主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き21章1〜15節 タイトル:主のみこころのままに 1 ストーリー バウロは、第三回伝道旅行から帰る途中のミレトでエペソ教会から長老たちを呼んで別れの説教をしました。 それから、バウロは、ロドス、パタラを経由して、ツロに立ち寄りました。そこで7日を過ごしていると、この土地の弟子たちが、御霊に示されてエルサレムに上らぬようにとパウロに忠告しました。 しかしパウロはこれを聞き入れず、弟子たちとともに海岸にひざまづいて祈って出発しました。 その後カイザリヤに上陸して数日を過ごしました。 しかしここでもパウロがエルサレムへ行くのを引き止める人たちがいました。 中でも預言者アガボの預言は印象的で、パウロの帯を持ち出して自分自身を縛り、この帯の持ち主はエルサレムでこのようになると預言しました。 この動きにパウロと同行していたルカたちも加わりパウロをエルサレムへ行かないようにと懇願します。 しかし、これらの忠告や引き止めの手を振り切って、パウロはエルサレムへと入っていくのです。 2 主のみこころのままに このお話で今日注目した箇所は14節です。 "彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに」と言って、黙ってしまった。" 使徒の働き 21章14節 主のみこころのままに。 この言葉はとても重たい言葉です。 主の御心をなさってください。 主の最善をなさってください。 という祈りをしたことがある方も多いのではないかと思います。私もその一人です。 ただ今日のこの箇所から見える主のみこころがなることを望むというのはとても重く難しいことです。 しかしこれを知ることは私たちにとって有益であると思いますので、今日はこのことについてシャアさせていただきます。 ⑴ わたしのおこころ まず今日使用する言葉の紹介と意味について触れておきます。 今日は「みこころ」と「おこころ」という言葉を反意語として使います。 みこころとは神様の心という意味です。 一方おこころというのは、私の心という意味で使います。 さてその上でまずお話ししたいのは、今日登場したパウロをエルサレムへ行かせまいとした人たちのおこころについてです。 彼らにとって間違いなくパウロは重要な存在でした。今や異邦人教会の開拓者としてどんどんその勢力を拡大していくその最前線を担っていた偉大な宣教師です。そんな彼が捕まり自由を奪われることを誰も望んではいなかったはずです。ですからここで彼らのおこころというのは、パウロが捕まることなく、今まで通り各地を旅しながら福音を宣教し続けることでした。 しかしツロで説得しようとした弟子たちの言葉をパウロは聞きませんでした。 その結果彼らは説得を諦めてひざまづいて祈って送り出すことになりました。 カイザリヤでは、アガポという預言者がきて、パウロが捕まることを実演してみせました。この町の弟子たちはもちろんパウロに同行していたルカたちもエルサレムにはいってほしくないと思いました。 これがこの時の彼らのおこころでした。 しかしパウロは「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えて、彼らの手を振り解きました。 そんな彼らの口から出た言葉が今日取り上げた「主のみこころのままに」という言葉でした。 人は誰しも自分のおこころの通りになることを望んでいます。 しかしその通りにならないことの方がこの世界は多いです。 ツロの人々もカイザリヤの人々もパウロと同行していた人々も同じでした。 自分のおこころとは違う方へと進む現実がありました。 その時ツロの人々はただひざまずいて祈り、カイザリヤの人々とパウロの同行者は、ただ主のみこころがなるようにと祈ったのです。 自分のおこころから神のみこころへと思いが移され始めた瞬間でした。 ⑵ おこころから、みこころへ ツロの人々はただひざまづいて祈りました。 これはただ主の前に主こそ王であり、自分はその民であるということ、そして主の声を聞いてそれに従おうとする姿と言えます。 また自分の考えを貫くためにぐっと力を入れて握っていた拳を開く、そんな瞬間だったと言えるかもしれません。 カイザリヤの人たちやパウロの同行者たちは、パウロの言葉を聞いて「主のみこころがなるように」と言い、黙ってしまったとありました。 自分のおこころを下に置いて、神の御心を求めることの一つの要素は黙るということです。 パウロの反論を聞いていると、この時周囲にいた人たちは相当強い言葉でパウロを説得しようとしたようです。 しかしパウロの言葉を聞いて彼らは黙りました。 これもまたなんとか自分のおこころが守られるようにと握りしめた拳を開いて、主に委ねることを意味します。 彼らにとってこの決断はとても苦しいものだったはずです。 自分のおこころでは、絶対にこうだろうと思うようなことがあったとして、それとは真逆に動いていく現実にあらがわないことを決めなくてはいけないのです。 ⑶ みこころを求める祈り みこころを求めるというのは、心の中で握っているものを手放すことだと言いましたが、これは一朝一夕でできることではありません。 カイザリヤの人々も「主の御心がなりますように」と言いましたが、この一回きりの祈りで彼らの心が変わったわけではないでしょう。 ここから継続して祈ることが求められていきます。 この後パウロは旅立ちますが、それでもやはりできることならパウロに捕まってほしくないという思いは捨てきれないはずです。その自分の気持ちを置いて、みこころがなるようになんて祈れないし、もしそう祈ったとしたらそれは嘘です。だから私はこの後パウロのために祈ったと思います。捕まらないで欲しいから、元気にこれからも福音を自由に伝えていって欲しいからです。 しかしほどなくしてパウロがやはり捕まってしまったという知らせを彼らは受け取ったでしょう。その時になって初めて彼らは主のみこころがなるようにと本当に祈り始めたのではないでしょうか。 そしてその時に、このみこころがなるということが、実は自分のおこころとは真逆の方向へと行く事があると知り、その事実を受け止めきれていない自分自身というものを痛烈に見せられたではないでしょうか。 光照らされていた道は大きく平坦な道の方ではなかったのか。 細く険しい道の方を主は照らしている。 この道を行けと言われる。 私はそっちが嫌だと言っても、この道を行けと繰り返される。 こうして泣く泣く、細く険しい道を歩き始めるのが私たちなのです。 そうして初めて主のみこころがなるということがどういうことで、その道を生きるということがどういうことなのかを知っていきます。 パウロはもうこれまでに何度もこの祈りを祈ってきたのではないでしょうか。 周囲の人たちが御霊に示されるはるか以前より自分がどれほど苦しまなければいけないかを教えられていたのです。 思えばパウロの最初のおこころは、クリスチャンたちを根絶やしにすることでした。 それがイエスキリストの待ち伏せにあって、その行く手を阻まれて、まさに生きる道が180度転換させられて、クリスチャンたちの先頭に立って福音を伝えるものに変えられていきました。 彼がこの召しをを受けるときに、アナニヤという弟子が用いられましたが、このアナニヤにパウロのもとにいくようにという言葉が与えられた時に、こんな言葉を一緒に受けました。 "しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」" 使徒の働き 9章15~16節 「あの人」とはパウロのことです。 パウロはイエスとの最初の出会いで自分がどれだけ苦しまなければいけないかを示されていました。 その後、何度も大変な迫害にあいましたし、自分の思いとは逆方向へ行くように導かれたこともありました。 この歩みの中で彼は何度となく祈ってきたのでしょう。 私のおこころではなく、神のみこころがなるようにと。 その結果が、今日のお話に登場するパウロの姿です。 周囲の人々が自分を行かせまいとしても、それでも主のみこころの道を歩くパウロがここにはいました。 3 父よ、みこころならば 最後にもう一箇所聖書を開きます。 "「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」" ルカの福音書 22章42節 この言葉はイエスキリストが十字架にかかる前の晩、ゲッセマネというところで祈った祈りです。 イエスキリストは100%神様ですが、同時に100%人間です。 ですから、私たちが痛いと思うことは同じく痛く、苦しいと思うことも苦しいのです。 これから全人類の罪を背負って十字架にかかるということを前にして、神の子といえど、みこころならば、この杯を(つまりは十字架を)私から取り除けて欲しいと祈らずにはいられませんでした。 全人類の罪を背負うというのは、その中で生まれた痛みや苦しみも全部背負うということです。彼が味わう痛みは他の囚人たちのそれとは全く違うものだったはずです。 それを前にしてできることなら、、、と祈ったのです。 しかし最終的にイエスキリストは、私の願いではなく、父よあなたのみこころの通りにしてくださいと祈りました。 それは汗が血のしずくのように地に落ちるほどの祈りでした。 こうして自分ではなく、神のみこころを願うところに立って、あの十字架へと向かわれたのです。 自分ではなく神のみこころを願うことの困難さとその苦しみがよくわかるところではないでしょうか。 しかしこの後、イエスのこの祈りに続いた人たちがいました。 それが使徒ペテロたちです。 さらにその次の世代とも言えるパウロもこの使徒の働きにおいて自分ではなく神のみこころを求めて生きることを知り、今日の箇所においてはルカたちを含めたさらに次の世代の人たちがパウロの姿からみこころを求める祈りが始まったのです。 この使徒の働きを書いたとされるのはそんなルカです。 パウロと同行した記録や他の弟子たちからの証言や多くの資料を神の霊感によってまとめて書き上げた記録がこの使徒の働きです。 4 結び おこころではなく、みこころを求めるというのは、私ではなくイエスキリストを求めることです。 それはすなわち自分に死んでキリストを生きることです。 それは主の前に跪くことであり、沈黙することであり、自分の計画を手放すことです。 自分の木の実を実らせるのではなく、真のぶどうの木であるイエスキリストという木につながり、その木の実を実らせることです。 「主のみこころがなるように」と祈りつつ、イエスキリストを生きる私と皆さんでありますように。