主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:マルコの福音書 8章27~38節 タイトル:信仰シリーズ⑤ 主に従うとは 先週のメッセージの中で、信仰とは信じるという一時的な感情のことではなく、福音に関する知識とそれに対する同意と、信頼であり、それは主に従う生き方として現れるものだというお話をしました。 今日はこの従うとはどういうことなのかを御言葉を通して考えてみたいと思います。 1 あなたは、キリストです 今日のお話は、イエスさまが弟子たちとともにピリポ・カイザリヤへ行く道の途中の出来事です。 イエスさまは弟子たちにたずねました。 「人々は私を誰だと言っていますか。」 すると彼らは「バプテスマのヨハネという人や、エリヤだという人、それから預言者の一人だという人がいます」と答えました。 人々は、イエスさまの働きと御言葉を通して普通の人ではないと思っていたようです。 しかしそうは言っても、救いをもたらす存在とまでは思っていなかったようです。 次にイエスさまは言われました。 「あなた方は私を誰だと言うか。」 この箇所をギリシャ語聖書で見ると、「あなた方は」という言葉が強調されていますので、人々はそう言っているのはわかったけど、あなた方は違うだろうというニュアンスでたずねておられることが分かります。 この質問は弟子たちに向けられたものでしたが、ペテロが代表して答えました。 「あなたは、キリストです。」 キリストとは、ヘブライ語でメシアのことです。 メシアとは、油注がれた者という意味で、神からの特別な任務と、その任務のための力を与えられたことを意味します。 旧約聖書では、王や祭司や預言者に油が注がれました。 ペテロがイエスさまをキリストと告白したということは、神が特別に送られた方だと信じたということを意味します。 また、原文のギリシャ語聖書を見ると、キリストという単語の前に「その」を意味する冠詞がついていますので、神がわたしたちを救うためにメシアを送るという旧約で預言された、「その」メシアがイエスさまだという意味になります。 わたしたちの先祖の代からずっと待っていた救世主、それこそあなたですというペテロの信仰告白なのです。 しかしこのキリストだという告白はまだ不完全なものでした。 なぜならキリストがどのように救ってくれるかというところまではペテロたちが知らなかったからです。 だからイエス様はここで誰にも言わないようにしなさいと言われました。 そしてペテロたちに不足していたキリストに関する理解を与えようとされています。 それが31節の内容です。 2 苦しみ、殺され、三日後によみがえる "それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。" マルコの福音書 8章31節 ここではイエスさまが苦難を受け、殺され、三日目によみがえることが語られています。 しかしペテロをはじめ弟子たちには、苦難を受けて殺されるというところしか聞こえていないように見えます。あまりにも衝撃的な発言だったのでしょう。 それでペテロはイエスさまをわざわざわきまでお連れして、いさめました。 彼がここまでした理由は、当時の弟子と師匠の関係にあります。 当時弟子は師匠がいくところどこにでもついて回りました。教えられる内容もそのまま暗記し、生活の仕方、行動、それら全てに習って同じようにしたのです 師匠が苦難を受けて死ぬということは、その師匠に従っていく弟子も死ななければいけないということを意味します。 ペテロたちは、キリストが苦難を受けて死ななければいけない存在だということまでは知りません。 当時のメシア観というのは、世の力を持った王であり、ローマからイスラエルを救う存在でした。 ペテロたちはそのメシアとしてイエスさまを見ており、だからこそ弟子となったのです。 しかし彼らの思惑とは大きく異なり、イエスさまは苦しめられて死ななくてはいけないというのです。 それでペテロはイエスさまをいさめたのです。 しかしイエスさまはそんなペテロを逆に叱って言われました。 「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」 イエスさまをいさめるなんて、よくこんなことをするなとクリスチャンは思うのかもしれません。自分だったらきっとしないと。 ただ考えてみると、この叱責の言葉は、現代を生きるわたしたちにも向けられているのかもしれません。 イエスさまを信じていると言いながらも、神のことではなく人のこと、自分のことを考えて生きているなら、私たちにも向けられた言葉と言えるのではないでしょうか。 わたしたちは何を思って生きているでしょうか。どれだけ神のことを思って生きているでしょうか。どれだけ人のことに縛られて生きているでしょうか。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」という声が聞こえてこないでしょうか。 3 自分をすて、十字架を負う さらにイエスさまはこれらの言葉に加えて語られます。 "それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。" マルコの福音書 8章34節 ここでイエスさまは誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、私についてきなさいと言いました。 信仰とは何だったでしょうか。 信仰とは福音に関する知識とそれに対する同意と、そして信頼です。 そしそれは主に従う生き方として現れます。 イエスさまはここで私についてきなさいと言われました。 これは従うとも言い換えることができます。 つまりこのイエスさまの言葉は、私に従いたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負いなさいということです。 つまりここから信仰によって生きるとは、どういう生き方のことなのかがわかるということです。 イエスさまはここでどのようにして従えて言っていますか。 自分を捨てることと、自分の十字架を負うことによってです。 ⑴自分を捨てるとは一体どういう意味でしょうか。 それは自分の力で何かを成し遂げようとする思いを捨てることです。 言い換えるなら、自分の何かを信じるのではなく、主に信頼して主に頼ることを徹底することです。 また自分自身の野望を捨てることでもあります。 神の仕事をするんだと言いながら、自分の名誉のためや、あるいは他の目的のために必死に走っているということないですか。 こういう生き方を捨てること、これが自分を捨てるということです。 他の言い方をすると、神の計画の外でビジョンを描くことをやめるということです。右手で神の計画をつかんでいるように見えても、実は左手で自分のビジョン、その野望をつかんでいるということがあります。神の計画を大切にしたいと言いながら、自分が高く上げられることを望んでいるのです。そのことに自分では気づかないことが多いです。 実のところ、私たちに対する神のご計画の最も大きな障害は、自分自身です。 わたしたちは自分を捨てることがとても苦手です。 自分の野望を自分の力で成し遂げて周囲の人に称賛されたいという思い。 この思いがあまりにも強いのです。 信仰とは、主に信頼し主に従うことです。 主に従うとは、このように自分を捨てることです。 ⑵ では十字架を負うとはどういう意味でしょうか。 これは言葉通りの意味ではなく、比喩表現です。 イエスさまは神が与えた使命のために十字架をおわれました。ですからわたしたちもイエスさまのように、神がわたしたちに与えた使命を受け取りそれを負って生きることを意味します。 そこには、イエスさまが苦しみに遭われたように、苦しみが伴います。 ですから神が望んでおられることだと分かったなら、たとえその道が苦しみに満ちているとわかっていても、あえてその道を選ぶのです。それが十字架を負うということです。 ある先生が教えてくださった言葉を思い出します。 もし二つの道で迷ったなら、苦しい方を選びなさい。 それが最も良い選択だ。 人は楽な方を選んでしまいます。 しかしたとえ苦しい道であったとしても、それを神が望んでおられるとわかるなら、その道を生きなくてはいけません。 それが使命を全うすることであり、自分の十字架を負うことだからです。 自分を捨てることと、自分の十字架を負うことは、密接不可分の関係にあると言えるかもしれません。 自分を捨てる。それは自分の野望、自分の夢、自分の生きたい人生を捨てることです。そしてそれはすなわち、神が生きろと言われる人生を生きることです。 神が生きろと言われる人生というのは、イエスさまが十字架を負い苦しまれたように、苦しみを伴うものです。 しかしそれが真の命の道です。 4 信仰は目に見える 信仰は福音の知識であり、それに同意することであり、それに信頼して生きることです。 そしてこれは主に従うという生き方として現れます。 だから信仰は目に見えるのです。 信仰は感情ではないからです。 もちろん感情も含み込んだものですが、主に従う人生として現れるので、目に見えます。 信仰と行いは分離してはいません。 信じますと言うことが信仰の全てではないのです。 本当に信仰があれば、必然的にイエスキリストに似た者に変えられていきます。そして主に従う人生を生きるようになっていきます。 これは決してその人の努力によって成されるものではなくて、ただ御言葉と聖霊によって、福音を本当に知り、それに心から同意し信頼して生きていくときに成されるものです。 この間当然、この世の誘惑に遭う事もあります。 未信者の力に屈して生き方を曲げてしまう、そんな挫折を味わうこともあるでしょう。 内側の罪の残滓の影響を受けることもあると思います。 しかし本当の信仰を持っている人は、倒れても立ち上がるのです。 そしてもう一度主を見上げて主に従って歩みます。 その時は、以前よりもさらに主を知るものとして立ち上がります。さらに主の言葉に同意し信頼し従うものになって生きていきます。 なぜなら倒れることで、さらに自分の罪の大きさ、その力の強さがわかり、その大きな罪のために命をかけて下さったイエスキリストの愛がもっとわかるようになるからです。 これはつまり福音がわかるということです。 福音がわかれば、それに同意ができます。信頼もできます。 イエスに従う生き方ができます。 こうして少しずつわたしたちの信仰は強められていくのです。 これはわたしたちの人生の中で何度となく繰り返される信仰の旅路です。 今週も信仰の歩みをされる皆さんでありますように。