主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ローマ人への手紙4章16~22節 タイトル:信仰シリーズ③ 信仰の三要素 今朝も信仰について共に聖書から聴いていきます。 今回は信仰シリーズ第3回目です。 これまで信仰について共に考えてきましたが、今日もまた繰り返しお話したいのが、信仰がキリストとわたしたちをつなぐ管の役割を果たしているということです。 聖書の中で「キリストにあって」とか「キリストの中で」という時には、キリストとの結合を思い出してください。そしてその結合の役割を担っているのが信仰です。 キリストとみなさんの間に信仰という管があるイメージを持っていただけたら良いと思います。 この管があることによりキリストのものが全て私たちのものになるのです。 この管を通ってキリストの義は私たちのものになりました。 これが信仰によって義と認められるということです。 1 アブラハム 今日の聖書は信仰によって義と認められること、つまり義認の具体例の箇所です。 旧約聖書に登場したアブラハムの話をしながら、義と認められるとは一体どういうことなのかをパウロは説明していきます。 "そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。" ローマ人への手紙 4章16節 この御言葉を読むと信仰というものが恵みと密接不可分であることがわかります。 信仰は私たちの熱心や努力で得られるものではありません。 ただ神の恵みによって与えられるものです。 無償の贈り物として与えられるものです。 アブラハムは決して他の人たちとは違う何か特別な人だったわけではありません。 私たちと全く同じように、罪人でした。 自分自身を救う力のないものでした。 律法の行いでは救われないものでした。 しかしながら憐み豊かな神が恵みを注ぎ彼に信仰を与えました。 律法の行いとは全く違う方法として与えられた信仰によって救われました。 それで彼は神を信じ神はご自身が与えた信仰によってアブラハムを義と認めたのです。 2 信仰とは ではここで信仰とは一体何なのか、もう一度考えてみましょう。 別の言葉で表現するなら、信仰を構成している要素は一体何かということです。 教会はこれまで信仰には次のような要素があると考えてきました。 知識と同意と信頼です。 ⑴まず知識についてお話しします。 "そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。" ローマ人への手紙 10章17節 このように、信仰は聖書の言葉を基礎にしています。 信仰と知識すなわち聖書の御言葉は斬っても切り離せません。 そしてこの聖書は福音について書かれた本です。 ですから信仰の構成要素には、福音に関する知識が含まれるということです。 福音とは何だったでしょうか。 神がわたしたち人間とこの世界全てをつくられ、永遠に治められる方だということ。 わたしたちが神との約束を破って罪に堕ちたこと。 罪人となったわたしたちの身代わりになるためにイエスキリストがこの世界に下ってきてくださったこと。 わたしたちの代わりに神に完全に従う歩みをされたこと。 その絶頂として十字架にかかられ死なれたこと。 これによってわたしたちの罪はゆるされたこと。 しかしイエスキリストは三日目によみがえられたこと。 彼のよみがえりの命によってわたしたちは新しい命に生かされるものになったこと。 その後天にのぼられたが、いつの日か神が決められた時に、もう一度イエスキリストが来られること。 その時こそ神の国が完成しわたしたちクリスチャンは栄光の体にかえられてその国へと導き入れられていくこと。 概略を申し上げるとこのようなことですが、この福音を聞いて、福音が記されている聖書を読んで、福音に関する知識を得ること、これが三要素のうちの一つ目です。 ⑵二つ目は、福音を聞いたならば、その内容に同意し確信することです。 どれだけ知識を得て頭で理解しても、その内容に同意し確信しなければ信仰とは言えません。 ⑶三つ目は、同意し確信した福音に信頼して、自分自身を明け渡すことです。 信じ受け入れたなら、その通りに生きるのです。ヤコブの手紙2章26節には"たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。"とありますように、福音を理解し確信しても、それを行わないなら、信仰を備えているとは言えないと聖書は言うのです。 そしてこれら全ての要素に聖霊の助けが必要です。 3 アブラハムと信仰 アブラハムは神の恵みによって信仰を与えられました。つまりこの三要素を備えたということです。 神の言葉を聞き、それに同意し、そして信頼して人生を神に委ねて神に導かれて生きたということです。 ただし最初からこれらの三要素を兼ね備えていたわけではありません。 彼も最初は出鱈目でした。 カルデヤのウルという当時の大きな都市に育ったアブラハムですが、神にその地を出て神が示す地へ行けと言われて故郷を出ます。ここで彼は神の言葉を聞いてそれに同意し、信頼して出て来たと言えると思いますが、しかしカナンで飢饉が起こるとすぐにエジプトへと下っていきます。さらにエジプトでは自分の命惜しさに妻を妹と偽り、妻がエジプトの王に召し入れられても何も言わず多くの贈り物まで受け取ってしまうような人でした。 信仰の祖なんて呼ばれていますが、彼は普通の人であり、特別な人ではありませんでした。 神がアブラハムを憐まれその恵みによって支えられ少しずつ神を知っていき、つまりは信仰が与えられその信仰が強くされていったのです。 信仰という管は無機質なものではありません。また逆に「信じる」という感情のみをさすものでもありません。 信仰は知識とそれに対する同意とそのことに信頼し人生を神に委ねることなのです。 信仰という管はこれらのものを材料にしてできているということです。 アブラハムは最初酷いものでしたが、しかしその後少しずつ神様のことを知っていき、神様の言葉を聞いて同意して信頼する人になっていきました。 それで彼は到底望み得ない時にも、信仰を強められて、神の言葉を信じ望みを持って生き続けました。 "アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。" ローマ人への手紙 4章19~21節 アブラハムは冷静に自分の今の状況を見ました。自分が100歳の老人であること、妻の胎も死んでいること。 しかし彼はこれを認めても、主への信仰が弱りませんでした。 それどころか逆に信仰がますます強くなりました。 アブラハムにとってこのことは大きなチャレンジだったはずです。 子どもなど全く望みえない状態であるはずのアブラハムとサラでした。 しかし神は必ず約束通りに行われる方です。 そのことを知っていたアブラハムは、この出来事を通してさらに神の言葉を知りそれに同意し信頼することを学んだのです。 彼の信仰はますます強められていきました。 4 行いではなく信仰によって わたしたちは律法の行いによって救われるのではありません。 ただ信仰によってイエスキリストにつなぎあわされイエスキリストの義をいただき、彼の新しい命をいただいて救われるのです。 今日はこの信仰の要素についてお話ししました。 信仰は信じる思いではありません。 もしそうなら、信じることもまた行いになってしまうでしょう。 信仰は、福音の知識であり、それに対する同意、確信であり、さらにそのことに信頼して人生を委ねていくことなのです。 だから生き方そのものに変化が起きないとおかしいのです。 本当に福音を聞きその知識を蓄えて、それに同意し、信頼して進むなら、自分自身が変わります。 5 人生を変えられたアブラハム "「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。" 創世記 17章4~5節 この時はまだイサクが与えられていません。 しかしアブラムとは呼ばずアブラハムと呼ぶようにと神は言うのです。 アブラムとは「高められた父」という意味ですが、アブラハムは「多くの国民の父」という意味です。 子どもなどできる年齢はとうに過ぎているにもかかわらず、このように神に言われたアブラハムはこの後人々に言って回ったことでしょう。 「私のことはもうアブラムとは呼ばずに、アブラハム「多くの国民の父」と呼んでください。神がそのように呼ぶように言われたからです。」 改名はその人の人生の意味の変更を意味します。 彼は「高められた父」という名前を捨ててアブラハム「多くの国民の父」という名前に変更しました。 自分や自分の家の者たちの意向ではなく、ただ神の御言葉を聞き、それに従い歩む者になったということです。 わたしたちも信仰を頂いたならば、自分の意向を前面に押し出して自分のプランの成就を願い求める人生から、神の御言葉に従い神のプランの中で自分のビジョンを思い描く人になっていくはずです。 それはこれまでの人生とは全く違います。 神から与えられた新しい人生です。 6 自己吟味 最後にコリント人への手紙 第二 13章5節を読みます。 "あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか--あなたがたがそれに不適格であれば別です。--" コリント人への手紙 第二 13章5節 自己吟味は決して気分の良いものではありません。 しかしこの御言葉は、しっかりと信仰に立っているかどうかを吟味するように勧めています。 自己吟味の方法としては、キリストを信じたことで生活が変わったか、習慣が変わったか、興味関心は変わったか、時間の使い方はどうか、人生は変わったか。 このような問いかけによって見えてくるはずです。 本当に福音のことがわかれば、それに同意し確信できます。そしてそのことに信頼して人生を委ねることができます。 これが信仰です。