主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ヨハネの福音書14章6節 タイトル:イエスキリストは道です 大切な人のために、一生懸命何か準備をしたのに、その人の思いとはかけ離れていたなんてことはないですか。 誰かのために、一生懸命になることはとても大切なことだと思います。 でもそれが相手の好みと合わなかったり、タイミングがずれていたりして、失敗することがあります。 大切な誰かに対して何かをする前に、その人について正しく知ること、正確に理解することが重要です。 さて、では私たちにとって最も大切な存在は一体誰でしょうか。 私たちクリスチャンにとって一番大切な方は、イエスキリストです。 彼を信じ、彼に祈り求め、彼の言葉であるこの聖書を読んで学び日々生かされています。 ですから私たちにとって、この方のことを正確に知ることは何より大切なことだと言えると思います。 彼がどういう方であり、私たちのために何をしてくださったのかについて正しく知ることなくして、神に喜ばれる者として生きて行くことはできないからです。 1 イエスキリストは神 今日は彼が一体どういう方なのかを共に考えてみたいと思います。 "イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。" ヨハネの福音書 14章6節 この言葉はイエス様ご自身が言われた言葉です。 この聖書の中でまず注目していただきたいのは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と記されている一文の最初と最後の部分です。 「私は〜です。」という言葉です。 これは新約聖書の本来の言語であるギリシャ語ではエゴーエイミーとなっています。 エゴーエイミーとは、自分の存在を支えているのが自分自身だという意味がある言葉です。 自分の存在を支えているのが自分自身だと言える人間はいません。 この世界に自分自身で生まれようとして生まれてきた人はいません。 自分の計画通りに、自分の思い通りに、この世界を生きた人はいません。 つまりこのエゴーエイミーという言葉を使える人はいないということです。 この言葉が使えるのは神様だけです。 日本語の聖書だけでは見えないのですが、実はここでイエス様がはっきりご自身のことを神様だといっているのです。 その上で自分が道であり、真理であり、いのちなのだと伝えてくれている言葉だとご理解ください。 神であるイエスキリストがご自身を指して道であり、真理であり、いのちだというのです。 2 イエスキリストは道 イエス様を通してでなければ、誰ひとりとして父なる神様のもとにはいけません。 つまりイエスキリストなしでは誰ひとりとして天国へは入れないということです。 今日はこの中のイエス様が道だということについて考えてみたいと思います。 想像してみてください。 私たちの前には道が二つあります。 その道は真逆に伸びています。 一方はあちら側、一方はこちら側に伸びています。 一方は滅びの道、一方は永遠の命の道です。 一方は人間の道、一方はイエスキリストです。 人はこの二つの道のどちらかを歩いていきます。 そして例外なく、人は最初人間の道を進んでいきます。 つまり滅びの道を進むということです。 その道には命がありません。 その道には心からの平安がありません。 その道には本当の喜びがありません。 その道には寛容がありません。 その道には死があります。 その道には不安があります。 その道には怒りがあります。 その道には人を裁く思いがあります。 その道を人は歩いていきます。 そしてその先は永遠の滅びという崖です。 その方向へと人は歩いて行くのです。 聖書に登場する2000年前の人々も同じでした。 パウロという人も、人間の道を必死に走っていた人でした。 彼は神様を信じてはいましたが、イエス様を神様とは認めていませんでした。 だからイエス様を神様と言うクリスチャン達を心から憎んでいました。 それでクリスチャン達を捕まえて牢屋に入れることを繰り返していたのです。 イエスキリストを神としない人たちは、クリスチャンではありません。 父なる神と、御子イエスキリスト、聖霊なる神の三位一体の神を唱えない人たちはキリスト教を信じている人ではありません。 三位一体の神だけが本当の神です。 この方が、この世界をつくり、今もこの世界を統治しておられ、十字架の犠牲によって救ってくださった方です。 パウロはこの方を知らず、滅びの道を走っていました。 しかしそれを阻む存在が突然現れました。 その方こそ御子イエスキリストです。 彼は十字架で殺されましたが、死を打ち破りよみがえられました。 新しい命、復活の命に生かされて、弟子達の前に現れました。 こうしてその40日後に天へと昇られたのです。 この復活のイエスキリストがパウロの前に現れて滅びへと向かう道をひたすら走り続ける彼を止めました。 彼はこの出会いによって生き方を180度転換しました。 神との出会いによって滅びの道から真の命の道イエスキリストを歩む人になったのです。 先週共に見たサマリヤの女性もそうでした。 彼女もイエスキリストと出会って人生が180度変わったのです。 彼女もまた滅びの道からUターンして、命の道イエスキリストへとやってきました。 命の道は神につながる道です。 滅びの道は神から離れる道です。 旧約聖書の創世記3章には人が罪に墜ちる場面が記されています。 神に食べるなと言われた善悪の知識の木の実を人が食べたことにより人類は罪あるものとなりました。 ここから滅びの道は生まれたのです。 神から離れた状態と、さらにそこからなおも神から離れようとすること、これこそ罪であり、滅びの道です。 罪とは本来ギリシャ語でハマルティアと言います。 的外れという意味です。 本来の的とは真逆に走ることです。 本来の目的地とは真逆に向かうことです。 しかしそれがイエスキリストと出会うと180度向き直ります。 これが回心です。 3 本当はなかった命の道 滅びの道と命の道があると先ほど申しましたが、先祖アダムが罪を犯した時に、命の道は閉ざされていました。 エデンの園から追放されたというのはそういう意味です。 神様との関わりが持てなくなってしまったということです。 神様と私たち人間との間には渡ることのできない大きな谷ができてしまったのです。 その谷には、どんなことをしても橋をかけることはできません。 今まで数々の宗教が登場しましたが、それでは橋をかけられませんでした。 哲学でもできません。 人間のあらゆる力を動員してもそこに橋はかけられませんでした。 そこに道はなかったのです。 しかしイエスキリスト、神ご自身がわたしたちのもとにまで来て下さり、十字架にかかり身代わりの死を遂げてくださいました。 そして三日目によみがえりその復活の命を私たちにくれたのです。 これにより橋がかかりました。 これがイエスキリストという道です。 このイエスキリストという道を歩いて私たちは神のもとに近づくことができます。 そのためにまず神の側から近づいて来てくださったのです。 これが神の愛です。 "神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。" ヨハネの手紙 第一 4章9節 世から神の側に行くのではありません。 それは不可能です。 神の側から世に降ってきてくださったのです。 そして道となってくださいました。 私たちが命を得るための道です。 私たちはこの道を歩くのです。 救いの道はこの道しかありません。 4 神に求められている歩み ではイエスキリスト に出会って歩く方向を180度変えられた私たちは今神にどのような歩みを求められているのでしょうか。 この質問は、イエスキリストという道を歩くとはどういうことなのかと言い換えることができます。 口で信じますと言っただけで、あとは動く歩道みたいに自動的に天国に行けるようなものではありません。 本当に神の愛に打たれたなら、この神に従っていきたいと思うのです。 つまりイエスキリストという道を歩くというのは神に従う歩みだということです。 本当に神の愛が分かったなら、イエスキリストの十字架の意味が分かったなら、人は変わります。 どのように変わるのでしょうか。 "イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。" ルカの福音書 9章23節 イエスキリストという道を歩く人は、自分を捨てて歩く人です。 イエスキリストという道を歩く人は、自分の十字架を負って生きる人です。 ⑴自分を捨てるとはどういう意味でしょうか。 それは自分の力で何かを成し遂げようとする思いを捨てることです。 言い換えるなら、自分の何かを信じるのではなく、主に信頼して主に頼ることを徹底することです。 また自分自身の野望を捨てることでもあります。 神の仕事をするんだと言いながら、自分の名誉のためや、あるいは他の目的のために必死に走っているということはないですか。 こういう生き方を捨てること、これが自分を捨てるということです。 ⑵ では十字架を負うとはどういう意味でしょうか。 これは言葉通りの意味ではなく、比喩表現です。 イエスさまは神が与えた使命のために十字架をおわれました。 ですからわたしたちもイエスさまのように、神がわたしたちに与えた使命を受け取りそれを負って生きることを意味します。 そこには、イエスさまが苦しみに遭われたように、苦しみが伴います。 ですから神が望んでおられることだと分かったなら、たとえその道が苦しみに満ちているとわかっていても、あえてその道を選ぶのです。それが十字架を負うということです。 自分を捨てることと、自分の十字架を負うことは、密接不可分の関係にあると言えます。 自分を捨てる。それは自分の野望、自分の夢、自分の生きたい人生を捨てることです。 そしてそれはすなわち、神が生きろと言われる人生を生きることです。 神が生きろと言われる人生というのは、イエスさまが十字架を負い苦しまれたように、苦しみを伴うものです。 しかしそれが真の命の道を生きることなのです。 結び 私たちはイエスキリストに出会い変えられました。 滅びの道を歩んでいましたが、彼に出会って180度の方向転換をして今命の道を生きています。 ただそれでも時に、少し道をそれてしまいそうになることも事実です。 しかしそんな私たちを今日も主は教会へと招き真の命の道、イエスキリストを教えてくださるのです。 今この時また一度主イエスキリストが一体どんな方なのかを確認し方向を修正して歩まれる皆さんでありますように。