主日礼拝メッセージ 聖書箇所:ルカ福音書1章5~17節 タイトル:私たちの思いと神のご計画 今日からアドベントの第二週目になります。 今日はルカ福音書から共に恵みを分かち合いたいと思います。 私たちはこうして今日も主日の礼拝を守り真面目に信仰生活をしているクリスチャンです。 最善を尽くし主の前に祈り御言葉を日々いただきながら暮らしておられることと思います。 しかし私たちのこの歩みの中に暗い影を落とすような出来事は何一つないかと言われるとそうではないと思います。 真面目に信仰生活をしていても問題が起きることがあります。 今日はこのような出来事を「しかし」の出来事としたいと思いますが、私たちはこの「しかし」の出来事に出会うと信仰生活の意味を意識的にあるいは無意識に問い始めます。 中には祈ることに疑問を感じたり、御言葉への信頼の揺らぎなどが起こる方もいるかもしれません。 あの人は神に祈りを聞いてもらえるのかもしれないけど、私の祈りは聞いてもらえないという思いなどもこのことに含まれるでしょう。 しかしそれでも私たちは主日の礼拝に参席し共に祈り共に賛美し共に聖書を開きます。 このことは今日登場するザカリヤとエリサベツと重なるところだと私は思います。 彼らにもこの「しかし」の出来事がありました。 それにもかかわらず彼らは主の前に真実に歩み続け祝福された人生を送りました。 とするならば私たちの人生もまた彼らのような祝福されたものであるはずです。 今日はそのことを共に確認します。 "ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。" ルカの福音書 1章5節 ザカリヤという名前は(主は覚えている)という意味です。 彼はアビヤの組に属する祭司でした。 この組分けについては歴代誌Ⅰ24章10節に登場します。 具体的には神殿の奉仕の組分けです。 全部で24ある組の8番目にあたるのがこのアビヤの組でした。 エリサベツは(神は誓いである)という意味です。 彼女はアロンの子孫です。 時々聖書の登場人物の名前についてメッセージの中で解説をしますが、名前の意味にあまり興味がわかない方もおられるかもしれないので少し説明させて下さい。 聖書の中に登場する名前には啓示的側面があります。 例えば、アブラハムは最初はアブラムで(父は高められる)という意味の名前でした。しかし神はアブラムにアブラハムという(多くの国民の父)という名前を与えられました。 そしてこの名前の通りに彼は多くの国民の父となりました。 聖書の登場人物の名前には神の計画が込められているのです。 これが今日の聖書でも意味を説明する理由です。 ザカリヤは(主は覚えている)という意味、エリサベツは(神は誓い)という意味でした。 ここから主は覚えておられる方だということと、誓いの方であることがわかります。 誓いとは将来ある出来事を必ず成し遂げることを約束することです。神は約束をしてくださりそれを絶対に忘れず覚えておられ必ず成し遂げられる方だという意味がザカリヤとエリサベツの名前には込められていると言えます。 そしてそのことが表されるストーリーがこの後展開されていきます。 "ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。" ルカの福音書 1章6~7節 ここにはザカリヤもエリサベツも正しく主の掟を守る人だったと書かれています。 この時ユダヤはローマ帝国に支配され、しかもその支配地域に王として立てられていたヘロデはエドム出身の人でした。 ユダヤ人たちにとってとても暗い時代だったと言えます。 しかしそんな中でも誠実に主の言葉を聞き、守ろうとした人たちがザカリヤとエリサベツでした。 それなのに彼らには子どもが与えられていなかったと7節には記されています。 主の言葉を聞き守っていた。 「だから」子どもがたくさん与えられたと記されていれば理解しやすいのですが、ここには「だから」で繋がる言葉はこないで「しかし」で繋がる言葉がきています。 しかしエリサベツは不妊で子どもがなかったというのです。 (口語訳では「ところが」という接続詞が入っています。英語のNASBという聖書にもButという言葉が入っています。) こうなると途端に理解が追いつかなくなりませんか。 しかも現在は二人とも年老いているといいます。 これはもう妊娠がのぞめる年齢ではないということです。 "「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」" ルカの福音書 1章25節 これは後のエリサベツの言葉ですが、この言葉から当時子どもが出来ないのは女性にとって恥であったことがうかがえます。 このことは、ザカリヤとエリサベツの人生に暗い影を落とすことだったでしょう。ザカリヤは名前を呼ばれるたびに「主はわたしを忘れてはおられない」と考えたでしょう。しかしそれでも忘れられているような思いを持って生きていたのではないでしょうか。 私たちの歩みにも、この「しかし」が登場します。 例えば、 私は主日を守り、主に祈り求めつつ生きている。 しかし、大切な人に自分の信仰を認めてもらえない。 私は礼拝も欠かさず参席しているし、日々祈りも捧げ、聖書も読んで、その言葉をでき得る限り守り行おうとしている。 しかし、仕事がなかなかうまくいかない。 要は真面目に信仰生活をしているにもかかわらず、うまくいかないということがあるのではないかということです。 私たちはこの「しかし」の出来事に出会うと、信仰生活の意味を問うようになります。 自分なりに一生懸命信仰生活しているのになぜなのかと考えてしまいます。 みなさんは、この「しかし」にまっすぐ向き合えていますか。 今日の聖書に登場したザカリヤとエリサベツは、この「しかし」に向き合って生きていたようです。 妊娠が望めなくなって随分たっていましたが、それでも神の御前に正しく、その定めを落ち度なく踏み行っていたと6節にはありました。 彼らは主の前に誠実であり続けようとしたのです。 するとこの後この夫婦にとってとても名誉な話が舞い込んできます。 "さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。" ルカの福音書 1章8~10節 ザカリヤはアビヤの組の祭司だと先ほど申し上げました。 全部で24ある組の一つです。 ザカリヤはくじによって香をたく任務につく事になりました。 この役割は神殿祭儀の最後に主の聖所で香をたく務めで非常に重要視されていて、この役目に選ばれることはとても名誉な事でした。 当時の祭司は約2万人いたと言われています。 単純計算ですが、1グループに900人ほどの祭司がいたということになります。 そこからくじを引いて自分が当たる確率は非常に低いものです。 一生この役目を与えられずに終わる人もいたはずです。 そんなくじにザカリヤは当たったのです。 ザカリヤはこの一世一代の役目を全うしようと慎重に進めたことと思います。 落ち度なくその役目を行うことだけを考えて彼は聖所に入ったはずです。 ところが、全く予想だにしないことが起きました。 それは主の御使いが現れたことです。 突然のことにザカリヤは恐怖をおぼえます。 しかし御使いは恐れることはないと言って、まるで旧約の預言者と御使いのやりとりを彷彿させる展開が続いていきます。 "御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。" ルカの福音書 1章13節 あなたの願いが聞かれたと御使いは言いますが、ザカリヤの願いとは何だったのでしょうか。 この直後にヨハネの誕生が記されているので、年老いてからもザカリヤは子どもを求め祈り続けていたという見解があります。個人的な祈りとしては子どもをくださいと祈っていたかもしれません。少なくとも心の中では思い続けていたことと思います。 しかしイスラエルの代表である祭司であり、さらに今はその中の代表として聖所に入った人間が個人的な祈りをするとは考えられません。それに子どもが与えられると聞いてこの後ザカリヤは疑ってしまうことも合わせて考えると、ここで彼はイスラエルの祭司としてその罪の贖いを祈り求めたのではないでしょうか。そしてローマやエドムの下に置かれたイスラエルの現状を憂い、メシアを送って欲しいという祈りをしたのではないかと思うのです。 それに対して御使いは、イスラエルを贖うメシアを送る道備えのために、ヨハネを遣わすことを指して、願いが聞かれたと言ったのではないでしょうか。 次に14節から16節を見ます。 "その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。" これは生まれてくる子どもの将来についての言葉です。 ザカリヤにとって喜びとなり楽しみとなると御使いは告げますが、それだけでなく多くの人もその誕生を喜びます。 またヨハネはメシアの先駆者としてふさわしく母の胎内にいる時から聖霊に満たされている人で神に立ち帰らす働きを担うとされました。 "彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」" ルカの福音書 1章17節 この箇所は旧約のマラキ書4章5、6節と密接に関わっているところです。 "見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」" マラキ書 4章5~6節 主が来られる前に遣わされるエリヤとしてヨハネは誕生することを示唆する言葉になっています。 このようにザカリヤは主の道備えとして遣わされるヨハネが自分の子どもとして与えられるという知らせを受け取るのです。 ザカリヤとエリサベツは神のみ前に正しく、主の全ての戒めと定めを落ち度なく踏み行う夫婦でした。 とても敬虔な人たちだったようです。 「しかし」彼らには子どもがありませんでした。 当時のイスラエルでは子どもが与えられないことは恥以上のものでした。 旧約聖書を見ると、不妊は呪いや裁きや罰とさえ考えられていたほどだとわかります。 そんな環境下にいたこの二人がどれほど辛い思いをしながら生活をしていたか想像に難くありません。 彼らの信仰生活に暗い影を落とすには十分でした。 しかし今日共にお読みした聖書が教える通り、彼らにはこの後子どもが与えられます。 常識では考えられない出来事でした。まさしく神の御手による奇跡の出来事でした。 こうしてザカリヤとエリサベツの恥は拭い去られることとなるのです。 この出来事は彼ら夫婦の願いを叶える出来事でした。 しかし忘れてはいけないのが、この子どもがあのバプテスマのヨハネになりイエスキリストの働きの道備えをするということです。 ヨハネがこの世に生まれるということは、神の救いの業が進むことなのです。 他の言い方をすれば神の国が完成に近づくことでした。 つまりザカリヤとエリサベツ夫婦の願いを叶えそれを通してさらに神はご自身の計画を進めて行かれているということなのです。 ザカリヤとエリサベツという二人の家庭に絞って見るならば、彼らの長年の願いであった子どもが与えられたことが一つの神の応答であったと捉えることができますしこれもまた真実です。 しかしイスラエル全体にまで視野を広げていくときに考えられる願いは、イスラエルの贖いであり、メシアの到来なのです。 そしてその到来の道備へとして生まれてくるのがザカリヤたちの子どもであるヨハネです。 これは私たちが直面する「しかし」の出来事と神の国の広がりの関係を教えてくれています。 私たちの信仰生活には「しかし」の出来事が存在します。 それに直面すると私たちは祈ります。神に助けを求めます。 その内容が主の心にかなえば最善の時にその祈りは叶えられるはずです。 しかしそれは神の国と無関係ではありません。 その祈りが成就することによって確実に神の国が前進しているのです。 その意味で「しかし」の出来事と神の国はつながっています。 「しかし」の出来事は神の国の広がりの始まりなのです。 私たちは真面目に信仰生活をしている人たちです。 しかし全てがうまくいっているわけではありません。 必ず「しかし」の出来事に直面します。 その時に私たちは祈るわけですが、神様は常に神の国の広がりの中で私たちの思いも無視せず丁寧に吸い上げながらその国を立てあげていかれる方です。 神様のご計画と無関係に私たちの祈りが聞かれることはないのです。 裏を返せば祈りが聞かれたならば、それは神様のご計画の一部であり、神の国の拡大に用いられる出来事だということなのです。 そしていつもその関係の中に私たちを招き、ともに神の国を立てあげていこうと言われるのが私たちの主です。 今どのような「しかし」の出来事にあっていますか。 その出来事は決して無駄ではありません。 神の国の広がりと耐え難くつながっています。 どうかそのことを覚えつつ日々祈りつつ歩まれる皆さんでありますように。