主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き18章24〜28節 タイトル:聖霊のバプテスマ イエスキリストは十字架につけられ殺され三日目によみがえられた後、天に昇られました。 その後弟子たちはエルサレムで待つようにというイエスキリストの言葉の通りに待っていますと、聖霊が臨みました。 聖霊は三位一体の神の第三位格です。 イエスキリストの霊とか、助け手とも呼ばれるこの聖霊によって弟子たちは大きく変えられて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで福音を宣べ伝えるものになりました。 "しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」" 使徒の働き 1章8節 彼らが福音を宣べ伝える中で大変な迫害にあいました。 中でもサウロという人は、彼らに大変反対し、多くのキリスト教徒を捕まえて、牢屋に入れてしまうほどでした。 しかしこのサウロにイエスキリストは直接出会われ、彼は回心し、キリスト教徒となったばかりか、福音を広く宣べ伝えるものとなりました。 使徒の働きの中でも、彼の名前はユダヤ人の発音であるサウロではなく、途中でギリシャ語の発音であるパウロに変わりました。 これはおそらくユダヤ人たちだけではなく、異邦人たちへと福音を伝える者となっていくことを示したものだろうと思います。 使徒の働きの後半部分は主にこのパウロが中心となって話が展開していきます。 1 伝道者アポロ しかし今日の箇所はそんなパウロがエペソで伝道して去った後、他の伝道者がやってきたところを描いています。 その人の名前はアポロと言います。 彼はエジプトの北にあるアレキサンドリヤ出身のユダヤ人でした。 アレキサンドリヤとは紀元前332年にアレキサンドロス大王によって建てられた都市です。 イエスキリストの弟子たちの時代にもエジプトの中心的な都市で、ローマ帝国においても第二の都市でした。 40万から90万巻の蔵書を有する図書館を持つ博物館もありました。 さらに大学もあり、当初はアテネの学校をまねて作られましたが、すぐにアテネを追い越してしまう程の急成長を遂げました。 数学,天文学,医学,作詩法の学問で名高く、文学と芸術も盛んでした。 人口は60―70万ほどで,ユダヤ人,ギリシヤ人,エジプト人によって構成され、 ユダヤ人はギリシヤ人と同等の特権を与えられたため多くの者が定住しました。 イエスキリストの一番弟子とされるペテロはガリラヤの田舎出身で、あまり学問には縁がありませんでした。 それに対してパウロは、ユダヤ教の教育をきっちり受けた人でした。 しかしこのアポロはそれにも増して、学問的な蓄積が相当あったものと思われます。 アレキサンドリヤにおいては学ぶことに事欠きません。 良い環境で生まれ育ち教育水準も高い人だったのでしょう。 そういう人がイエスキリストのことを伝え聞いて、聖書に記されている出来事と照らし合わせたところ、まさにイエスこそメシアであること、救い主であることを知ったのです。 それで、いても立ってもいられず、伝道者の道を歩み、とうとうエペソにまでやってきました。 アレキサンドリヤからエペソまでは直線距離にして2700キロあります。 北海道から沖縄よりも離れています。 "さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。" 使徒の働き 18章24節 ここには聖書に通じていたと記されていますが、この聖書は今私たちが持っている新旧約聖書が記された完全なものではありません。 当時はまだ、新約聖書はあれませんので、アポロが通じていたのは旧約聖書です。 旧約聖書、おそらくその中でも預言書に書かれていた内容と、イエスキリストのことを照らし合わせたときに、この方が救い主だと悟ったのでしょう。 アポロは学問的素養があり、話の上手な人でした。 ただ彼にはまだ知らなければいけないことがあったようです。 2 ヨハネのバプテスマ "この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。" 使徒の働き 18章25節 主の道の教え、つまりイエスキリストを知っていたということです。 そして霊に燃えて、イエスのことを正確に語ることもできました。 しかし彼はヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。 ヨハネのバプテスマとは何でしょうか。 まずバプテスマについて説明します。 バプテスマの本来の意味は、「一体化」です。 布を染料液に浸けると、その色に染まります。 それがバプテスマのイメージです。 ではヨハネとは誰でしょうか。 この人はイエスキリストよりも少し前にユダヤで神の働きをしていた人でした。 そして彼の働きの中心はイエスキリストの働きの道備えをすることでした。 ですから彼のバプテスマはイエスキリストを準備するバプテスマと言うことができます。 3 聖霊のバプテスマ これとは別にイエスキリストが与えてくださるバプテスマがあります。 それは聖霊のバプテスマとよばれるものです。 この聖霊のバプテスマについてもヨハネが説明してくれています。 "斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。" マタイの福音書 3章10~11節 この箇所はヨハネが語った言葉です。 ヨハネは自分が悔い改めのためにバプテスマを授けていると言っています。 しかし決して自分を指し示すための働きでないことはその直後の言葉でわかります。 彼はこう言っています。 「私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方の履物を脱がせてあげる値打ちもありません。」 ヨハネのあとから来られる方というのがイエスキリストのことです。 その方の方がさらに力があり、自分はその方の履物を脱がせてあげる値打ちもないと彼は言うのです。 まさに天と地ほどの差がある存在だということでしょう。 そしてこのイエスキリストこそ聖霊のバプテスマを与えてくれると彼はここで語るのです。 バプテスマの本来の意味は何だったでしょうか。 それは一体性です。 ですから聖霊のバプテスマとは、聖霊が私たちに臨んで私たちの内に住んでくださり、私たちと一体となってくださることなのです。 これによって、信仰が与えられて、イエスを主と信じ告白することができるようになります。 これが聖霊のバプテスマで、クリスチャンにとってとても大切な事です。 私たちがイエスを主と信じることができる理由がここにあるからです。 イエスという命の木に、わたしという枝が接木されるのです。 この聖霊のお働きによって、イエスキリストのものがわたしのものになります。 彼が十字架で死なれて罪に死んでくださったことが、わたしの死となります。 復活もわたしの復活になるのです。 イエスキリストの復活は死を克服した新しい命です。 聖霊によってこの命の木であるイエスキリストにつながれると、わたしもキリストの新しい命に生きるものとなるのです。 "‥神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。" ペテロの手紙 第一 1章3節 このようにわたしたちはイエスキリストにつながれ、彼が得た新しい命を与えられ、新しい歩みを与えられました。新しい命を与えられた人は、以前の死んだ状態に命が吹き込まれた人のことです。 この人は神を知り、救いの恵みを知り、御言葉に耳が開かれます。 このように聖霊のバプテスマはとても重要なのです。 しかしこれをまだアポロは知りませんでした。 おそらく彼がまだアレキサンドリヤにいた頃には、聖霊のバプテスマを知っている人が彼のところにやってきていなかったのだと思います。 それでヨハネのバプテスマしか知らなかったのでしょう。 4 アポロとプリスキラ、アクラの出会い そんなアポロですが、まだ自分がよくわかっていないことを知らずに大胆に語るわけです。 "彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。" 使徒の働き 18章26節 正確に福音を理解し語っているなら良いのですが、そこに欠けがありました。 それにプリスキラとアクラが気付きました。 皆さんがもしこのプリスキラとアクラならどのように思われるでしょうか。 おそらく若い伝道者であったと思われるアポロですが、彼の言葉を頷きながら目を輝かせて聞いている聴衆がいます。 しかしその話は福音としては不十分なのです。 みなさんがもしプリスキラとアクラならどのようにされますか。 この時に絶対にしてはいけないことは、何でしょうか。 彼の話を聞いている聴衆の面前で間違いを指摘することです。 プリスキラとアクラはそれをしませんでした。 26節にあるように、アポロを招き入れて、つまり自宅に招待したいうことだと思いますが、他の人の目が届かないところで、彼の欠けを補おうとしたのです。 ここにプリスキラとアクラの知恵と配慮が見えます。 確かにこの時点でのアポロは欠けのある伝道者だったのでしょう。 特に聖霊のバプテスマという重要事項が足りていませんでした。 しかしそんなアポロを無視せず彼の自尊心が傷つくようなやり方ではなくて、彼を立てながらもその不足部分を補う方法を取ったのです。 一方アポロも自分よりもおそらく学問的に劣るプリスキラとアクラを無視しませんでした。 彼らの言葉によって自分の欠けを謙遜に受け止めて、それを教わることができる人でした。 これによりアポロは聖霊のバプテスマについて知り、より深い霊的次元へと進み出ることができたのです。 結び 私たちは聖霊のバプテスマを知っています。 しかし聖書の全てを理解しているわけではありません。 イエスキリストのことが100%分かったわけではありません。 すなわちどこまで行っても欠けがあり成長の余地がある存在であるということです。 そのことは常に忘れないでいたいことです。 アポロはそれを知っている人だったのでしょう。 聖霊のバプテスマを知らず、救いを深いところではまだ理解できていないものであることを彼は認めました。 そして自分の欠けを認めたことによってさらに真理の深みへと漕ぎ出して行ったのです。 彼はこの後、アカヤ地方のコリントへと渡りたいと思っていました。 そこでプリスキラやアクラをはじめこの町の兄弟たちが彼を励まして、コリントのクリスチャンたちに紹介状まで書いて渡してくれました。 コリントにはすでに恵みによってクリスチャンになっていた人たちがいましたが、彼らをおおいに助ける働きをします。 アポロはこのプリスキラとアクラとの出会いを機に大きく成長しました。 そして福音を伝える者として神にさらに用いられるものとなりました。 欠けを指摘する側も指摘される側もお互いが尊敬し尊重していればそれは相手に伝わります。 そしてその欠けを本当の意味で補うことができます。 相手への尊敬が欠けていると、どれだけ正しいことを言っていても相手には歪んで伝わります。 そうなると関係が壊れるだけではなく、その欠けをさらに認めなくなっていくこともあります。 自分を尊重してくれない人の言葉を聞きたい人はいないからです。 プリスキラとアクラは細心の注意を払いながら、アポロに接近して、愛を持って接したのでしょう。 それがアポロにも伝わったのだろうと思います。 そしてその根本を辿るならば、やはり彼らがすでに聖霊のバプテスマを受けていた人だったからだと言えます。 プリスキラとアクラにはすでに聖霊がお住まいでした。 つまりイエスキリストと一体となっていた人だったのです。 彼らはキリストの死と復活を与えられて新しい人となっていました。 彼らの配慮はイエスキリストの配慮、彼らの愛はイエスキリストの愛でした。 私たちも、このプリスキラとアクラのようなイエスキリストの愛でお互いに仕える歩みに招かれています。 祝福をお祈りいたします。