主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:出エジプト記2章1〜10節 タイトル:嵐を超える神のかご 1 序 一体どうすればこの問題が解決するのだろうか。 糸口すらも見えないそんな時が私たちの人生には幾度もおとずれます。 みなさんはそんな時どのように対処されますか。 今日はある信仰深い女性のお話ですが、ここから私たちの生き方を変えるヒントを掴みたいと思います。 2 ストーリー この物語は、ヘブル人たちがまだエジプトにいた頃のことです。 かつてヨセフというヘブル人によって食糧危機を乗り越えたエジプトでしたが、それから何年も後、エジプトの人々はヨセフのことをすっかり忘れてしまいました。 そしてヨセフの子孫たちがどんどんエジプトの地で増えていくのをよしとせず、恐れさえしました。 彼らはなんとかヘブル人たちをおさめようとして奴隷にしてしまいます。 さらに王様は、ヘブル人から生まれた男の子は、ナイル川に投げ込んで殺すようにという命令まで出しました。 さてこのように大変な状況に置かれていたヘブル人たちでしたが、ある時一人の人が結婚し夫婦の間に、男の子が生まれました。 この夫婦の名前はここには出てきませんが、民数記26章59節を見ると、わかります。 "アムラムの妻の名はヨケベデで、レビの娘であった。彼女はエジプトでレビに生まれた者であって、アムラムにアロンとモーセとその姉妹ミリヤムを産んだ。" 民数記 26章59節 夫はアムラム、妻はヨケべデといいました。 2節を見ますと、ヨケべデは生まれた子が「かわいいのを見て三ヶ月の間‥隠しておいた。」と記されています。 かわいいという言葉は、ヘブライ語聖書ではトブというのですが、外見を見てただ「かわいい」という意味だけではなく他にも多くの意味があります。 他の箇所でこの言葉は、優れているとか、尊いとか、貴重という意味で使われています。 この男の子は、その存在が尊く、貴重であり、優れていたということなのでしょう。 さらに「見た」と訳されている言葉は、ヘブライ語ではラアといい、外見だけを見るのではなく、その存在が一体どんなものなのかを知ることであり悟ることです。 ヨケベデは、この子に神の計画を見たのではないでしょうか。 神が尊く用いてくださる特別な器として彼女は受け取ったのだと思います。 母親としてなんとしても我が子には生き延びてほしいという思いと、神様から与えられたこの信仰によって彼女は三ヶ月の間隠しておきました。 エジプトの王パロの命令は絶対です。 そのパロが「男の子が生まれたらナイル川に投げ入れて殺せ」と言ったのですから絶対に守らなくてはいけません。 しかしヨケべデはこれを破りました。命懸けでこの子を守ろうとしたのです。 ところが子どもは泣きます。 月齢が増えれば増えるほど、泣き声も大きくなります。 それで3節「隠しきれなく」なって、このままでは殺されてしまうと考えたのでしょう。 パピルスのカゴに瀝青と樹脂を塗って防水し、子どもをそのカゴの中に入れて、ナイル川の茂みの中に置きました。 そしてその子の姉は、弟がどうなるかを離れたところで見ていました。 するとそこにパロの娘がやってきて、そのカゴに気づきました。 召し使いにとって来させて蓋を開けると、自分の父親が迫害しているヘブル人の男の子が入っていて泣いていました。 「なんと」という言葉が入っているので、彼女が大変驚いたことがわかります。 おそらくこれまでもヘブル人に対する仕打ちについて話は聞いていたでしょう。 しかしこうして目の前で犠牲になろうとしているヘブル人の男の子を見て、彼女はかわいそうに思いました。助けてあげたいと思ったということです。 その様子を見ていたこの男の子の姉は、パロの娘の前に出て言いました。 私が行って、ヘブル人の中から乳母を呼んで参りましょうか。 このタイミングで出ていけば、偶然ではないとわかったはずですが、パロの娘は行ってきておくれと頼みました。 それで、この子の実の親である母親を連れてきて、乳母として紹介したのです。 こうして実の母親であるヨケベデは、生きながらえた息子と再会して、実の親でありながら育ての親として養育しました。 そしてこの子が大きくなった時、パロの娘のところへ連れて行きました。 パロの娘はその子にモーセという名前をつけました。 エジプトの言葉で、「水」と「引き出される」という意味を合わせた名前です。 こうしてモーセはナイル川から引き出されて救われました。 神の強力な御手による業以外の何物でありません。 モーセは後にヘブル人がエジプトから救われる時に大きく用いられます。 これが今日の大まかなストーリーです。 ここから今日もいくつかポイントを上げてお話ししたいと思います。 3 パピルスのかご まずパピルスのかごについてです。 3節を見ますと、モーセを入れるためにヨケべデが手に入れたかごのことが記されています。 かごと訳された言葉はヘブライ語ではテマと言い、この箇所以外には、ノアの箱舟にしか使われていない特別な言葉です。 創世記に登場するノアもまた神様に選ばれた人でした。当時地上に悪がはびこり、神様はこの世界を全て洪水で滅ぼしてしまおうと考えられました。 しかし神はノアを見て、ノアとその家族そして地上の生き物たちのつがいを大きな箱舟に乗せて救うことにされました。 これによりノアたちは救われたわけですが、この箱舟と同じ単語がモーセを入れたカゴにも使われているのです。 箱舟の中でノアはただ主に頼るしかありませんでした。 梶も何もありません。ただ流されるだけです。 窓も上にしかないので、ただ天を仰ぐしかできません。どこに向かっていくかもわかりませんでした。 ここには人の弱さ、そして神の強大な守りが表されています。 そんな箱舟と同じ言葉が使われているのが、モーセを入れたパピルスのかごでした。 ノアが箱舟を作り、ノアと家族と動物たちが救われたように、ヨケベデはかごを準備し、その中に入れられたモーセは救われ、さらにこのモーセが用いられてヘブル人たちが救われていきます。 私たちもノアやモーセのように多くの患難に見舞われながら生きていきます。 それはまるで洪水に流されるままの箱舟のようであり、ナイル川のほとりに置かれた無抵抗のかごのようです。 どうすることもできません。 私たちはそういうところに置かれたときに、本当に自分の弱さというものを痛感します。 しかし同時に神の守りというものを教えられる尊い機会となります。 苦しいとき、辛い時に、私たちは助けてくださいと祈ります。 これは正しいことです。 そしてその祈りに神さまは答えてくれる方です。 しかしそれだけではありません。 もっと広く大きな視点を聖書は私たちに与えてくれます。 モーセに対する神の守りは、アブラハム、イサク、ヤコブとの約束を神が忘れていなかったからです。 アブラハムを祝福するという約束が全ての基礎にありました。 モーセもその約束の中に置かれていたのです。 だからこそあのような奇跡によりモーセは救い出されました。 私たちもこの約束の中に置かれています。 私たちが見える範囲を超えて、神は働かれ、私たちにとって最もよい祝福された人生へと導いてくださる方です。 人生には嵐があります。 その時私たちは自分の弱さに打ちひしがれるかもしれません。 しかしそれは同時に神の守りを知る時であり、神の約束の中に生かされていることを知る時なのです。 4 ヨケベデの心 続いてヨケベデの心についてです。 ヨケベデはモーセが特別な子どもだということを知っていました。主がその違いを知る目を与えられたのでしょう。 ヨケベデはモーセを3ヶ月の間、隠し通しましたが、それ以上はどうにもなりませんでした。 そこでパピルスでカゴを準備し、防水のために瀝青と樹脂を塗ってできることは全てしました。その上でナイル川の茂みに置いたのです。 ヘブライ語の聖書を見ると、この間の出来事がとても慌ただしく描かれているので、モーセの存在が明るみになりかけていたのかも知れません。その状況に押し出される形で彼女はモーセから手を離したのです。 どんな思いだったのでしょうか。 ただ生きていてほしい。ナイル川の茂みの中においた後、どうなるかわかりません。こうして救われるはずだという具体的なイメージはなかったでしょう。 しかしそれでも主が救ってくださるはずだ、どのようにしてかはわからないけれど、主が助けてくるはずだという信仰で、モーセから手を離したのではないでしょうか。 すると思いもよらないことが起こりました。 パロの娘がやってきてモーセを拾いあげたばかりか、乳母としてモーセを再びその腕に抱くことができたのです。 人生の荒波に押し出される時に、私たちもこのヨケベデのような決断をせまられることがあります。それは十分準備がなされて、しっかりと計画が立てられてからではありません。全く予期せぬことが起きて、その先も一体何が待ち構えているかもわからない、そんな状況です。 しかしそこでヨケベデは主に信頼することを選び、自分ができる最善を尽くして、我が子のために箱舟を準備し防水加工をしました。 彼女の心の中にはノアのストーリーがあったのではないかとわたしは思います。先祖ノアのように、神はこの荒波も超えていかせてくれるはずだという信頼、そして神の御計画への信仰が彼女を支えて、息子が入ったカゴから手を離させました。そしてその場を後にしました。 今、あまりの問題の大きさに驚き、どうしたら解決するのだろうかと思い悩んでいる方はおられるでしょうか。どうぞヨケベデのような信仰が与えられますように。主に信頼して最善を尽くし主に委ねてください。祈ることを諦めず、みことばを学ぶことを怠らず、ただこの手を握ってくださっている主の手を握り返し、そこに身をいつも寄せて生きていくことができますように。 5 結び ヨケベデとモーセは絶体絶命の状況でした。全く先が見えず問題の解決の糸口も見えませんでした。 しかしそんな中でもヨケベデは主を信じ続け、自分の最善を尽くして、息子のために走りました。 神様は大きなご計画を遥か昔に準備しておられ、ヨケベデが思いもしなかった方法でもって、もう一度モーセを彼女の腕に抱かせました。 そしてこのモーセがヘブル人のエジプト脱出のリーダーとして立てられるのです。 ナイル川から救われたモーセのように、将来ヘブル人は神の力によって葦の海が二つに分かれた道を通ってエジプトを脱出していきます。 私たちもこのようにして自分では思いもよらない仕方でいくつもの危機から救われ、最終的にキリストにあって死をも克服し真のカナンの地へと導き入れられていきます。