クリスマス礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ルカの福音書2章1〜20節 タイトル:キリストとの新たな出会い みなさんにとって、今年はどんな一年だったでしょうか。 先週より一気に冷え込んで、いよいよ冬本番といった感じですが、もう今年も残すところあと10日となりました。 喜びの出来事もあったかもしれませんが、起きてほしくなかったと思うようなこともあったのではないでしょうか。 そして人は、どちらかというと、この起きてほしくなかった、本当はそうあって欲しくなかったということに気を取られ心痛めるものなのかもしれません。 今日はクリスマス礼拝です。 実はクリスマスにもまたこの本当はそうあってほしくないという出来事がたくさん記されています。 1 "そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。" ルカの福音書 2章1~2節 ここに登場するのはローマ皇帝の名前や、ローマ帝国の中のシリア地方を管轄していた総督の名前です。 当時イスラエルは、ローマ帝国に支配され多額の税金を課せられ苦しんでいました。 住民登録が行われたのも税金の徴収を徹底するためです。 町のいたるところにローマの軍人が駐屯している状態でした。 イスラエルの人々は当時非常に暗い時代を生きていました。 この国に聖霊によって身ごもったマリアとその夫のヨセフがいました。 二人はこの時ナザレという田舎町に住んでいました。この町はイスラエルの中でもさらに人々から無視されていた地域でした。 マリアとヨセフは、ローマの命令のために、このナザレからヨセフの家系のルーツであるベツレヘムという町に行かなければいけませんでした。 ナザレからベツレヘムまではだいたい115キロから120キロ、高低差が400メートルあります。 身重のマリアはおそらくロバか何かに乗せての移動だったと思います。 夫のヨセフは細心の注意を払いながらゆっくり歩いたでしょう。そうすると少なくとも一週間はかかる距離です。 直線距離で大阪から岐阜に入ったあたりまでの距離です。 ヨセフとマリアはこの距離を移動しなくてはいけませんでした。 自分たちの国を支配しているローマ帝国の皇帝の命令のためでした。 一週間二人は大変な思いをしたことでしょう。そしてやっとのことでベツレヘムに到着します。 しかし住民登録のために多くの人たちが集まっていたのか、宿屋がどこも満室でした。 それで仕方なく家畜小屋に向かいます。 家畜小屋といっても私たちが想像する木で出来た小さな小屋ではなく、洞窟のようなところだったと言われています。 そこでマリアは出産することになりました。 そして出産した後は子どもを寝かせるベッドも布団もないので、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。 飼い葉桶も木でできたものではなく、石でできたとても冷たいものでした。家畜が餌を食べるお皿のようなものなので、ヨダレも染み込んだ大変汚いものでした。 マリアは出産というただでさえ大変な出来事を洞窟の中で行わなければいけませんでした。彼らには居場所がなかったからのです。 このストーリーには本当はそうで無ければよかったという出来事があります。 彼らの国が支配されていなければ良かった。 出産のタイミングと住民登録が重ならなければよかった。 そもそも住民登録などなければ良かった。 宿屋が満室でなければよかった。彼らに居場所がないなんてことはなければよかった。 生まれたばかりの子が家畜小屋の飼い葉桶に寝かされるなんてことはない方が良いのです。 クリスマスストーリーには、この本当はそうで無ければよかったが満ちています。 しかしそういうところに神は人となって生まれて下さったのです。 イエスキリストがうまれられたのは、なんの不自由もなく、不安もなく、毎日の暮らしに満足している、そんな順風満帆なところではありません。 本当はそうでないほうが良いのにと私たちが思ってしまうような状況の中に主は生まれられました。 これは言い換えれば、こういうところにこそイエスキリストとの出会いがあるということです。 2 御使いの知らせを受けてイエスのもとにやって来た羊飼いにもそうでなければ良かったという出来事がありました。 寒空の下、何の光もない夜の闇を羊を連れて彼らは野宿をしていました。 現在は羊飼いという仕事に偏見を持つことはないと思いますが、当時羊飼いという仕事は大変卑しい仕事として知られていました。 彼らは羊を守るためにいつやってくるかもわからない狼や野犬を警戒しながら番をしなくてはいけませんでした。それは昼夜を問わず続けられます。 日が沈むと冷え込むので、温まるために羊に体を寄せて寝ていたようですが、そうすると羊の毛についた汚れや匂いや虫が体についてしまいます。ですから彼らの服は動物の匂いが染み込み虫もついた大変汚い服だったようです。 さらに彼らは野宿のため神殿儀式などに参加できず、ユダヤ教から破門されており、裁判の証人にもなれませんでした。 彼らは、経済的にも宗教的にも差別され、証人としての資格もない人たちだったのです。 多くの人たちが人口調査のために集うなか、彼らはベツレヘムの町の外で野宿していました。 このような彼らの現実は、本当はそうでない方が良い現実でした。 しかしそんな羊飼いたちのもとに、ある夜良き知らせが伝えられるのです。 その日羊飼い達はいつものように羊の番をしていました。 寒さに耐えるため羊に体を寄せながら暖をとっています。 周囲に目を光らせ狼や野犬がいないかを確認しながらその夜も過ごしていたのでしょう。 するとその時、天の使いが彼らのもとに降りてきました。 辺り一面、神の栄光が照らしました。 羊飼いたちはそのあまりの光に驚いて恐れました。 見たこともない光だったからです。 この光は太陽の光ではありません。 天の光です。 天国がこの地に入ってきたのです。 彼らの暗い生活を表すその夜の闇を一気に天の光が照らしました。 そして天の使いは言いました。 “‥「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」" ルカの福音書 2章10~12節 この言葉を掴んで彼らはダビデの町ベツレヘムへと入って行きました。 するとそこには天の使いが言った通りに布にくるまって飼い葉桶に寝かされていたみどり子がいました。 これが彼らとイエスキリストとの出会いでした。 彼らの本当はそうではない方が良い現実の中に天の光は入ってこられ彼らはイエスキリストと出会いました。 3 それから2000年が経ちました。 これまで数多くのクリスチャンたちが生まれ、福音を伝え続けてきました。 そうして私たちも福音を聞き、今クリスチャンとして生きています。 しかし一方で、当時のイスラエルを覆っていた暗闇が続いているかのような時を、今も生きています。 強いものが弱いものを虐げる世界 口では綺麗事を言いながら、裏では人に刃をむける世界 そんな世界に私たちは生きています。 今年はさらにその闇を見せつけられたような年となりました。 私はこの残酷な現実を見つめずにはいられません。 マリアやヨセフ、そして羊飼いたちのように、私たちも本当はそうでなければ良かったという現実の中で苦しみながら今も生きているのではないでしょうか。 クリスマスは過酷な現実から目を逸らす時ではありません。 今確かに目の前にある現実に目をとめながら、それでも主がこの現実を終わらせてくださった。 この世界に降ってきてくださり、私たちのこの現実を全て背負って十字架にかかってくださったという信仰を受け取り直す時です。 言い換えるならば、今の現実を見つめながら、イエスキリストとまた一度新たに出会う時なのです。 クリスマスはイエスキリストの降誕をおぼえる日です。 しかしキリストの降誕は、彼のこの世界での歩みと十字架の死とセットです。 そしてキリストの十字架の死は復活へとつながり、キリストの復活は将来の私たちの復活と繋がっています。 なぜクリスマスは希望なのか、どうして神の御子が降誕することが素晴らしいことなのか。 それは私たちに将来与えられる完全な神の国と耐え難く繋がっているからです。 そして私たちはこの世にあっても、神の国をおぼえ、その前味を今も味わうことができます。 今こうしてイエスキリストの名によって共に集い礼拝を捧げていること。 これもまた一つの前味と言えます。 また私たちは信仰によって、確かに主がこの世を支配しておられることを信じています。 たとえ悪魔が暗躍しようとも、それでも主がこの世界をその御手で包み込んでいてくださり、行くべき方向へと導き続けていてくださいます。 そして私たち一人一人の人生も主がいつも守り導いてくださっています。 私たちの信仰の先輩たちもこの2000年間、暗闇が覆う時代を生きてきました。 本当はそうでなければ良かったと思うような出来事に囲まれながら生きていたといって良いでしょう。 しかしその現実を見つめながら、それでも主がこの現実を終わらせてくれたのだと信じたのです。 彼らもまた本当はそうでなければ良かったという現実の中でイエスキリストと出会った人たちでした。 そして今年2020年に生きる私たちも、決して明るいとは言えないこの世界の現実を直視しながらも、この現実を私たちの痛みを全て主が背負ってくださったと、信仰によって受け入れ希望を持って生きていくことができます。 今この時、また一度主イエスキリストとの出会いの時となりますように。 主が今この時に私たちを招いてくださっているのです。 4 将来私たちが入っていく完成された神の国には、ローマ帝国のような国は存在しません。 そこは神だけが王としておられます。 そして神が愛によってその国を治めています。 私たちは将来このような国に入れられて行きます。 しかし今でもこの神の国の前味を味わうことができます。 それがこの礼拝だと先ほど申し上げましたが、それだけではありません。 私たちの内には今もう主がおられるからです。 イエスキリストが私たちと共におられるので、彼の心が私たちに与えられています。 この心を持って生きることで神の国を味わうことができるのです。 一つの物語を紹介したいと思います。 ダイナ・ドノヒューという人が書いた物語で、主人公はウォリーという名前の男の子です。 ウォリーはアメリカのある小さな町に住んでいました。年は九歳です。 体は大きかったのですが、勉強など、みんなについていくのがむずかしかったので、本当は四年生だったのですが、二年生のクラスに入っていました。 みんなはウォリーのことで困ることもあったのですが、彼はとても優しい子で、みんなと一緒にいることが大好きでした。 ある年のクリスマス。学校で行われるクリスマス劇にウォリーも出ることになりました。 ウォリーは羊飼いになって笛を吹きたいと思っていたのですが、先生はウォリーに宿屋の主人の役をわりあてました。 なぜかというと、ウォリーは体が大きかったので、いかにも宿屋の主人らしい感じでしたし、この役ならば、それほどセリフが多くはなかったからでした。 クリスマスの夜、町の人々がたくさん見物にやって来ました。 ウォリーは、舞台の飾りつけや劇に登場する博士や羊飼いたちの演技にすっかり引き込まれ、とても興奮した様子でした。 やがてウォリーの出る場面になりました。舞台にはヨセフとマリアが登場し、宿屋の扉を叩きました。ウォリーはドアを勢いよく開けて言いました。「何のご用かね。」 ヨセフとマリアが言います。 「泊まるところを探しているのです」 宿屋の主人は答えます。 「どこかほかを探しな。宿屋はいっぱいだよ。」 「ほかを探したのですが、どこもだめだったのです。」 「あんたたちに部屋はないよ。宿はいっぱいだよ。」 ウォリーは厳しい顔つきをして言いました。 「宿屋のご主人、どうかお願いします。これは私の妻マリアです。おなかに赤ちゃんがいるので休まなくてはなりません。とても疲れていますから。」 宿屋の主人はかしこまった様子をやわらげて、マリアを見つめました。そして長い沈黙が流れました。 観客は皆、いったいどうしたのだろうと思い始めました。 舞台の片隅にいた人が、ウォリーに向かって、宿屋の主人の次のセリフを小さな声で教えました。 「いや、あっちへ行きなさい。」 ウォリーは教えられたとおり繰り返しました。 「いや、あっちへ行きなさい!」 ヨセフはマリアの肩に腕をまわし、二人は悲しそうにそこを立ち去ろうとしました。 ところが宿屋の主人は、家の中に戻ろうとしません。 ウォリーはそこに立ったまま、さびしく遠ざかっていくマリアとヨセフを見つめていました。 心配して額にしわを寄せ、目には涙があふれているのが、みんなにも分かりました。 「ヨセフ、行かないで!」 ウォリーは大きな声で言いました。 「マリアを連れて戻っておいで!」 ウォリーの顔は明るく輝いて、さらにこう言いました。 「ぼくの部屋に来ていいよ。」 こういうわけで、その日のクリスマスの劇はだいなしになってしまいました。 ウォリーは宿屋の主人の役を失敗したのです。 でも、それは本当に「失敗」だったのでしょうか。 「あんたたちに部屋はないよ。」「あっちへ行きなさい!」これが「宿屋の主人の正しいセリフ」でした。 そしてこれがこの世の言葉と言っても良いでしょう。 「行かないで!」「戻っておいで!」「ぼくの部屋に来ていいよ。」 それは「宿屋の主人の正しいセリフ」ではありません。 けれども、それは「愛の言葉」でした。 神の国の前味とはこのようなものです。 この世の現実は正しい宿屋のセリフで溢れ、私たちにもこの言葉を語れと言うでしょう。 しかし私たちはその中でもウォリーのように愛の言葉を語る特権が与えられています。 みなさんのうちにおられるイエス様は、なんと言っていますか。 それは愛の声です。 それは神の国の声です。 どうぞその声に耳を傾けてみてください。 イエス様は私たちに言っておられます。 あなた方こそ神の国の最前線基地、この世の光だと。