主日礼拝メッセージ要旨 聖書箇所:ピリピ人への手紙 2章6〜11節 タイトル:福音シリーズ⑧ キリストは神でありながら完全な人となった "キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。" ピリピ人への手紙 2章6~11節 先週はキリストとの結合についてお話ししました。 パウロはクリスチャンのことを「キリストにあって」「キリストのうちにある」と表現します。これは、キリストとの結合を指している言葉です。 クリスチャンはキリストと結合した者なので、キリストによる罪のゆるしと義が与えられています。 今日はこの結合が可能となった根本的理由について考えて見ます。 結合の根本的理由とは、神の御子イエスキリストが人となられたことです。 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(6、7節) このように彼はご自分を無にして人間と同じようになられました。すなわち人としての性質をもたれたということです。 人の身代わりとなれるのは人だけです。だからイエスキリストは人となられたのです。彼が人となられたからこそ、人である私たちは彼につながることができます。 彼は人としてこの地で生きられました。 律法の下にある者として完璧に律法を守り通されその絶頂としてあの十字架にかかられ律法を成就されたのです。 彼の犠牲は十字架だけではなく、神の栄光の座を離れ、私たちと同じ人となられたことです。そしてご自身が造ったこの世界で生きたすべての過程です。 "この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。"とヨハネの福音書1章10節にあります通り、私たちの全く知らないところで、彼は歩まれご自身の使命を成し遂げられたのです。 今日はここからキリストが人となられたことについて見ていきます。 最初に考えてみたいのがキリストの受肉について、つまり誕生についてです。 1 キリストの受肉 ⑴ ①先ほども申し上げた通り、キリストは神の王座を離れ人となられました。 しかしこれは神であることを捨てたという意味ではありません。 神でありながらそこに人性を加えられたということです。 ですからキリストの本性は父なる神と変わりません。 ただ地上での生涯の期間は、自ら制限を受けたということです。 例えばキリストは神なのであらゆるところに同時に存在する力を持っていました。 しかし受肉した者として、人間の体を所有していたという環境がその力の行使を制限したのです。 これは足の速い人が遅い人と二人三脚をすることに例えることができます。 足の速い人はその足の片方を足の遅い人の足につないでおかなくてはいけません。 身体能力は減少していませんが、その能力を行使する条件は厳しい制限を受けています。これが受肉のキリストの状態です。 このランナーが束縛を解いて走れば、早く走ることができますが競技が続く限り自ら制限するのを選ぶのと同じように、キリストの受肉も自発的に選び取ったことであり、この地上にいる間自らその力を制限されたのです。 これがキリストが人性を加えられたということの意味です。 ②またこの受肉に関して重要なもう一つのことは、イエスの人性は罪深いわたしたち人間の人性ではないということです。 当然のことと言えば当然なのですが、一度整理しておきますと、キリストの人性はこの世界に存在した人で最も近い人を挙げるなら堕落前のアダムです。 もっと正確にいうならば、この世界が終わり全き者に変えられた者たちの人性です。 つまりキリストは単にわたしたちと同じく人であったのではなく、わたしたち以上に人らしい性質を持ってこの世界にこられたということです。 本来の人の形、神がよしとされた人の形が、あのキリストの中に存在していたのです。 ⑵ 馬小屋での誕生 神が人となるわけですから、これだけでもとてつもないことなのですが、さらに続いてこの世界に降りてこられた環境にも目を向けたいと思います。 彼はこの世の王族に生まれるわけでもなく、富や地位のある家に生まれるのでもなく、当時のイスラエルの全く平凡な家庭に生まれました。しかも全く人の注目を集めないベツレヘムという小さな町の馬小屋で生まれ飼い葉桶に寝かされたのです。 彼は人の内でも最も低い仕方で、お生まれになりました。 2 人間としての弱さ "そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。" マタイの福音書 4章2節 ここにはキリストがお腹を空かせたことが記されています。食べないと生きていけない肉体を持っていました。 "そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。" ヨハネの福音書 4章6節 ここにはキリストが旅の疲れを覚え、井戸の傍に腰を下ろした事が記されています。 肉体があるので疲れも覚えるのです。 さらに彼には家族がいて、ある町で育ったということもキリストの人として側面を教えてくれます。 3 ナザレ出身の大工の長男 "それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。" マタイの福音書 13章54~55節 ここには確かにキリストが人として一つの町で育ち家族もいることが記されています。 クリスチャンはイエスキリストを人ではなく、神としてだけ見てしまう癖があるように思います。 しかしこのように見ていきますと、イエスキリストは確かに100%人間としてこの世界に存在したことがわかります。 彼はわたしたちと同じように、お腹を空かせ、疲れをおぼえました。 またわたしたちと同じように、誰かの兄や誰かの息子であり、ある町の住人だったのです。 イエスキリストの人生もわたしたちと同じように、弱さがあり痛みがありました。 イエスキリストは生まれる時からわたしたちと同じ出生過程を経ました。聖霊によってマリアのお腹に宿りましたが、10カ月間マリアのお腹の中にいてわたしたちと同じように生まれてきました。 町の人たちも家族も誰もが彼が100%人であることを疑いませんでした。 キリストは確かに人としてこの世界で生きられたのです。 3 十字架に見る100%人であったキリスト ⑴ 十字架刑の前に キリストは十字架刑を前に大きな苦しみを味わっていました。マタイの福音書26章にはこう記されています。 "そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」"マタイの福音書 26章38~39節 悲しみと訳されたギリシャ語アデモネインは、混乱し不安で気がおかしくなったような状態を表す言葉です。キリストがどれほど苦しんでいたかがよくわかる箇所です。 キリストはここでも一人の人間として存在しています。 一人の人間として目の前のとてつもない痛みに悶え苦しみ憂いています。 ⑵ 十字架での死 キリストが受けた痛みはこの世界始まって以来のものでした。 選ばれた全ての人の罪のために受ける痛みだからです。 彼は最後の最後までこの死を恐れたのです。 それも含み込んだ身代わりの死でした。 マタイの福音書 27章46節には"‥イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。"と記されていますが、あの言葉もキリストの本音でした。決して私たちの代わりに言葉を発しなければと思って発しているわけではありません。本当に彼は十字架の痛みを嫌い、父に捨てられることを恐怖し絶望したのです。 クリスチャンはイエスキリストが十字架の苦しみを耐えられたのは彼が神であったからだと簡単に考えてしまいがちです。しかしそれでは十字架の意味が軽くなってしまいます。 キリストの人間としての弱さが最も現れたのがこの十字架の時でした。100%人間として、人の痛みを全て背負って十字架で死なれたのです。 ヘブル人への手紙 4章15節には"私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。"とあります。 キリストはわたしたちと同じように痛み苦しみ悲しみながらこの地上を生きられ、その最大の痛みともいえる十字架で私たちの身代わりになって死んだのです。 ここに神のわたしたちに対する愛があらわされています。 4 罪を犯されず、復活されたキリスト 一方で、次のことも忘れず心に留めておいて欲しいことです。 それは彼が人間としての弱さを持っていたにもかかわらず、どんな誘惑にも屈せず神の御心に完全に従い続け、十字架の死にまで従ったことです。 どうぞこの部分でも「神様だから」というパワーワードを持ち出してあっさり通り過ぎてしまうのではなく、少し粘って考えて見てください。 確かに神様です。だからできるのだ。確かにそうです。 しかし同時に人間としての弱さも持ってこの世界に生きておられたのです。誘惑にも合うし自分の人としての弱さを噛み締める経験も何度もされたはずです。 しかしそれでも罪は犯されませんでした。 わたしたちは、この方とつなぎあわされた者です。 彼はこの世の誘惑に打ち勝った力を持っておられます。 彼はその力をわたしたちに与え、わたしたちに勝利を与えてくださるのです。 さらにキリストは100%人間であったにもかかわらず、死に打ち勝ちよみがえられました。 ここにわたしたちの復活の希望を見ることができます。 神であると同時に100%人となられたイエスキリスト。 彼が人となられたからこそわたしたちは彼と一つとなり、彼のものを受け取ることができるようになりました。 彼とつながることによって罪ゆるされたわたしたちは、彼がこの世界で誘惑に打ち勝っていかれたように、罪との戦いに勝利していくことができるのです。 2000年前のイスラエル、この地には確かにわたしたちと同じ姿をし100%人間である神が確かに存在したのです。