間と材料を使ったのではなく、ただ「御言葉によって」創造されました。そして創造の日について言及し、つくられた全てのものが非常に良かったと言われました。 創造についてのこのような説明によって、私たちは全世界とその存在全てが神様の前でどのようなものなのかを知ることができます。 ☆創造の目的:神様はなぜこの世界をつくられたのでしょうか? 創造の目的についての二つの見解 ①神様は何か必要があって造られたという見解 私たちは何かを発明したりつくり出すとき、必要だからつくります。利用し使うためにつくります。だから神様もこれと同じだという見解です。神様は一人でいると退屈だから、寂しいから、虚しいから、空白部分を何かで埋めようとして、この世界を造られたと考えるわけです。 ②聖書の立場 創造は、神様の聖定の一部であり目的があります。その目的は聖定の目的と同じです。それは「神様の栄光」です。創造の目的は神様の栄光にあり、創造のすべての方式と順序と過程、その結果までもすべて三位一体の神様の議論によって計画されたものです。後に第11~12問で学ぶ「摂理」も同じことです。そのように創造された全てのものが創造の本来の目的のままになっていくように保存し治めることを摂理といいます。摂理の目的も「神様の栄光」です。 ☆創造の結果:とても良かった 神様の栄光のためにその議論にしたがってつくられた世界はどのような姿だったのでしょうか。「とても良かった」と聖書はいいます。全能の神様が6日間真心をこめてつくられたのだから、さぞ良かったことでしょう。私たちには想像もできないほどだったはずです。小教理問答の英語本文では“All very good”となっていて神様が非常に満足したことが表されています。 では「良かった」というのはどういう意味でしょうか。現在の私たちの周囲を見回すと、この言葉が説得力をもって迫ってはきません。この世が良いなんて、とても思えないからです。すべてのものが良かったと、どうして言えるでしょうか。今の私たちには不可能なことです。 しかし最初につくられた世界は今日わたしたちが目にする世界とは全く違う完全に良い状態でした。それがどれほど良かったかは今の私たちには知ることはできません。ただ聖書に書かれているエデンの園を頭の中で思い描くことしかできません。 このように神様が創造した世界が「とても良かった」ということをここでしっかり記憶にとめておいてくださると嬉しいです。この事実がどれほど重要なことか、小教理問答を続けて学んでいけば知ることができると思います。なぜなら神様がとても良いと言われた世界がどのようにして変化したのか、なぜ変化してしまったのか、またどのようなことが今現在行われているのかが、少しずつ明らかになっていくからです。

第8問 聖定の実行

第8問 聖定の実行 問:神はその聖定を、どのように実行されますか。 答:神が聖定を実行されるのは、創造と摂理の御業においてです。   神の聖定は、聖定それ自体とその実行に分けることができます。そして聖定の実行は創造(問9-10)と摂理(問11)に分けることができます。問8はこのことを教えてくれています。    神の聖定は、永遠の時にすでに決まっていて私たちとは無関係の概念ではありません。なぜなら神はその中に私達を置き、呼びだし、導いて行かれる方だからです。 私たちは、神の造られた世界の中で、神の御手から起こるさまざまな出来事に出会いながら、毎日を送っているということです。 喜びも試練も神の愛の御手から来ています。 試練の中で神の愛がわからなくなる時も、信仰者は神に信頼して神の御計画の中で生かされていると信じて生きていきます。「われわれは神の内に生き、動き、存在しているのである」(使徒の働き17:28)。 生活のあらゆるところで、神の御業を認め、神に従い、感謝し、神をたたえる道が、聖定(ご計画)をただお一人で実行なさる神に対する信仰によって開かれています。  

第7問 聖定

第7問 聖定 問: 神の聖定とは何ですか。 答: 神の聖定とは、神のご意志の議論による永遠の目的です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。 第5問と第6問では神様がどのような方なのかを学びました。 第7問から第11問では神様のはたらきについて学びます。 神の聖定 目的→神様の栄光 範囲と対象→全てのもの 「聖定」とは神様のお働きの出発点となる神様の永遠のご計画のことです。 そしてこの「聖定」は「神のご意志の議論」によるものです。 議論と記されているので、少し不思議に思われるもしれません。この議論は私たちが行う議論とは次元が違うものです。私たちは何かをするときに各自の足りない部分を補うために議論をするのではないでしょうか。しかし神様の議論は足りない部分を補うためのものではありません。この議論は私たちが理解できない領域のものです。聖定について、私たち人間がこういうことだと断定することはできません。ただし聖書を通して神様が教えてくださる分だけは知ることができます。 聖定の目的と範囲と対象は明確です。目的は神様の栄光のためであり、範囲と対象はすべてのものです。神さまがすると決めたことはどんなことでも実現します。神様がしないと決めたことは起こりません。 聖書ははっきりと「すべてのこと」が神様によると言っています。神様の聖定から外れたものは存在しません。ですからこの世には、神様の知らないところで勝手に起こったり、偶然おこることもないのです。その中には私たちにとって良いものも悪いものもすべて含まれています。私たちの救いだけではなく、挫折や罪、サタンの誘惑や世の悪、不条理、貧困、病までもすべて含まれているのです。歴史をもっと遡ってみれば、アダムが善悪の知識の木の実をとって食べたこと(創世記3:6)も神様が永遠の時からすでに聖定されていたことだといえます。 ここまで話が及ぶと、疑問がたくさん生じるはずです。特に神様がサタンの活動と人間の罪までも聖定のなかに含んでいたというところは理解が困難なところです。まるで神様に罪の原因があるかのように感じませんか。 そこで、聖定という概念をもう一度考えてみたいと思います。 まず次の二つの単語の意味を考えてみましょう。 「御心」と「計画」です。 この二つの言葉はどのように違うのでしょうか。 ある物事をしっかり成す上で私たちは計画を立てます。この時この計画の中に私たちが望むものだけが含まれているわけではありません。望んでいないことも含まれていることがあるでしょう。つまり望んでいること(御心)と計画は違う概念なのです。 例えをあげて説明します。 私たちがある場所に建物を建てようとするとき、まず元々その土地にある建物を壊さなくてはいけません。ここで家を壊すことは目的ではありません。しかし計画のなかには必ず入っていなくてはいけない工程といえるでしょう。 これと同じように罪や堕落の場合を考えてみます。堕落は神様が望んでいたことではありません。しかしそれは神様の計画のなかに意図されて含まれたものなのです。 この説明だけではおそらく疑問は解消されないでしょう。わかったような、わからないような感じだと思います。 この部分も三位一体の教理のように理解が難しいところといえるかもしれません。 歴史的にもこの教理は多くの人々が、その難しさゆえに悩んだところです。異端もたくさんうまれました。この「聖定」を間違って理解すると、人を神様の操り人形のように考えてしまったり、二元論的な神様として見てしまったりします。 この問題を解決するもっともよい方法は、全てを理解することは困難だということをまず認めることです。 そして論理的な説明に執着するよりも実際に聖定がどのような形で実行されていくのかを見ていくことをお勧めします。 次の第8問から第11問までが、その聖定の実行に関する問になります。

第6問 三位一体の神

第6問 三位一体の神 問: その神には、いくつの位格がありますか。 答: 神には、三つの位格があります。御父と、御子と、聖霊です。この三位は、実体が同じで力と栄光において等しい、ひとりの神です。  1 三位一体の教理 人であるという事と父親であるという事は別物です。しかし同時に人であることも父親であることも事実です。本質的に見れば人、息子や娘との関係で見ると父親と言うことができます。 同じように神様であると同時に、三位の互いの関係として、父、子、聖霊なのです。 第5問を通して私たちは神様がただお一人だということを学びました。第6問では父、子、聖霊が各々区別される位格であることを学びます。父、子、聖霊は一人の神様でありながら、三つの位格をもっています。これは区別されていながら同一です。 聖書全体を通して見た時、私たちはこのことを知ることができます。 <注意> 次のように誤解することが多いので示しておきます。 父→私たちをつくり、律法をあたえ、この世を治めておられる方。 子→私たちを救ってくださり、憐んでくださり、命を賭して愛してくださる方。 聖霊→私たちを新しくして下さり、御国まで導いてくださる方。 このように役割でもって三人が別々に働くのではなく、私たち人間からそのように見えるに過ぎません。父、子、聖霊はいつも共に働いておられます。 2 聖書に聴く すでに学んだように人が神様について理解しようとするなら聖書から聴かなくてはいけません。聖書をみれば神様を三位一体としてしか理解できないことがわかります。一人の神様でありながら三人のように表現されていますが、一人なのです。 これを完全に理解することは不可能です。私たちよりも大きな存在である神様を完全に理解することはできないのです。しかし完全には理解できなくても、聖書で語られているところまでは知ることができます。そしてこれが重要です。人間には理解できない神秘の領域があるのは確かですが、聖書に記されている範囲までは理解できるのです。これが三位一体の教理です。三位一体は歴代の数多くの教会が聖書の記録を総合的に理解し、教理として整理したものです。 子どもが親のこころを全て理解できないように、人間は神様のことを全て理解する事はできません。しかしそのような私たちが聖書を通して思い描ける神の姿が、三位一体なのです。 <三位一体の間違った理解> ①三神論 元々三人の神がいると主張します。この三人の神が一つの意思で一致して、まるで一人のように私たちに現れると説明します。 ②単一神論 神は一人ですが、三人のようにただ見えているだけに過ぎないという主張です。旧約でヤハウェの神として、新約ではイエスキリストとして、五旬節以降は聖霊として一人三役のように姿をかえて現れたという主張です。 この考え方は、家では父親、会社では部長、教会では執事のように例えることができます。あるいは私たちが一つの事物を多様な観点で見るように、神様は実際は1人だが、私たちが見る観点によって変わるというのです。 ほかにもこんな例えがあります。 りんごは芯と種と果肉三種類からなっています。一つのりんごであることは確かですが、私たちの観点によって芯であり種であり果肉として見ることができます。 太陽もそれ自体とそこから出る光と熱があります。このように3つの観点から見ることができるというわけです。 3 三位一体の意義 ここまで三位一体について見てきましたが、実のところ三位一体という言葉は聖書にはありません。しかしこの教理は私たちが神様を理解する上で大きな助けとなります。実際この教理は教会の歴史の初期にあらわれた間違いを正してきました。そしてその後も三位一体は大原則であり現代まで数々の異端から本当の知識を守り、真実と嘘とを区別するパラメーターとなってきたのです。三位一体の教理から外れてしまうと、キリスト教とは言えません。それほどに三位一体の教理は核心的なものだと言えます。 神様が私たちの水準まで下ってきて、教えてくださった御自身の姿、それが三位一体です。 この神様の愛と配慮に感謝し、もっと神様をたたえる者とされたいと思います。