主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:使徒の働き20章13〜38節 タイトル:神から与えられた使命に生きる 1 ミレトでエペソの長老たちと会う パウロ一行がトロアスから出発する時となりました。 そこでパウロ以外の人たちは先に船に乗ってアソスという町に向かいました。 パウロはおそらくこのトロアスの町に可能な限り残って福音を伝えようと思ったのでしょう。 一人陸路をとってアソスへと向かいました。 その後パウロと他のメンバーたちは無事アソスで落ち合って、一緒に船に乗りミテレネ、サモスへと寄港し、ミレトという町に着きました。 船はミレトの町で大体3日ほど停泊していたようです。 それでその間にエペソの教会の長老たちを呼び寄せることにしました。 ここで長老と記されていますが、今よりも意味の広い言葉です。 現在は長老といえば信徒を代表する立場であり、牧師とはまた違うものですが、もともとは長老というのは、現在の牧師と長老を合わせたような存在でした。 ですからこの時呼び寄せた人たちというのはエペソ教会を任されたリーダーたちです。 このリーダーたちと会うために、遣いをエペソへと遣わし呼び寄せました。 ミレトからエペソまでは大体50キロ程度の距離です。 遣いはこの距離を往復したわけですので、約100キロになります。 この距離をできるだけ早く歩かなくてはいけません。 船が出発するまでに連れてこなくてはいけないからです。 現代のように舗装されていない道を100キロ歩くのは大変なことです。 おそらくパウロの遣いは、エペソで一晩休んで、さらにどこかでもう一晩という具合に、早くても丸2日から3日ほどの時間がかかったと思われます。 船が出てしまうまでのギリギリの時間でした。 こうしてエペソの教会のリーダーたちが無事に到着しパウロのもとにやってきました。 パウロは彼らに伝えなければいけないことをここで語り始めました。 "彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。" 使徒の働き 20章18~21節 この箇所は以前パウロがエペソにいた時についてのお話です。 パウロは「どんなふうにあなたがたと過ごして来たか。あなた方はご存知です」と言って話し始めました。 そしてどんなふうに過ごしたか、その内容についても話します。 それは謙遜の限りを尽くして、主に仕える過ごし方でした。 原文のギリシャ語では、主の僕として仕えたと記されています。 パウロはまさに主の僕としてエペソで生きました。 ではこの主の僕として仕える生き方とはどのようなものだったのでしょうか。 整理しますと、 働きの場所は、「人々の前」つまりユダヤ公会堂やツラノの講堂のような公の場や、家々という私的な場でも仕えました。 また、働きの時間はというと、18節「アジヤに足を踏み入れた最初の日から」、31節「三年の間、夜も昼も」ぶっ通しの働きでした。 では働きの相手は誰でしょうか。 21節「ユダヤ人にもギリシヤ人にも」すべての人です。 そして31節「あなたがたひとりひとり」という個人個人へきめ細かく配慮して行われたものでした。 2 苦難が待ち受けていても聖霊に従うパウロ 3年もの間、パウロは夜も昼もエペソの人々のために仕え続けました。これも聖霊によってでした。 しかし今はまたその聖霊の導きでエルサレムへと行かなくてはいけません。 "いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。" 使徒の働き 20章22~23節 いま私は、心を縛られて、エルサレムへ上るとありますが、別訳では聖霊によって縛られてとなっています。 聖霊によって彼はエルサレムへ導かれて行かなくてはいけません。 そして行った先ではなわ目と苦しみが待っています。 またエペソの教会もこれから大変なことが起こります。 "私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。" 使徒の働き 20章29~30節 パウロはこちらのことも聖霊によって教えられていたのでしょう。 彼は自分が行く先でも苦難が待ち構えており、エペソの教会も大変な目にあうことを知っていました。 しかしそれでもパウロは聖霊の導きに従って行きます。 信仰があれば、また神の導きに従っていれば、この世の人々よりも良い条件で生きていけると思っている方がクリスチャンの中にもいるかもしれません。 しかし聖書はそうは教えていません。 パウロはイエスキリストと出会い、自分が思い描いていた夢や目標を捨てて、神が与える使命に生きる人に生まれ変わりました。 彼には信仰がありましたし、神の導きに従って生きていました。 しかし苦難の連続でした。 私たちは主に選ばれて信仰を与えられて生きています。 主にあって私たちは区別されたものです。 だけど同時にまだ私たちはこの世界で生きる者でもあります。 だからこの世の勢力との衝突は避けられないのです。 その中で苦しみは必ずあります。 ではクリスチャンとそうでない人々の生き方にはどんな差があるのでしょうか。 キリストを信じても信じなくても苦難があるなら、いやそれ以上に信仰によってさらに苦難を受けることがあるとするなら、私たちがキリストを信じる意味はどこにあるのでしょうか。 死んだら天国にいけるということは、当然のこととして、この世において私たちが享受するものとは一体何なのかということです。 3 キリストを信じて生きる意味 それは24節からわかります。 パウロはここで何と言っているでしょうか。 「‥私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」 このように言っているのです。 いのちが少しも惜しいとは思わないということは、いのちよりも大切なものがあるということです。 ではそのいのちよりも大切なものとは何でしょうか。 それは主イエスから受けた神の恵みの福音をあかしする任務です。 これは神から与えられた使命と言い換えることもできます。 自分がこの世界に生まれた意味、この世界で生きる意味です。 もしこの使命を果たし終えたなら、いのちは惜しくないとパウロは言うのです。 イエスキリストに出会う前、パウロにも夢があったはずです。人生の目標があったはずです。 しかしあのダマスコの途上で天上のイエスと直接出会った時、彼は以前のものを捨てて、真の人生の意味、使命を受け取ったのです。 "しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」" 使徒の働き 9章15~16節 ここで「あの人」と記されているのがパウロです。 パウロは異邦人、王たち、イスラエルの子孫にイエスキリストの名前を運ぶ選びの器だといいます。 そしてその名のために、苦しまなければいけないということも教えられました。 これがパウロがイエスキリストと出会ったときに与えられた使命でした。 パウロはこれまでこの使命に従い生きてきました。 エペソの教会での奉仕の話をきいても、彼が手を抜くことなく必死に走ってきたことがわかります。 そしてこれが彼にとってのキリストを信じて生きる意味でした。 彼はそれまでは勝手に自分の夢をもち自分の思う通りに目標を立てて生きてきたのだろうと思います。 しかしイエスキリストと出会ってからは、イエスキリストに与えられた使命に生きる人になりました。 私たちもイエス様を信じる前は、自分で夢を見つけ目標を立てて生きていきます。 そしてそれを成し遂げていくことこそ、自分の生きる意味であり、その中で生きることが幸せだと思っていたのではないでしょうか。 しかしイエスキリストと出会い彼を信じて生きる人になると、自分の夢や目標を成し遂げていくことではなく、神から与えられた使命を生きることこそ第一のものとなり、その中で生きることこそ幸せなのだということを知っていきます。 ただしこれは楽な生き方ではありません。 苦しみがあり、悩みがあり、涙があります。 しかし神の使命に生きる人生は幸いな人生です。 そしてそんな人生こそ、パウロのように私にならって生きろと言える人生たりえるのです。 なぜなら神が与えてくださった使命に生きた人生は、神の保証付きの人生だからです。 だから自信を持って紹介できるのです。 4 結び 私もそしておそらくみなさんも今日のパウロのようにこんなに強力にプッシュすることはできないかもしれません。 しかし少なくともイエスキリストに救われて価値観が変えられ、世界観が変えられ、新たな生きる意味を与えられて、その新たな生きる意味である神の使命を掴んで生きているのなら、次の世代に自分のようにイエス様を信じていきろと言ってあげることができます。 それは受けるよりも、与えること多き人生です。 世の中の人が見れば損をしていると思われるような生き方なのかもしれません。 しかし神が喜ばれる人生です。 そして私たちにとっても幸いな人生です。 パウロはこの時死を覚悟していました。 ですから自分の後を担うリーダーたちに、自分にならって神の使命に全力で生きるようにと、いわば遺言を残して去っていくのです。 みなさんは自分よりも後の時代を担う人たちにどんな遺言を残しますか。 神の使命に生きることをすすめてあげてほしいです。 そのためには自分自身もその使命の中で生きなければいけません。 パウロがそうだったように、万事につけ子どもたちに示して来たと言える皆さんでありますように。 そんな生き方が真に意味ある人生であり、幸いな人生です。